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それは誰の物語?


 どこからか、オーケストラの奏でる美しい音色が聴こえてくる。

 とても心地の良いメロディだわ。その姿を一切拝めないのが、残念だけど。


 これは、ソナタ形式かしら。序奏はまた違った気がするけど、移り変わりが激しすぎて良く覚えていない。

 フルートとバイオリンの奏でる主旋律がハ短調からハ長調へと移り変わるその様は、どこかで聴き覚えのある気がする。けど、どこで聴いたのか思い出せないの。最近、こういうのばっかりね。


「アリスお嬢様ぁ〜!」

「イリヤ?」


 椅子に座って音楽に浸っていると、後ろからイリヤの元気な声が聞こえてきた。

 振り向くと、いつも通りものすごい勢いで迫りよってくる彼女の姿が見える。お庭で作業していると、いつもあんな感じなのよね。いつか転ばないかって、内心ヒヤヒヤしてるけど……彼女は、運動神経抜群だもの。私とは違うわ。


 でも、そんな元気な彼女に私は違和感を覚えたの。


「アリスお嬢様、さっきですね! あのですね、クッキーを「ジョン・ドゥさんでしょう? 無理してテンション上げなくて良いわよ」」


 その名を呼ぶと同時に、イリヤの表情がスッと無になった。切り替えの早さに驚いた私は、椅子から立ち上がり少しだけ後ろに下がる。

 イリヤは、私のことを「アリスお嬢様」って呼ばないもの。すぐにわかったわ。


 私の言葉を聞いたその人物は、場面が変わるかのように別人へと姿を変えた。

 長身、黒髪、優しい表情で私に向かって手を差し伸べる人物へと。


「……悪趣味」

「おや、君の記憶に存在する中で一番好意を抱く人物になってみたのだが……気に食わなかったかね?」

「だから、そういう覗き見が悪趣味って言っているのよ」

「これは失礼しました、アリスお嬢様」

「……アレン」


 バックコーラスには、先ほどまで1人で聴いていたあの曲が流れている。小さい音なのに、それは耳元で流されているかのように鮮明に聴こえてくる。なのに、ジョン・ドゥさんの声もはっきりと聞こえるの。変な空間ね。


 アレンの姿になったジョン・ドゥさんは、後ろへと下がった私へ手を差し出し続けている。正体がわかったから、拒む要素はない。私は、ゆっくりと前へと歩き、その手に自らの手を重ねた。


「少々ダンスには不向きな曲ですが」

「私、踊れないわよ。そういう教養はないから」

「ダンスは、教養ではなくセンスです。踊れる人は、初見だって踊れます」

「それよりも、ここに連れてきたのはあなたでしょう? ベルはどこに?」

「アリスお嬢様、一曲お付き合いください」


 手から伝わる体温は、まるで生きている人のように温かい。ベルのそれとは大違いだわ。

 なのに、芯はとても冷たく感じるの。変よね。温かい手に触れているのに、冷たく感じるなんて。そのチグハグさに囚われた私は、彼の強引すぎる行動に何も言えない。


 それに、ダンスを良く知らない私だけど、とてもリードが上手だわ。何も考えずに動いているのに、リズムとズレずにステップを踏めているの。これって、そう言うことよね。私は、運動音痴だし。


「アリスお嬢様は、とても線の細いお方だ」

「そんなことないわ。コルセットして……ない。嫌だわ、恥ずかしい」

「していなくたって、君は骨と皮だけしかないでしょう。もっと、食事を摂らないと。例えばそう……彼が、初めて君へ食事の楽しさを教えた時のように、死に物狂いで」

「……食事の? 死に?」


 その言葉で何かを思い出せると思ったのに、バックミュージックの曲調が変わったのに気がいってしまった。先ほどまでは底のないワクワク感と共に情熱を感じていたのに。

 今は、ダンスに相応しいワルツ調の音楽が奏でられている。これは、別の曲? それとも、続き? バイオリンの奏がオーボエに代わり、フルートと一緒に旋律を優しく撫であげて……これなら、ずっとダンスしていても疲れない。


 いえ、そうじゃない。

 今、私が考えるべきことは、他にあったはず。


「君には、まだ思い出さなきゃいけないものがたくさんあるようだね」

「……?」

「ゆっくりで良いよ。その方が、私もベルを口説ける」

「良くわからないけど、ベルは……」


 他に何かあったはずなのに、やっぱり音楽が邪魔をしてくる。


 ワルツの軽快で楽しい曲調は、ゆったりとしたオーボエとコーラングレの旋律で私の脳内に入り込む。それはまるで、牧歌のような雄大さを秘めているのに、どこか悲しい、そして何もかもが夢のような気持ちにさせてくるの。音楽に詳しくない私にも、そのやるせない気持ちが伝わってきた。


 そして、儚げですぐにでも消えそうなフルートのメロディは、ドーンと雷鳴のごとく鳴り響くティンパニによって全てを破壊される。


「……!?」

「おっと、驚かせちゃったね。この曲は、こういうものなんだ」

「なんだか、怖いわ」

「そうだね。人の首が落とされる音は、私にも生々しく耳に届くよ」

「え?」


 確かに、ジョン・ドゥさんの言うように処刑でも始まりそうなほど不気味なメロディが鳴り響いていた。これ以上、弦楽器の弾ける音を聴いていたくないと全身が震えてるの。なのに、隣にいるこの人はダンスを止めて楽しそうに音楽に聴き入っている。


 でも、アレンはこんな表情をしない。

 それだけで、未知の生物と対面しているという事実を突きつけられる。早く別の誰かになって欲しいのだけど……。それを言える雰囲気でもないわ。


「この曲はね、毒によって幻覚症状を体験するとある芸術家の感情で作られているんだ」

「……毒?」

「そう、毒だよ。病的なまでに感受性豊かで、故に天才肌タイプのマッドサイエンティストが居てね。その天才は、天才故に自らの毒で自殺を図るんだ。しかし、天才にも穴があって、致死量には届かなかった……」

「……そこで見た幻覚を、この曲に込めたってこと?」

「飲み込みが早いね。半分正解だ」

「もう半分は?」

「作曲者にしかわからないよ。だから、私も半分しか理解していない。これは、幻覚の中で見た愛する人との生活を綴った曲。それだけだよ」


 私は、毒と聞いただけでこの曲を作った人に親近感を覚えた。

 でも、言い方的にこの人は幻覚を見ていただけで、毒で死んだわけではないのよね。そこの違いは大きいわ。


 それに、私にはわかる。

 この人の犯した罪は、服毒ではなく殺人……。そんな狂気が、音に紛れて胸の中に入り込んでくる。それが、とても気持ち悪い。人を傷つけることで、自分のものにしようという心が透けて見えるから。


 この音は、処刑を容認する、そして、それらを推奨する「声」だわ。歓喜に満ち溢れた行進曲なんかじゃない。

 この人が大事なのは、恋人でも芸術でもなく、自分の身だけ。


「それだけじゃないわ。これは、その愛する人を殺す曲よ……。登場人物の誰もが狂ってるもの」

「察しが良いね。君は、それらを救えるかい?」

「え?」


 振り向くとそこには、アレンが居た。ジョン・ドゥさんのアレンじゃない。

 いつもハーブティを持ってきてくれる彼の表情そのもので、私に向かって微笑んでいる。その後ろでは、ハープの甘い旋律とフルートの美しい音色が交差し、この空間に「愛」を響かせてくるの。


 なのにその音は、彼の声と共にとてつもない大きな衝撃が部屋中を支配して、突然終わる。


「……アレン?」


 ザンッと何かを落とす音。

 ポロンポロン、と何かが転がる音。

 そして、お祭り騒ぎのような激しい曲調。


 それが無性に怖くなってアレンの服を掴もうとしたところで、1人だけの空間になっていることに気づいた。

 アレンの姿はもちろん、ジョン・ドゥさんの気配すら感じない。


「ジョン・ドゥさん。出てきて。怖いわ。ジョン・ドゥさん……」


 貴方は、私に何を伝えようとしたの?

 私は、何を忘れているの?

 これから、どうすれば良いの?


 考えれば考えるほど、それはバックコーラスに流れてくる「怒り」によって集中力を掻き乱してくる。

 ただただ怖い。今にでも、音が私を飲み込んでしまうのではないかと思うほどに。


「助けて……アレン。助けて」


 白も黒も何もない空間の中、私はオーケストラの音から逃げるように耳を塞いだ。

 ここで初めて、「死にたくない」と思っている自分に気づく。

 


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