私の主人
先ほど頭を下げた陛下は、私に許可を取って席に座った。それと同時に、17時の鐘が周辺に鳴り響く。なのに、主人は姿を現さない。
クリステル様も座るよう提案したのだけど、「私は立っていた方が良い」のですって。気持ちがわかる分、それ以上は何も言えなかった。
私だって、サルバトーレ様がいる中座れないもの。
そういうものでしょう、付き人という生き物は。
「……」
「……」
でも、それから会話がないのがちょっとだけ辛い。
サルバトーレ・ダービーが、先ほどからこちらに視線を向けているのは気づいている。けど、今更状況を説明したところで、彼を裏切ったという事実は消えない。しかも、他の男性と重ねながら利用したなんて、口が裂けても言えないわ。
このまま、処刑を免れたらすぐ去る予定だったのに、陛下の登場で狂ってしまった……。
これからどうすれば良いのか、よくわからない。ギルバートが来てくれると良いけど、連絡手段がないし。今、ここで説明するのは死んでも嫌。私の汚い部分を見せたくないもの。
どんな顔して会えば良いかわからず、ずっとフォンテーヌ家の医療室に閉じこもっていた私は、ここに来ても臆病ね。情けない。私の決意は、こんなものだったの?
「陛下、次のスケジュールが押しております」
「む、そうか。にしても、来ないな」
「……私が呼びに行きましょうか」
「いや、ルフェーブルの部下を使ったと思われたらそれこそ大変だ」
「では、どうされますか?」
すぐ動けるよう片足を前に出しながら提案するも、苦い顔をして断られてしまった。陛下にNOと言われて反発できる人間なんて居ない。私も例外なく、静止の意味を持つだろう挙げられた片手を前に直立する。
なのに、クリステル様はすごいわ。ズケズケと陛下に意見を言えて。それが仕事だからアレだけど、私とは大違いね。
「ふむ。少々、席を立っても良いかな」
「では、私もついて行きます」
「ああ、クリスはこの部屋の前で待機していてくれ。万一、卿が来た時に対応できんだろう」
「しかし……」
「宮殿に行くだけだから、大丈夫さ」
「貴方の身を心配しているのではありません。逃げる心配をしているだけです」
「む……。逃げんよ」
「その言葉、今後の執務時間にも忘れないようどこかにメモを残しておきましょう」
「……すまなかった」
私とサルバトーレ・ダービーは、そんな会話に思わず吹き出してしまった。双方同時だったため、視線がバチッと合ってしまう。すぐさま、私は笑うのを止めた。
すると、陛下が立ち上がって部屋の外へと向かっていく。もちろん、その後ろにはピッタリとクリステル様が続いている。その忠誠心が、私から見たら眩しくて仕方がない。
「クラリス君、サルバトーレ君。少々失礼するよ」
クリステル様が扉を開けると、そう言って陛下は外へと消えていった。
扉が閉まる前、部屋の前に立っていた元老院のメンバーとクリステル様が何か話している言葉がうっすらと聞こえてくる。どうやら、彼女はここで待っているらしい。
ふと机の上を見ると、先ほどまで陛下の持っていらした証明書がポツンと置かれている。
ここまで信頼されるのは、いかがなものか。私も一応、元老院の端くれなのに。でも、今はその信頼が私の心を温かく包み込んでくれる。痛みは消えそうにないけれど。
「マクラミン様」
「……」
扉が閉じて何分経っただろうか。
サルバトーレ・ダービーが、私のファミリーネームを口にしてきた。いつもの「クラリス」と呼ぶ口調で。それだけなのに、鼻の奥がツンとする。
でも、その声に反応できる資格を、私は持ち合わせていない。
「……クラリス」
部屋の端で立ち尽くす私に、サルバトーレ・ダービーは再度話しかけてくる。
真っ直ぐに向けられた視線が、私の名前を呼ぶ声が、胸の痛みを加速させてきた。なのに、その痛みが心地良いと思ってしまうほど、もっとその声を聞いていたいと願ってしまったの。
下を向いていると、目の前に影が出来た。
びっくりして前を向くと、
「やっと、視線が合いましたね」
と言って笑う、彼が……エリック様がいらっしゃったの。
あの、花束を持って私に会いにきてくれた彼が、目の前で私に微笑みかけている。そんなわけないのに。貴方は、断頭台の向こうに消えたのよ。
驚いて目を擦ると、その姿が消え、代わりにサルバトーレ・ダービーが立っていた。
「まずは、礼を言わせていただきます。マクラミン様、私の無実を証明してくれてありがとうございました。この騒動に関して、全く気づかず大変失礼しました」
サルバトーレ・ダービーに戻った彼は、そう言って深々と頭を下げた。使用人の立場だった私に。
謝罪されたショックと、ファミリーネームに戻っていることに絶望していると、顔をあげた彼が再度口を開く。
「もしフォンテーヌと名乗り生きることを許されるのであれば、私は生涯をかけて両親のしてきた罪を背負い続けます。不快な思いをされてしまうかもしれませんが、被害者の家庭に謝罪をしに回ります。事のあらましがわかりましたら、私が隠さず全て説明もします。そして、死ぬまで働き、その金銭を全て被害者家族に送らせていただきます。それでは足りないですが、どうか、チャンスをいただきたいです」
「……」
そう言って、私に向かって再度頭を下げてきた。
そこで、またもやエリック様のお姿に変わったの。
エリック様は、そう言って私に向かって謝罪の言葉を言い続けている。見ているだけで苦しい。貴方が罪を犯したわけじゃないのに。ご両親とは別の生き物なのだから、貴方がすべきことでもないのに。
でもきっと、あの方が生き残ったら同じ行動をするでしょうね。
なぜか、それだけは確信を持って言える。だから、私はその幻影を見ているのかもしれない。
「……サルバトーレ様」
私が名前を呼ぶと、その姿が本当の主人の姿になった。
ルフェーブル卿じゃない、私の本当の主人はこの方だ。
わかっていたのに、なぜ私はこの方を裏切るようなことをしてしまったのだろうか。
「すみません、訂正させてください。もし、許されるのであれば……。私が働いた報酬の中から、貴女様を雇うお金も捻出したいです」
「……」
もし、もう一度名前を呼んで良いのなら、後ろを歩いて良いのなら、私は喜んで彼についていくでしょう。報酬なんて要らない。彼の姿を隣で見ていることこそが、私にとって最大の喜びと気づいたから。
誰に許されなくとも、私も彼が背負うと決めたものを背負って生きていきたいわ。そのためには、今までの話をしなくては。
私は、背筋を伸ばしてゆっくりと頭を下げた。
「今まで、申し訳ございませんでした。私は、元老院の一員として、ダービー伯爵の素行を調べておりました」
「そうか」
「貴方様の付き人になったのも、ダービー伯爵に気づかれず近くで見張れる良いポジションだったためです。それ以外の理由はありません」
「そうか」
「フォンテーヌ家で体調を崩したのも、貴方様と合わせる顔がなく逃げただけです」
「では、今はもう苦しくないか?」
サルバトーレ様は、小さな声を拾って聞いてくださっている。申し訳なさで声量が思うように出ないのに、嫌な顔一つせず、急かすこともせずにただただ相槌を打ってくれるだけ。
どうして、裏切り者なんかに優しくできるのか。今の私には、理解ができそうにない。
体調を気遣う余裕があるなら、もっと罵って欲しい。
ダービー伯爵の素行を見ていたのに、今回の大量殺人の企てに気づかなかった私も同罪だと責めて欲しい。仕事をせず、ただまったりと貴族生活を送ってしまっただけの私を、殴るなり蹴るなりして欲しい。そのくらいのことはしてきたのに、この方は。
「……苦しいです。胸が痛いです」
「じゃあ、深呼吸をしよう。昔、父様が言っていたんだ。「苦しい原因のほとんどは、肺に酸素が行き届いていない証拠だ」と。「深呼吸しても治らなかったら、その時は病を疑え」とな。まずは、ゆっくり息を吸って吐いてみよう」
この方は、私の背中をさすりながら、優しい言葉を吐いてくるだけなの。
思考の停止してしまった私は、その言葉に涙を流して懸命に呼吸を繰り返す。それは、陛下がイリヤさんを連れて来るまで続いたわ。
途中、彼が「クラリスと呼ばせて欲しい」と小さな声で言ってきたから、私は「はい」とだけ呟いた。それだけで、胸の痛みが消えていく。
***
外が騒がしくなった。
誰かが、扉の向こうで会話をしているみたい。ざわついた空気が、こちらにも伝わってくる。
私は、サルバトーレ様から離れて扉を開けた。すると、そこには……。
「あ、クラリスさん。どうも!」
「……ど、どうも」
「サルバトーレ様あ、息してますかあ?」
「……あ、ああ」
「良かったあ! これで、ベルお嬢様が報われますね! ところで、約束の時間を指定した人はどこに? まさか遅れてきてるとか、ありえないですよねえ?」
と、これまた場違いな元気さを披露するイリヤさんの姿が。
車椅子に乗っているけど、怪我でもしたのかしら? 見たところ、いつものメイド服を着て普通にしているけど……。というか、どうして王宮に入れたの?
私は、外に居る見張り役の元老院と同様、唖然としてイリヤさんを見つめた。
驚きすぎて、それしかできない。無論、部屋の中に居たサルバトーレ様もね。