バラのレースが施された翡翠のドレス
イリヤが出て行った馬車の中。
私は、身体の震えが誘拐された時のものに似ていることに気づく。
最近会った時もこんな気持ちになったわ。
肌がピリピリとして、全身が動きたくないと言ってくる。イリヤは、大丈夫なの?
「……ジェレミーだわ」
「え?」
「ジェレミーが居る」
「ジェレミーって、あの……」
1人で遭遇した時、怖がっていないで「もうこんなことしないで」ってお願いすれば良かった。あの人、性格とか色々問題はあるけど、話せばわかってくれると思うのよ。……今更だけど。
それに、外に居るのがジェレミーだって確定したわけじゃない。
外に出て確かめたいけど……イリヤの邪魔はしたくないし、私が動けばシャロンも怪我をするかもしれないわ。私は、こうやってここでイリヤを待っていれば良い。
彼女は強いもの。前回だって、とても強かったもの。だから、大丈夫。大丈夫。
「有名なの?」
「イリヤが現役の時、相棒のマクシムと共に地方の貴族を殺して回っていたんです。でも、一向に捕まらなくて……。王宮では、指名手配されています」
「……貴族しか殺さなかったの?」
「はい。しかも、伯爵と侯爵の爵位を持つ貴族だけを5家族も。王宮で働いているようなものではなく、ただ地方を管理していた貴族を次々と殺して……目的も何もかも、いまだにわかっていないんです。調べても、共通点がなくて」
「5家族……!?」
「それより応援を呼びたいのですが、これでは……」
ってことは、爵位を持つ主人だけじゃなくて、ご夫人や子供なんかも殺されたってことよね? それを、ジェレミーが? マクシムと合わせて2人で? 異常すぎるわ。
さっき、話が通じると思ってしまった自分の言葉を撤回したい。彼らは、どんな気持ちで人を殺して回ったの?
いえ、待って。
家族単位で殺したってことは……。
「ねえ、私の家族が殺されたのってジェレミーの仕業だったり?」
「いえ、それは違うと結論が出ています。……犯人もわかっていませんが」
「どうして違うの?」
「殺された5家族とも、使用人は1人も殺されてなかったんです」
「……そう」
シャロンは、喋りながらも私に覆い被さるように抱きついてくる。その行為は、私を守ろうとしていることがわかるの。彼女も、震えているのに。
シャロンにも、この鳥肌を感じているのね。
アリスだと名乗った今なら、もっとグロスターの情報をいただくことができるかしら。
いえ、今はそんなことは良い。今は、イリヤの身を……御者さんとお馬さんの心配をしないと。あれから、お馬さんの声が聞こえないの。
「お馬さん、大丈夫かしら。御者さんも、声が聞こえないし」
「……そうですね」
「御者さん、こっちに来て良いのに。呼んでも良いかしら」
「……いえ、もう手遅れだと思います」
「手遅れ……?」
「お嬢様は、絶対に外に出ないようにしてくださいね」
「……」
手遅れって何?
シャロンは、どうして私の心配ばかりするの?
何もかもわかっているのに、恐怖に頭をおかしくした私には何も届かない。
お馬さんも御者さんも既に息がないこと、出て行ったら私もタダじゃすまないこと。先ほどから鈍い音が響いているのも、イリヤが……争いの嫌いなイリヤが、必死になって守ってくれていること。全部、わかってる。わかってるけど、認めたくない。
「……あの人、「イリヤに伝えて」って私に伝言してきたの。そういえば、まだ伝えてないわ」
「何の伝言を頼まれたのですか?」
「イリヤが調べてる伯爵家の人……誰だったかしら、その誰かが隣国で処刑されるのですって」
「!? ……お嬢様、その情報をジェレミーが?」
「……シャロンも知ってるの?」
「先ほど、隣国からの早馬でその情報が来たと陛下が……。お嬢様は、いつお聞きになられたのですか?」
「それより、私イリヤに伝えなきゃ」
「お嬢様、ダメです!」
立ち上がろうとすると、シャロンが私の胴体にしがみついて全力で止めてくる。それでも、なぜかわからないけど私の身体は前へ、前へと動くの。まるで、操り人形のように止められない。
どうしてこうなのか必死になって考えていると、割れた窓ガラスの向こうからあの匂いがした。
「甘い匂いがするの」
「甘い匂い? 私はしませんが……」
「あの匂いが、私を呼んでる……」
「お嬢様、お腹が空いたのでしたら後で「違うの。あれは、ベラドンナだわ。アインスが言ってた」」
そう、あれはベラドンナの香り。
私の身体を動かす、甘い匂い。私は、それに逆らえない。
以前もそうだった。
アインスの部屋の前まで行き、きっとイリヤに声をかけてもらえなければ、自分で鍵を壊してでも中へと入ったと思う。それほど、強い誘惑なの。シャロンには悪いけど、自分でどうこうできるものでもない。
「お嬢様! アリスお嬢様、お願いですから外には……」
「お、やっぱあいつの主人居んじゃん。しかも、ランベールの子までいやがる、なんで王宮の馬車なんかに乗ってんだ?」
「!?」
「!?」
そうやって必死になってシャロンを剥がしていると、不意に馬車の扉が開いた。びっくりして声を出しそうになるものの、顔をのぞかせてきた彼の独特な雰囲気に息を呑むことしかできない。
シャロンは、そんな私に再度覆い被さり守ろうとしてくれている。その腕は、さっきよりもずっとずっと震えていた。
声しか聞こえないけど、ジェレミーは楽しそうに鼻歌を歌いながらこっちを向いている。
でも、どうして彼がこっちに来れたの? そんな疑問が頭の中に浮かぶと同時に、外が静かになっていることに気づく。
「イ、イリヤは……?」
「あん? ああ、あのボロ雑巾の名前か。そっちでくたばってるよ」
「!?」
「お嬢様、ダメです!」
ジェレミーの楽しそうな声を聞いた私は、カバンを肩にかけてシャロンを押しのけた。それを聞いて、黙っていることなんてできない。脳内に浮かぶ、イリヤの血濡れた姿を早く否定しないと。
シャロンを押しのけた勢いのまま、持っていたカバンを肩にかけて外へと飛び出した。ジェレミーは、それを黙って見守ってくれている。いえ、ニヤニヤしながら見ているわ。しかも、すごくボロボロで血が付着した服を着て。そんなの、無視だけど。
「イリヤ! イリヤ!」
「お、お嬢さ、だめ、です」
「どうして、こんなひどいことができるの!」
外に出ると、そこは血の海という言葉がよく当てはまる光景が広がっていた。
足を折られて動かないお馬さん、その隣に居る御者さんもピクリともしない。どちらも、血の海に顔を埋めて倒れている。立ち止まって直視したら足が止まりそうだわ。
とにかく、その奥に広がっている草原や木々が、不自然に見えるほど場違いな光景が広がっていた。
そして、そのすぐ近くには片足があらぬ方を向いて倒れているイリヤの姿が。彼女も、着ていた服の元の色がわからないほど真っ赤に染まっていた。
私は、ドレスが汚れることを気にせずイリヤの方へと駆け寄る。
苦しそうに呼吸をするイリヤは、残った力で必死になって私を拒絶してきた。さっき私を守ったその力強さは、どこかへ消えてしまったみたい。
「どうして、武器を持たない人を攻撃できるの!」
「どうしてって……。どうしてだろうなあ、マクシム」
「本能じゃないかなあ」
「!?」
素手で戦っていたであろうイリヤの上半身を抱きしめながら叫ぶと、後ろからもう1人の声がした。驚いて振り向くと、先ほどまで居なかったはずのマクシムがこちらに銃口を向けて立っている。彼も、見た目は満身創痍な感じだけど、その身から出ているオーラは殺気に満ち溢れていた。
真っ直ぐに向けられた黒光りするそれを見て初めて、先ほどの訳もわからない恐怖の根源だったことに気づく。
でも、ここで逃げ出したらイリヤも死んじゃう。
それだけは嫌。
「今日は良い服着てんじゃん、嬢ちゃん。高く売れそう」
「うーん? どこかで見たことがあるなあ」
「……私が何を着ていようが、貴方達には関係ないわ」
「んだと、お前。これが見えねえのかよ?」
「さすが、俺が好みの女なだけあるわな」
「ジェレミーの趣味はわからん」
眉間に皺を寄せたマクシムが銃口で脅すだけで、全身がガタガタと震えてくる。この瞬間、あの指が少しでも動けば私の命は消えるでしょう。
考えるだけで声が出なくなりそうになるものの、私の中にある怒りがそれらを飲み込んでいく。
昔からの悪い癖だわ。
自分の中にない理不尽な価値観を押し付けられると、反発したくなるの。そのせいで、今までたくさん痛い目を見てきたのに。生まれ変わっても、それは変わらないみたい。
イリヤが必死になって「逃げてください」と言っているのに、私はそれを聞けない。馬車の前で震えながらもこっちを心配してくれているシャロンの声も、聞こえないの。
今はただ、目の前で嘲笑うようにこっちを見ている2人しか見えていない。
「これ以上は無意味だわ。引きなさい」
「弱い奴が命令するな。殺すぞ」
「いや、待てよ。嬢ちゃん、ちょっと立ってみ?」
渾身の力を振り絞って声を発すると、それをなんとも思っていないかのようにジェレミーが私を指差してきた。でも、イリヤを抱いているからそんなことできないし、そもそも従う理由はない。
拒否しようと口を開くも、その声はマクシムのイラついた声にかき消される。
「おい、そんな時間ねえぞ。箱になかったんだろ?」
「なかった。その嬢ちゃんのカバンの中も、大きさ的に入ってねえだろ。マクシムは、先に行ってて。すぐ追いつくからさ」
「ッチ。お前は、いつもマイペースだな」
「好みの女は、逃すとアレじゃん?」
よくわからないけど、助かった?
目の前で繰り広げられている会話が終わると、マクシムの持っている銃が懐にしまわれていった。それだけで、全身の力が抜けてホッとため息が漏れる。馬車にもたれてこちらを見ているシャロンの表情も、安堵の色がよく見えるわ。でも、足がガクガクと震えていてあれじゃ一歩も動けないと思う。
マクシムは、「5分で来い」と吐き捨てるように言って、近くに居た黒い馬に素早くまたがりミミリップ地方へと走って行ってしまった。
「さてと、嬢ちゃん。ちょっと立ってみてよ。俺、そのドレスに見覚えがあんだ」
「……」
「そんなイリヤが大事か? おい、ランベールの姉ちゃん。イリヤ抱いててやってよ。それなら良いだろ」
するとすぐに、ジェレミーが私たちに近づいてくる。見る限りそれは、パンケーキを食べた時に会った彼と雰囲気が似ていた。敵意がないということ? イリヤをこれだけ傷つけたのに?
従うつもりがなかったのに、いつの間にか近くまできたシャロンがイリヤを私から奪っていった。急に吹き出した隙間風に震えていると、再度ジェレミーが、
「ほい、立って。俺の記憶が正しければ、腰付近にバラのレースがあるはず」
と言って、私の身体に触れてくる。触れて良いのは、サヴィ様だけなのに。
怖いけど、ここで泣き出したら彼の思う壺でしょう。込み上げる何かを押し込めて、私は立ち上がった。すると、それと同時にベラドンナの香りが漂う。ジェレミーから? それとも、別の場所? こんな至近距離にいながらも、判断がつかない。
「やっぱあった。これ、俺が王族に売ったものなんだけど」
「え?」
「昔、王族が気に入ってた令嬢が居たんだよ。俺もそいつを気に入ってて、似合いそうなこのドレスをわざわざ商人に化けて売ったんだけど。そうすりゃあ、着てくれると思って」
「……確かに、王族からいただいたわ」
私を立たせたジェレミーは、腰付近のバラのレースを触れてくる。しかも、ポケットの中から出したハンカチを使って。
もしかして、ジェレミーの手が血で汚れているからそれがドレスにつかないように? いえ、そんな気遣いができるほど、この人は丁寧な人ではない。
でも、なぜかとても複雑そうな顔をしているの。
この表情は、何? 次の瞬間、私を八つ裂きにしようとしてる? ここまで近づいてしまったから、そうなっても逃げることはできないわね。
「今すぐ脱いで欲しいんだけどさ」
「嫌よ。これ以外、持ってないもの」
「いや、けどって言ったじゃん。脱いで欲しいけど、なんか嬢ちゃんも似合うな。あいつにしか似合わないって見つけた時は思ったんだが」
「さっきから、そいつとかあいつとかって誰よ。思い出話をするのは良いけど、イリヤを早く治療したいの」
「ははは! やっぱ、嬢ちゃんのこと好きだなあ。教えてやるよ」
それに、このカバンの中に入った証明書を早く届けないと。
さっきまでは余裕で間に合うと思っていたけど、このままジェレミーに捕まっていたら危ういわ。マクシムが戻ってきたら、もうアウトね。
そんな焦りと無関係なジェレミーは、甲高い笑い声をあげながらこう続ける。
「アリス・グロスター。どんな女を相手にしても、やっぱあいつにゃ敵わねえ」
「……え?」
「正体がバレたら危ないのに、そのドレスを贈っちまった。そんぐらい、惚れ込んでたよ」
「……なん、なんで」
聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
だって、私はこんな人を知らない。
考えても考えても、……いえ、待って。この人の顔に傷がなかったら?
傷がなかったら、確かにあの人に似ている気がする。
グロスターに課せられた仕事を運んできてくれたマドアス様と、何度か一緒に来た彼に。
私は、ベラドンナの香りが強くなる中、彼に似た人物と初めて対面した場面を思い出す……。