水を入れて、K+とCN-へ
サルバトーレ殿の居る部屋前には、誰も居ない。彼は重要人物であり、まだ罪人ではないためだ。俺は、周囲をグルッと確認してから扉を勢い良く開く。
すると、ベッド付近にサルバトーレ殿とアインスの姿があった。なぜか、前者は表情が死に、後者はイキイキとしているが……。何があった?
2人は、俺とクラリスの姿を視界に入れるなり、深々とお辞儀をしてきた。
「普通にしていてくれ。サルバトーレ殿、傷の具合はどうだ?」
「……今、アインスに縫ってもらったところです」
「なんと、縫うほどの怪我だったのか。これは、身内が失礼しました」
「……いえ。元々、怪我を負っていたので私の不注意です」
「アインスも、ありがとう。よく麻酔を持っていたな、緊急でこちらまで来たのに」
今の今まで俺に支えられて歩いていたクラリス殿は、弱った主人の姿を見るや否や一目散にベッドへと駆け出していく。その手には、すぐにでも着せられるようワイシャツが広げられている。そんな忠誠心に関心しつつ、俺はアインスと向き合った。
彼は、ゆっくりとした動作で医療用カバンに道具を仕舞い込んでいる。……やはり、見間違いではなく、楽しそうだ。
「いいえ? 麻酔なんか持ち歩いていたら、即刻捕まってしまいますよ。今日は許可をいただいていなかったので、持参しておりません」
「では、どこからか麻酔を拝借したのか?」
「いいえ?」
「……え、まさか」
「なんのお話か存じ上げませんが、サルバトーレ様にはそのままの状態で針を入れさせていただきました。計4針」
「そ、そうか……。そう、か」
と言うことは、サルバトーレ殿は素面のまま縫われたのか……? 考えただけで、ゾッとする。俺には無理だ。鳥肌がすごい。それに、傷なんかないはずなのに、腹部がチクチクと痛み出す。
俺は、ベッドへ横になるサルバトーレ殿に向かって頭の中で合掌した。尊敬に値する。そうか、だからあんな顔をしているんだな。
そんな勇者へどんな言葉をかけて良いかわからず部屋を見渡すと、湯気の出ている昼食がテーブルへ置かれていることに気づく。
「昼食が届いたのですね」
「ええ、先ほど元老院の方が持ってこられました。まだ治療中だったのでそのままに。……サルバトーレ様、昼食にしましょうか」
「……待ってくれ。まだ、まだ動きたくない」
「でも、冷めてしまいますよ。美味しいうちに召し上がった方が」
「……わかったが……待って、ください」
と、声をかけるも、本人はワイシャツを着るだけで精一杯な状態だ。気持ちがわかる分、急かしたくない。
しかし、俺はそんな彼に伝えないといけないことがある。
意を決してベッドへと向かうと、それに気づいたクラリス殿がサルバトーレ殿の手を取り硬く握った。
「そんな時に申し訳ございませんが、残念なお知らせがございます」
「……なんでしょうか」
「……」
俺が話し出すと、今の今まで疲労感満載だった表情が、一瞬にしてこわばっていく。きっと、領民の死者数が500を超え、今日中に処刑されるとでも思ったのだろう。そんな顔をしている。
しかし、彼にとってはそれよりも残酷な話になるかもしれない。
俺は、決して目を合わせようとしないクラリスをチラッと横目に入れてから、大きく深呼吸をする。
そして、話そうと口を開いた時だった。
「……ぺぺ、居るのか? 声が聞こえたぞ」
「!?」
「!?」
「!?」
「と、とう、さ、ま? え、どうして、ここに……」
すぐ出ていくつもりで扉を開け放っていたその場所に、「逃げた」と聞かされていたダービー伯爵が現れたのだ。しかも、お一人で。
俺は、素早く3人の前に立って守りを固めた。
ダービー伯爵は周囲が見えていないのか、特に気にすることなくフラついた足で部屋の中へと入ってくる。その目は充血して、まるで死者のごとく焦点の定まらない視線を彷徨わせていた。
どうやってここまで来たのだろうか。少なくとも、報告に来たヴィエンとはすれ違っているはずだが。……いや、今はどうでも良い。とにかく、俺が3人を守らねば。
「ダービー伯爵、止まってください。これ以上近づくなら、私は貴方を攻撃しないといけません」
「……ぺぺ、ぺぺ。食うな」
「……?」
剣は置いてきてしまった。しかし、体術でいけるだろう。
体勢を整え話しかけるも、当の本人には聞こえていないらしい。必死になって視線を動かし何かを探しながら、苦しそうに言葉をはいている。
異様な光景に目を奪われ、俺は構えていた腕を下ろした。
その間も、ダービー伯爵は、フラついた足のままゆっくりとこちらに向かってくる。
「ぺぺ、飯を食うな。毒だ。毒が……」
「!? ロベール卿、失礼する」
その言葉を聞いたアインスは、俺が静止する間もなくサッと横を通り過ぎダービー伯爵へと素早く向かった。そして、フラつく彼を受け止め床に寝かせる。
首でも絞められるのではないか、刃物を隠し持っていたら、毒が仕込まれていたら。いろんな可能性を想像し次の一手を考えているも、彼が起き上がることはない。
その間、ダービー伯爵は虚な目で「食うな、食うな」と繰り返している。
「……生きているのが不思議なほど、梅の香りがします。サルバトーレ様、動くのがお辛いでしょうが、こちらへ」
クラリスの啜り泣きが耳を掠る。サルバトーレ殿が素早く横切り風を感じるも、やはり俺が止めることはできない。
この緊迫した中、ただただ目の前の光景に立ち尽くしていることしか、俺にはできなかった。
「……父様、私は何も食べていません」
「……そうか。そうか、良かった」
「父様、父様……」
「すまなかった、ぺぺ。父さんが間違っていた……。ぺぺ、ぺぺ。顔を見せておくれ」
「父様、私はここに居ます」
「ぺぺ、嘘はダメだ。父さんには、ぺぺが見えない」
それでも、彼の死期が迫っていることだけは理解した。
正座したアインスが、ダービー伯爵の頭を膝に乗せて胸元をゆっくりとさすっている。
サルバトーレ殿が横たわった父親の手を握るも、どうやら本人には見えていないようで必死になって息子の名前を呼んでいた。その声も、次第に小さくなっていく。
「父様、父様……」
「ぺぺ。フォンテーヌになれ。フォンテーヌに。あいつに手出しはさせぬ……!」
「父様……? 父様、父様!」
ベッド傍で震えていたクラリスの手を取りダービー伯爵に近づくと、その異常なほどの顔色の悪さが目に入る。
人間、どうやったらこんな真っ青な色になるのだろうか? まるで、顔に血液が集まってきているとでもいうような色だ。
思わず目をそらしたくなるものの、この場に居る誰もがダービー伯爵を見ている。ならば、ここで俺だけが下を向いているわけにはいかない。
「なります。私は、フォンテーヌになります! 父様の残してくださった手続きを見ました! フォンテーヌに、フォンテーヌ、に……」
「……」
「……父様?」
「………………」
「……お亡くなりになっています。午後12時34分、ご臨終です」
「……旦那様」
サルバトーレ殿の着ているワイシャツに、血が滲んでいる。急に動いたため、出血が始まっているのだろう。
しかし、本人は痛みを感じないどころか傷があるのも忘れているかのように父親の手を強く握り、その顔を見ていた。
視線の先のダービー伯爵は、穏やかな表情で眠っている。
元の顔色がわからないほど、真っ青……いや、真っ黒にして、でも笑っていらっしゃった。
そんな彼の脈を計りながら、アインスは持っていた懐中時計を見て呟く。
「ロベール殿。先ほど伝えたかったところを見ると、ご夫人も……」
「ああ、残念ながら」
「左様ですか。では、あの昼食を保存したほうがよろしいかと」
「そうだな。これはまだ手をつけていないか?」
「ええ。治療していましたから、一切手をつけておりません。ダービー伯爵と同じものが入っているとすれば、シアン化物イオン……青酸カリです。自然界にあるものではございません。できれば、手袋をして触れた方が良いでしょう」
「青酸カリと言えば、あの窒息で即死する……」
「ええ、そうです。通常であれば、即死です。なのに、伯爵はここまで来た。よほど、息子のことが心配だったのでしょうな。医学では、考えられない現象です」
と、大きくため息をつくアインスは、ダービー伯爵の頭を床に下ろした。絨毯の上に頭が置かれると、それをサルバトーレ殿が「父様、父様」と言いながらかき抱く。
本来ならば、罪人に重要人物が触れてはいけない規則になっていた。しかし、それを注意するほど俺は人の心を捨てていない。
悪事に染めてでもなお、こうして子を心配する親が居る。その一方、正義を振りかざし、子を否定する親も居る。
アインスの言葉を聞いた俺は、サルバトーレ殿とクラリスが号泣するのを見ながらそんなことを思った。
「ロベール卿。旦那様は……フォンテーヌ子爵と子爵夫人はどちらに?」
「事情聴取の後、シン様に案内されて宮殿へと向かっています」
「……なら、安心ですな。旦那様たちは、ザンギフが作ったものしか口にしませんし」
「そうなのか。後回しになるが、無事を確認しよう」
「お願いします。とにかく、まずは人を呼びましょう。私は、部屋を換気して昼食を見張っています。サルバトーレ様まで窒息してしまってはいけませんから」
そうだ。
俺には、やることがあった。今の衝撃で、色々頭から抜け落ちてしまったよ。やはり、この様な事態を考慮し、重要人物の待機する部屋の前にも騎士団員を置くべきだな。……いや、これは稀すぎるケースか。
それよりも、内部犯が確定したと見て良いだろう。
厳重な見張りの中、外から来たやつが食事に毒を入れて去れるわけがない。これは、大変なことになるぞ……。
「俺が出たら、部屋の鍵を閉めてくれるか?」
「その方が賢明でしょう。戻りましたら、ノックは4回してください」
「わかった。サルバトーレ殿の傷口も診てやってくれ」
「はい、任されました」
アインスと言葉を交わした俺は、昼食に目を向ける。それはすでに湯気が消えて、まるで芸術作品のように窓から差し込む光によって輝きを持っていた。
それが、なんとも言えない気持ちにさせてくる。
俺は、ダービー伯爵に向かって頭を下げると、すぐに部屋を後にした。その後ろでは、カチャリと鍵の閉まる音が聞こえてくる。