連鎖する絶望
「俺たちのカレーがァァァ!!」
絶望する男子達、女子達も「ありえない」といった目で羽生を蔑んでいる。この状態を歓喜するものなんて一人もおらず、誰もが悲哀していた。だが、それはまだマシな方であった。この後、綴られることに比べれば何倍も……。
カレーがぶち撒かれたのは、6班の周辺だった。班は、学級で作られた5、6人のグループで、前列が1、3、5班と奇数班。後列が2、4、6班と偶数班となっている。6班は窓側の一番後ろの班で、カレーとの位置に一番近かった。カレーがぶち撒かれるまでは、カレーの食欲をそそらせる匂いを、最も近い位置で幸せそうに嗅いでいたが、カレーが零れてからはその匂いは食欲をそそるものではなく、憎たらしいものに変わっていた。その中でも最悪だったのは6番の中でも、カレーの近い位置にいた、中原亮一と三野深月の二人である。
一人目の中原は、サッカー部の期待の新人で、上級生にも劣らないパス回しとドリブルでレギュラー入りをした天才だった。そのことは、クラスの誰もが知っていた。そして、クラスの殆どが中原のことを応援し、県大会まで進んでほしいと願っていた。彼自身も自分達のサッカー部が県大会に進むために、日々努力し夜遅くまで特訓をしていた。だが、彼の努力も特訓も、このカレーによって全てが無意味になった。彼の脚のすねに……カレーのバケツがぶつかり怪我をしてしまったのだ。
「大丈夫か?中原?」
同じサッカー部の男子である、合田相斗が中原のもとに駆け寄って来た。
「うっ。グワァァァァァァァ!!」
彼のカレーまみれのすねは赤く腫れ、傷ができ、血が出ていたのだ。
「なんで?血が……。」
合田はバケツの方に目をやると、バケツの取ってと本体の繋ぎ目の部分に血が付着していた。
「なんて運が悪い!市内大会まで後3日ってのに……」
合田の悲痛な声が聞こえる。中原は涙を流していた。痛みのショックより、大会に出られる脚ではなくなったことへのショックの方が大きかった。中原の脚にかかったカレーは中原の血と涙と混ざり合い、とても見られたものじゃなかった。そして、中原は静かに羽生の方を睨んだ。それは殺意に近いような何かだった。羽生は中原の見たこともないような表情に恐怖した。そして、自分のしてしまった大きな失態を悔やまずにはいられなかった。
だが、絶望はこれだけでは終わらない。彼の見えない所で、もう一人の被害者の三野が静かに泣いていたのだ。
三野は、クラスの中では比較的大人しい方だが、クラスの中心的な女子達ともよく遊んでいた。
そんな、三野だが、先週、祖母が亡くなってしまったので忌引きの為に三日間、学校を休んだのだ。彼女にとっては相当ショックであったらしく、今週の月曜日に入ってもテンションが暗かった。それを察したクラスメイト達は三野をなるべく刺激しないよう、普段通りに接していた為、三野も少しずつ調子を取り戻してきたのだった。また、彼女は祖母の形見であるピンク色の手帳ケースを常に筆箱の中にしまい、持ち歩いていたので、それも一つの大きな励みとなっていたのだ。
しかし、その大事な手帳ケースが今はカレーまみれなのだ。羽生の零したカレーのせいで。三野はカレーのかかった手帳ケースをポケットから出したポケットティッシュで拭き取り、両手で抱えていた。カレーは拭き取れたものの、色や臭いが染みてしまい、ピンク色の綺麗な手帳ケースは、汚らしい汚物と化してしまった。彼女のすすり泣きは、近くの女子達にもすぐに伝わった。頭が真っ白の羽生に怒鳴る女子もいた。彼女はクラス内でも比較的可愛い方だったので、男子達も羽生に怒りの視線を向けた。
羽生は様々な罵声を浴びていた。しかし、羽生にはその実感がなかった。平和だったクラス。平和だった自分の立ち位置がたった一つの失態によって一瞬で崩壊したのだ。羽生の頭は未だかつて経験のしたことがないフワフワとした状態になっていた。
羽生は一度、小学校の頃、クラス内での大事な発表会で失態をしてしまったことがある。発表の資料を忘れてしまったのだ。その時に資料がないことを言い出せず、自分の番になった時に頭が真っ白になった。クラスメイトからは憐れみの目線や馬鹿にするような目線を受け取った。その時に頭がクラクラとしてしまった。
だが今回はそれを遥かに上回るものである。「すみません」や「ごめんなさい」の謝罪の一言も言えない。事態が大きすぎることによって、現実味を帯びていないのだ。「夢なんじゃないか」と、そんなことをずっと思っていた。罪悪感もまだはっきりとしていない。ただ、自分のやったことがとてつもないことであって、やるんではなかったという後悔だけは何故かあった。
しかし、次の瞬間、非常に現実味のないことが起きた。そして、それによって羽生は全てを悟ってしまう。
クラスメイトの一人が窓から飛び降りた。
「キャァァァァァァ!!」
「嘘だろ!!」
「うわぁぁァァァ!!!」
教室内はたちまち狂っていった。この場を教室だと思っている人間はこのクラスにはほぼいないだろう。カレーが零れ、空腹に襲われ、一人が怪我をし、誰かが悲鳴を上げ、気を失い、窓から人が飛び降りる。この状況で、自分が今、教室にいると思えるものがいるだろうか。
羽生は全てを悟った。取り返しはつかない。「自分は全てから嫌われた」。もうほぼ思考が回っていなかった。最初は後悔、次に絶望、最後に罪悪感と、ゆっくり一つずつ、感情が西洋のフルコース料理の様に流れてくる。そして羽生はそれら全てに耐えきれなくなり、気絶した。
これは、後に羽生が知ったことだが窓から飛び降りたクラスメイトは山本丸行であった。山本は四限目のマラソンの時に、みんなに「給食はカレーがある」と言い英気を養わせた人物だ。普段は横暴で少し暴力的だが、マラソンの時にはみんなのことを思ってくれていた。彼自身も余裕はなかったのに、クラスメイトのことを優先して、みんなに気合を入れたのだ。脱走した真面目な学級委員の宮岡と違って。
だが、そんな山本が何故、自殺めいたことをしたのか。場所は二階だっため、一命は取り留めたがあの時の山本は自殺をする気満々であった。
山本は、普段はあまり気にしないような給食のメニューをしっかりと把握していたのだ。カレーを相当楽しみにしていたのだ。しかし、マラソンで今にもぶっ倒れそうな山本にとって、唯一の救いであるカレーは羽生のミスによって全てが無くなってしまったのだ。「隣のクラスからもらえる」とか「余っているかもしれない」なんて思考を巡らせる余裕はその時、山本には無かった。切羽詰まっていた山本は窓から飛び降りたのだった。
羽生はクラスメイト全員、特に3人の人物から恨みを買ってしまった。
彼の平和な人生はここで、今狂った。