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皮肉

作者: 末吉 勇雪

 病気に憧れる性質があった。学生の時分には骨を折ることを念願していたが、ついに果たせなかった。念願していたといって、率先して危険を冒すのではなかった。作為的な重症よりも、極めて自然的な、大きなケガのほうが望ましく思っていて、数名の友人に鬼ごっこを持ちかけ、鬼から逃げるだの鬼でない友人を追いかけるだのの際に無理な短縮をして追いかけるくらいのものだった。グラウンドへ降りる階段をさけて石垣から飛び降りるたびに、花瓶を打ち捨てる想像をした。その末路と同じように、骨のどこか一本でも砕けやしないかと期待したのである。

 私の体は、自分が思うより柔軟であるらしい。残念であったが、それが役に立って、友人のだれもこのいささか無理やりな行動についてあいつは熱心だという以外の感想を持たず、ちっとも怪しむことをしなかった。

 皮肉なことに、私の行動を的確に表す言葉は、骨を折る、以外にない。

 そんな危なげな行動を繰り返していたある日、また私たちは鬼ごっこをしていて、その最中、友人の一人、体育会系で運動部に所属しているNが私の真似をして石垣から飛び降り、無茶な追跡をしようとした。

 追われていた私は生垣から飛び降り、いつものように何事もなく平然と走り去っていこうと余裕になって振りかえった。そこでNが、これまで私が想像していたよりも背の高い石垣から飛ぶのを目にした。Nは地面に体を打ち付け、わずかにのたうち回ったかと思うと、うめき声をあげて動かなくなった。

 Nの足が不細工な粘土人形のように曲がっている。抽象的な人物画らしく曲がっている彼の右足を見ると、私はこのうえない興奮を覚えた。だが興奮に身を任せて恍惚に浸るなどしてはならない。私の思惑は他人からして、運が悪かったとか、無茶をするからだとかの程度で済まされなければならない。好んで骨を折ろうとしたと知れてしまうのは避けなければならなかった。

 何日かが過ぎて、Nが教室に姿を現した。彼はその日のうち教室の中心になった。松葉杖と腫れぼったく固められた足に同情を寄せる同級生が多かったから。そして次の日には、理由を知った同級生は彼を単に馬鹿と呼称してつきまとうのを止めた。

 彼の足を見ながら何日も憧憬の念を抱いていたのが、私である。

 あの足の曲がり方が忘れられない。数学の教師が大きなコンパスを取りだしてひらいて閉じるのを見ると、すぐにあの屈折が浮かびあがる。いや、何もコンパスに限った話じゃなかった。教室のカーテンのうねり、机や椅子の足にも、Nの右足があった。家に帰っても、スプーンの形を見るとあれが脳裏をよぎるので、退屈のない日々が続いた。

 しばらくして、Nの足は快復した。

 もう私たちが鬼ごっこに興じることはなかった。これが中学のことである。

 社会人になり、実家から遠く離れた会社で肉体労働に準じようとそこの社員寮での生活を始めてまもなく、どんな巡り会わせか、成人式で顔をあわせて以来、三四年ぶりにNと再会した。

 そうなればどうしてこの会社に就職したのかについて確認しあうのが最初の話題になった。

 Nは給料がいいからと言ったので、私も同じだと言った。しかし本当は、この会社は残業が長いと噂に聞いたからだった。残業が長い。これが私の悲願を叶えてくれるような気がしたのだ。

 今の私は、かつて肉体的な被害をこうむりたがっていた時分から軽い転換をして、精神的な損傷を求めていた。といって悲劇的な人生を自ら演出したいのではなかった。だれにも悩みや胸のうちを明かさずに朽ち果てていくのは、ちっとも望ましくない。

 噂は本当だった。この会社の残業は長く、体を壊して辞めていく同僚が多かった。仕事は単純だが、重労働なうえ休憩まで数時間動き続けるので、半年ほどが過ぎると、ほとんどの同僚は退職していた。代わりに入ってくる派遣社員も、そう長くは続かなかった。

 だがNは社員寮で何度か顔をあわせる。そういう場合には決まって、食堂の定食の味について文句を言い合った。文句を言うならコンビニで飯を買えばいいと思われるが、寮費の中に食堂の飯代が含まれていて、今後のために貯金をしようとしている若者なら、このくらいの我慢はするのである。

 週末の休みにNは私を居酒屋に誘った。社員寮から繁華街までバスに乗って移動して店を選んでいる時、ふいと懐かしい誘惑に駆られて彼の右足に目をやった。当然、いたって普通の曲がりをしている。

 どこの店も混雑していた。ようやく酒にありついたのは半時ばかり経ってからだった。Nは安堵したようで、酒が出されると、乾杯もせずに一気に飲み干してしまった。私も続こうとしたが、彼ほど左利きではなかったので無理だった。

「おまえって昔から頑丈だよな」呆れているような口調でNは言ったが、私を見てはいなかった。

「俺さ。貯金してんの。大学の時にコクった彼女と結婚しようとしてんのさ。彼女の親がやたらと貯金はあるのかあるのかって言ってきて、許可得るのに金が要るってわけ」

「ずいぶんしっかりした親だな」

「ったく、そこじゃねえって」

 一瞬時、彼は私を睨んだが、すぐに怖気づいたように目を伏せた。横合いから、Nの歯が唇に食い込んでいくのが見える。

「辛くねえの? おまえさ」

「普通だよ」となにげなく返事をした。

「あああ、おまえが羨ましいよ。中学の時だって、おまえがびくともしねえんで俺も真似して飛び降りてみっとさ、俺は足を折って、おまえは折れねえで。……今だって、おまえはちっともブレねえでやんの」言って、彼は酒をあおろうとしたがやめてしまった。「おまえが俺だったらよかった」

 この日以降、Nの姿を見なくなった。身近にいた最後の同僚を失ったことで、これからどんな傷がやってくるのかとずいぶんな期待をしたものである。

 もうじき手に入るような予感がした。しかし、予感がただただ長ったらしくあるだけだった。同じことをして、抱え込んで、口を閉じていれば叶うものだと思っていた。だが、どうもそうじゃないらしい。

 また皮肉を思いついた。どうあがいても私には、もう兄の気質があるらしい。

 翌年の盆の長い休日に、私は実家に帰った。あの予感は、未だに実感にならず、この頃は靄ほどの影すら感じられない。

 実家には、遠出の出来なくなった母と、母のために仕事を止めた父がいる。

 私は夕食の前に、弟に挨拶をすることにした。仏壇には、生前弟が好きだった果物が備えてある。味覚的にというよりも、感覚的に私はその果物が嫌いだった。

 弟は病気で死んだ。病気に罹って以来、家族は私を見なくなった。

 病気になりたい。ずっと、これからも。

「おまえが私だったらよかった」


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