聖女 ルーシャ
ここは王都の下町にある救民院。
その粗末な玄関口で、護衛二人を伴った、一人の修道服を着た少女が多くの貧民達に見送られ、帰路に就こうとしている。貧民達は口々にお礼や願いを叫んでいる。
「聖女様、ありがとうございます!」
「父さんが助かるなんて! 聖女様、一生ご恩は忘れません!」
「神々はなんと素晴らしいお方を、お遣わしになって下さったのか、感謝いたします、神々よ」
「聖女様、あたいの母ちゃんも、母ちゃんも、お願い!」
「ばか、聖女様は今日だけで五人もお救い下さったのだぞ! お疲れなんだ、無理を言うな!」
「だってー」
「だってもへちまもねー!」
「聖女様、お気をつけて。感謝いたします! 感謝いたします!」
彼女の名前はルーシャ、ここ、オールストレーム王国の王都ノルバートでは、稀代の癒し手「聖女 ルーシャ」としてよく知られている
ルーシャは憎んでいた。
この世に、蔓延する「病」を。
そして、その結果としての「死」を。
ルーシャの母は、三年前に、流行り病で亡くなった。父のメイチェスター大司教(当時はまだ枢機卿には任命されていなかった)は、回復魔法の使い手を、何人も雇ったが無駄だった。あっさり亡くなった。七日ほど前まで、あんなに朗らかに笑っていたのに。
ルーシャは、母が大好きだった。他の家族はどうでも良かった。
父は教会の上位階層へ駆け上がることしか頭になかったし、兄や姉も、父親同様の俗物だった。それに比べ、母は純粋で暖かな心を持った人だった。そして、神々への信仰心は本物だった。行き過ぎるほどに。
「ルーシャ、貴女を産んだ時、私が産道が広がる苦痛に必死で耐えていた時、二柱の神が、まさに今生まれようとする貴女を、祝福されるのを見ました。神が放たれた高貴な光は全て貴女に注がれ、貴女を満たしていきました」
ルーシャは、大好きな母の言葉ではあったけれど、母はお産の苦痛から幻覚を見たのだろうと全く信じる気はなかった。
「貴女は他の者達とは違って、二柱もの神に愛されている。きっと眷属の紋章が授けられた後は、素晴らしい力が目覚めることでしょう。私はそれを楽しみにしているのですよ。ああ、あなたの十二歳の誕生日が、ほんと待ち遠しい」
母は、ルーシャが紋章を授かる前に、ルーシャが十歳の時に亡くなった。
ルーシャの母を亡くした悲しみは、心が壊れてしまいそうになる程に強烈なものだった。しかし、一つだけ悲しくないことがあった。それは……
母が、紋章取得後のルーシャを見なかったこと。
ルーシャは思っていた。母は幻覚を信じているようだが、どう考えても、母が言うように神々がルーシャに素晴らしい力を授けてくれるとは思えなかった。
ルーシャの容姿は平凡だった。勉学の才も、運動能力も、芸術的能力も、会話・弁舌の才も、全て平凡だった。人を惹きつける、飛び抜けたものは何一つ無かった。
そして、魔力量も平凡『 シルバーの下位 』。父が伯爵家、母が男爵家の出であることから考えると、悪くはない。けれど良くもない。
このように、平々凡々を絵に描いたような自分が、神々に祝福を受ける存在であるとは到底思えない。だから、紋章を得たとしても、凄い力なんて与えられる訳が無い。あれほど、自分が紋章を授かるのを楽しみにしている母は、どんなにがっかりするだろう。
そう考える度に、ルーシャの心は、悲しみに覆われた。
自分を愛してくれた母は亡くなった。けれど、愛する娘に失望することなく、人生を終えられた。
これだけが、彼女の母を亡くした悲しみの 救い だった。
ルーシャは、このことだけに縋って、心を支えた。
二年後、ルーシャに眷属の紋章が授けられる日が来た。彼女は神棄にならずに済んだ。きちんと一柱の神から、紋章が右手の手首の裏に与えられた。そして……
左手の手首の裏にも、別のもう一柱の神の紋章が与えられた。二柱の神が、ルーシャを眷属と認めた。
ルーシャは愕然とした。
母の話したことは母の幻覚ではなかった。嘘ではなかった。
その日から、
ルーシャは両手に紋章隠しのブレスレットをしている不自然さを隠すために、袖の長い修道女服を常用するようになった。
平凡な少女は、『聖女ルーシャ』へと歩み出した。
ルーシャの容姿は少しづつ変化した、人は彼女を、美しいと褒めたたえるようになり。ついには、女友達の中で一番容姿が整った娘が、真面目に「あなたが羨ましい」と言ってくる迄になった。
頭の動きも、以前とは比べ物にならない程良くなった。難し過ぎて読めなかった神学書なども、難なく読み進められる。
体の方も、一日中王都を歩き回っても、軽い疲労を覚える程度で済んでしまうほど頑健になった。
そして、一番の変化は
ルーシャに特別な魔術の才が発現したこと。
魔術は、大きくは五つに分野分けされる。
戦闘関連、医療薬学関連、土木工学関連、日常生活関連、植物動物関連。(これらは便宜上の分野分けで、どれに入れるべきか判らない魔術も多い)
貴族は、眷属の紋章が与えられると、全ての分野で、第二段階までの魔術は一通り使えるようになる。でも、第二段階より高度な魔術が使えるかどうかに関しては、個々の差が発生する。戦闘関連が得意な者も出てくれば、土木関連に優れる者も出て来る。当然、複数の分野で優秀な者も出る。これは紋章の取得前には、予想出来ない。だが全く運任せとも言えない、やはり、高魔力量保持者に優秀な者が出る確率は高い。
ルーシャの場合は、医療薬学関連が突出していた、圧倒的だった。
究極と言われる第十段階の一歩手前の、第九段階の回復魔術をルーシャは使えた。王宮の最上位の医療魔術師が、癒せない病気や怪我を、ルーシャは直せた。
ルーシャはその力で、多くの人達を、貴族、平民にかかわりなく、時には悪人まで救った。
ルーシャの名声は高まっていった。多くの人達が、彼女に感謝し、崇め奉るようになった。
稀代の癒しの使い手、『聖女 ルーシャ』として。
そして、それはルーシャの父である、メイチェスターの欲望に火をつけた。前の年、枢機卿の列に加わった彼は、ルーシャを王子、のぞむべくならば皇太子、の妃に送り込めれば、教皇への道が見えてくるのではと考えた。
教皇が統べる「十二神聖国」は、国という字が付いているが、実態は都市国家。領土は宗教都市ライラのみの小国だ。オールストレーム王国は、その隣にあり、近隣諸国の中では最大の版図を持つ強国。オールストレームの王族と縁戚関係を結べれば、次回の教皇選の時、有利になるかは明らかだ。いくら教皇が宗教的権威の頂点とはいえ、俗世の権力から無縁ではいられない。
メイチェスター枢機卿は画策を始めた。
ルーシャは父親の思惑など、どうでも良かった。彼女がすべきなのは、神々から与えられた力で、人を、民を、より多く救うことだけだ。もし、母が生きていても、そう言うだろう。
ルーシャは思う。
ああ、お母様に、今の私を見てもらいたかった。多くの人々の命を救い続けるこの姿を!
ルーシャは思っていた。
自分を愛してくれた母は亡くなった。けれど、愛する娘に失望することなく、人生を終えた。
ほっとした。
えっ? 何? 今、何て?
ほっとした、ほっとした、ほっとした、
ほっとした、ほっとした、ほっとした、
ほっとした、ほっとした、ほっとした。
ルーシャの世界が真っ暗になった。
自分は、母が大好きだった、愛していた。それは掛け値なしに本当のことだ。
けれど、けれど、ほんの一匙に過ぎなくても、母の死を願う心があったのではないか?
平凡なあたしに期待しないで、何の取柄もない娘なの、あたし程度の子はオールストレーム中のどこにでもころがってる。石を投げればきっと当たる。
あたしみたいな凡庸な者を、神々は選ばない。祝福なんてしない。
だから、期待しないで!
そんな風に、嬉しそうな、愛しそうな、眼で見るのは止めて!
あたしを追い詰めないで!
自分の心がこんなに、弱く醜かったなんて……
厭だ、耐えられない、こんな心を抱えて生きていたくない。
心に蓋をしよう。
母の死を願ったことなど、絶対に無かった。
大好きな母と、共に生きたかった。
それが、私。本当の私。
病が無ければ、母は生きていられた。生きていれば、今の私を見てもらえた。
悪いのは、病 だ。病は 悪 だ。
悪は排除しなければならない、潰さねばならない、滅ぼさねばならない。
神々は私に、神にも近き、素晴らしい力を与えた。意志を示された。
臆することは何も無い。
病を、この世から消してやる!!
絶対にだ!!!
ルーシャは、自宅の屋敷に帰り着き、自分の部屋にはいると、ガクッと膝から崩れ落ちた。魔力が殆ど残っていない。先ほどの救民院で使い果たしてしまった。ここまでの帰り道は、なんとか気力で持たせた。
聖女ルーシャは、稀代の癒しの使い手。
それは本当だ。この国で、いや近隣諸国をいれても、第九段階の回復魔術が使えるのはルーシャしかいない。しかし、ルーシャは大きな問題を抱えている。
魔力量…… ルーシャの魔力量は「シルバーの下位」。
これでは、どんなに素晴らしい高度な魔術が使えたとて、使える回数は多くない。
「たった五人、たった五人で、魔力切れなんて!」
たった五人と言っても、その殆どは瀬戸際の重病人ばかり、ルーシャ以外の回復魔法の使い手達が束になってかかっても、一人救えたかどうか。だから、それは誇って良い功績だ。
しかし、今のルーシャはそうは考えない。
世の中から病を無くすには、もっと魔力量が必要だ、なのに、神々は自分に「シルバーの下位」しか与えなかった。どうしてだ、どうして、こんな少ない量しか与えて貰えないんだ。
「リディアはシルバーの上位」
「マーゴットはシルバーの中位」
「メラニーもシルバーの中位」
「王族のメレディスはゴールドの下位」
自分より多くの魔力量を持っている、友達や知り合いを挙げていく。
ろくな魔術も使えないくせに、使っても自分の利益にしか使わないくせに、どうして神々は、あのような娘達に、自分より多くの魔力を与えるのか!
腹がたって仕方がない。ルーシャは拳を床に叩きつけた。
ダン!
「アリスティア・フォン・ゲインズブラント!」
会ったこともない、見たこともない。けれど、彼女が「プラチナ上位」を持っているのは有名だ。田舎伯爵の田舎令嬢が、そんなもの持って何の意味がある。自分以上の意義のある使い方が出来るのか? 否、出来る訳がない。多くの人々を救える膨大な魔力を持ちながら、無駄遣いし、享楽にふけりながら死んでいくだけだろう。
だったら、自分に寄こせ!
お前なんかより有効に使ってやる!
それが、人のため、世のためだ!
ははは、止めよう……
出来もしないこと考えても仕方がない。
いや、出来はしないの?
本当にそう?
よく、考えよう、思考停止してはダメ。
何か、手はあるはず。
何か……
あるじゃない、あるわ!
禁術。 神々が禁じた術。
禁術って、本当に使っては駄目なもの?
神々が人に魔力を持つことを許し、魔術を教えたのだ。本当に人に使わせたくない魔術があるなら、神々は最初から教えないはずだ。でも禁術を記した本は存在している。父が枢機卿である、ルーシャの家にもある。
神々は、人の勇気を試しているのではないか?
禁を破ってまで、成し遂げる勇気があるのか?
答えは決まっている。私にはある。
ルーシャの心に、喜びが湧き上がった、体にも、気力が戻り、満ちてゆく
「お母様、見てて下さいませ! あなたの娘はやりますよ、この世から病を消してみせます!」
アハハ! アハハ! アハハ! アハハ!
ルーシャは笑った、床に転がったまま、笑った。
そこに「聖女」の姿はなかった。
あるのは、母の死を今だ受け止められもしない、自分を見つめる勇気を持てもしない、心弱き少女の悲しい姿だけだ。その少女は十四歳。
「プラチナの上位かあ、ワクワクする!」
癒しの使い手を、癒すのは誰でしょう。ルーシャには自力再生を願いたいところですが…