野乃
架空の日本、大阪の話です。色々現実とは異なります。
私の名前は、葛城 野乃。
大阪に住む、ごく普通の女子中学生。
学年は三年。
今日は平成二十二年一月三十一日、日曜日、晴れ。
今年の冬はけっこう寒い。昨日も雪が降った。
気象庁め、暖冬!暖冬! 言ってたんなんなん? 最近、外してばっかり。
この時期は私達、中学三年生にとっては高校受験のためのラストスパートタイム。
ここで踏ん張れるかどうかが、笑顔の春なのか、うらぶれた春になってしまうのかにかなり影響する。だから、殆どの同級生達には焦りや不安の影がさして、とっても寒々しい。まあ、仕方ないけどね。
けれど、私はあったか、ほっこり、笑顔満開。
一昨日、待望の連絡を担任からもらえたのだ。
名門私立の合格 ゲットーー!!
諸君、がんばってくれたまえ。辛いだろうけど、誰もが通る道なの。佐智もがんばれ、落ちたらあかん! あんたはやったら出来る子や!
佐智というのは私の親友。性格良くて面倒見が良い子。大好き。
という訳で、現在幸せを満喫中。
「ヘッドランプ、地図にコンパス、レスキューキット、レイン上下、フリース、ダウン…… 防寒はきっちりせなな。」
「ポールは入らないからザックのサイド」
「サンドイッチ二つに、非常食、水は…… 重いけど二本もっとこ」
「あ! あれ、持たな、今日は絶対いるやん!」
私は廊下に出て、隣の部屋に入る。
この部屋は、七つ年上の兄、晶の部屋なのだが、今は【東京の大学】に通っているため、物置部屋とかしている。
ちなみに兄が通っている大学の校名に、【の】はいらない。妹としては誇らしくもあるが、運動まで万能だったりするので、同じ父母から出た身としては少々腹立たしくもある。神様は不公平なんな。
押入れを開け、大きめの段ボールを引っ張り出す。
その中には根っからの山好きの兄が置いて行った山道具がいろいろと眠っており、私は時々、勝手に使わせてもらっている。
「 『とげとげさん』出ておいでー お、あった、あった、『とげとげさん』 」
私が段ボールから取り出したのは、透明なビニール袋にいれられた、黒く太いゴムバンドが二本繋がれた6本の爪がついている金属プレート二組。雪上を歩く時のすべり止め、いわゆる「アイゼン」、これはその簡易版。
私はこのアイゼンを「とげとげさん」と呼んでいる。兄がそう名付けたのだ。そのあまりにも子供っぽいネーミングが、兄らしくなくて笑ってしまうのだけれど、私も妙に気に入ってしまったので使っているしだい。
私が知らないだけで、兄は案外、おちゃめさんなのかも。
「う~ん、あったのはええけど、汚いなー 『メンテナンスは基本や!』とか言ってるくせに…… 」
「まあええか、どうせ汚れるもんやし。」
まじまじと見つめる、ほんと汚い。
「お兄様! 不潔です!!」
顔を顰め、腕をふってまでした昭和ドラマ風小芝居は虚しかった。
「野乃、あなた今何か言った?」 階段下から母の声。
「何でもない。ただの独り言」
「そう」
「野乃ー」
「なん?」
「一人小芝居は虚しいわよ」
聞こえてるやん。
一戸建てとはいえ、大阪へき地、築数十年のウサギ小屋。
いつか、一人小芝居したくらいでは、筒抜けにならないような豪邸に住みたいものよ、よよよ。と、庶民の悲哀をなげきつつ、作業を再開。
残っていたものをガシガシと詰め込んでゆく。最後に、すぐに使えるようにアイゼンをザックの雨蓋の下に収納すると、パッキングが終了した。
後は、山行の為の服装に着替えるだけ。
私は、中学生ながら、しっかりとした登山用の服や装備をもっている。
ザック、登山靴、ウェア類(アンダーレイヤー、ミドルレイヤー、アウターレイヤー)などの基本的なものからハット、グローブ、トレッキングポール等、色々な小物類、すべて兄が買ってくれたのだ。
兄は優しい、特に私には。
中学二年の時、昨今の「山ガール」ブームにあっさり影響され、私と佐智は他数名の友達と一緒に、トレッキング同好会を立ち上げた。そして記念すべき第一回の山行として近隣名山、○湧山(頂上の茅草原が有名)を選んだまではいいが、メンバーの誰一人
何を着て行ったら良いのか?
何を持って行くべきなのか?
何に注意しなければいけないのか?
等々、まったくわからなかった。挙句に果てには「とにかく、お弁当持って行けばなんとかなるんやないの」などという者がでる始末。
私達は、自分達で考えることを即座に放棄し、先人に頼ることにした。
私が頼ったのはもちろん兄。
電話で、同好会を立ち上げたこと、来週に○湧山にいくことを話した。
「ジャージと運動靴じゃだめ?」
○湧山くらいなら、それでも大丈夫だと思うと兄は答えた。
「けどな、低山のほうが危ない面もあるしな、同好会続ける気があるんやったら、まともな装備一式買えや。援助くらいしたるし」
「え、うそ!マジ?」
「ウソはいわん」
「めっちゃ好き! 兄貴 最高! 愛してる! アイラブユー! アイニーズユー! 私的出血大サービス! どうよ、この妹の可愛さ、愛らしさ。愛でざるにはいられまい! さあ、もっと愛でませ、おいでませ! ドンと来い!!」
「アホ」
兄のあきれた声と共に電話は切られた。
その次の日、私の携帯に兄からメールが届いた。メールには口座に入金したことと、そのお金で揃えるべき装備一式の詳細が長々と記されていた。
レインウエアは必ず分離型、上はゴアテックス使用のもの、下は少し安価なものでも可。靴はそれなりのシャンクがあり、透湿防水がしっかりしているもの、なるべくゴアテックス、アウトドライも良し。ザックは20リットルくらいで……うんたらかんたら、知らない言葉が飛び交っていて頭が痛くなってきた。兄の労作メールには感謝はするも、後でゆっくり読むことにして入金の確認のため通帳を持って家を出た。
兄が入金してくれた口座は、私が小一の時、親が私がお小遣いやお年玉を無駄遣いしないために、私名義で作ってくれたもの(中学になってからお金の管理をおぼえなさいと通帳を渡された)だから、それなりの額のお金が溜まっている……のは理想。現実は残高一万円を切っている。
倹約は美徳と言うが、美徳というのは殆どの人ができないから美徳というのだ。人の欲望には限りがないの、それは仕方ないことなの、そうやって世界はまわっていくの。佐智と行ったカラオケ代も誰かの給料となり… などと頭の中で弁解をうにゃうにゃ唱えていたが、ATMから記帳を終えて出てきた通帳を見て、脳が一瞬フリーズした。
「15万……」
もう一度よく目を凝らして確認する。確かに兄から15万入金されている。
手が震えた。
兄さん 何考えとんのん!
いくら、妹の為だからっといって、大学生の兄が送ってくれた額はおかしい。兄は工学部の四年、文系の学生のようにバイトの時間がとれるとも思えない。なのに15万!
そんな額のお金を中学生の私なんかがもらっていい訳がない。
私は銀行を出て、携帯を取り出した。今、研究室とかなら悪いかとも思ったけれど、もしそうならば出ないだけだろう。気にする必要はない。数回のコールで兄は電話に出た。
「今時間ある?」
『野乃か、なんかわからんことでもあったか?』
兄の声が小さく聞きづらい。
「兄さん、声が遠いんだけど、電波悪いんかな?」
『いや、ゼミに教授が来とるから、これくらいの声がしか出せ』
即座に通話を切った。
頭が痛くなってきた。やはり、兄はおかしい。普通、教授がいる場面で電話に出るだろうか。いや、それはない。中学生の私でもわかる、それは出たらあかん!
もしかしてほんとは、兄さん、バカなん? アホなん?
ううん、もっと前向きに考えなきゃ。
兄はきっとシスコンなのだ。(シスコン説が前向きとも言いがたいけれど、アホバカよりましと考えたい)年の離れた妹が可愛くて、可愛くてしかたがなくて、つい全財産貢いでみたり、内部生として院を志望している兄の生殺与奪権をもつに等しい教授の前で、
「おまえの指導なんかより、可愛い可愛い妹からの電話の方が大事だぜ! おれは電話に出るぜ! Pi!」
とかやってしまうのか。私は頭をかかえて座り込んでしまった。兄に申し訳ない……兄は悪くない……全部私が悪いのだ。
どうして……
どうして……
こんな 超絶美少女に生まれてしまったの!!
大きく振りかぶってあげた顔の前にはショーウインドーが在り、そこにはショートカットで、目はまま大きいけれど、それ以外のパーツは並。良く言えば「中の上」悪く言えば「中の下」。ようするに「中の中」の平凡な容姿の中学生が映っている。
一人小芝居は虚しい。いや悲しい。
ほんとに母や兄は私に良くしてくれてる。
小学三年の秋、父が亡くなった。
父は大きくはないが、業績は悪くない会社を友人と共に経営していた。
父の持ち分の権利を共同経営者だった友人に譲りわたし、それなりのお金を得たことと、母が父の会社が軌道に乗った後、やめてしまっていた行政書士の仕事を再び始めたことで、なんとか一般的と言える生活を営める目途はたった。
しかし、大黒柱だった父を失った葛城家は変わってしまった。家も安普請に引っ越した、万事余力がなくなった。母は書士の十数年に及ぶブランクに常にひいひい言っていたし。兄は高校へ通いながら、その母に代わって殆どの家事を受け持った。
そして私。なんにも出来ない、役に立たない。
さすがに途中から恥ずかしくなって、兄を手伝うようにはなったけれど、今に至ってさえ、家事能力全般、兄に及ばず、学力は比べたいとも思わない。あげくの果てに流されやすい性格で無駄遣いも多い。
こうなったら、もう美少女になるくらいしかないんやない? と、つい思ってしまう。もし、なれたとしたら、その見目麗しさ、愛くるしさに、
「何もしなくていいの、あなたが傍にいるだけで、私の心は満たされるの」
「そうだ!おまえはそこにいるだけで良いんだ。それが俺たちの幸せなんだ!」
「あなたは!」
「おまえは!」
二人の声がハモる。 「 「 我が家の天使!! 」 」
二人に微笑む超絶美少女の私。 にまっ。
これはないな、これはない。
いくら美少女だろうが、超絶であろうが、こんなのあかん。
その日の晩に兄から電話があった。
『四年生になってからほんま忙しくてな、全く山に行けてないんや、やから山行用に貯めてた分がまるまる残っとる、それにバイト、解析関係のヤツがあってな。これがほんと割が良いんや。そやから気にするな。こっちにおると何もしてやれんし』
そうだとしても、こんな高額はもらえないと食い下がる私に、横で話を聞いていた母が苦笑ぎみに言ってきた。
「もらっときなさい。あなたが思っているより、うちも晶も余裕あるんだから」
「でもこれは余裕とか、そういう問題やないと思うんよ」
「それは……そうかもね」
母、少し考えるかのように間を置いた。
「野乃、もしお父さんが生きていたら… お父さんだったら… 」
胸がズキリッと痛んだ。
「+5万はいったでしょうね」
「えっ! +5万って20万! マジ?」
『 「 マジ 」 』
母と電話の兄の声がハモった。
結局、二人に説得されてありがたく頂くことになった。しかし、さすがに全額使ってしまっては申し訳ない。半分は貯金しようと決心していたのだが、後日、登山用具店で兄のメールの指示に従いつつ、自分好みのもの(やっぱり可愛いのがいいよね)を選んでいくと残金は、半額どころか殆ど残らなかった。
世の中は恐ろしい。
そして、佐智達といった○湧山では、
「なんであんただけ、おしゃれさんやねん!」「まともな山ガールやねん!」「ゆるさんっ!」「きーっ!」と追いかけまくられた。
世の中は楽しい。
用意万端整って玄関におりて来た私は、登山靴の紐を結び終え、母に声をかける。
「じゃ、行ってくるなー」
「野乃、ちょっと待ちなさい」
母がこちらに出て来た。何かの申請用紙を持ったままのところを見ると、仕事中だったようだ。
「ほんと一人で大丈夫なの? 雪また降ってくるじゃない?」
「大丈夫やよ。天気予報さっき見てんけど、パーセンテージめっちゃ低かったわ」
「そう……でも、降ってこなくても、足元の雪多かったら帰ってきなさいね」
母の顔は少し心配そうだ。
「大丈夫、ちゃんと 『とげとげさん』 持ってる」
後ろのザックを指さす私に、母が苦笑する。
「『とげとげさん』って、あなたまだそんな子供っぽい呼び方してるの」
「だって、兄さんがそう言ってたから、真似してるだけや」
「真似してる?、反対でしょ」
「反対?」
「そうよ、小さい頃のあなたが晶のアイゼンを見て『わー とげとげさんや!とげとげさん!』って言ったのよ。晶が『これはアイゼンってゆうんや』と何度も教えても、あなたがいつまでも『とげとげさん!とげとげさん!』言ってるから、晶が根負けしたの。あなた覚えてないの?」
「覚えてない」
全く忘れてしまっている。けれど、小さな私の横で、「もうこれの名前は 『とげとげさん』でええわ」と困り顔になっている兄を想像すると、ふわーっと心が温かくなってきて、自然と笑みがこぼれた。
母もつられたかのように微笑む。
「いってらっしゃい。気を付けるのよ」
私が今、向かってるのは自宅からバスで数十分のところにある『○○剛山』。1200メートルにも足りない低山だけれど、数多くの登山ルートがある関西では人気の山だ。冬には『雪山トレッキング』も楽しめる。
そしてこの山の頂上には大きな神社があり、その神社の名前が私の姓と同じなのだ。これは親しみを覚えざる負えない。「マイ神社、マイ神様」と勝手に認定している。
「葛城」
私は校舎の廊下で、担任に呼び止められた。
「荒川先生、何ですか?」
「おまえ、来年『聖藤』受けてみないか?」
「『聖藤』? あのお嬢様校の『聖藤女学院』ですか?」
「そうだ」
私は荒川先生の言ってる意味がいまいちよくわからなかった。
「あそこって小中高一貫で、高校からの編入なんてなかったんじゃ…」
「ところが、来年だけあるんだなー これが!」
熱くて良い先生だけれど、話し方がちょっとウザい。
「学校改革のための試験的な単年度導入らしい、近隣の中学から最上位レベルの生徒が各二名推薦され、その中からさらに10名選抜される。さすがの名門私立も少子化の波に怯えだしたんだ。なりふりなどかまってはいられなくなって、校名をさらに高められる高学力の生徒を欲してる、どうだ? 」
苦笑いをしたくなった。
「先生、二つ問題点があります。一つは私の現在の成績では厳しいです。二つ目は私立の学費は高過ぎってことです。うちの家の状況は先生はご存じでしょ」
「大丈夫、葛城の成績は最近、かなり上がってきてる。この上昇線を維持すれば可能だ」
確かに私の成績は以前とくらべ上がってはいる。あの15万円の件以降、私としてはかなり真面目に勉強にとりくんでいる。それくらいしないとさすがに申し訳がたたない。
「あの、簡単に言ってくれますが、このまま上昇し続けるなんて無理というか不可」
「バカを言え!」
先生は私の言葉を遮った。
「おまえは晶の妹だろう、あいつは俺が今まで受け持った中で一番の奴だった。その妹が、たかが『聖藤』にひるんでどうする。あいつなら鼻歌まじりに合格するぞ、いやまあ男だから現実問題無理なんだが、とにかく、お前はあいつの妹なんだ、同じ遺伝子をひきついでいるんだ、できる! できなければおかしい! お前はやれば出来る子だ!」
やめて! 兄さんのことは好きだし、尊敬さえしてる。その兄さんを嫌いにさせないで!
もう涙目の私をまったく無視して先生は続けた。
「二つ目の問題も、まったく気にしなくていいぞ。来年の編入枠はなんと、合格者全員、学費免除だ。もう一回言うぞ、学・費・免・除! それに、制服、鞄、シューズ等、学院指定品は支給される、つまり経費も無料だ!」
「経費まで無料…」衝撃を覚えた。
「そうだ、無料だ。無料ほどお得なものはない。それに、『聖藤』だぞ、『聖藤』! そこに通うとなれば、お前はお嬢様としか見られない! 実際は違うんだが、そんなことはどうでも良い。『 学費免除! 経費無料! お嬢様! 』 最高だと思わないか?」
免除、無料、お嬢様。先生の言った変な取り合わせがキャッチフレーズのように頭を巡る。
荒川先生はバン!と私の両肩を叩く。
「どうだ葛城、頑張ってみろ!」、
私は即答した。
私はこの幸運をつかみ取りたかった。家計に貢献できる学費免除は大変ありがたいことだ。それに加えて、お嬢様学校である「聖藤女学院」が持つ魅力、オーラに私は惹かれている。
駅で見かける聖藤の生徒達は、さすがに皆が皆というわけではなかったけれど、その多くは私や友達がもっていない気品を纏っている。何かが違う……それは単に、言葉遣いや、仕草だけではないように思える。
私は学び取りたいと思った。母や兄が自慢できるような娘、妹になりたいと願うから…。
その為には、なんとしても彼女たちの中に入らねば。
荒川先生や兄に勉強方法の相談にのってもらい、その指導を信じて、母があきれるくらい必死で勉強した。その甲斐もあって成績の上昇線は維持され、ついには荒川先生が、これでもう大丈夫だろうと言ってくれるレベルに達した。
やるべきことはやった。後、出来ることは、神頼みだけ。
半月前、私は○○剛山に登り、山頂の葛城神社で合格を神様に祈願した。
そして今、
同じように山頂へ向けて登っているのだが、半月前とは全く違っていることが二つある。
私の心の晴れやかさと、登山道の雪。
ずいぶん多い。簡易とはいえアイゼン持ってきて、ほんと良かった。これがなければ、何回もお尻を痛めることになるだろう。
息を整えるために立ち止まり、まわりを見渡した。木々の枝葉が雪をまとい陽光に煌めいている。なんて美しいんだろう、佐智達にも見せたいな、来年、一緒に来よう。
30分後、山頂到着。
雪が多かったのにコースタイムちょうどで登れたことに気を良くする。私って思ってるより体力あんな、これなら兄さんと一緒に北アルプスにだって行けるかもと、にまにましながら山頂広場を通り抜け神社へ向かう。見えてきた大きな社殿は、木々と同じく雪に飾られ神々しい、まさに神の住まいに相応しい荘厳さ。
「今はこれがせいいっぱい……なんです」
カコン! 賽銭箱が乾いた音をたてる。
カララン! カララン! 大鈴の音が気持ち良い。
二礼
二拍。 パン!パン!
「聖藤女学院 高校編入枠、無事合格できました。ありがとうございます」
「母や兄、荒川先生、佐智達、みんな喜んでくれました」
「今、とても幸せです。」
「これからもよろしくお願いします。マイ神様」
一礼。
神様へのお礼が済んだ。
目的を果たした私は、山頂広場にもどり、端に設置されたベンチで昼食をとることにした。広場は私の他に数人の登山者しかおらず、閑散としている。山の雪景色がこんな奇麗なのにもったいないことだ。
「このサンド うまっ!」
景色とサンドイッチを堪能しつつ、私は帰路について考えていた。
行きに来た道を帰るつもりだったけれど、気乗りがしなくなってきていた。同じ道を帰るのは、やっぱり味気ないし、あの道は段差のきつい階段が永遠かのように続き、膝に優しくない。時間はまだ正午前、天気はさきほどから少し曇ってきたけれども、これくらいは山では普通だ、体力的にもまだまだ余裕。○○剛山には歩いたことのない登山道がたくさんある。他の道に行ってもいいんじゃないか。いや、行きたい。せっかく猛勉強して得た自由な時間、楽しまなきゃ損だ。
私は地図を開き、いくつかの道を検討し、その中から眺望が素晴らしいと聞いていた道、自分の実力から背伸びをした難度の道を選択した。
そして、私は滑落した。
そこは細い尾根道で、道の両脇は左右とも急斜面となっていた。左右どちらも危険といえるが、断然危険なのは左側。右側の斜面はまだ小さいが木がそれなりに生えており、もし落ちたとしても、落下を止めてくれそうだ。しかし左側の斜面はまったくの裸地、その上、斜面の幅も5メートルほどしかなく、その外側は一気に崖だ。はっきり言ってかなり危険な場所だ。
この道はあきらめて、戻るべきなんじゃないか、とも考えたけれど、登り返すのはさすがに億劫だったし、天気も少々崩れかけてきているので、このまま下ることに決めた。ポールもあるし、雪にもかなり慣れてきてる、気を付ければ大丈夫だろうと。
だから私は細心の注意をもって足を置いていった、ゆっくり確実に一歩一歩。
もう少し、ここさえ抜ければという所で、左足を上げ、体重移動をしようとした瞬間、右足のアイゼンが突如外れ、体勢が一気に左に崩れた。持っていたポールでなんとかこらえようとしたが駄目だった。バランスを失った私は左斜面を転げ落ち、崖下へ落下、倒木に激突した。
「!」
あまりの激痛に息ができない、悲鳴さえ声にならない。
痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!痛い!
ただ、ただ耐え続けるしかなく、いつしか意識を失った。
どれくらいたったろうか、ようやく気がつき、目やにがこびりついた目をなんとか開いた。横たわっている自分の体の下の雪は、べったりとした血で大きく染まっている。この出血量はやばい。そして手足にも全く力が入らなくなっている。
パニックを起こしかけるのを必死で抑えこみ、助けを求めるため、声をあげようしたけれど、喉の奥から血が上ってきてるようで、むせまくり、まともな声がでない。
それでも、登山道のある尾根に向かって、必死でかすれ声を絞り出し、何度も何度も、助けを求めた。けれど、誰も答えてくれなかった。
そのかすれ声さえ、今はもう出せなくなっている。助けを求める手段が無くなった。
崖下を危険を冒して覗き込む登山者がいるとも思えないし、そもそも登山者自体が今日は少ない。山頂からここまで誰ひとり出会わなかった。
もうダメかな…
情けなくて、私は泣いた。
どうしてあんな汚いアイゼン使った!使ったんや!!
あの兄が道具の汚れも落とさず、ほっておく訳がないやないか!
右足のアイゼンが外れたのは、固定用のゴムバンドが劣化していたからだ。もう使うべき状態のものではなかった、兄は処分するつもりだったのだ。そしてそれを忘れて、東京へ行ってしまった。
捨てるものを、わざわざ奇麗にメンテする奇特な人などいる訳がない、兄だって当然しない。
なんで気づかない! こんなの簡単に想像がつく!
私は馬鹿だ! 大馬鹿だ!!
葛城家にどうして、こんな愚か者が生まれたのか!?
兄が最初の山行の前に教えてくれてたことを、今になって思い出す。
「野乃、背伸びはすんなよ。少しでも危険と思ったら必ず引き返せ」
おもわず乾いた笑いがでた。
ハハハ… 馬鹿すぎて気が狂いそう……
もうすぐ、私の人生が終わる。
たった15歳なのに…… これからだったのに…… 耐えられない。
だけど
だけど
もっと耐えられないのは、母と兄を残して逝くこと。
悪いのは私なのに、二人は自分自身を一生責め続けるだろう。
『どうして一人で行かせた、止めなかった……』
『どうしてアイゼンをきちんと処分しなかった……』
野乃が死んだのは、私達のせい。
さきほどから降り出していた雪がだんだん強くなってきている。
気象庁は外してばっかりやね。
寒い……
意識が保てなくなってきた。
ねえ神様……
死にたくないよ…… みんなと別れたくない……
お嬢様もどきでもなってみたかった……
恋だってしてみたかった……
これからもよろしくお願いしますって頼んだでしょ
なんで助けてくれへんの?
神様のバカ……
五百円返してよ……。
次は、野乃、アリスティアとして新しい家族と初対面。