セルマ(後編)
セルマの人称を「アタシ」から「私」へ変更しました。前話、修正済み。
私は、ドリスより少し早く起きることを日課にしている。それは彼女を、彼女の姿をじっくりと眺めたいから。
ゆっくりと上半身を起こす。シーツが寄せられ、同じ寝台の傍らで眠るドリスの上半身が露になる。彼女の裸身は何度見ても息を飲んでしまう。おかしい、おかし過ぎる。これほどの美が人として、この世に存在するなんて……。そして、その信じられないほどの美しさを持つ彼女が、私なんかのパートナーになってくれているなんて……、もう一年近く彼女とパーティを組み、一つの部屋で一緒に暮らしているが未だに現実感が全く湧いてこない。どうしても夢の世界にいるように感じてしまう。
「ああ、夢なら覚めないで、お願い。永遠にこのまま、このまま……」
私の口からこぼれた祈りに、ドリスが目を覚ました。気だるげに身を起こす彼女に朝の挨拶をする。
「おはよう、ドリス」
「おはよう、セルマ。いい朝ね」
彼女はとても柔らかな笑み。基本、不愛想な彼女がこのような笑みをくれるのは私にだけだ。幸福感に胸がはじけそうになる。昨晩も彼女と身を重ねた。これまで何度も何度も愛し合い、互いを貪り合った。この世に私ほど果報者がいるだろうか? 多分いない。いえ、絶対いない。
十二年前、神棄になった時、私の心は暗黒に落ちそうになった。眷属にしてくれなかった神々を憎んだ。貴族の慣習に従がい、私を家から放逐した家族を憎んだ。そして、何よりも普通に眷属の紋章をもらえ、貴族としてやっていけると考えていた自らの愚かさ、馬鹿さ加減が許せなかった。
しかし、怒りは力だ。力があれば人は生きられる。このまま人生を終わらせてなるものか!
私は頑張った。娼婦に身を落とし必死に金を貯めた。そして、その貯めたお金で魔術の教本を買い、難解な術式と格闘した(教本を最初に開いた時には愕然とした。はっきり言って異世界の言葉で書かれているとしか思えなかった)。初めての魔術発動は今でもありありと覚えている。第一段階魔術、灯火の魔術。その熱を持たない炎の美しかったこと。嬉しかったこと。
その日以来、私の人生は変わりだした。冒険者として、それなりの稼ぎを得られるようになっていった。(娼館やメイド仕事とは完全におさらば、イエィ!)。そして、ついには、その仕事(薬草採取の依頼)でドリス。私のドリスに巡り合えた。
『この世に、こんな美しい女性が、子供の頃以来、夢見てきた以上の女性がいるなんて……』
ほんと、人生なんてどう転ぶかわからない。何が起こるかわからないのだ。だから、どんなに不幸な状態にあったとしても、とりあえず、前へ進むべきだ。いや、進め。私達、人に出来ることはそれだけだ。
「ねえ、今回の仕事は何?」
部屋を借りている宿屋の食堂で朝食を食べながら、ドリスが毎度繰り返される質問を投げかけてきた。ギルドに出かけ、仕事をとってくるのは私の役目。はっきり言って、ドリスには、あまり表に立って欲しくない。彼女の究極の美貌はとにかく目立つ。外へ出る時、ドリスには眼帯、顔の左側の三分の一を覆う大きな黒の眼帯をつけてもらっている。
『この娘は可哀そうな娘なの。魔獣と戦った時、ざっくりやられちゃったの』
彼女には申し訳ないが、これくらいしないと私は、彼女を失うんじゃないか、盗られるんじゃないかという恐怖と一日中戦わなければならなくなる。
もし王宮や大貴族に目をつけられたら……、ぶるぶる。
「クーロン山での薬草採取。でも、報酬は凄いわよ。ルルメリ草一籠で金貨五枚!」
おお! とドリスは驚いてくれたが、すぐに彼女の右目は半眼となった。まあ、当たり前。ルルメリ草はクーロン山にしか生えない希少な薬草だが相場は一籠、金貨一枚。金貨五枚なんて普通あり得ない。私は高額報酬の理由を説明した。
「最近、クーロン山あたりではドラゴンが頻繁に目撃されているの。それで他の冒険者達がびびっちゃって……。でもドリスと私ならやれるよ。そう思わない?」
「まあ、やれるとは思うけど。セルマ、貴女、私の瞬間移動あてにしてるでしょ」
「へへ、ばれたか―」
「ばれたかー、じゃないわよ」
ポカリ! と頭を叩かれたが、ドリスは最終的にOKをくれた。ドリスは一見、そのあまりにも整った容姿のせいで冷たい感じに見えるが、本当はとっても愛情深い性格だ。この一年、私は、その愛情深さに甘えまくった、依存した。そして、彼女もそれを喜んでくれている。口先では文句を言うが喜色に輝く目が真実を告げて来る。
私達は共に依存しあっている。でも、これは当然のこと。だって私達は恋人同士。ああ、早く仕事を終えて部屋に戻り、ドリスと愛し合い、喜びの声を上げたい、上げさせて上げたい。
朝食を終えるとすぐに、私達は愛馬に跨った。
え? どうしてドリスの瞬間移動魔術で向かわないのか? ですって。瞬間移動は難しい上に、大量の魔力を必要とする魔術。おいそれと使って良いものではない。使うべき時は緊急の時。今回ならドラゴンから逃げる時だ。
「このあたりって王領よね、酷いものね」
「ほんとにね」
クーロン山へ向かう道中、私達の気分はあまり良いものではなかった。街道沿いに遍在する村々は荒れ果てていた。村民が殆どいない。何年も前からメルクレールの王宮は財政難に苦しんでいる。原因は王族の奢侈な生活と、現王の数々の失政。かなりの危機状態だった。そして、それに追い打ちをかけたのが、一昨年の王国最大の金鉱山での落盤事故。金鉱石の産出が半減した王宮の財政は大打撃を受けた。
そして、この緊急事態に対処するため、王宮は王領民への大増税という大愚策をとった。その当然の結果がこれ。重税に耐えかねた民は村や街を捨て、他領へ、他国へ逃げ出した。これは仕方がない。王領にいても暮らしてはいけない、座して死を待つだけだ。つい、口からこぼれてしまう。
「王宮には馬鹿しかいないのかしら?」
「いないんでしょ。メルクレール王朝を作らせたバンド神も、こんなバカ子孫が出るのだったら、止めときゃ良かったと嘆いているわよ、きっと今はヤケ酒状態よ」
「はは、尊き神々でも酒を飲む? 擬人化し過ぎじゃない?」
「かもね。失礼しました。許せ、バンド」
「ちょっとー、ドリス。神々を呼び捨てなんて、天罰が下るわよ」
「あらあら、またまた失礼」
貧窮している人々には悪いと思いつつも、ドリスと笑いあった。私の心の中の一番はドリス。突き詰めて言えば、ドリスのこと以外はどうでも良い。メルクレール王国がボロボロなんて、知ったことか。
「ドリス、貴女のことを愛しているわ」
手綱を持つドリスの背に抱き着きながら(私達の愛馬は一頭。二人乗りをするしかない)、もう何度目かわからない告白をする。
「私も、私もよ。セルマ」
私達は幸せだった。本当に、本当に幸せだった。
クーロン山でのルルメリ草の採取は順調に進んだ。十籠以上採取出来た。これは他の冒険者が入っていないせい、普段なら、こんな大量採取はあり得ない。もう、これくらいで良いかな、と思い始めた頃。クーロン山の上空に、突如、巨大な光球が現れた。
ドラゴン!!
と一瞬考えたが、ドラゴンが体から強烈な光を放つなど聞いたことがない。しかし、そんなことより、早く逃げなければと思い、ドリスに瞬間移動を頼もうとしたが遅かった。その光球はとんでもない速度で私とドリスの前に落下した。そして、そこに現れたのは、パールホワイトの巻き毛を持つ、十二歳くらいのとんでもない美少女。その美しさはドリスに匹敵する。信じられない……。
でも、そんなことより彼女が発する波動がヤバい! ドリスより後方にいる私は、彼女から、かなりの距離があるのに全身が震え冷汗が止まらない。耐えきれず地面にへたり込む。
この波動は何だ? 魔力粒子なんかじゃない、もっと凄い、もっと高次の…………
……、神力!
彼女は神々、尊き神々の一柱なのか!
どうして神々が、私達なんか前に、どうして!
「神圧を消しなさい、私のセルマを殺す気なの」
ドリスの声が声を発した。信じられない、この強大な波動の中でしゃべることが出来るなんて、それに、神々に向かって命令口調なんて……、何? 何が起こっているの。
「私のセルマ? ああ、そこの下界生物のこと。これは失礼いたしました」
その言葉とともに、空間に充満しいた強烈な波動が一瞬で無くなった。綺麗さっぱり消え去った。私は恐る恐る顔を上げ、初めて、彼女、尊き神々の一柱と目を合せた。しかし、何も起こらない。彼女の目にあったのは無関心、それだけだ。
ははは。乾いた笑いが心の中で響いた。当たり前だ、神々にとって私など、路傍の小石以下の存在。感情の動きなど起こる訳がない。彼女はすぐにドリスに向き直った。
「ドランケン姉様、いい加減にして下さいませ」
えっ? ドランケンって。ドリスに向かってドランケン姉様って……。
私はパニックを起こしそうになる心を必死で押さえつけ、この一年、一緒に仕事をし、暮らし、愛を育んだパートナーに向けて声を絞り出した。
「ドリス。貴女は、貴女は……」
私は最後まで言えず、ドリスも悲しそうな顔をするばかり。そんな私達を無視して、神々の一柱たる彼女は話を続けた。
「姉様は何時まで、ドラゴンの件を恨んでおられるのです。私達は何度も謝りました、もうそれで許して下さいませ。そして、天界に戻って下さい。果ての大陸の改変等、未だやるべき仕事は山積みです。大体、ドランケン姉様は私達の中で最大の力をお持ちなのです。下界で遊んでいて良い立場ではないのですよ、ほんとにもう!」
「わかったわよ、シーファ。戻るわよ。ぎゃぎゃー言わないで」
「私だって、ぎゃぎゃー言いたくはありません。言わせてるのはドランケン姉様です」
「はい、はい。私が悪うございました。私が全て悪いんですよ」
「何ですか、そのおちょくったような返事は…………。まあ良いです。とにかく早く戻って下さいね、約束ですよ」
「わかったわよ、約束する」
「じゃ、私は天界へ戻ります。そうそう、その不細工な容姿を普通に戻されては如何ですか。自尊心の高いドランケン姉様がよくもそこまで落とせたものです」
シーファ神は、そう言って帰っていった。残された私とドリス……、いえドランケン神は沈黙の闇に沈んだ。けれど、何時までもそうしている訳にはいかない。私は額を地面にこすり付けた。
「ドランケン神様、知らぬこととはいえ、これまでの数々の無礼、お許しを、お許しを……」
「セルマ。そんなことはしないで。私はそのような貴女を見たくありません」
私だって、愛するドリスを前にしてこんなことはしたくなかった。けれど、ドリスが尊き神々の一柱たるドランケン神だとわかった今、卑しき人の身である私は、こうするしか……。きつく閉じた目から涙がこぼれる。どんなにきつく閉じても止まらない。
「セルマ、右手首の裏を見てみて」
ドランケン神の言葉に従った。
「これは……、眷属の紋章。ドランケン神様の紋章」
「次は左手を見て」
「こっちにも!」
私は目を疑った。さきほどまで無紋だった私の両の手首に、ドランケン神の眷属の紋章が刻まれている。一人の忠の民に、二つの紋章など聞いたことがない。
「セルマ。これで貴女は大陸中で最強となりました。その力をもってこの堕落しきったメルクレール王朝を倒しなさい。そして、新しい王朝、エトレーゼ王朝を建てるのです。これは神命です。その左手の紋章は神契の印なのです」
私は彼女の言葉にパニックになった。
「ドランケン神様! 私は一介の冒険者に過ぎません。このような素晴らしき印を頂いたとて、新たなる王朝を建てることなど出来よう筈がありません。どうか、どうかご容赦を!」
「セルマ、貴女は自分を低く見過ぎています。私は貴女を女王にふさわしいと見込んでいるのです。それとも、私の目が節穴とでも言うのですか?」
「そうです、節穴です!」
思わず思ったままを言ってしまった。でも全く悔やみはしなかった。私の願いは新しい王朝を建てることなんかじゃない。
ドランケン神から思ってもみない言葉が返って来た。
「神棄……、神々がどうして神棄を作り続けているか、わかりますか?」
「いえ、私のような者に、神々のご深慮などわかろう筈もございません」
私の心は悲鳴を上げていた。
「私達が神棄を作るのは、人が、私達が与えるものに頼るだけではなく、独力で、自分自身の力でより良きもの、より素晴らしきものを築き上げてもらいたいからです。でも、その私達の願いは滅多に叶えられることはありません。殆どと言っていい神棄が途中で努力を放棄し堕ちてゆきます。でも、セルマ、貴女は違いました。貴女が苦労して組み上げていった効率の良い術式の数々、とても見事なものでした。私は常々感心していたのですよ」
そんなことどうでも良い、どうでも良いの。
「勿体なきお言葉、まことに勿体なきお言葉です。でも、でも……」
「自信を持ちなさい、セルマ。貴女は女王としてやっていける素質を十分持っています。大丈夫ですよ」
もう耐えられなかった。
「どうしてわかってくれないの! 私の願いは、世界の片隅で良い、貴女と二人、愛し合い、睦み合い、静かに暮らして行くことなの。私はそういう幸せを求める小さな女なの! わかってよ、ドリス!」
ドランケン神は私の不敬極まりない暴言に怒りを示さなかった。なんて心の大きな神様、なんて優しい神様……。
「それは済まないことをしました。でも、貴女にパートナーを組まないかと誘われた時、私は言いましたよね。『OK。ただし、期間限定よ』って。覚えていませんか」
「覚えていません、覚えてません」
嘘だった。
「そうですか、忘れてしまったのなら仕方ありませんね。でも、貴女の気持ちはとても嬉しい。本当に嬉しいですよ。だから、貴女には祝福を贈りましょう、私があげられる最大の祝福を」
そう言って、私を優しく抱きしめてくれた。今までで、彼女がくれた一番優しい抱擁だった。
「さあ、これでもう貴女は、お母さんですよ」
「え? お母さんって」
「今、貴女は身籠りました。私との子です。きっと可愛らしい子が生まれるでしょう。だから、セルマ。頑張って。私達の子が、そして、その子孫が幸せに暮らせる国を作って」
これは私、ドリスからのお願いよ。
ね、セルマ。
私の愛しいセルマ……。
この後のことはよく覚えていない。気が付くと愛馬と一緒に宿屋に帰り着いていた。
十か月後、私は唯一の子、ドリアンヌを出産。
その五年後。メルクレール王朝を倒し、エトレーゼ王国を建国。
そして、その二年後、私は死んだ。
薬を飲まされての、断頭台だった。
セルマとドランケンの娘、ドリアンヌは、ドランケンによって救出されました。後に、エトレーゼ第二代女王に就任。