閑話 ・ ソフィアの心、セシルの心
アルヴィンが、むずがり泣き始めました。
「ああ、やはり止まってしまいましたか……」
私は大きな溜息をつき、愛しい我が子を乳房から離しました。
皆さん、こんにちは。私はセシル、セシル・フォン・アーヴィング。オルバリス伯爵が三女、アリスティアお嬢様の侍女です。
一年前、私はアリスお嬢様のご紹介でマドリガル伯爵、ライオネル・フォン・アーヴィング様の下へ第二夫人として嫁ぎました。そして先日、めでたく玉のように可愛い男の子、アルヴィンを出産しました。
待望の後継者の誕生に、マドリガル伯爵家は大喜び……、だったのですが、今現在、私は少々困っています。
「よしよし、泣かないで、アルヴィン。お腹空いてるのにゴメンねー。今、マリエラを呼ぶから、呼ぶからねー」
困っているのは授乳問題、私の乳の出の問題です。
はっきり言いまして私の胸はかなり大きい方です。ですが、全くの見かけ倒し、乳がちゃんと出てくれません。アルヴィンが吸ってくれても、すぐに止まってしまうのです。今は、私より一月早く出産したメイドのマリエラに貰い乳をしておりますが、彼女もそう多く出るほうではありません。早急に乳母を探すべきでしょう。
せめて授乳くらいはしてあげたかったのですが残念です。本当に残念です。
私の旦那様、ライオネル様には私の他にもう一人の夫人、第一夫人のソフィア様がおられます。私は、彼女にアルヴィンを託すことを決めています。彼が生まれる前から、旦那様と結婚する前からそう決めていたのです。
彼女は生来病弱で子供を産むことは出来ません。ですが、なんと言っても第一夫人です。マドリガル伯爵家を継ぐであろう第一子は、彼女が実質の母親、育ての親となるべきです。(それに、彼女は常識外れなところも少々ありますが、とても好ましい性格を持った美しい女性です。このような佳人に育ててもらえるならば、アルヴィンも不満を持つことはないでしょう)
そのソフィア様が私とアルヴィンの下へ、杖をつきながらやって来られました。
病弱な彼女は数か月前までは、寝台の上の住人でしたが、聖女であられるルーシャお嬢様が何度も何度も治療に来てくださったことにより、なんとか杖を使えば歩けるまでになりました。ルーシャお嬢様には幾ら感謝してもしきれるものではありません。ただ、その聖女様自身は……。
「スーパー聖女たる私が幾度も治療してこの程度……なんたる屈辱、なんたる恥辱。ソフィア夫人、最早貴女は私の宿敵。いつかリベンジ、いつか病を完全駆逐して『ざまあ!』してあげます!」
ルーシャお嬢様。ソフィア様の体を完璧に直してあげたいという気持ちは大変嬉しいです、ですが、もう少しお言葉遣いを考えて下さいませ。これではまるでソフィア様が悪人のようではないですか。
ソフィア様が声をかけて下さいました。
「セシル様、やはり乳の出は良くないのですか」
「はい、少しは出るのですが、この程度では全然ですね。仕方ありません、またマリエラに頼むことにいたしましょう」
「そうですか……、残念ですね……」
がっくりしている私の前で、ソフィア様は何だかものを言いたげにモジモジされています。
「ソフィア様、如何なされました?」
「あの申し上げにくいのですが、私に試させてもらえませんか」
「試すって、何をです?」
「乳を、アルヴィンに私の乳を与えてみたいのです」
ソフィア様の予想外の申し出にびっくりしてしまいました。彼女は出産しておりません。当たり前ですが出産していない女性の胸からは乳など出はしないのです。当然、ソフィア様にはそう言いました。
「それはそうなんですが、ここ二三日、乳が張って仕方ないのです。なんだか出そうな気がして……、ものは試しです、お願いします」
「はあ、そうですか。わかりました」
無意味なことだとは思いつつ、私はアルヴィンをソフィア様に委ねました。別段、実害がある訳ではなし。ソフィア様の気の済むようにしていただきましょう。そう思っていたのですが……。
アルヴィンを胸に抱いたソフィア様の頬を涙が伝いました。
「出てる、乳が出てる。私の乳をアルヴィンが飲んでくれている……。嬉しい……」
驚いて、覗き込んでみたのですが、確かにアルヴィンがごくごくと乳を吸っています。彼の口と頬の動きから見て空吸いではありません。私は、目の前で起きている光景に呆然とするしかありませんでした。
数日後、これならアルヴィンをソフィア様(とメイド達)に任せても大丈夫だと判断し、産休を切り上げ、アリスティアお嬢様の下へ侍女として戻りました。
「奇跡です。本当に奇跡ってあるのですね」
私は午後のお茶の雑談に、先日のことをアリスお嬢様に話しました。
「セシル、ソフィア様が母乳を出されたことを、貴女が奇跡と思ってしまうのは仕方はありませんが、それはそれほど珍しいことではないですよ。時に心は体組織を盛大に操るのです」
「心が体組織を操る? そういう魔術があるのですか?」
「うーん、どう言ったら良いでしょう」
アリスお嬢様がティーカップを片手に苦笑されています。どうやら、魔術は関係なさそうです。お嬢様はカップを皿に戻されました。
「貴女はソフィア様に第一子が出来たら、ソフィア様にお渡しする、育ててもらうと彼女に言っていたそうですね。ソフィア様はそのことを大変喜んでいたのではありませんか?」
「はい、彼女はとても喜んでくれました。涙ながらに何度も何度もお礼を言ってくれました」
「そうでしょう、そうでしょう。病弱なソフィア様は母親になれるとは考えていなかった筈、貴女の申し出はどんなに嬉しかったことでしょう。彼女は日々思った筈です、母親になれる、なれるんだ、と。そして、なれるなら、ちゃんとした母親、母親としての務めをちゃんと果たせる母親になりたいと……、きっとそう思い続けて来たことでしょう」
お嬢様が言っていることは当たっていると思います。アルヴィンが生まれる前、ソフィア様が私の大きくなったお腹を優しく撫でながら言っておられました。
『男の子かな、女の子かな。元気に生まれてくれるならどちらでも。私は待ってるからね、あなたに会える日を楽しみに待ってるから』
その時の彼女の顔は、母親の顔でした。私なんかよりずっと母親の顔だったのです。
「セシル。母親の務めという言葉から、一番最初に思い浮かぶのは何でしょう?」
アリスお嬢様が聞いて来ました、、両の手を胸に当てながら。何ですか、お嬢様。答えを誘導しているではありませんか。私は素直に答えました。
「授乳でしょうね、授乳」
これは同じ親でも、父親には出来ないこと、絶対出来ないこと。
「私もそう思います。ソフィア様は母親になりたい、母親の務めを果たしたいと強く思った。つまり、生まれてくる赤子に、母親として授乳してあげたい、自らの乳を与えてあげたいと強く願ったのです。ただ、彼女がそのことを意識していたかどうかは疑問です。表層意識は常識に囚われます。多分、無意識下での願いでしょう」
アリスお嬢様の説明の辻褄はあっています。でも、それが正解かどうかは私にはわかりませんでした。ですが、そうであったら良いなと思いました。真摯な願いが体の組織を変える。乳腺を活性化させ、赤子のために乳を出す……。なんて素敵なことでしょう。
「アリスお嬢様、お嬢様はこれは奇跡ではないと仰られましたが、やはり奇跡ですよ。ソフィア様のお心が起こした素敵な奇跡です」
「はは、そうかもしれませんね。でも称賛されるべきはソフィア様だけではありません。セシル、貴女もです」
「私も?」
「そうです。貴女の決心、心遣いが、ソフィア様の心を動かしソフィア様の体を変えたのですよ。全ての大本は貴女です。貴女はほんとに優しい。私は貴女をとても誇りに思いますよ、セシル」
そう言って、アリスお嬢様はニッコリと微笑んで下さいました。ですが、お嬢様が下さった過分な誉め言葉にドギマギしてしまった私は、お礼の言葉もそこそこに、要らぬ照れ隠しを言ってしまいました。
「ありがとうございます、お嬢様。で、でもですね。今回の件では私は少々というか、かなりガッカリしたのです」
「何をガッカリしたのです?」
「胸にです、自分の胸。こんな大切な時にろくに乳を出せないなんて、見掛け倒しも良いところです。情けないですよ」
盛大にしょんぼりして見せた私に、お嬢様は何故か笑顔でした。
「そのことなら気にしなくても良いです。多分、次の子の時は出ます。ちゃんと出ると思いますよ。予言してあげます」
アリスティアお嬢様の予言は当たりました。
一年後、私は二番目の子、メリエーヌを産んだのですが、お嬢様の予言通り、私の乳はちゃんと出ました。どうしてお嬢様にはわかったのでしょう? あまりに不思議だったので、お嬢様に聞いてみました。
「あら、わかりませんか。原因は心、ソフィア様と同じです。貴女の心が乳の出を悪くさせていたのです」
「私の心がって……。お嬢様、私は乳の出を悪くしたいと願ったことなど一度もありません」
真剣に否定しましたが、あっさりと切り返されました。
「それは表層意識ではでしょ。無意識は違うのですよ、貴女の心は誠実過ぎるのです」
「無意識は違う? それに誠実過ぎるって……」
「つまりですね。セシルはソフィア様に、第一子は任せる、ソフィア様に母親になってもらうと約束していたでしょう。その約束を、セシルの心は、貴女の無意識は、誠実に守ったのです」
お嬢様は続けました。
「自分が赤子に乳をあげては約束を破ったことになる。母親になれることを喜んだソフィア様を裏切ることになる。だから貴女は、自ら乳の出を悪くした」
「そんな……」
愕然となりました。だって……、
「もし、私の心がそのようなことを無意識にとはいえ望んだとしたら、私の心の下した判断は間違っています。最初はソフィア様が授乳できるようになるなんてことは、わかっていなかったのですよ」
「ええ、間違っています。だから、誠実過ぎると言ったのです。でもね、私は、そんな貴女、頑なに約束を守ろうとする、守ろうとしてしまう貴女が大好きですよ。コレットも、キャロライナも、サンドラも、エルシーだって、ルーシャお姉様だって、皆、貴女が大好きです」
お嬢様の言葉に、眼が熱くなってしまいました。私は実家、ツバクの家にいた頃は末っ子のマーヤと同様、どうでも良い要らない子。幸せを感じることなど殆どありませんでした。そんな自分だったのに、今では……。
涙が出るのを止められません。
「泣かないで、セシル。貴女はもうお母さん。人の親なのです。泣いてなどいられる立場ではありませんよ」
「そうですね。もっとしっかりしなくては。でも、二人の子供を産んだ今でさえ、五つも年下のお嬢様を頼りたくなってしまいます。お嬢様が年上のように思えてしまうのです。なんででしょう、なんででしょうね」
そんな私の言葉にアリスティアお嬢様は苦笑い。何言ってるのよー、という感じで小突いて来られました。お嬢様の笑顔が眩しいです、嬉しいです、愛しいです。
アリスお嬢様。いつも色々とありがとうございます。
今は私は幸せです。本当に幸せです。
貴族家においては、子供の世話を乳母やメイドに丸投げするところも多々ありますが、マドリガル伯爵家はそうではありません。