閑話 ・ 初恋
その日、僕はアララトゥール山に登っていました。
アララトゥールは、僕が今住んでいる王都ノルバートから一番近くにある山で、標高は、極端に高くもなく、低くもない日帰りの登山には、ちょうど良い山です。とても気にいて、時々こうして一人、えっちらほっちら汗を流しに来ております。
申し遅れました。僕の名前はラインハルト・フォン・クナイスル。
カロイツ伯爵家の三男です。現在、王都の貴族学院に通っています。
僕が登山を始めたのは、十歳の頃。元々体が弱かったので、体力作りの一環として始めました。所謂、健康登山。高いところが好きとか、汗を流すのが好きとかではありませんでした。でも、登山を初めてみると、これはこれで、とても楽しいものです。
街中では、決して味わえない剥き出しの自然と向き合えます。まあ、剥き出しと言いましても、登山道が整備されている時点で、本当の自然ではないのですが、細かいことは言わないでおきましょう。
自然というものは、人に合わせて作られておりません。それ故、その中を突き進む時、人は体のありとあらゆる筋肉を使わなければなりません。それが、ほんと気持ち良いのです。
そして、危険に対する緊張感があるのも魅力です。
登山中は、危険がいっぱいです。崖から滑落などすれば、怪我どころですみませんし、そんな大ごとでなくても、捻挫程度で命の危険が襲ってくることがあります。例えば人が滅多に来ない山で動けなくなった場合、かなり危険です。瞬間移動魔術等を使えばと思うでしょうが、体に痛みが走っている時に、あのような高等魔術なかなか使えるモノではありません。怪我した時とかにやってみて下さい。なかなか出来ませんよ。僕は無理でした。
それ故、注意して登っておりますが、それでも、ヒヤッとすることは結構あります。勿論、こういうことは無い方が良いのですが、生きていることを実感出来き、高揚感を抱ける瞬間でもあるのです。
命など、薄氷を踏んで歩いているようなもの。小さな頃、本当に体の弱かった僕は、それをよく知っています。
頂上が近づいて来ました。アララトゥール山は頂上に出ると、一気に視界が開けます。僕はそれが大好きです。さあ、展望を楽しもう!
と、思ったのですが、頂上には先客がいました。まだ、後姿しか見えておりませんが、その先客は、驚いたことに少女でした。山に登るのは、男性が多く、女性は五人に一人くらい。それも僕よりはるかに年上の人が殆どです。少女など見たのは数回。そして単独行の少女など一度も見たことがありませんでした。
その少女は、山の悪路にも耐えれるであろう、しっかりとした靴を履き、登山に向いた、ウエストベルトのある背嚢を背負っています。服装は、動きやすそうな長袖、長ズボン、頭には日差し除けのハット。
うーん、なかなかちゃんとしている。かなり山慣れしているようです。それに、杖まで持っています、それも二本。二本も持って登っている人など、初めて見ました。(後で彼女に聞いたのですが、こういう杖の使い方を、ダブルストックと言うそうです。一本で使うより、遥かに安定すると言っていました)
僕はその少女に声をかけました。山の礼儀です。
「こんにちは、お邪魔しますね」
背嚢にかからない様に、アップにまとめられた彼女の白銀の髪がとても美しかったので、奇麗な子、可愛い子だったら良いな、などと少々期待していたのですが……。
「あら、こんにちは」
彼女が振り返り、笑顔で挨拶を返してくれたのですが、僕は、彼女のあまりの美しさに固まってしまいました。
艶やかな白銀の髪に、菫色の大きな瞳が印象的な小さめの顔はすっきりと整い、まるで名工が作った人形のよう。でも、人形のような冷たさは全くありません、彼女の笑顔からは、可憐さ、愛らしさが満ち溢れています。
僕には、彼女が僕達と同じ人とは思えませんでした。化身という言葉があります。そう、彼女ならば女神の化身といってさえ良いでしょう。それくらい、彼女の美しさは、非現実的でした。
でも、いくら相手が美しいからと言って、黙り込むのは失礼です。僕はなんとか声を出しました。
「絶好の登山日和ですね」
「ええ、ほんとです。眺望が楽しめない登山は寂しいですからね。良かったです」
彼女の声は、鈴のような、気持ちの良いソプラノ。いつまでも聞いていたくなるような声でした。
「あの失礼かもしれませんが、貴女はアリスティア嬢ではございませんか? もしくはエルシミリア嬢?」
私は学年が違うので、会ったことも見かけたことも無いのですが、ゲインズブラントの双珠として知られているお二人は、白銀の髪で菫色の瞳をもった素晴らしい美少女だと聞いていました。年齢的にも、目の前の少女と合致します。
「アリスティアです。お会いしたことがございましたかしら?」
「いえ、お会いしたことはございません。学院で、お噂をかねがね聞いておりましたので、もしやと思ったのです」
「まあ、学院に通われているのですね。もしかして先輩でいらっしゃいますか? もし、そうなら失礼を致しました。私、オルバリス卿 ロバートが三女、アリスティア・フォン・ゲインズブラントです。以後お見知りおき下さいませ」
そう言って、アリスティア嬢が深々と頭を下げられた。
「丁寧なご挨拶、痛み入ります。僕は、カロイツ卿が三男、ラインハルト・フォン・クナイスルです。学院は二年目です。以後、お見知りおきを」
僕も頭を下げました。アリスティア嬢は未だ頭を下げたままです。陛下と同じ超絶な魔力量を誇り、学生ながら、国政にも関与しておられるという有名な方なのに、なんと腰の低い方なのでしょう。
二人で頭を下げ続けていても仕方がないので、私が上げると、ようやく彼女も上げてくれました。
「では、ラインハルト先輩とお呼びして、よろしいですか?」
「先輩! も、勿論です、喜んで」
アリスティア嬢に先輩呼びしてもらえるなんて、望外の喜びです。少々、声が上ずってしまったのですが、これは仕方ないでしょう。彼女ほどの美少女を前にして上がらない男などいるとは思えません。
いや、一人いました。先日、ひょんなことで知り合った、エトレーゼからの留学生マシューです。彼は男なのに、殆どの令嬢より可愛いという、これまた並みではないやつです。でも、その可愛い外見とは裏腹に、とても肝が据わっています。マシューならアリスティア嬢を前にしても、平然としているでしょう。
アリスティア嬢が再度笑顔になりました。
「良かった。私、同年代の男子にあまり、友達や知り合いがいないのです。嬉しいです」
嬉しい! 僕なんかと知り合えたことが嬉しいなんて! 世界がバラ色に見えてきました。
「皆、声をかけてくれないというか、避けられてるようにさえ感じます。私に寄って来てくれるのは女子ばかりです。妹のエルシミリアには男女別無く、寄って来ているのに……。少し悲しいです」
うーん、それは彼女が奇麗過ぎるせいでしょう。(では、何故エルシミリア嬢には寄って来るのか? 本当かどうかは知りませんが、エルシミリア嬢の美しさは、アリスティア嬢に比べ一段落ちると聞きます。そのぶん親しみやすいのかもしれません)
「男の肝など、存外小さいものです。貴女のような可憐で、可愛い人を前にすると、緊張のあまり動けなくなるのですよ。許してやって下さい」
「まぁ、ラインハルト先輩ったら。結構、口がお上手ですね」
彼女は顔を赤らめています。これはどうみても演技ではありません、本当に照れています。僕が、今のような普段なら絶対口にできないような恥ずかしい台詞を言えたのは、彼女ほど美しい人ならば、容姿を褒められることなど、慣れ切っているだろうと思ったからです。だから言えたのです。それなのに……。
アリスティア嬢は顔の火照りを取ろうと、杖を地面に置き、両手で顔を押さえています。
なんて、可愛い人なのでしょう。
僕は思いました。一年の男子は、アホなのか、バカなのか。僕が言えるような程度の台詞で照れまくる。こんな素朴で可愛い子を放っておくなんて、ありえない。ほんとありえないことです。
(これは、後でマシューから聞いたのですが、一年男子だけの責任ではなさそうです。アリスティア嬢には、ファンクラブなる女子の取り巻きが、きっちりとガードを固めており、男子が、少しでも彼女に近づこうとすると、ありとあらゆる牽制が飛んでくるそうです。これではさすがに……)
この後、アリスティア嬢とは、山についての話を沢山しました。彼女は、かなり山に登っているようですが、登り始めた切っ掛けは、お兄さんとの登山だったそうです。
「リーアムお兄様には、また山へ連れて行って下さいと頼んでいるのですが、なかなか連れて行ってくれません。彼女との付き合いばかり優先するんです。気持ちはわからなくもないですが、可愛い妹にも少しは時間を割いてくれたって良いと思うのです。酷いと思いません? 酷いですよね? そう思いません? ラインハルト先輩」
「それは兄上がいけませんね。妹の頼みを無下にするなどあってはならぬことです」
僕にもし、彼女のような可愛く素晴らしい妹がいたら、自分の時間全部だって差し出してしまうでしょう。
「でしょ。先輩はわかってますね、よくわかってらっしゃいます」
アリスティア嬢はニコニコ顔です。
彼女との会話は、本当に楽しいものでした。彼女は令嬢にありがちな、相手に楽しい話を要求するだけ、や、自分の話したいことを一方的に話すだけ、とかではありません。ちゃんと相手を楽しませようとしてくれています。僕は涙が出そうになりました。こんなに美しくて、こんなに気遣いが出来る娘が、この世にいるなんて、この世も捨てたもんじゃない。
山頂から、アリスティア嬢と一緒に、はるか遠く地平線にまで続く展望を眺めながら僕はそう思いました。
今、彼女が隣にいる。それだけで人生が満たされた気がします。病弱さを克服して良かった。山に登り続けて来て良かった。
楽しい時間は、あっという間に過ぎます。そろそろ僕は帰らねばなりません。僕に何の用事があるのか知りませんが、父上が王都へやって来るのです。待ち合わせの時間を考えると、かなりギリギリです。
アリスティア嬢はどうするのかと聞いてみますと、彼女は次の峰まで縦走するとのことでした。残念、一緒に帰れれば良かったのに……、そう思った時。アリスティア嬢が、
「先輩、靴の紐が切れかけています」
全然気づいていませんでした。いつもはちゃんと点検して出て来るのですが、今日は少し寝坊したので、バタバタでした。それに、替えの紐も持って来ていませんでした。なんて、迂闊な……。
僕の困り顔を見て気づいたのでしょう。
「私、予備をもっていますので、使って下さい」
アリスティア嬢はそう言って、自分の背嚢から紐を取り出しました。僕は礼を言って、その紐を受け取ろうとしたのですが、
「私が、替えてさしあげますわ」
そう言って、彼女は僕の足元に屈みこんだのです。彼女は位的には伯爵家の令嬢に過ぎませんが、国王陛下からの扱いは、側近以上、もはや王族とも言って良い人です。そのような人に、靴の紐を替えさせるなど、あってはならぬことです。僕は遠慮しようとしたのですが、アリスティア嬢は既に、靴の紐を解き始めており、
「お気になさらずに」
と言うばかりです。
彼女は古い紐を外すと、新しい紐を通し、とても丁寧に締め上げていきます。
「先輩、気を付けて下さいましね。命なんて、一瞬のミスで終わりなんです。本当に、あっけなく終わるんです」
アリスティア嬢の言葉は少しショックでした。彼女の言ったことは、僕が常々思っていることです。
『命など、薄氷を踏んで歩いているようなもの』
でも、僕の思いは、彼女の思いより、浅い、浅薄であると思いました。僕は、自らを戒めながらも、それを楽しんでいるところがあります。でも、アリスティア嬢には、そんなところはなさそうです。唯唯、命の儚さに対する恐怖、それだけがあるように思えました。
彼女が、どのような人生を送って来たかなど、僕にはわかりませんが、死の手前までいった経験があるのではないでしょうか。そうでなければ、先ほどの彼女の言葉が、これほど僕の心にドスンと来ることはなかったでしょう。彼女が言葉を発した時、僕はまるで死者の言葉を聞いたように感じました。
未練いっぱい、後悔いっぱいで、死んだ死者の言葉を。
靴の紐を替えてもらったお礼を述べた後、僕は勇気を出しました。
彼女とこれっきりになるのが嫌だったのです。彼女が好きになりました。容姿が素晴らしいのは言わずもがななのですが、僕が本当に好きになったのは、彼女の人柄です。女の子を、女性を、こんなに可愛いと思ったことは今までありませんでした。
「アリスティア嬢、いつかで良いので、どこかの山に一緒に上りませんか? お誘いしてもよろしいですか?」
アリスティア嬢は、僕のこのような言葉を全く予想していなかったようで、一瞬、きょとんとされていましたが、表情が崩れ、笑顔になってくれました。
「ええ、是非。いつでも誘って下さいませ、ラインハルト先輩」
彼女の頬が少し赤らんでいたように見えたのは、僕の心が見せた錯覚でしょうか。
錯覚かどうかはともかく、帰り道は最高に幸せな時間でした。
しかし、幸せな時間は、すぐに終わりました。父上が王都に来た理由は、僕の縁談でした。相手は、なんと、あの大侯爵家、ライナーノーツ家の令嬢だそうです。
まだ、縁談ですので断ることは不可能ではありません。昔なら、なんとか断ることも出来たでしょう。
ですが、昔と違い、王家とライナーノーツ家が協調関係になったため、今のライナーノーツ家は第二の王家と言っても過言ではありません。
アリスティア嬢も、ライナーノーツ家当主の孫娘、その一族です。
そのような相手との縁談、断れる訳がありません。もし、断ったりしたら、クナイスル家のような弱小伯爵家に未来は無いでしょう、いえ、無いです。僕はこう言うしかありませんでした。
「三男の僕などにはもったいない話、ありがたいことです。このまま話を進めて下さいませ。父上」
アララトゥールの山頂で、アリスティア嬢と別れる時、これで彼女と縁が無くなってしまうことがとても嫌でした。だから勇気を出したのです。
彼女との縁は残りました。いえ、出来ました。
彼女と親戚になるという縁です。
僕が望んでいたのは、そのような縁ではありませんでした。
そのような縁では……。
よく考えると、アリスティア嬢に対する僕の気持ちは、初恋でした。
十四歳での初恋、遅いのやら、早いのやら……。
誰が言ったのか忘れましたが、初恋は実らないものだそうです。
そうですか、実らないのですか。
確かに、僕の初恋も、泡のようにあっさり消え去りました。
けれど、言いたい。いや、言わせろ。
うるさいよ、わかったようなこと言ってんじゃねー!
どちくしょう!
貴族の結婚は、家同士がするもの。アリスティアとラインハルトの仲がもっと進展する可能性があったかどうかは、作者もわからないのですが、この時点で摘み取られては、どうしようもないですね。
それに、ラインハルトの縁談の相手がアリスティアの従姉……。ラインハルト、不運過ぎます。