立ち位置
私は、実家の屋敷、ゲインズブラント邸の廊下を、あても無く彷徨っていた。
敗北感に塗れて……。
なんだかんだあったけれど、コーデは私が望んだ無詠唱魔術の方法を教えてくれた。
コーデの弁によると、無詠唱の肝はイメージ力。そのイメージ力に関してコーデと話す中で、エルシー並みの「画伯」だと思っていたコーデが、本物の画伯であることが発覚した。
はっきり言って、めっちゃくちゃ上手。元マンガ家だった、お母さんより上手い。
それなりに絵が描けると天狗になっていた私の鼻は、見事にへし折られた。上には上がいる。そんなことは十分わかっている。しかし、しかしだ。
今回、私が完膚無きまでに負けたのは、コーデリア。平行世界の自分なのだ。これは、全くの他人に負けるより遥かに悔しい。どうしてこんなに上手なの? とコーデに聞いてみた。
『絵は好きでしたからね。マンガ絵、水彩画、油絵。とにかく暇があったら描きまくってましたね。美術部にも入ってました。だから、これくらい描けるのは当然なのですよ』
益々悲しくなった。前世の私は、マンガ家を目指すも、母譲りの筆の遅さに気づくと、あっさり、その夢を放棄した。たまに落書き程度はしていたけれど、月に一度くらいなものだった。
これでは、コーデに負けて当然だ。私、アリスティアの前世の野乃は、コーデの前世の野乃に比べ、圧倒的に持続力がない、根性がない。
なんでも中途半端。習ってた剣道も、一年くらいで止めたっけ。私がまともに頑張りきったのって、聖藤女学院の受験勉強くらい。
「情けない……、恥ずかしい……」
私は、クラゲか? 芯になるようなものが何も無い。あっちへフラフラ、こっちへフラフラ。
「アリスティアお嬢様。大丈夫ですか? 足元がふらつかれています」
気がつくと目の前に、メイドのナンシーがいた。相変わらず彼女は、きりっとしている。いかにも出来る女という感じ。実際、彼女は有能。とっても有能。
「大丈夫よ、ナンシー。別に、体のどこも悪くはないから」
心がね、ちょっとね。
「そうですか。でも、なんだか、おやつれになったような……」
心配そうに、こちらを見つめるナンシーだったが、パチン! と手を叩き目を輝かせた。
「ああ、わかりました! 御髪ですね。御髪が、お乱れになっているせいです」
言われてみれば、コーデとの対戦で地面に転がされたのに、服の汚れをはたいただけで、髪をきちんと整えていなかった。
「お嬢様、そこのラウンジでお待ち下さい。ブラシを取ってまいります!」
そう言って、ナンシーは廊下を駆けて行った。ナンシーは新人メイドが手本にする存在。珍しいこともあるものだ。
スー、スー、ススー。
久しぶりにナンシーに髪を整えてもらっている。なんて気持ちが良いのだろう。彼女のブラシ捌きは、格別。無理な力など全く加わらない。私の長い髪の中を魚が泳ぐが如きスムーズさで、ブラシが流れて行く。セシルもコレットも私の侍女になってから、かなり上達したけれど、やはり、ナンシーの方が格段に上手だ。何が違うのだろう?
「ナンシー、貴女のブラッシングは本当に素晴らしいわ。どうして、そんなに上手なの?」
「上手だとは思いませんが、もし少しでも上手だとすれば、それは、お嬢様のおかげです」
思わぬ答えが返ってきた。私、何かしたっけ?
「私は、自分の髪が嫌いです。硬くて、くせ毛で、ブラシなど、まともに通ってくれません。ひっかかりまくりです。ですから、柔らかくて真っ直ぐな髪に憧れていたのです」
確かに、ナンシーの髪はくせ毛。くせ毛はなー。前世の万理恵お母さんがそうだった。鏡の前で、散々悪態ついていた。
『もう、この髪、嫌! 坊主にするわ! 坊主に!』
まあ、当然、お母さんは、そんなことはしなかった。髪は女の命、くせ毛だろうが、アホ毛だろうが、それは変わらない。
「だから、こちらにご奉公に上がった日、お嬢様方の艶やかな髪を見て、衝撃を受けたのです。全く癖が無く真っ直ぐ、その腰へ流れる様はまるで銀の川。お二人の髪は、私が憧れていた理想の髪そのものでした。いえ、それ以上でした」
うっとりとした声でそう言いながらも、ナンシーは私の髪を梳き続けているが、そのブラシ捌きに乱れや迷いなど一切ない。
「私はその日から、使用人部屋で同室だった娘に練習台になってもらい、ブラッシングの練習を始めました。彼女が、いい加減にしてと、文句をいうくらい頑張りました。いつか、私が、お嬢様方の髪を梳くことなった時、髪を痛めるような梳き方をしてしまったら、私は私自身を許せない、そう思ったんです」
私は苦笑した。
「ナンシー、ちょっと大袈裟過ぎない?」
私の髪ごときに……。
「アリスティアお嬢様。言葉をお返しするようでもうしわけありませんが、大袈裟ではありません。私は、いい加減なこと、中途半端なことが、大嫌いなのです。その上、お嬢様の髪は私にとって理想の髪。手抜きなどもっての外です」
ぐさっ!
刺さったよ、でっかいの刺さった! チキンなハートがブロークンだよ!
「お嬢様、ここに、大変美しい水晶玉があるとします。傷一つついておりません。その水晶玉に傷がつくのに耐えられますか?」
どうだろう? 値段にもよるかな。それに、私はこだわりのないものに関しては結構無頓着。
「耐えられ……」
「そう、耐えられませんよね。耐えられないのが、普通です」
うう、今日のナンシー、押しが強い。私、何か変なスイッチ押しちゃったのかしら。
「アリスティアお嬢様。私は誇りを持って仕事がしたいのです。そのために、出来うる限りのことはします」
ナンシーが完璧主義なのは、前々からわかっていた。殆どの使用人はどこかで手を抜く。でも、彼女が手を抜いているところなど見たことがない。
別に他の使用人を非難する気など毛頭ない。そうしないとやっていけない。人は緊張し続けて、生きていくことは出来ない。
「ありがとう。素晴らしい心がけね。貴女みたいな人がうちで、働いていてくれて嬉しいわ。私は貴女が好きよ、ナンシー」
「勿体ないお言葉です。感謝致します。お嬢様を尊敬しております」
尊敬か……。ナンシーらしいな。使用人としての節度を守って、一線を絶対越えて来ない。
ここで、【お嬢様が好きです】と言ってくれれば、王都の学院へ来てくれないか、と誘うつもりだった。
セシルが結婚したため、セシルの出勤時間がガクンと減った。その分はコレットが頑張ってくれているが、彼女の負担が大きくて少々申し訳ない。そこで、平民であるため、正式な侍女は無理だが、コレットのサポート役として、有能なナンシーを連れて行きたいと考えていた。
でも、誘わないことにした。どうせ、彼女は良い返事をくれないだろう。きっと、このように言うだろう。
「侍女の仕事は、平民の分を超えます。サポートなどと言っても同じです」
それに、冷静に考えてみると、学院生徒、侍女、従者、全員が貴族という学院の寮で、平民のナンシーが、自分自身で満足出来るような仕事をするのは無理だ。
ナンシーに側にいてもらいたいが、彼女の誇りを傷つけるようなことはしたくない。諦めよう。
ナンシーは私の髪を完璧に整えてくれた。
私は、ナンシーに礼を言い、ラウンジを出ようと歩を進めた。私の後ろで、ナンシーは深々と頭を下げていることだろう。見なくてもわかる。彼女はいつもそうする。
彼女は平民で、使用人。私は貴族で、御令嬢。
この垣根を、なんとか取り払いたいと前々から思ってきた。でも、ナンシーが許してくれない。私はこれまで、何度も彼女にサインを送った。でもダメだった。
人には立ち位置がある。その立ち位置の中で行われるものが、ナンシーにとっての善、愛なのだろう。そこからはみ出して行われるものは、彼女にとっては善でも愛でもない。
ナンシーが私を友達として扱ってくれることはないだろう。彼女は使用人としての分から出て来ない。
ナンシー、
私みたいなのに頭を下げなくて良いよ。
貴女の方が、ずっと素晴らしい。
私みたいな中途半端な根性無しより、
ずっと、ずっと、素晴らしいよ。
ナンシーさんは好きなキャラ。あまり喋らないのですが、今回は結構喋りましたね。