彼女の決断
私はハンカチーフを、ソフィア様に手渡しました。これで涙をお拭きくださいませ。
「ありがとうございます。セシル様」
ソフィア様は涙を拭い、微笑んでくれました。少し落ち着いたようです。
「私は生まれつきの病弱で、子供が産める体ではありません。それでも良いとライオネル様が言って下さったので、妻とならせて頂きました。でも、私は、彼の愛情を読み間違っていたのです。私が子供を産めない以上、第二夫人、第三夫人を娶られるのであろうと思っていました……」
「でも、ライオネル様は娶らなかった。ソフィア様だけを一途に愛されたのですね」
私は言葉を繋ぎました。
「はい。女として、妻としては、とても嬉しいことでした。でも、それと同時に、大変困惑したのです。第二以降の夫人を娶って頂かないと、王国創建以来続いてきた、マドガリル伯爵家の本流が絶えてしまいます。彼には兄弟がおりません」
「兄弟がいない? 伯爵家クラスでそれは……」
平民の家ならともかく、貴族家、それも高位貴族家で、子供を一人しか作らないなど普通ありえません。
「十年ほど前に、王国西部で流行った黒染病せいです。その西部の中でもマドリガル領は最悪でした。ライオネル様の兄上姉上様ら、四人がお亡くなりになったのです」
黒染病。だんだん体が黒ずんでいくことから名付けられた原因不明の病。罹ると、十日程で殆どの者が亡くなってしまう。以前、ルーシャ様が、あれは本当に恐ろしい病気、自分でも治せるかどうかわからないと、仰ってられました。
「ですから、ライオネル様には、私以外に夫人を娶って貰わなければ困るのです。お義父様も、お義母様も、娶るよう何度も彼を説得しました。当然、私からもしましたし、私の両親にもしてもらいました。それでも、ライオネル様は首を縦に振っては下さいませんでした」
うーん、一女性の夫としては評価してあげたいのですが、次期伯爵家当主としては如何でしょう。次期当主を譲れる兄弟がいればまだしも……。
「それ程迄に愛されるソフィア様は、女性としては幸せ者かと。でも、この状態は、奥方としては厳しいですね。さぞお辛いことでしょう」
はっきり言って、悪いのはライオネル様。でも、周りの非難の矛先はライオネル様だけに留まらない、ソフィア様にも必ず向かう。いや、ライオネル様以上に向けられるだろう。
子供を産めない第一夫人が悪い、諸悪の根源はソフィア、ソフィアさえいなければ!
「はい。今、現在のアーヴィング家の家族関係は険悪の一語につきます。お義父様も、お義母様も、ライオネル様とは一言も喋りません。お二人は、私が彼に『第二夫人をどうか!』と頼んでいるのを知ってる故、私とは口を聞いて下さいますが、私の存在を苦々しく思っておられるのは明らかです。言葉の端々に、ありありと感じられます」
「針の筵でございますね」
「はい、全くです」
私の例えが的確だったようで、ソフィア様は私の目を見て肯定してくれました。そして、また視線を落とし、ため息をつかれました。
「嫁ぐ前から、ライオネル様が真面目で融通が利かない性格なのはわかっておりましたが、これ程迄だったとは。なんの取柄も無く、病弱で子供も産めない私の何が良いのでしょう。家の未来や、家族関係を壊して良いほどの価値は私にはございません」
「ソフィア様。お言葉ではございますが、人を好きになるということは、取り柄があるからだとか、健康で子供が産めるからだとかではございませんよ。それに、自らを貶めるのはお止め下さいませ。ライオネル様には、ソフィア様が一番大事で価値ある存在なのです。そのライオネル様の御心にケチをつけてはなりません。女がすたりますよ」
「わかっています、わかっているのです。でも……」
ソフィア様の目にまた涙が浮かび始めた。
「私は、彼が私を愛してくれるように、私も彼を愛しています。彼には不幸になって欲しくないのです。私を愛して、不幸になるなら愛してなどいりません!」
羨ましい。
そう思いました。私はまだ、殿方との愛を知りません。そして、知ろうとも思っていませんでした。貴族家の結婚の殆どは家のためのものです、打算です。アリスティアお嬢様の侍女になれたからこそ、それなりに相手を選べる立場になりましたが、そうでなければ、普通の貴族子女と同じように親の決めた相手に嫁いだことでしょう。そこに愛はありません。
本当に羨ましい……。
私の知ってる愛は何でしょう。妹、マーヤへの姉妹愛。コレットへの親愛。アリスティアお嬢様への敬愛。どれも私の大切な愛です。しかし、一人の人へ向ける一途な愛と言えるでしょうか? 多分、言えません。私の持っている愛はそこまで深くはないのです。
「私はライオネル様に、第二夫人を娶る気がないなら離縁して欲しいと言いました」
貴方が私を苦しめている、それがわからないような御方なら、私は貴方の妻でいたくありません!
「これで、ようやくライオネル様は、第二夫人を娶ることを承諾してくれたのです」
ライオネル様は酷い人だ。ソフィア様にここまで言わせるなんて。
「どうか、お願いです。セシル様。今回の、お話、お受け下さいませ。お願いでございます」
そして、ソフィア様も……。
「ソフィア様、貴女は酷いお人ですね」
「えっ……」
「ライオネル様はソフィア様をとても愛していると仰っていました。でも、第二夫人となり、一緒に暮らすようになれば、少しくらいは私にも、愛情を持ってもらえるのではないかと考えていたのです。ですが、ライオネル様とソフィア様。貴方方はこれほどまでに愛し合っておられます。そこに、私が第二夫人として嫁いだとて、私に、ライオネル様の愛が回ってきますか?」
「……」
「貴族の夫人の一番の役目は子供を産むこと。それは私もよくわかっております。でも、それだけでは虚しいのです。少しでも良いから夫からの愛が欲しいではありませんか。貴女が、ライオネル様から受けている愛の何分の一、いえ、何十分の一でもいいです。愛が私に廻ってくると保証できますか? ソフィア様」
私の問いかけに、ソフィア様の目から光が消えました。
ソフィア様には同情しますが、彼女は自分のこと、自分の周りのことしか考えておりません。そのような方のために、自らの人生を使おうなどとは思いません。この話はお断りしよう、世の中、これらくらいの不幸はいくらでもあります。いちいち同情し助けてなどいられません。そう思ったのですが……。
「保証できます。貴女に、セシル様に愛は廻って来ます」
ソフィア様が毅然と、きっぱりと言い切りました。
「どうしてです。今まで伺った話から見て、どう考えても私に愛は廻ってきません」
「来ます。何故なら、いなくなった者に愛を注ぎ続けることは無理だからです」
「?」
「これを、ご覧下さいませ」
そう言って、ソフィア様は寝台の横にある戸棚から二つの薬袋を取り出した。そして、一つの薬袋から薬を出した。何種類もある、こんなに飲まなければいけないのか……。
「私は、これら薬がないと体調を維持できません、もし飲まなければ半年を待たずして命を失うでしょう。セシル様が第二夫人として嫁いで来て下されば、私は薬を飲むのを止めます」
ソフィア様の言葉にショックを受けました。
この人はライオネル様のために、そして私のために、死ぬ気だったのか……。ソフィア様の体は、本当にお弱いそうだ。しかし、薬さえ飲んでいれば、今直ぐ亡くなるなどの心配はないと聞いていました。
どうしたら、ここまで己を滅し、他人を慮れるのでしょう? 私にはわかりません。
「では、そちらの薬袋に入っているのは……」
「察しがよろしいですね。偽薬です。薬を止めるなんて、あの人が許してくれる訳がありませんもの」
そう言って、ソフィア様が笑われた。
私はもう、我慢がならなくなりました。
何なんでしょう、ほんとに何なんでしょう、この人は。
「ソフィア様! 貴女はアホです、馬鹿です、オールストレームで一番の大馬鹿者です!」
私は大声で、ソフィア様を叱りつけました。ソフィア様は年上ですが、年齢差など構っていられません。
「ええっ、そんな! そのようなことはお父様にもお母様にも言われたことがありません」
ソフィア様が目をぱちくりさせて、抗議されました。
「ではご両親の目は節穴です。ソフィア様は馬鹿者以外の何物でもありません! 断言します!」
「ショックです。賢いとは思っていませんでしたが、断言されるほどの馬鹿だったとは、私の自己認識がこれほどまでにダメだったとは。本当にショックです」
なんとなくわかりました。ソフィア様が二十歳をとうに過ぎてられるのに、少女のように見える理由。
彼女は子供です。年齢を重ねてはいますが、心は純粋な子供のままなのです、純粋故に、極端な選択を選んでしまうのです。病弱だった故、超箱入りで育てられたのでしょう。しかし、これほどまでに純粋培養するとは……。実家は子爵家だと聞きましたが、ヤバいです、その子爵家。
保護欲が掻き立てられました。
このような人、放っておく訳にはいきません。誰かが守って上げないとダメです。
「ソフィア様、今回のお話、お受けすることに決めました」
「本当ですか! ありがとうございます、ありがとうございます、セシル様!」
彼女は目を輝かせ、何度も何度も私に頭を下げた。
「でも、貴女が死ぬのは無しですよ。私がライオネル様の第二夫人になるのは、貴女を教育し直すのも一つの目的なのですから」
「教育し直すって、意味が? それに私がいてはセシル様に愛が廻って……」
「愛の方は、まあ、いいです。いくら好きでも飽きが来る時があります。その時には、私にも少しは廻ってくるでしょう。そう考えることにします。そんなことより、ソフィア様には、大人に、ちゃんとした大人になってもらわなければなりません」
「私は、ちゃんとした大人ではないのでしょうか?」
「大人ではありません、子供です。だから再教育させてもらいます。そうでないと、生まれて来る子供を、ソフィア様に預けられません。恐ろし過ぎます」
ソフィア様が、私の言葉に呆然とされました。
「私に子供を……」
また涙がソフィア様の目に浮かびました。よく泣く人です、やっぱり子供、子供なのです、この人は……
とっても優しい子供なのです。
「セシル様の子供を私に任せてくれるのですか。こんな私に……」
「何が、こんなですか。当たり前でしょう、当主になる長子は第一夫人が育てねばなりません。それが第一夫人の義務です。そんなことも知らないのですか? 呆れてしまいます」
「セシル様……」
私はソフィア様の涙をハンカチーフで拭ってあげた。せっかく愛らしいお顔をされているのです、笑って下さいませ。
「ソフィア様。私はライオネル様に第二夫人として嫁ぎますが、貴女とも結婚する気で、ここに来ます。仲良くして下さいね、お願いします。私は貴女が、ソフィア様が大好きですよ。貴女ほど健気な方は見たことがありません」
この後はもう、会話になりませんでした。
寝台の上で泣き続けるソフィア様を宥め続けた記憶しかありません。
数日後、マドリガル伯爵家と正式な婚姻の約束を取り交わしました。そして、私は主、アリスティアお嬢様に婚約成立の報告をしたのですが……、
「まあ、セシルが納得していれば良いのですが、これで本当に良いのですか?」
「はい、実家も伯爵家ということで、大喜びですし、何も問題ないかと」
アリスティアお嬢様の顔が、少しひくつきました。
「そういうことを聞いているのではありません。セシルの気持ちを聞いているのです。第二夫人で本当に良いのですか?」
「お嬢様。私は、第一夫人だからとか、第二夫人だからとか、考えるのをもうやめようと思っています。実際に会ってお話させてもらって、ライオネル様もソフィア様も一緒にやっていける方だと思いました。それで十分です。納得しての婚約なのです」
「悟りを開く年でもないと思いますが、まあ、いいでしょう。おめでとうを言わせてもらいますよ。セシル」
「ありがとうございます。お嬢様」
アリスティアお嬢様が、にっこりと微笑んでくれました。私はお嬢様の笑顔が好き、ほんとうに大好きです
「アリスティアお嬢様。私は、お嬢様の侍女を続けても良いのですよね。やめろなんておっしゃいませんよね」
「当たり前でしょ。侍女を続けて良いという条件だったから、今回のような第二夫人の縁談でも、セシルに伝えたのです。そうでなかったら伝えていません」
「そうなんですか」
「そうですよ。私は利己的で欲深いのです。貴女は挺身侍女、私のために命をかける決断をしてくれた人です。そんな大事な人を、おいそれと手放すものですか。私は貴女を失いたくありません」
「お嬢様……」
アリスティアお嬢様が両手を大きく広げられた。
「さあ、いらっしゃい」
私は、私より背の低いお嬢様に合わせるために膝を屈ませた。お嬢様が優しく抱きしめてくれました。涙が出て来ます。アリスティアお嬢様は私より六つも年下、なのに、どうしてこんなに包容力があるのでしょう、身を任せたくなるのでしょう。永遠にこうしていて欲しい。つい、そう思ってしまいます。
「セシル、私のセシル、大好きなセシル。貴女は望まないかもしれないけれど、これだけはさせてちょうだい」
カイン、契約解除……。
見えない鎖が身体から解かれて行くのを感じました。
この瞬間から、私は、挺身侍女ではなくなったのです。
お嬢様との繋がりが一つ消えたのです。
私は自分が一途に人を愛したことは無いと思っていました。だったらどうして、こんなに淋しいのでしょう。どうして、まだ挺身侍女であるコレットが羨ましくて仕方ないのでしょう。
自分がここまで、お嬢様に依存しているとは思ってもいませんでした。私こそ大馬鹿者です。
お嬢様の部屋を辞して、部屋に戻ると、寝台に潜り込み声を殺して泣きました。
お嬢様は先ほど、私のセシルと言って下さいました。
はい、お嬢様。わたしは貴方のもの、あなたのセシルです。
これからもずっと、ずっと……永遠にお慕い申し上げます。
大好きです。私のアリスティアお嬢様。
セシルは、コレットに比べ出番がかなり少なく、彼女には少々申し訳なく思っております。まあ、侍女を止める訳でもないので、いつか挽回を……。