ジェンマ様
ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、ホッ。
私は、呼吸が乱れない様に注意しながら、軽快なリズムで走っていた。ここは学院のグラウンド、流れる空気が乾いていて気持ちいい。汗が滴る前に消えて行く。今は、体育の授業中。長距離走の真っ最中。
長距離走なんて、野乃の頃は、全然好きではなかった。息は切れる、足は疲れる、汗だくになる、しんどいことこの上ない競技。でも、アリスティアになってからは、あまり苦痛ではなくなった。いや、楽しいかも。
アリスティアの体は、ほんとに出来が良い。筋肉はとてもしなやかで強靭。その上、乳酸も溜まりにくいという素晴らしさ。心肺機能も、オリアーナ大叔母の訓練の御蔭で、十分に発達している。そして、手足の長さ等、体型のバランスも理想的。前世の地球なら、天才アスリート少女になれたことだろう。
これだけ、好条件が揃えば、如何に「皆の嫌いな体育授業、No.1」である長距離走だって、楽しめる。楽しめることは頑張れる。頑張れば結果がでる。これは正の循環。
私の快走についてこれる者は誰一人いなかった……と言いたいところであるが、私と同じ速度で、ぴったり並走してくる一人の令嬢がいた。振り切ろうと思って加速すると、あちらも同じように加速する。
その令嬢の名前はジェンマ。ジェンマ・フォン・アークライト。ハルビス伯爵家の長女。
一度も話したことはないが、エメラインに匹敵する高身長と、毎日の運動を欠かしていないであろうと思われる発達した四肢は、以前から注目していた。髪はダークブラウン、目は珊瑚色。
結局、私とジェンマ様は同時にゴールした。どちらが、勝ったかはわからない。まあ、正式な競技、試合ではなく、授業でのものなので勝ち負けは気にしないが、私と同等の走りが出来る者がいたことには驚いた。他の令嬢達は(体育の授業は男女別)、まだまだ距離を残している。周回遅れもいっぱいいる。
「エメライン! 真ん中より下位だったら、許しませんよ! 一日喋ってあげません! 頑張ってー! 後、一周!」
私は、息を切らし足元がフラフラになっているエメラインを励ました。いや、叱咤した、かな?
私の叱咤が聞こえたのだろう。エメラインが猛烈なダッシュをかけ始めた。顔つきは鬼のような形相、なんか、ごめん。そこまで頑張らなくても……ほんと、ごめん。
ジェンマ様は、げんなりとした私を見て、声を掛けて来た。彼女に話しかけられたのは初めてだ。
「フフフ、アリスティア様、エメライン殿下を完璧に支配下におかれてますね。如何にしてあそこまで調教なされたのですか?」
支配下! 調教! その言葉の、どぎつさに焦って彼女に抗議した。
「ジェンマ様。人聞きの悪いことを仰らないで下さいまし。エメライン殿下とは同室ゆえ、気の置けない仲。あれくらいの言葉は冗談です、親愛の証です」
「親愛の証ねー」
そう言いながら、ジェンマ様はグラウンドを駆けるエメライン達の方へ目をやった。顔を真っ赤にしたエメラインの爆走は続き、既に十人近くを抜き去っている。凄い、よくぞあそこまで頑張れたものだ。
「どう見ても、エメライン殿下の方は、アリスティア様に、愛を捧げているように思えるのですが?」
ぐはっ! 愛を捧げている! どうしてジェンマ様は、こういう強烈な言葉遣いばかりなされるのか? 腑に落ちない。私をイライラさせる意味がわからない。
「ジェンマ様。何か、私に含むところがお有りですか? お有りなら、ちゃんと言って頂いたほうが、こちらは楽です。如何かしら」
「あら、怒らせてしまいましたか。申し訳ございません。ただ、お頼みしたいことがありまして、なんとかアリスティア様とお話したかっただけなのです。口下手ゆえ、不快な思いをさせてしまったこと、お詫びします。お許し下さいませ」
ジェンマ様は、深く頭を垂れた。その姿はきりっとしたもので、少々普通の令嬢とは違うように思えた。
「そうですか、最初からそう言って頂ければ。では、その頼み事とは何でしょうか?」
「実は、私は騎士志望なのです」
ジェンマ様は顔を真っ赤にされた。
騎士志望! やはりいるんだね、女性でも騎士になりたがる人。実際少ないながらも、女性騎士はいるんのだから、同じクラスに騎士志望の令嬢がいてもおかしくはない。おかしくはないが、実際に志望者を前にすると、大変感慨深い。
騎士というものは基本、カッコイイ。それ故、あれだけ多くの騎士物語の本が世に出回り、多くの淑女、令嬢達に愛読されているのだ。でも、騎士自体になりたがる女性は、やはり希少といえよう。女性というのは(母親になれば、違うのだろうが)守るより、守られたいと思う存在なのだ。
騎士の皆様方、女性ながらも後継がここにいますよ。貴方がた、騎士団の栄光は彼女にも受け継がれて行くことでしょう。
「ジェンマ様。貴女の頼みたいこととは、私の大叔母。第一騎士団団長オリアーナ・フォン・バイエンスに取り次いで欲しいということですか?」
騎士志望で、私に頼みごとがある。これはどう考えても大叔母様に絡むことだろう。
「そうです。取り次いで頂きたいのです。でも、私は騎士になりやすいように、オリアーナ様と知縁を得たいと思っている訳ではありません。オリアーナ様は憧れの人。長年のファンとして、一度お会いしてみたい。それだけなのです」
「わかりました。紹介くらい簡単なことです。大叔母様と連絡をとりましょう」
「いえ、今は止めて下さいませ!」
ジェンマ様が、私の体操着をガシッと掴んだ。
「ええっ! 何故です? 会いたいのに連絡をとって欲しくないなど、訳がわかりません!」
「理由はちゃんとあります。私は、オリアーナ様にあってもらえるに相応しい価値、その価値が自分にあることを、アリスティア様に証明しておりません!」
彼女はとても真剣だった。真っ直ぐ私の目を見つめ、全く逸らさない。私も頑張って見つめ続けたが、根負けした。逸らした。そして、ため息交じりに話す。
「ジェンマ様は堅苦しく考え過ぎですよ。大叔母様は癖はありますが、気さくな方です。もっと肩の力をお抜き下さいませ」
私の体操着を握っていた、彼女の手が離れた。
「アリスティア様。私の想いをそのように軽く見ないで下さい。貴女にとって、オリアーナ様は、何時でも会える親戚の方でしょう。でも、私には、一生に一度でも良いからお会いしたい、お話を聞かせて貰いたいと、長年思い続けて来た、お方なのです。運よく連絡がとれたから会った、というような安易な会い方はしとうございません」
オリアーナ大叔母様は、王国初の女性の騎士団団長。それも第一騎士団。これは凄いこと、とんでもないことだと、頭ではわかっていた。でも、どうしても身近な親戚、いえ、家族としてのオリアーナ大叔母様のイメージが強くて、つい言ってしまった。
『ジェンマ様は堅苦しく考え過ぎですよ』。
全く、彼女の想いなどに気を配っていなかった。私はジェンマ様に謝罪した。そして、彼女は受け入れてくれた。
「では、その証明とはどのようにするのですか?」
私はジェンマ様に尋ねた。
「お恥ずかしい話ですが、今の長距離走で、貴女に勝ってその証明としたかったのです。でも、全力で必死に、食らいついていきましたが、遂に勝つことが出来ませんでした。私は日々、ランニングをかかしません。それ故、足には自信がありました。男性にさえ負けることは滅多にないのです。さすがです、アリスティア様。万能と称えられるだけことはあります」
ジェンマ様の言葉に、クラッっとした。万能! 止めて、人を買い被るにもほどがある。私にも出来ないことは幾らでもある。当たり前だが、出来ないことの方が遥かに多い。それなのに、万能って……。ほんとに止めて。ますます男子が私から遠のいてゆく。行かず後家の未来が近づいて来る。
ガクンと肩を落とし、負のオーラを放ちまくる私を、彼女は訝った。
「どうされました? アリスティア様」
「皆さん、幻想の世界に生きておられます。早くその世界から離れ、現実に戻って来て下さい、うう」
「??」
私は、彼女達の私に対する幻想について、これ以上何も言わなかった。どうせ、「私は、貴女達が思っているより、ずっと凡庸です」などと言っても、ただの謙遜と受け取られるだけだ。
「ジェンマ様。ひとつお聞きしたいことがあります」
「何でしょう?」
「貴女はどうして、長距離走で勝つことが、自分の価値を証明することになるとお考えになられたのですか? 騎士の戦闘の殆どは魔術戦。価値を証明するなら、運動能力ではなく、魔術の能力ですべきではないですか?」
私の問いは真剣なものだった。けれど、ジェンマ様は吹き出した。
「アリスティア様。私に魔術で、貴女に勝てと仰るのですか? それは無理です。無理難題もいいところです。アリスティア様と私では、象と蟻。戦いにすらなりません」
「いえ、そういう意味では。私があのように聞いたのは、貴女が、魔力より体力を重視しているように思えたからです。今の社会は魔力偏重です。学院の授業を見てもわかります。魔術の授業は、体育の授業の十倍です。それなのに、どうして? と思ったのです」
ジェンマ様は少し黙り込まれた。どう答えたら良いか少し考えている感じ。
「私の、魔力量はシルバーの下位です。多いですか? 少ないですか?」
「普通ではないでしょうか」
「お気を遣って下さらなくても結構です、伯爵家出身としては少ないです。だから体力が必要なのです」
私は口を挟まなかった。意見を言うのは全てを聞いてからの方が良い。
「私には同じ年の腹違いの弟がいます。弟はシルバーの上位です。弟に言われました、『姉上のような魔力量では、騎士になっても、ろくな騎士になれない。諦めた方が良いよ』と。その言葉があまりにも腹立たしかったので、紋章を貰ってから必死で魔術の練習をしたんです。そして気づきました。体が疲れて来ると、紋章が上手く働かなくなる。十割の力が九割、八割になってきます。つまり、体力があれば、魔力を効率的に運用できるのです。光明を見つけた気分でした」
「私が、体力づくり諸々に励みだしたのはそれからです。私はこのように、女性としては大柄です。そのせいもあって鍛え上げた今日、体術や剣術では弟に負けません。まあ、それを話すと、大概の殿方は引かれてしまいますがね」
そう言ってジェンマ様が微笑まれた。いい笑顔だと思った、努力の果てに掴み取った笑顔。なんて輝かしい。
「ジェンマ様。今度、お茶会を開こうと思いますの。来て頂けますか?」
「光栄です。是非行かせていただきます」
「ご招待するのは、ジェンマ様、貴方と、オリアーナ・フォン・バイエンス、第一騎士団団長閣下です。それでよろしいですね」
「ええっ!」
私の言葉にびっくりしたジェンマ様は、少し後ろに飛び退いた。彼女はかなりオーバーアクションなタイプ。元日本人の私には少々大げさに感じるが、嫌いではない。
「アリスティア様。貴女は私の言葉をお忘れですか? 私はオリアーナ様に会ってもらえる価値を、証明しておりません。何の価値も証明出来ていないのです!」
「いいえ、ジェンマ様はもう証明しておられますよ。オリアーナ大叔母様の言葉をお伝えします。これは私が、初めて大叔母様から訓練を受けることになった時、投げかけられた言葉です」
体力も無い奴が魔術を使いたいなど片腹が痛い、笑止千万。
ジェンマ様。
貴女はずっと前から合格です。
合格しているのです。
ジェンマ様と、オリアーナ大叔母様を招いてのお茶会は無事、我が家の王都別邸で行われた。憧れの人に会えたジェンマ様の緊張具合は、微笑ましさを通り越したものであったが、大叔母様は簡単に彼女の緊張を解きほぐし、和やかな歓談にもっていってくれた。さすが騎士団団長、伊達に何百人、いや何千人の部下を育てて来た訳ではない。
このお茶会で、印象に残ったのは、ジェンマ様のオリアーナ大叔母様を見つめる目。とてもキラキラしていた。会わせてあげられて良かった。ホントそう思った。
彼女の幸せが、私に伝わって、私も幸せになる。なんて素晴らしい循環!
そう喜んでいたのに、大叔母様ったら。
ジェンマ様が帰った後、オリアーナ大叔母様が言った言葉。
「あの娘は、かなり有望ね。学院を卒業し入団希望を出して来たら、成績しだいでは第一に入れようかしら」
ここまでは良い、ここまでは。
「ところでアリスティア、貴女、マンガの事業化に動いてるんだってね。私にもいっちょ噛ませなさい。一人で儲けようなんて狡いわ。少しは大叔母孝行しなさいよ」
がっかりである。先ほどまで溢れていた尊敬の念が霧散する。人はどうしてこうなのか、俗世の欲は、ほんと消し難いものだ。
「いいですよ。ですが資金、少しは出して下さいよ。軌道に乗るのは、少々時間がかかるとは思いますが、乗ってしまえばこちらの勝ちです。がっぽ、がっぽ、ウハウハですよ!」
「なんと、そんなに美味しいものなの!」
「もちろん! 二人で巨大出版帝国を作り上げましょう!」
私も大概だった。人はどうしてこうなのか。
アリスティアとオリアーナが組むと、凸凹コンビと言いたくなります。年齢差の割に仲が良いです。