第九章 初めての上洛
〈生涯の良し悪しは、長短ではなく成否によって決まる〉
「今、何と仰せられましたか⁈」
清州の諸大将は、皆、己が耳を疑った。
信長は、事も無げに言う。
「京に上り、室町殿に拝謁する」
室町殿とは、征夷大将軍・足利義輝のことである。
清州城の北曲輪に集められた玄蕃丞秀敏、造酒丞信房、織田勝左衛門、飯尾定宗、佐々政次、佐々成政、佐久間信盛、佐久間盛重などの面々であった。彼等は、主君の唐突さには慣れたつもりであったが、その認識が甘かったことを思い知らされた。
信長は、諸大将を見回して、
「何か存念があるならば、忌憚なく申し述べるがよい。吾が意向と違うからと申して、意見を控えてはならぬぞ」
と、言った。すると、
「されば、畏れながら申し上げまする」
佐久間信盛が口を開いた。
「殿が官位や称号を御望みならば、京へ使者を御遣わしなされて、朝廷か室町殿に金子を献ずるのみにて事足りましょう。今、室町殿に拝謁なされれば、いらぬ波風が立つのではござりませぬか」
彼は、織田家が足利義輝と、畿内一の実力者・三好長慶の抗争に巻き込まれる事を恐れたのだ。足利義輝は、三好長慶に二度も京を追われていたが、目下は休戦中であった。三好家は、今の織田家には荷が勝ちすぎる相手である。
ところが、信長は、
「むしろ、それは望むところである」
と言って、諸大将を蒼褪めさせた。
信長は、彼等の狼狽ぶりを楽しみつつ、
「案ずるな。我は、泥沼に足を踏み入れるつもりはない。肝要なのは、室町殿より出兵の督促を受ける事である。室町殿より軍勢催促を受ければ、我は、公儀の名の元に敵を討ち、領土を広げる事ができる。また我の行いを妨げる事は、即ち公儀に対する反逆となる。これこそが、上洛の目的である」
諸大将は少し安心したが、懸念が全て消えたわけではなかった。
佐々政次、仮名・隼人正が、言う。
「殿が御留守の間、今川や斎藤が動いたなら、何と致しましょうか」
それについては、信長も考えていた。
「今川治部は、準備万端が整わぬ限り動かぬ人物である。今のところ、その形勢はない。また、斎藤新九郎は、他の事に追われておるようである」
彼は、小折の生駒家長に、美濃国内の情勢を調べさせていた。
「新九郎の目下の関心は、新たな菩提寺を建立する事にあるようである。何しろ父殺しの大罪人であるゆえ父と同じ寺に葬られたくはないのであろう。そのために、京から高僧を招かんと奔走しておる」
斎藤道三の最期の策が効を奏して、斎藤義龍は「父殺し」の悪名に苦しんでいた。
「彼奴は、悪名から逃れるために。己が山が山城入道殿の子ではなく土岐左京太夫の落胤であるなどという話を広めようとしておると聞く。然様な者に何が出来ようか」
永禄二年二月、織田信長は、金森長近、蜂屋頼隆らをはじめとする八十余名の侍を警護役、清州の町衆で城の奉行職を務める松井友閑を案内役として、京へと出発した。
彼は、
「京衆より侮りを受けてはならぬ。織田の威勢を天下に示せ」
と、華麗な装束を纏って金銀拵えの大小両刀を帯び、伴衆にも派手な装いをするように命じた。
その結果、極めて派手な一団が出来上がり、街道を行き交う人々の注目を集めて噂となった。その噂は、稲葉山城にも届いた。
長井道利は、信長の上洛を知ると、
「好機到来!」
と、喜び、小池吉内、平美作、近松頼母、宮川八右衛門、野木次左衛門ら手練れの侍を選抜して、彼等に金銀を与え、
「織田上総介の後を追い、密かに討ち果たせ。手立ては問わぬ」
と、命じた。
侍衆は、与えられた金銀で、鉄砲と弾薬を買い整え、また浪人を三十名ばかり雇って刺客団を結成し、信長の後を追って京に上った。
信長は、伊勢の鈴鹿峠を越え、近江を通過して山城に入り、京都に到着した。
平安京。、それが、京都の正式名称である。元々は朝廷の官庁街であったが、この時代には一大商工業都市となっており、その主役は、公家でも武家でもなく、商人や工人などの町衆であった。
京都の町衆は、権門から庇護を受けていたが、権門の方でも町衆の製品や技術に依存していた。
品質の高い製品を作るには、良質な原材料が必要となる。そのような原材料は、郷村において生産されている。結果、都市と郷村、商工業と農業の間で相互依存の関係が構築された。その媒介となったのが、貨幣である。
貨幣の流通によって富が増減し、富の変動によって階層が再編される。
京都は、利益の循環によって、心臓のように脈打っていた。信長は、その活力に圧倒された。
有力な守護大名は京都に邸宅を所有していたが、新興勢力である織田家には、そのようなものはない。このような場合は、信仰する宗派の寺院に宿泊するのが常であった。信長は、上京の室町通りにある法華宗の寺院を宿所とした。そして、休息を取って身を清めた後、装束を改め、室町中御門の武衛陣を訪れた。武衛陣は、元々は斯波家の邸宅だったのだが、この当時は室町幕府第十三代将軍・足利義輝の営所とされていた。
足利義輝は、信長より二つ年下で、この時に十四歳であった。彼は、眼前に畏まった信長に声をかける。
「織田弾正忠よ、よくぞ参った」
信長は、尾張においては「上総介」の呼称を用いていたが、これは僭称であったので、京都においては一族で継承してきた「弾正忠」の称を用いていた。
「斯波左兵衛佐を弑逆した織田彦五郎を討ち、尾張の乱を鎮めたる事は、真に天晴れであった。京の者は皆申しておる。『尾張には織田弾正忠あり』と」
信長は、将軍の言葉を、面倒事を頼んでくる前振りと見た。その予測は当たった。
「駿河の今川や美濃の斎藤と和睦し、彼等と共に余を支えてほしい」
足利義輝は、信長にそう望んだ。
信長は、無理な話だと思ったが、無下に拒絶はできなかった。ここで将軍の怒りを買ってしまっては、上洛した意味がない。そこで、彼は、
「何とぞ、公方様より、両家に和睦を御命じ下されますよう御願い申し上げます」
と、返答した。
足利義輝は、信長の答えに満足した。
「あい分かった。余から、今川と斎藤に織田との和睦を命ずるであろう」
「有り難き幸せに存じまする」
信長は、笑いを噛み殺しつつ拝謝した。
(京より使節が到来して我との和睦を命じたならば、今川治部と斎藤新九郎は、室町殿が織田の後ろ盾となったかのように感じ、狼狽するであろう)
そう考えると、愉快だった。
(それでも、両者は和睦には応ずるまい。そうなれば、彼奴等は公儀に背く逆徒である)
足利義輝は、信長の佇まいを見て、
(成り上がり者にしては、品格がある)
と、感じて、その内面に興味を持ち、私生活について質問した。
「そなたは、常日頃は何を好みと致しておるのか」
信長は、
「主に狩りや武芸の鍛錬に時を費やしておりまする。他に好みと申せば、幸若舞と小唄くらいのものでござりましょうか」
と、答えた。
「幸若舞は、どの演目が好みか」
「〈敦盛〉にござりまする」
〈敦盛〉とは、能の大家・世阿弥が、〈平家物語〉や〈源平盛衰記〉の逸話を元に創作した、謡曲である。
平安時代末期、源義経が一ノ谷の合戦において平家の軍勢を撃破した時、義経の指揮下で戦っていた東国武士・熊谷直実は、功名心に駆られるままに奮戦して平家の公達・平敦盛を討ち取ったが、相手が自分の息子と変わらぬ年頃であった事を知って罪悪感に苛まれ、その後、出家して蓮生法師と名乗った。
その蓮生法師が、一ノ谷の古戦場を訪れて戦死者の供養を行っていると、かつて手にかけた平敦盛の亡霊が出現して無念を訴えるが、蓮生法師の誦経を受けて成仏する。
以上が物語の筋である。
その中で、信長が最も好んでいたのは、
人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり
一たび生を受けて 滅せぬ者のあるべきか
という一節であった。
義輝は、それを聞くと、しげしげと信長を観察し、
「そなたには、出家遁世の望みでもあるのか」
と、尋ねた。
信長にとっては、これほど心外な問いは無かった。
「滅相もござりませぬ。生の儚さを嘆いて出家遁世するなど、愚の骨頂にござりまする。生涯の良し悪しは、長短にではなく成否にあると存じまする」
義輝は、信長が向きになっている事を愉快に感じつつ、
「ならば、何故〈敦盛〉なのか」
「人の生が儚いものなればこそ、粉骨砕身して青史に名を刻まねばならぬと、己に言い含め、心を奮い立たせるためにござりまする。それがしにとって〈敦盛〉は、陣貝や陣太鼓のようなものにごりまする」
「〈敦盛〉が陣貝や陣太鼓とは!」
義輝は、膝を叩いて笑った。
「さても勇ましき。誠に、そなたの申す通りである。命が儚きものなればこそ、功名を天の上まで押し上げねばならぬ」
彼は、これより六年前に会った人物の事を思い出した。
(織田弾正忠は、あの者に似ておる)
天文二十二年九月、越後の守護代・長尾景虎、仮名・弾正少弼が、、足利義輝に謁見していた。長尾景虎は、義輝よりも六歳年長で、当時は二十四歳だった。
義輝が似ていると感じたのは、両者の外見ではない。信長が長身で猛禽類のような顔立ちであるのに対して、長尾景虎は小柄で地蔵菩薩のような容貌をしていた。
(されど、気概は似ておる。昨今は大名の大方が己の足元しか見ておらぬが、長尾弾正少弼と織田弾正忠には志がある。両名を左右両翼と為せば、足利は再び天下を制覇できるであろう)
と、義輝は思った。
一方、信長は、良き理解者が得られたと感じていた。彼は、己を評価してくれる相手に飢えていた。
父の備後守信秀は、彼の成長ぶりを見ることなく急逝してしまった。
後見役だった平手政秀は、最後まで信長の価値観を認めようとしなかった。
叔父の孫三郎信光と、岳父の斎藤道三は、彼の事を高く評価してくれたが、相次いで横死してしまった。
喪失感に苛まれてきた信長であったが、今、久方ぶりに成果を示す相手が出来て、喜ばしく思った。
武衛陣から退出した後、信長は、京都の市街を見物して回った。
権門勢家の邸宅街、権門勢家を顧客とする商人の店舗街、商人が扱う品物を製造する職人の工房街、製造された品物を貯蔵するための倉庫街。需要と供給の因果律が波紋のように広がって、都市圏を形成していた。
信長は、この都市に諸国の物産が集まっている事に注目し、
「これらの物産は、如何にして運ばれて参ったのか。これだけの物を運ぶのは、容易な事ではあるまい」
と、案内役の松井友閑に尋ねた。
松井友閑は、京都が南北二つの水利によって支えられている都市である事を、信長に説明した。
南北二つの水利とは、即ち、北の琵琶湖と南の淀川である。この湖と川とは、京都と海をつなぐ運河の役割を果たしていた。琵琶湖は、越前の敦賀を中継地点として日本海とつながり、淀川は、そのまま瀬戸内海に通じている。
この時代の日本は、陸路が狭隘であったため、大量の物資を運ぶには、水上輸送こそが最適の手段だった。
信長は、上洛の途上で見た、琵琶湖の壮観を思い起こす。
(実に雄大な湖であったが、あれを運上に用いておるのか)
また、湖周辺の町宿・郷村の街並みが、どれも門前町か城下町のように整然としていた事を思い出した。
(あの湖の水利が、近江の国を富ませておるのであろうか。尾張に来ておる行商人も、大方が近江者であった。吾が家中の瀧川左近も、あの国の出であったな)
この当時、琵琶湖の水上利権を握っていたのは、浅井家でも六角家でもなく、天台宗の総本山・比叡山延暦寺であった。信長は、それを知って、
(出家が俗世の利権を握っておるとは、理に合わぬ)
と、思った。
彼は、もう一つの水利である淀川にも関心を持った。
「淀川の河口に港があるであろう。そこを押さえれば、水利を掌握できよう」
この時代、淀川河口の港市と言えば、和泉の堺であった。
信長は、鉄砲の生産地としても名高いこの都市に、以前から関心を持っていたので、この機会に訪れてみた。
堺の名称は、摂津、河内、泉三国の境界付近に位置する事に由来するものである。海外との貿易によって栄え、「納屋衆」もしくは「会合衆」と呼ばれる豪商の評議会が統治していた。
納屋衆は、町の、海に面した西側を除く、東、南、北の三方に塁濠を設け、浪人衆を傭兵とし、自検断を行っていた。但し、完全に独立していたのではなく、三好家の影響下にあった。
信長は、市場に並べられた唐土伝来の陶磁器や織物、南蛮渡来の香辛料や煙草などに目を奪われた。
(海の彼方には、別の天地があるのか)
また、この都市は、茶の湯の一大拠点でもあった。
日本に唐土から飲茶の風習が伝わったのは、これより遥か昔の奈良時代であり、本格的に茶葉の栽培が始まったのは鎌倉時代であると言われている。
南北朝時代から室町時代初期にかけては、金品を賭けて茶葉の生産地を当てる「闘茶」が流行し、室町時代中期には茶葉のみならず茶器をも愛好する風習が定着した。当初は唐土から伝来した「唐物」のみが珍重されたが、奈良・照光寺の村田珠光が登場して以降は、備前焼や信楽焼などの国産品にも価値が見出されるようになった。
そして、武野紹鴎という宗匠が現れて以降は、喫茶する場所にも趣向を凝らすようになった。即ち「茶室」の誕生である。
それまでの茶事は派手に飾り立てられた座敷で行われていたのだが、武野紹鴎は、無駄を省いた簡素な空間こそが茶の湯に相応しい場所であると主張した。
武野紹鴎の弟子である千宗易は、その茶室を、屋敷の母屋内にではなく、離れとして設けるという様式を生み出した。
信長は、神経過敏な人間で、情緒が乱れる事が頻繁にあった。そういう者は、普通は酒に頼るものであるが、彼は知覚が鈍るのを嫌って、余り酒を飲まなかった。
その点、茶は、神経を和らげてくれる一方で知覚は覚醒させてくれるので、信長は、これを愛好していた。
堺においては、茶の湯は、社会的な人脈を構築する手段として使われていた。信長は、父の備後守信秀や傅役の平手政秀が、しきりに連歌の会を催していた事を思い出し、
(あれは、伝手を作るための方便であったのか)
と、悟った。
淀川の河口付近の港市には、堺の他にも、摂津の渡辺や尼崎などがあった。渡辺は、一向宗の総本山・石山本願寺が掌握していた。それを知った信長は、
(またもや坊主か)
と、畿内における寺社勢力の強大さを改めて認識させられ、この国最大の宗教都市である奈良を次の訪問先に選んだ。
奈良の前身は、先の帝都・平城京である。この都は、平安京への遷都によって宮城と官衙街を失ったが、東大寺と興福寺という大寺院の門前町として再び興隆した。
この町の佇まいを見て、信長は、驚嘆した。
「これは・・・・・・竜宮城か⁈」
彼は、八歳で那古野城主となり、、二十二歳で清州城を得ている。美濃の稲葉山城と、その城下町である井ノ口を見た事もある。しかし、それらのどれ一つとして、奈良の門前町には及ばなかった。
七堂伽藍と、それに付属する僧房。建造物の屋根は全て瓦葺きであり、周囲に巡らされているのは築地塀。
信長が知っている城は、どれも屋根は板葺きで、塀は板塀であった。圧倒的な財力の差である。
(近江の比叡山延暦寺、摂津の石山本願寺、そして奈良の東大寺と興福寺。大寺社と比べれば、大名の富など物の数ではない)
彼は、宗教勢力に対して強い羨望と嫉妬を覚えずにはいられなかった。
信長は、その後、京都に戻り、更に数日間滞在した。
そのような中、奇妙な客が、織田の宿所を訪れた。
「上総介様に、御注進」
その人物の名は、丹羽兵蔵。まだ大和守流が存続していた頃、清州にあって信長に情報を提供していた簗田弥次右衛門の配下であった。
簗田弥次右衛門は、上洛中の信長の身を案じ、丹羽兵蔵に、信長に不審な者が近寄らないか見張るように命じた。
命を受けて、丹羽兵蔵は、信長の後を追って京に上ったのだが、近江の志那の渡において奇妙な一団と遭遇した。
その集団は、数名の侍と二十人ばかりの浪人者によって構成され、不穏な空気を漂わせていた。
丹羽兵蔵は、一団と同じ渡し船に乗って、その様子を観察し、彼等が鉄砲を所持している事を知った。
やがて、彼等の一人が、丹羽兵蔵に話しかけてきた。
「和主は、何処の国の者か」
兵蔵は、相手が織田家の敵である場合、尾張者と言えば警戒されると考え、
「三河者にござる」
と、答えた。三河は、尾張と訛りが近かったからだ。
相手は、兵蔵の言葉を疑わず、
「三河から参ったならば、途中、尾張を通ったであろう。あの国の様子は、どのようであったか」
と、尋ねた。
兵蔵は、ますます怪しく感じたが、何食わぬ顔で、
「尾張にては、誰しもが織田上総介殿を畏れ憚っておる様子でござった。それ故、それがしは、面倒事を起こさぬように気を配りつつ、かの国を通り抜け申した」
と、答えた。
すると、相手は、
「織田上総介か。かの殿の勢威も、そう長くは続くまいよ」
と、せせら笑った。
それを聞いて兵蔵は、
(こ奴らは、上総介様に差し向けられた刺客ではあるまいか)
と、疑い、渡し船が大津に着いた後も、その一行を尾行し、彼等が京都二条の蛸薬師に宿を取った事を確認した。そして、彼等の身の周りの世話をしている童子から、一行が美濃から来たことを聞き出し、
(斎藤新九郎が放った刺客に相違ない)
と、確信した。
丹羽兵蔵は、宿所の門に目印として傷を付けた上で、信長の宿所へ行き、警護役の金森長近と蜂屋頼隆に、美濃の刺客衆について報告した。金森、蜂屋の両名は、驚き、それを信長に伝えた。
信長は、こめかみに青筋を立てて怒った。
「遺恨を晴らさんとするに、合戦ではなく闇討ちとは。斎藤山城入道殿は奸雄であったが、斎藤新九郎は奸物に過ぎぬ」
金森長近と蜂屋頼隆は、
「直ちに出立いたしましょう」
と、勧めたが、信長は、
「刺客風情を恐れて逃げたと思われては、名折れである」
と、勇ましく撥ねつけて見せたが、実際には、相手側が鉄砲を所持していると聞いて、狙撃を恐れたのだ。
(どこで狙い撃たれるやら分からぬ)
最も有効なのは、機先を制して相手側の宿所を襲撃する事なのだが、京都で刃傷沙汰を起こせば、足利義輝の怒りを買ってしまう。
そこで、彼は、
(彼奴等が動くに動けぬようにしてやれば良い)
と、考え、まず金森長近を使者として二条の蛸薬師へ遣わした。
金森長近は、丹羽兵蔵の案内を受けて刺客衆の宿所へ行き、
「汝等の企てなど、先刻承知である」
と、威嚇しておいて、
「明日、小川表まで参れ」
と、命じて去った。小川表は、西陣織や京染呉服の問屋が集中している、京都の目抜き通りである。
刺客衆は、
(何故、当方の動きが先方に筒抜けとなっておるのか。我等は、初めから織田の間者に見張られておったのであろうか。あるいは、我等の中に内通者でもおるのか)
と、疑心暗鬼に陥って気力を失い、翌日、全員で指定された場所に赴いた。
京都の繁華街において、二つの集団が対峙する。片や織田家の侍衆、片や斎藤家の刺客衆。彼等の睨み合いにより、人の往来が途絶えた。但し、人々は完全にその場から去ったわけではなく、少し離れた場所から成り行きを見守っていた。
「これは何事か。彼等は何者か」
信長は、京衆の視線を意識しつつ、大音声を張り上げて刺客衆に言葉を放つ。
「我こそは、尾張の織田弾正忠信長なり。汝等は、美濃の斎藤新九郎義龍が家来衆であろう。汝等が主命により我の闇討ちを企てておる事は、既に露見しておる。先には実の父たる斎藤山城入道殿を弑し、此度は無室町殿に拝謁せんとして上洛した我を討たんとするとは、言語道断の振る舞いである」
ここに至って、刺客衆は、信長の真意を悟った。
(我等を、晒し者にしおった)
これ程の話題を、噂好きな京衆が、放っておくはずがない。この件に関する噂は、瞬く間に京都一円に広がるであろう。そして、京都の風評は、やがて日本全国に伝わる。そうなれば、ただでさえ悪い斎藤家の評判が、更に酷いものとなるであろう。
信長は、得意げに彼等を見やりつつ、
「汝等如きが我を討たんとするなど、蟷螂が斧を振り上げて馬車に立ち向かうが如きものである。それでも成就できると思うのであれば、いざ、掛かって参れ」
と、挑発した。
刺客衆は、気勢を挫かれ、武器を取るどころか、言葉を返す事すらできなかった。
信長は、刺客衆の様子を観察した後、悠々とその場から立ち去った。
刺客衆は、暫しその場に呆然と立ち尽くしていたが、やがて我に返り、風に吹き散らされる落ち葉の如くに退散した。
数日後、信長は、京都を出立して近江の守山に至り、翌日には雨天にも拘らず早朝に出発して伊勢に入り、昼夜兼行で鈴鹿峠を越えて尾張に帰り着いた。
強気に刺客衆を威圧した彼であったが、やはり鉄砲による狙撃を恐れていたので、旅程を急にしたのだ。
久しぶりに清州城を見て、彼は思った。
(縮んだか?)
城が縮むはずがない。彼の価値観が、広くなったのだ。
これまで、彼は、今川義元に対して苦手意識を持っていた。しかし、京都から戻って来てみると、今川家に対する恐れが和らぎ、
(今川治部は、手強いが、勝てぬ相手ではない)
と、考えられるようになった。
彼は、腹を決めた。
(鳴海城を攻める)