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信長公演義・桶狭間の合戦  作者: 酒井塞翁
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第八章 舎弟謀殺

〈たわけ者が〉


 弾正忠流には、生者でありながら死者のように扱われている者がいた。織田信広、仮名は三郎五郎。信長の腹違いの兄である.彼は、かつては三河・安祥城の守将であったが、今川家の軍師・太原崇孚によって城を落とされてからは、曖昧な立場に置かれ、大方の者達から存在を忘れられていた。

 守山城主・孫十郎信次が、喜六郎秀孝を殺害して出奔した時、彼は、

(我が、新たな守山城主に選ばれるのではあるまいか)

 と、期待した。

 ところが、選ばれたのは、弟の喜蔵信時であった。三郎五郎信広は、納得できなかった。

(何故、我を差し置いて、喜蔵が選ばれたのか)

 選ばれたのが、土田御前から生まれた嫡流の子弟であったならば、彼も、まだ諦めがついたであろう。しかし、喜蔵改め安房守信時は、三郎五郎信広の実弟であった。彼は、悲憤した。

(安祥城にて、討ち死にすべきであった)

 しかし、彼に関心を持つ者もいた。

(織田三郎五郎は、用に立つ)

 斎藤家重臣・長井道利である。長良川の合戦の後、彼は、明智光安を討ち滅ぼし、関城を本拠として東美濃を管領する立場となっていた。それまでは調略担当の日陰者であったのが、望み通り脚光の当たる役職を得られたのだ。

 ところが、彼は不機嫌だった。長良川の合戦以来、安眠を失ったからだ。眠ると、必ず同じ悪夢を見た。鎧武者が彼に向かって鉄砲を構えて嘲笑する。

「長井隼人? 然様な者は知らぬ」

 直後に銃声が轟き、道利の視界が白金色に染まる。

 夢から目覚めた道利は、拳で床を討つ。

(織田上総介め!)

 長良川の合戦は、彼にとっては勝ち戦のはずであった。斎藤義龍を奉じて斎藤道三を討ち、織田の援軍を撃退した。

(我は勝ち、織田上総介は敗れた)

 それなのに、あの合戦について思い返すと、屈辱しか蘇ってこない。彼は、誓った。

(如何なる手立てを用いても、織田上総介を討つ)

 彼は謀略家で、離間の計を得意としている。

(織田家中には、内訌の火種がある)

 少し前には、武蔵守信勝と林秀貞が、信長に対して叛旗を翻した。長井道利は、あの時、斎藤義龍に、

「織田武蔵守と林佐渡守に加勢すれば、織田上総介を滅ぼせまする」

 と、進言していたのだが、義龍は、首を縦に振らなかった。

「織田武蔵守は、不義の徒である。然様な者に、加勢する事などできぬ」

 彼は、兄に挑んだ武蔵守信勝に、かつて弟の孫四郎龍重と家督を争った彼としては、武蔵守信勝の兄に対する挑戦は、許し難い行為だったのだ。

 それが分かったので、長井道利は、それ以上勧める事ができなくなった。

 しかし、義龍の心境について考えたことで、ある事を思い出した。

(確か、織田上総介は、織田備後守の長子ではなかったはず)

 そして、三郎五郎信広に目を付けた。

(織田備後守の長子でありながら当主となれず、蔑ろにされておる。きっと、心中に不満を抱えておるはず。彼を唆して、上総介に嗾ければよい)

 斎藤義龍は、この案には裁可を与えた。不遇な長子である三郎五郎信広に、かつての自分自身を重ね合わせて同情したからだ。

 長井道利は、三郎五郎信広の屋敷に密使を遣わし、

「織田の家督は、本来ならば貴殿が受け継ぐべきものであると存じます。もしも、貴殿が正当なる立場を御望みなのであれば、当家には加勢の用意がござります」

 と、申し入れ、兵を集めるための軍資金を提供した。

 三郎五郎信広は、狂喜した。当主の座が欲しかったいうよりも、自らの存在価値を認めてくれる者がいたことが、嬉しかったのだ。

「よしなに御願い申す」

 彼は、承認欲求から、弟に対する裏切りを決意した。

 三郎五郎信広と密約を結んだ長井道利は、数百の兵を率いて出陣し、木曾川の北岸に陣を張り、尾張に攻め入る形勢を示した。

 信長は、それを知って不審に思う。

(何故、今なのか。武蔵守と林佐渡が謀反を起こした時には、動かなかったと申すに。それに、数百の兵にては何もできまい。尾張に呼応する者でもおれば、別であるが・・・・・・否、おると見るべきか)

 そして、悟る。

(これは、謀略に相違ない。当方が斎藤勢の動きに備えておる間に、何者かが清州を攻める手はずとなっておるのではあるまいか)

 彼は、自ら兵を率いて出陣するが、その際、留守居役の佐脇藤右衛門に、

「我が戻るまでは、何人たりとも城に入れてはならぬ。町衆にも加勢を頼んで、守りを固めよ」

 と、命じた。

 信長が出陣して間もなく、三郎五郎信広が、百余の手勢を率いて清州城に到来し、

「上総介殿が御出陣と聞き、後詰に参上した」

 と、開門を求めた。

 それに対して、佐脇藤右衛門は、

「誠に怖れながら、上総介様より御留守の間は何人たりとも御城に入れてはならぬとの御諚を承っておりまするゆえ、御意向には添いかねまする」

 と、拒絶した。

 三郎五郎信広は、佐脇藤右衛門の強硬な態度に接して、

(さては、事が露見したか!)

 と、狼狽し、早々に退去した。

 長井道利が信長を国境に誘き出している間に、三郎五郎信広が清州城を乗っ取り狼煙を上げ、それを合図に斎藤勢も進撃し、信長の兵を挟撃するという手はずとなっていたのである。

 長井道利は、木曾川の北岸において待機していたのだが、いくら待っても狼煙が上がらないので、苛立っていた。

(織田三郎五郎は、、何を手間取っておるのか )

 やがて、予め放っておいた間者が戻り、三郎五郎信広が仕損じた事を報告した。

 長井道利は、舌打ちして配下の兵に撤収を命じた。

 信長は、斎藤の兵が引き揚げるのを見届けた後、兵を率いて清州城に戻った。城に入った彼は、佐脇藤右衛門から三郎五郎信広が到来した事を聞いて、誰が斎藤家と通じていたのかを悟った。

(三郎五郎殿であったとは・・・・・・)

 彼は、敢えて異母兄の罪を追求しなかった。先に武蔵守信勝の謀反を許したのに、三郎五郎信広を罰したのでは不公平であると考えたからだ。

 三郎五郎信広は、この失敗に懲りて、二度と信長に背かなかった。


 信長が反逆した実弟と庶兄を許した事に、ある人物が関心を示す。

(それならば、我もまた許されるのではないか)

 鳴海城主・山口教継は、織田家から今川家に寝返った事を後悔していた。

(織田には先がなく、早晩、東海道一円が今川の版図に入ると思っておった)

 しかし、今川義元は、勢力拡大に慎重であり、今川家の先手として領地を拡大しようと考えていた山口教継としては、当てが外れた。

(今川に寝返ったは、早計であった)

 彼は、清州城へ密使を遣わし、信長に織田家への帰参を願った。

 それに対して信長は、

(これは、偽降ではあるまいか)

 と、疑い、明確な返答を与えなかった。山口教継は、それを、

(確たる返事がないのは、暗黙の了解も同じ)

 と、解釈し、同じ織田からの寝返り者である戸部城主・戸部政直と沓掛城主・近藤景春も仲間に引き入れようとした。

 戸部政直は、

(今川は、動きが鈍く、面白からず)

 と、思っていたので、山口教継に同意した。

 しかし、近藤景春は、同調する体を装いつつ、駿府の今川義元に、陰謀について密告した。

 今川義元は、赫怒した。

「不埒者どもが!」

 彼は、元は僧侶っだったため、規則・戒律に厳しかった。

「彼奴等は、侍と呼ぶに値せぬ輩である」

 今川義元は、山口教継と、その子息・九郎二郎教吉、そして戸部政直の三名を、

「これまでの武功を賞する」

 と、称して、駿府に召し寄せておいて、有無を言わさずに誅殺した。そして、笠寺砦を守る岡部元信を、新たな鳴海城主に任命した。

 鳴海城が今川家の直轄地となった事は、織田家にとって打撃であった。これを契機として、尾張東部の国衆が、恐怖心から続々と今川家に従属する恐れがあった。

 信長は、ある人物を清洲城に召し寄せた。生駒家長、仮名は八右衛門。丹羽郡・小折郷の領主で、信長の馬廻衆に所属していた。

 生駒家は、元々は犬山城の織田家に仕えていたのだが、信長は、足繁く小折を訪れ、家長の妹・吉乃を側室とするなどして彼等とのつながりを強めた。彼等が、単なる地侍ではなく、染料や油を取り扱う豪商で、広範囲の販売網を持っていたからだ。この販売網を活用すれば、情報の収集・拡散ができた。

 今回、信長は、生駒家長に、ある情報の拡散を依頼した。


 程なくして、東海道一円に、ある噂が広まる。

「織田上総介が、山口左馬助と戸部新左衛門が織田に内通しているかのような偽手紙を書き、それが今川の手に渡るように仕向けたところ、今川治部大輔は、それに騙されて罪なき山口左馬助と戸部新左衛門を誅殺してしまった」

 この噂は、今川義元の耳にも達した。

「何と⁈」

 当然、彼は怒った。

「世の者共は、我が織田上総介に謀られたと思っておるのか」

 蒲原氏徳、一宮宗是、由比正信ら重臣達は、

「口さがなき下衆どもの申す事など、御気になされますな」

 と、宥めたが、義元は、

「これは、些末な事にあらず。必ず、当家に損失をもたらすであろう」

 と、焦燥した。

 彼の危惧は、当たった。この噂が広まった事により、

「今川治部大輔は、織田上総介に謀られて罪なき臣を誅した愚物である」

 という印象が、世間に浸透した。その結果、今川家に心が傾きつつあった尾張衆が、

(いかに強大であろうと、敵の策に乗せられて家臣を誅殺するような者には、従えぬ)

 と、考え直すようになったのである。


 一方、三郎五郎信広を使っての清州城乗っ取りに失敗した長井道利は、次に岩倉城の伊勢守流に目を付け、当主の七兵衛信安に、信長を仮想敵とした軍事同盟の締結を申し入れた。

 単独で信長と争う勇気を持てない七兵衛信安は、この申し入れを受けた。

 長井道利の策は、それで終わりではなかった。彼は、七兵衛信安に、末森の武蔵守信勝とも同盟を結ぶように勧めた。

 斎藤家としては、当主の義龍が武蔵守信勝を嫌っているので、末森と同盟を結ぶことはできない。そこで、道利は、まず斎藤家と伊勢守流を結ばせ、次いで伊勢守流と武蔵守信勝を同盟させて、信長包囲網を形成しようとしたのだ。

 七兵衛信安は、長井道利の勧めに従い、末森城へ密使を遣わし、武蔵守信勝に、

「もし、貴殿が稲生の合戦の意趣返しを御望みならば、加勢いたしましょう」

 と、申し入れた。

 これより前、織田家においては、重大な事件が起きていた。信長の側室・生駒家の吉乃が男児を出産したのである。この子は、奇妙丸という幼名を与えられた。

 これにより、武蔵守信勝は、自動的に世継ぎの座を失った。先に彼が謀反を起こしながら命を助けられ、本領も安堵されたのは、織田家の世継ぎであったからこそだった。しかしながら、世継ぎではなくなった今、彼の存在は、信長にとって危険分子でしかない。

(いずれ、兄は、何事か口実を作って我を成敗せんとするやもしれぬ。そうなる前に、何か手を打たねば)

 そう考えていた矢先に、岩倉城から密使が来た。武蔵守信勝は、意を決した。

(岩倉と結んで清州を討つ)

 彼は、七兵衛信安の申し出を受諾し、反信長連合に参加した。

 長井道利は、満足した。

(これにて、織田上総介を追い詰める事ができる)

 しかし、彼等の秘密は、すぐに露見した。密告者が出たからである。

 末森の侍大将・柴田勝家は、主君の性懲り無さに呆れ果て、全てを清洲に報告した。

 信長は、

(此度は許せぬ)

 と、弟の誅殺を決意した。

 問題は、どのように、それを実行するかである。 末森城を攻めれば、伊勢守流に腹背を衝かれる恐れがある。そして、伊勢守流が動けば、斎藤家も呼応するかもしれない。それに、末森城には土田御前がいる。信長は、孝行息子であった。だからこそ、斎藤義龍を憎悪していたのだ。

(斎藤新九郎は許せぬ。彼奴は凶徒である)

 そう考えた時、脳中に案が閃いた。

(ああ、そうか。斎藤新九郎の真似をすれば良い)

 信長は、生駒家長を呼んだ。


 程なくして、信長が重病の床に臥せているという噂が広まる。

 末森城の土田御前は、憂慮した。

(不吉な事を考えたくはないが、上総介殿に万が一のことがあれば、後を継ぐのは奇妙丸殿である。かの殿は未だ幼少の身なれば、武蔵守殿が後見役を務めねばならぬ。されど、武蔵守殿は、先に謀反を起こしたばかりなれば、清州衆は得心すまい)

 彼女は、清州衆の武蔵守信勝に対する心象を少しでも良くするために、彼に信長を見舞うように勧めた。

 出不精な武蔵守信勝は、気が進まず、家来衆に意見を求めた。

「如何にすべきか」

 寵臣・津々木蔵人は、主君の意向を察して、

「御召しを受けたわけでもないのに、参上なさる事はござりますまい」

 と、言ったが、柴田勝家は、

「上総介様は、誰か他の者を後見役とされるやもしれませぬぞ」

 と、述べた。

 それを聞いて武蔵守信勝は、

(孫十郎叔父か、林佐渡あたりが選ばれるやもしれぬ)

 と、不安になった。

 奇妙丸の後見役に選ばれれば、謀反を起こすまでもなく織田家の実権を掌握できる。ゆくゆくは、奇妙丸から家督を奪う事も可能であろう。

(ここは、母上が仰せの通り、兄者の機嫌を取り結んでおくべきであろうか)

 そう考えた武蔵守信勝は、重い腰を上げ、僅かな供を連れたのみで、清州城へ赴いた。

 その途上において、彼は、考えた。

(兄者や清州衆の歓心を得るために、いかにも案じておるように振舞わねばなるまい。先の謀反の件については、改めて詫びておくべきであろうか。それとも触れずにおいた方が良いであろうか)

 あれこれ迷っているうちに、清州城と城下の町が視界に入ってきた。

 丘陵上に築かれた末森城が、威圧的な外観であるのに対して、河畔に築かれた清州城は、優雅な佇まいであった。

(前に参った時には閻魔の城のように感じられたが、今日は竜宮城のように思われる)

 武蔵守信勝は、既に城主となったかのような心境で、城の大手門を通り抜けた。その背後で、門扉が重い音を立てて閉じられた。

 城の北曲輪に入った武蔵守信勝は、次の間で佩刀を預けた後、座敷に通された。しかし、そこに兄の姿はなく、部屋の隅に侍が跪座していた。河尻秀隆、仮名は与兵衛。信長の馬廻衆に所属する手練れの武士であった。彼は、武蔵守信勝の姿を認めると、立ち上がって刀を抜いた。

 信勝は、身を翻して逃げる。

(謀られた‼)

 しかし、その行く手に二人の侍が立ちはだかった。信長の小姓衆、長谷川橋介と山口飛騨である。

 信勝は、脇の襖を突き破って廊下に出るが、そこにも侍が控えていた。池田恒興、仮名は勝三郎。信長の乳兄弟である。

 展開される狩猟の図式。獲物は一人で、狩人は四人。狩人は獲物を追い詰め、組み敷き、刺殺した。

 時を置いてやって来た信長は、弟の亡骸を確認した。

「たわけ者が・・・・・・」

 これまで、彼は、この実弟とは関係が疎遠で、顔をじっくりと見た事もなかった。今、改めて、その死に顔を観察してみると、亡父・備後守信秀によく似ていた。

 信長は、父に対する罪悪感に囚われたが、すぐに気を取り直し、

「末森に使いを出せ」

 と、末森城に使者を遣わし、武蔵守信勝を謀反の咎によって成敗した旨を通達した。末森衆は恐慌したが、柴田勝家が彼等を説諭して混乱を取り鎮めた。

 土田御前は、事の次第を知って激怒し、柴田勝家を呼びつけて、

「柴田権六郎殿、これは如何なる仕儀か。そなたは、此度の事が上総介殿の謀である事を存じておられたのか」

 と、難詰した。

 柴田勝家は、

「存じておりました」

 と、認めた。

 土田御前は、ますます怒りを募らせ、

「そなたは、亡き備後守様より武蔵守殿の補佐を託されしを、忘れられたのか」

 と、責めた。

 それに対して柴田勝家は、

「武蔵守様は、先に謀反の戦を起こして敗れ、上総介様より御赦免を頂いたにも拘わらず、美濃衆や岩倉衆と結んで再び上総介様に背かんとなされました。それがしが武蔵守様に背いたのではなく、武蔵守様が御家に反逆なされたのです」

 と、答えた。

 そう言われては、土田御前も返す言葉がなかった。

 とは言え、柴田勝家も、疚しさは感じていた。

(我等、末森衆が、武蔵守様を誤らせた)

 末森の侍衆は、備後守信秀の代には直参衆であったのに、信長が当主となると陪臣に格下げとなってしまった。彼等は、その事実を認めず、あくまで直参衆であるかのように振舞い、武蔵守信勝が信長に対抗心を抱くように仕向けた。

 柴田勝家は、信長の前に罷り出て、処罰を願った。

 信長は、勝家の心中を察してはいたが、敢えて空惚けた。

「そなたに何の罪があるか」

「武蔵守様を補佐しきれず、道を誤らせた罪にござります」

「それは心得違いである。武蔵守は、良臣を遠ざけ、佞臣を重んじておった。あの者の滅亡は、自業自得である」

「さりながら、主君の滅亡を食い止められなかった侍大将が、罪に問われずにいては、世に示しがつきますまい」

「世に示しが付かぬのは、才覚ある者や勤勉なる者が報われぬ事である。自責は無用。他の者の目が気になるのであれば、しばらくは休んでおれ。されど、いずれは侍大将として働いてもらうぞ」

 柴田勝家は、頭を垂れ、二度と信長に背くまいと誓った。


 信長は、武蔵守信勝と結んでいた伊勢守流を討ちたかったのだが、斎藤家の動きが気になって下手に動けなかった。ところが、その後、伊勢守流において事件が起きた。

 伊瀬守流の当主・七兵衛信安は、かねて長子の兵衛信賢を疎んじ、次子の信家を世継ぎにしようと考えていた。それに対して、兵衛信賢は、先手を打って挙兵し、父を追放して家督を強奪した。斎藤家で起きたことが、伊勢守流においても起きたのである。七兵衛信安は、斎藤家に亡命した。

 信長は、

「今ならば、当方が岩倉を攻めても、斎藤新九郎は、七兵衛に気を使って、兵衛に加勢できまい」

 と、判断し、千余の兵を率いて出陣する一方、犬山城の織田十郎左衛門信清にも参陣を求めた。

 十郎左衛門信清は、信長の従弟にして妹婿でもあったが、両者の関係は良好ではなかった。

 十郎左衛門信清の父・与次郎信康は、備後守信秀が稲葉山城を攻めた時に随行し、加納口の合戦において討ち死にしていた。つまり、十郎左衛門信清にとって斎藤家は、父の仇であった。

 ところが、その後、備後守信秀は、斎藤家と同盟を結んだ。十郎左衛門信清は、それを恨んで備後守信秀に敵対し、信長に代替わりした後も関係は改善されていなかった。

 それでも、信長が、今回、十郎左衛門信清に出兵を求めたのは、彼が、於久地城の領有権んを巡って伊勢守流と争っていたからである。

「十郎左衛門は、これを於久地を取る好機と考えるであろう」

 信長の読み通り、十郎左衛門信清は、旧怨よりも実利を重視し、自ら千余の兵を率いて岩倉城攻撃に参加した。

 岩倉城の南側は、五条川が流れ、水田も広がっていて攻めにくい地形であったので、清洲・犬山の両勢は、北側から城に迫った。

 伊瀬守流の新当主・兵衛信賢は、二千余の兵を率いて出撃し、浮野郷において清州・犬山の両勢を迎え撃った。

 信長は、三間半柄の長槍を装備した槍衆を前面に出して敵勢の勢いを殺し、弓・鉄砲衆の斉射によって痛めつけ、侍衆を投入した。森可成、中将家忠らをはじめとする侍衆は、敵陣に斬りの如く突き入り、その核を撃破した。

 伊瀬守流の軍勢は、敗走して岩倉城に籠った。

 清州・犬山連合軍は、岩倉城へ攻め寄せて城下の町を焼き払って挑発したが、伊勢守流が守りを固めて動かなかったので、撤退を開始した。

 すると、兵衛信賢は、再び兵を率いて出撃し、清州勢は避けて犬山勢に攻撃を掛けた。

 信長は、岩倉勢の動きを予測していた。彼は、父の備後守信秀が稲葉山城を攻めた時に、撤退するところを追撃されて大損害を受けた事を教訓としていた。

(城攻めにおいて最も危ういのは、囲みを解く時である)

 故に彼は、軍勢をゆっくりと退かせつつ、物見を放って岩倉勢の動きを監視していた。但し、彼は、その事を友軍の犬山勢には教えていなかった。教えれば、犬山勢は岩倉勢の攻撃に備えるであろう。

(それでは、敵勢を城から誘い出す事ができぬ)

 清州勢に痛めつけられた岩倉勢が、より弱い犬山勢を奇襲の標的にすることは、ほぼ確実であった。犬山勢を生餌として岩倉勢を城から誘き出し、犬山勢を救援する形で岩倉勢を攻撃する。そうすれば、岩倉勢を撃破するだけでなく、犬山勢に恩を売る事ができる。犬山勢に恩を売る事ができれば、戦後、十郎左衛門信清の加勢に対する報酬を、少なくできる。それが、信長の算段であった。

 信長の読み通り、岩倉勢から追い討ちを受けた犬山勢は、苦戦に陥り、清州勢に救援を求めた。

 信長は、直ちに軍勢を反転させ、岩倉勢を背後から攻めて撃破した。岩倉勢は、半数近い兵を討たれて四散し、兵衛信賢は、命からがら城に逃げ込んだ。

 信長は、一旦は清州に戻り、城攻めの準備を整えた後に、再び出陣して岩倉城に迫った。

 浮野の合戦において主戦力を失った兵衛信賢は、出撃はせず、ひたすら城の守りを固めた。

「上総介よ、この城は、そう容易くは落とせぬぞ」

しかし、清州勢は、城を攻めるのではなく、大規模な土木工事を開始した。即ち、城の周りを竹矢来で囲み、その後ろに濠を穿ち、塁を盛り、塀を築き、櫓を建てた。付け城の建設である。

 尾張は、水害が頻発するので優秀な土木事業者が多く、また、熱田、津島、富田などの門前町があるため高等な建築技術者に恵まれていた。信長は、彼等を動員して付け城の建設を担当させた。

 城兵は、工事を妨害すべく何度か出撃したが、その都度、清州勢に弓と鉄砲で撃退された。

 その間にも工事は進み、やがて岩倉城は、付け城に取り囲まれ、武器、兵糧、情報の流入を断たれてしまった。武器の補充ができないと城兵の戦力を維持できず、兵糧が供給されないと城兵の体力を持続できない。そして、外部の情報が入ってこないと、状況が把握できず、将来への展望が持てなくなる。

 兵衛信賢は、絶望し、自らと城兵の助命を条件として開城する事を、信長に申し入れた。

 信長は、この申し入れを受諾した。かくして岩倉城は落ち、伊勢守流は滅亡した。これで東部の今川領を経併呑すれば、尾張統一の達成である。しかし、その一歩を踏み出せば、今川家との全面戦争が始まる。

 目下の織田家の力では、今川家に勝つことは難しい。今川義元は、その気になれば清州を攻める事ができるが、信長には駿府を攻める事はできない。それが、両家の力の差である。

 しかし、織田は、新興勢力であるがゆえに活力に満ちている。その活力の源は、創業に参画すれば桁外れの成果が得られるであろうという期待感である。織田家が将来的には超弩級の勢力に成長するであろうという印象が世間に広まれば、野心・才能・財力に富んだ者達が、織田家に集まってくるであろう。

 では、どうすれば、そのような印象を世間に浸透させる事ができるのか。世間から見れば、織田家など地方の中小勢力に過ぎない。

 信長は、考える。

(天下に、吾が志を示すべき)

 新たな世界観を世に示し、織田家の存在感を際立たせるのだ。但し、単に示すだけでは、自信過剰だと思われてしまう。誇大妄想・夜郎自大では、衆望を集める事はできない。その世界観に、説得力を持たせる必要がある。

 信長は、決意する。

「京に上る。上って、室町殿に拝謁する」


 

 


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