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信長公演義・桶狭間の合戦  作者: 酒井塞翁
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第五章 清州城制圧

〈これは、兵を用いぬ戦である〉


  清州情はの権力構造は、寺院に似ていた。寺には御本尊があり、住職がそれを管理している。清州城の御本尊は、守護職の斯波義統であり、大和守流が住職の役割を果たしていた。

 その斯波義統の配下に、簗田弥次右衛門という侍がいた。身代は小さかったが、野心は大きく、栄達を望んでいた。落ち目の斯波家が主君では立身の機会を得るのは難しいが、彼には計画があった。

(高く売れる物がある)

 それは即ち清州城であり、買い手は信長であった。

 彼は、清州城に出仕している那古野弥五郎という大身の侍に近付いて親しくなり、折を見て、

「もはや、彦五郎殿には武衛さまを補佐し奉るだけの力量はござりませぬゆえ、早急に那古野の三郎殿を守護代として迎え申し上げるべきと存じまする」

 と、勧めた。

 那古野弥五郎は、弥次右衛門の言う通りだとは思いつつも、まだ若く世間知らずであった為、具体的に何をどうすれば良いのか分からなかった。

 そこで、簗田弥次右衛門は、

「それがしに 御任せあれ」

 と、那古野弥五郎の名前を使って同志を集め、派閥を形成した上で那古野城へ行き、信長に、味方する旨を申し出た。

 信長は、この申し出を喜び、清州を獲得した暁には簗田弥次右衛門とその一派を厚遇する事を約束した。

 簗田弥次右衛門は、清州においては信長の代弁者として、那古野に対しては清州衆との仲介役として振舞い、大きな影響力を持つに至った。そして、那古野弥五郎を介して、斯波義統に大和守流と手を切って弾正忠流を頼みとするように勧めた。

 斯波義統は、かねて大和守流より傀儡賭されてきたことを不服に思っていたので、信長が大和守流を討つ際には、その行為に大義名分を与えて正当化する事を約束した。

 しかしながら、この密約は、大和守流に伝わってしまった。彦五郎信友、坂井大膳、河尻左馬丞、織田三位らは、

「長年に渡って忠実に仕え申し上げてきた我等を、那古野の三郎と結んで討たんとなされるとは、天魔の所業である。かくも理不尽なる御方は、もはや御主君とは呼べぬ」

 と、怒り、斯波義統の弑逆を決意した。

 しかし、性急に手出しはできなかった。衰えたりとは言え、斯波義統は、屈強の侍衆を擁しており、清州城内にある守護館も堅固であった。義統が館に籠城すれば、そう簡単には落とせない。その間に弾正忠流の軍勢が駆けつけてくれば、大和守流の滅亡は必定である。

「急いては事を仕損ずる。慎重に機を待たねばならぬ」

 彦五郎信友や坂井大膳らは、好機が巡ってくるのを待った。

 折も折、斯波義統の嫡子・岩龍丸が堀江に川狩りに出かけ、斯波家の主だった侍衆の大半がそれに随行し、守護館の備えが手薄となった。

 彦五郎信友、坂井大膳、河尻左馬丞、織田三位らは、この機を逃さず、兵を集めて守護館を攻め、斯波義統を自害に追い込んだ。

 しかし、一人の小者が難を逃れ、堀江に走って岩龍丸に急を告げた。岩龍丸は驚愕して呆然自失の体となったが、伴衆が彼を守って那古野へ逃れ、信長に助けを求めた。

 信長は、岩龍丸を那古野城外の天王坊へ迎え入れ、元服させて斯波義銀と名乗らせた。これにより、国主の後見人という立場と、大和守流を討つ大義名分を手に入れた彼は、軍勢を召集し、末森城の勘十郎信勝にも柴田勝家を将とする軍勢を参陣させるように督促した。わざわざ柴田勝家を指名したのは、先の萱津の合戦において、勘十郎信勝が、自らは参陣せずに柴田勝家を派遣した事への嫌味である。

 勘十郎信勝は、不愉快であったが、斯波義統の仇討ちの為の合戦とあっては拒否できず、柴田勝家に出陣を命じた。柴田勝家は、二百余の手勢を率いて那古野へ赴いた。

 信長は、柴田勝家を上機嫌で迎えた。

「柴田権六郎、よくぞ参った」

 勝家は、信長の表情に揶揄の色が混ざっている事に気付き、

(これは、勘十郎様と我の間を離間する為の謀なのではあるまいか)

 と、勘繰った。

 その読みは、当たっていた。信長は、柴田勝家を指名する事によって末森衆に対して、

「那古野も末森もない。吾が目に留まった全ての者に、栄達の機が与えられるであろう」

 という事を示したのだ。また、勘十郎信勝に対する、

「汝が吾が下知に服さないのであれば、我は直に末森衆に命を下すであろう」

 警告でもあった。

 信長は、勝家に、槍・弓・鉄砲を装備した五百余の足軽衆を貸与して清州城の攻撃を命じた。

 勝家は、先の萱津の合戦の時部同様に一将として部将として使役されるものと思っていたので、この命令には驚いた。

(では、儂が那古野方の総大将という事か)

彼は、これが離間の策だと分かっていても、心が躍るのを抑える事ができなかった。ただし、信長は、瀧川一益を、与力として勝家に随行させた。

 柴田勝家は、瀧川一益を見て、

「胡散臭い」

 と、感じ、一益は勝家を見て、

「田舎臭い」

 と、思った。

 両大将は、七百余の兵を率いて出陣し、清州へ向かった。

 弾正忠流の動きを知った大和守流は、河尻左馬丞、織田三位、雑賀修理らを将とする千余の軍勢を、迎撃のために出陣させた。

 那古野・清洲の両勢は、山王口において遭遇した。双方、大楯や竹束を連ねて対峙し、弓射・銃撃を浴びせ合う。弦音が響き、銃声が轟き、楯が割れ、竹束が弾け、人馬が倒れる。

 清州勢の射手は各々が雑然と射撃を行ったが、那古野の射手は瀧川一益の号令に合わせて一斉射撃を行った。柴田勝家は、瀧川一益が足軽衆を良く統御できている事に感心した。

(見事な指図振りよ)

 河尻左馬丞と織田三位は、

「これは堪らぬ」

 と、兵を安食村まで後退させ、陣を立て直してから反撃に出た。

 軍勢を率いて追撃してきた柴田勝家は、清州勢が槍衾を作って待ち構えているのを見て、瀧川一益の方を顧みて言った。

「あの長槍の出番か」

 一益は頷いて槍衆を前面に出し、槍戦が始まる。那古野の槍衆が三間半柄の長槍を装備していたのに対して清州の槍衆の槍は普通の長さだった為、清州勢の攻撃は那古野勢に届かず、那古野勢が一方的に攻撃する展開となり、清州勢は誓願寺の前まで押し込まれた。

 河尻左馬丞、織田三位、雑賀修理の三大将は侍衆の騎馬突撃を以て頽勢を挽回しようとするが、瀧川一益は槍衆の槍衾によってそれを食い止め、弓衆と鉄砲衆の矢衾と弾幕を以て敵勢に痛撃を与える。清州勢は、崩れに崩れて、遂に清州の町の口にまで追い込まれる。

 ここで柴田勝家が侍衆を率いて突撃し、清州勢を撃破して河尻左馬丞、織田三位、雑賀修理の三将を討ち取った。敗れた清州勢は、城てへ退却した。勝家は、それを追って清州に迫りつつ、使番を那古野に走らせて信長に戦勝を報告した。

 信長は、

「さすがは柴田権六郎と瀧川左近である。戦果は十分。無理に清州城を攻めるには及ばぬ」

 と、柴田、瀧川の二将に帰還を命じた。そして、両将が軍勢を率いて那古野に戻ると、城下町の口まで出て迎え、

「権六郎、大儀であった。天晴れな働きぶりであった」

 と、その労をねぎらい、功を称えた。

 それに対して柴田勝家は、

「それがしは、鞍上にて事の成り行きを見ておったのみにござります。実際に兵を指図したるは瀧川左近殿にござりまする」

 と、述べ、瀧川一益も、

「鷹狩りのようなものでござりました。それがしは鷹で、柴田権六郎殿は鷹匠の役をはたされたのにござります」

 と、言った。

 信長は、

「各々が、その役を全うしたということであるな」

 と、満足し、両将を賞した。


 末森への帰途上、柴田勝家は、鬱々と思い悩んだ。

 彼は、これまで、勘十郎信勝の方が信長より優れた君主であると信じていた。しかし、今回、那古野の大将を務めてみて、末森城には緊張感が欠如している事に気付いた。組織は、適度に張りがないと、難事に対応できない。

 那古野城においては、古参者と新参者、尾張者と他国者が競合しているので、適度に緊張感が保たれていた。

(そのような状況は、不和と混乱を生む)

 と、勝家は、これまで考えていたのだが、今回の合戦を経て、異分子と行動を共にすると神経が研ぎ澄まされて心気が一転するのだという事を知った。

(儂は、いつの間にか安寧のみを求めて、野心を失っておった)

 そして、野心を取り戻した途端に末森に戻らなければならない。

(儂は、末森の侍大将ではあるが、所詮は陪臣に過ぎぬ。それに比べて、あの瀧川左近は、新参の他国者ではあるが、直参である。次に会う時には、瀧川が大将で儂が与力を務める事となるやもしれぬ)

 その瀧川一益は、合戦の前は、柴田勝家の与力とされた事に不満を感じていた。

(柴田権六郎は、名の聞こえた侍大将ではあろうが、末森在番の陪臣ではないか。所詮、他国者は尾張者の下に置かれるのか)

 ところが、戦を終えて那古野に戻ってくると、侍衆の彼に対する態度が変わっていた。それまでは足軽大将程度にしか見られていなかったのに、侍大将として認められるようになった。柴田勝家の与力を務めたことにより、家中における一益の格が上がったのである。

 彼は、

(なるほど、そういう事であったか)

 と、信長を恨んだ事を後悔した。


 先の萱津の合戦と、今回の安食の合戦における敗北によって、大和守流は、回復不可能な打撃を被ってしまった。

 最後の宿老・坂井大膳は、懸命に活路を求め、守山の孫三郎信光に目を付けた。

(守山の孫三郎は、あの小豆坂の合戦においても武功を立て、兄・備後守の後を継いでもおかしくはなかった。それが今では、甥の三郎に使役されておる。きっと心中に不満を抱えておるに相違ない)

 守山の侍衆に、坂井大膳の縁者である坂井孫八郎という者がいた。大膳は、彼を仲立ちとして孫三郎信光に、

「当方に御加勢下されるならば、守護代として御迎えいたす用意がござりまする」

 と、申し入れた。それは即ち、信光を、己の主君である彦五郎信友と同等に扱うという事であった。

 孫三郎信光は、この申し入れを受諾し、五百余の兵を率いて清州城へ入った。

 彦五郎信友は、

「一つの城に二人の主とは」

 と、不快感を示した。それに対して坂井大膳は、

「これは急場しのぎに手立てにござります。どうか、しばし御辛抱を」

 と、なだめたが、実際には先の展望などなかった。

 孫三郎信光は、清州城の南曲輪に入った。彦五郎信友は、北曲輪に居住していたので、城の南北に二人の守護代が並立する形となった。歪な体制であったが、坂井大膳は、清州城を天秤のようなものと考えた。天秤の片側の皿には孫三郎信光が、もう片方の皿には彦五郎信友が乗っており、中央で坂井大膳が支点の役割を果たす。

(これにて、那古野の三郎信長も、おいそれとは清州に手出しできまい)

 彼は、間違っていた。信長の手は、既に清州の奥深くに差し入れられていたのである。

 孫三郎信光は、坂井大膳からの申し入れがあった時、すぐに信長に報告して、

「それがしは、坂井大膳の求めに応じたと見せかけて、清州城へ入り込みまするゆえ、三郎殿は、外より攻め寄せてくだされ」

 と、要請していたのだ。それを受けて、信長は、自ら軍勢を率いて清州城の付近にて待機していた。


 白刃が急所を抉り、鮮血が噴き出す。犠牲者の断末魔の叫びは、刺客の掌によって押し潰される。

 刺し殺されたのは坂井大膳の兄・大炊助で、刃を振るったのは孫三郎信光の近習であった。坂井大炊助は、孫三郎信光に、表向きには世話役、実際には監視役として付けられていた。

 孫三郎信光は、清州側の用心を心中にて嘲笑った。

(我等を城内に入れた後に用心しても、手遅れと申すものである)

 彼は、坂井大炊助に対して、

「我等は、この城には不案内であるゆえ、よしなに御願い申す」

 と、愛想よく接しつつ、近習衆に目配せした。近習衆は、脇差を抜き、坂井大炊助とその家来衆を刺し殺した。孫三郎信光は、足元に転がった躯を冷然と見下ろした後、家来衆に狼煙を上げるように命ずる。

 城外において待機していた信長は、城内より狼煙が上がるのを見るや、兵に下知して城へ攻め寄せる。寄せる那古野勢と内応する守山勢に挟撃されて、清州城は陥落した。

 坂井大膳は、身一つで駿河に逃亡した。以後の消息は不明である。

 彦五郎信友は、那古野と守山の兵に座所を囲まれ、屋根の上に逃れた。弾正忠流方の天野作左衛門という侍が、屋根によじ登り、彦五郎信友を追い詰めて刀で突いた。突きは浅かったが、信友は体の均衡を失って下に転落し、地面に叩きつけられて動けなくなった。そこへ森可成が駆け寄って首を取った。

 こうして、大和守流・織田家は滅亡した。

 尾張の府城を得た信長は、これを契機として自らの仮名を「三郎」から「上総介」に改めた。無論、朝廷から正式に受領に任命されたわけではなく、僭称である。


 清州城奪取の最大の功労者は、言うまでもなく孫三郎信光である。信長は、褒賞として、信光に大和守流領の半分と、これまで本拠としてきた那古野城を与えた。そして、守山城の城主には、信光の弟で深田城主であった孫十郎信次を任命した。

 信光も信次も満足したが、不満を抱く者もいた。

(吾が面目は、丸潰れである)

 孫三郎信光と坂井大膳の仲介役を務めた、坂井孫八郎である。彼は、信光が信長と共謀して清須城の乗っ取りを計画していた事を全く知らされておらず、本気で主君を守護代とするつもりで活動していた。

 孫三郎信光が坂井孫八郎に真実を知らせなかったのは、

(敵を騙す時は、まず味方から)

 と、考えたからだ。要するに、信光は、孫八郎を、坂井大膳を信用させるための駒として扱ったのだ。

(儂は殿の御為に働いたと申すに、殿は儂を、謀られた)

 恨みを抱いた彼は、隙を見て孫三郎信光を刺し殺し、逐電した。

 凶事を知った信長の落胆は、大きかった。彼は、孫三郎信光を、尊敬し、頼りにもしていた。

 しかし、悲嘆に暮れている暇はなかった。早急に新城主を任命しなければならないのだが、孫三郎信光の後釜となると、相当な分際の人物でないと務まらず、人選が難しかった。

 信長の念頭には、ある人物の名が浮かんでいた。

(林佐渡ならば、この役が務まるであろう)

 彼は、村木砦攻めの際に反抗的な態度を取った林秀貞に対して、まだ怒りを抱いてはいたが、

(背に腹は代えられぬ)

 と、考えて、荒古城へ使者を遣わし、

「城代として那古野城に入ってもらいたい」

 と、要請した。

 林秀貞は、感情に任せて那古野城から退去した事を、

(いささか早計であったか)

 と、後悔していたところだったので、渡りに船とばかりに要請に飛びつき、那古野城に入って混乱を鎮めた。

 孫三郎信光を殺害した坂井孫八郎は、熱田に住む田島肥後という人物に匿われていた。探索によりそれを突き止めた信長は、佐々孫助をはじめとする六名の侍を、討手として熱田へ差し向けた。

 六名の討手は、田島肥後の住居の前で喧嘩の真似事をして騒ぎを起こし、坂井孫八郎が気を引かれて出てきたところを斬った。

 しかし、災難は、まだ終わっていなかった。


 孫三郎信光の横死より半年後の弘治元年七月七日、守山城主・孫十郎信次は、近習衆を引き連れて、庄内川で川漁を行っていた。

 そこへ、身分の高そうな侍が、単騎で通りかかった。武家社会の礼儀としては、このような時は下馬して挨拶するものであったが、この侍は、馬に乗ったまま孫十郎信次の前を通り過ぎようとした。

 信次と近習衆は、激怒した。

「乗り打ちとは無礼なり」

 洲賀才蔵という侍が、弓を取り、その侍に対して矢を放った。矢は過たず命中し、侍は馬から落ちた。孫十郎信次と家来衆は、侍に駆け寄る。侍は、急所を射貫かれて絶命していた。それが誰であるか判明した時、孫十郎信次主従は、顔面蒼白となる。

 侍は、信長と勘十郎信勝の実弟である織田喜六郎秀孝という人物であった。

 孫十郎信次は、恐慌し、そのまま逐電してしまった。

「いかに叔父御であろうと、これは許せぬ」

 そう言って怒ったのは、信長ではなく、末森の勘十郎信勝であった。彼は、喜六郎秀孝と共に育っていたので、親愛の情が濃かったのだ。

「喜六郎の仇を討つ」

 これまで軍事を家来任せにしてきた彼が、この時ばかりは自ら軍勢を率いて出陣し、守山城を攻め、城下町を焼き払った。守山の侍衆は、角田新五、高橋与四郎、坂井喜左衛門、丹羽氏勝らの侍大将たちを軸として団結し、城を守った。

 一方、清洲の信長は、喜六郎秀孝の死を知ると、館より走り出て馬に乗り、そのまま守山へと向かった。

 彼は、勘十郎信勝のように怒ってはいなかった。喜六郎秀孝とは幼少期を共に過ごしていなかったため、兄弟の実感が薄かったからだ。ただ、少しでも早く状況を把握したかった。

(何故、孫十郎叔父は喜六郎を殺めたのか。これは、守山の謀反なのか)

 信長が前触れなしに出て行ってしまったため、近習衆は慌てて後を追ったが、その乗馬が酷使に耐え兼ね、次々と泡を吹いて倒れてしまった。

 信長は、駿馬がいると聞くと金銭に糸目をつけずに手に入れ、大切に世話はするが決して甘やかさず、日々鍛錬して過酷な状況に耐え得るようにしていた。それに比べて近習衆は、主君ほどには乗馬を鍛えていなかった。

 信長は、守山城の外堀とも言うべき矢切川の渡し場まで来て馬を止め、後ろを顧みて初めて誰も続いていない事に気付き、

「何と不甲斐なき事か。皆、心掛けが行き届いておらぬ」

 と、嘆きつつ、川の水で馬の口を洗いながら近習衆が追い付いてくるのを待った。

 そこへ、犬飼内蔵という侍がやって来て、信長に事件の経緯について詳しく話した。信長は、事情を知って少し安堵した。

「然様か。これは謀反ではないのか」

 そして、守山城まで行く気が失せた。

「孫十郎叔父は、誠に粗忽者である。されど、喜六郎にも非はある。吾が舎弟ともあろう者が供回りの衆も連れずに単騎にて出歩くなど、軽率にも程がある。例え存命いたしておったとしても、我が厳しく罰しておったであろう」

 それを聞いて、犬飼内蔵は、空いた口が塞がらなかった。他ならぬ信長が、伴も連れずに単騎で軽率な行動を取っているのだから。

 しかし、信長は、内蔵の呆れた様子には全く気付かず、

「子細は分かった。これ以上ここにおっても詮無い」

 と、清州城に戻り、飯尾定宗を将とする部隊を派遣して守山城を監視させた。

 勘十郎信勝も、守山城下を焼き討ちにした後は、柴田勝家と津々木蔵人の二将に軍勢の指揮を任せて、末森城に戻った。

 信長としては、事が謀反でないと分かったからには守山城を攻めるつもりはなかったが、守山衆が籠城の構えを崩さないので、対応に窮した。

(新たに城主を決めねばならぬが、守山衆が、それを受け入れるとは思えぬ。さりとて、此度の一件においては守山衆には罪がないゆえ、城を攻めるわけにもゆかぬ。さて、何としたものか)

 そこへ、ある人物がやって来て、信長に意見を具申した。

「それがしに存念がござりまする」

 山崎城主・佐久間信盛、仮名・右衛門尉。末森の侍大将・佐久間盛重の弟である。この時、二十八歳。

「それがしは、守山の侍大将・角田新五と親しくしております。殿の御許しを頂けるのであれば、かの者にといて城を開かせて御覧に入れます」

 佐久間信盛は自信満々の様子であったが、信長は信じられなかった。

「如何にして角田新五を説き伏せる所存か」

「守山衆が城の守りを固めておりまするのは、主の罪に連座して処罰されるのを恐れての事と思われまする」

「我は、守山衆を罰するつもりはない。さりとて、このまま孫十郎叔父を城主にしておくわけにも参らぬ」

「守山衆は、誰が新たな城主に選ばれるかを、気にかけておりまする」

「無論の事、然るべき者を選ぶ所存である」

「孫十郎様の後釜ともなれば、大身の侍でなくてはなりますまい」

「然様である。分際の低き者を選んでは、守山衆を辱める事となるゆえ」

「その事にござりまする。大身の侍は、家来衆の数も多いものにござります」

「そうであろうな」

「さすれば、その家来衆が重臣とされ、孫十郎様の元からの家来衆は、その下に置かれるでござりましょう。守山衆にとっては、面白からざる事にござりましょう」

「ああ、そういう事か」

 信長は、顔をしかめた。

「分際の低い者を城主とすれば、守山衆の面目が立たず、分際の高い者をの任命すれば、守山衆の立場が危うくなる。さて、いかにせん」

「さればでござりまする」

 佐久間信盛は、身を乗り出す。

「畏れながら、御舎弟の喜蔵様を御起用なされては、いかがでござりましょうか」

「喜蔵か・・・・・・なるほど」

 信長の表情が晴れる。

 織田信時、仮名・喜蔵は、信長の異母弟でる。

 かつて三河・安祥城の守将を務め、今川家の名軍師・太原崇孚に城を落とされて捕虜となった、織田三郎五郎信広という人物がいる。喜蔵信時は、その実弟であった。

「喜蔵ならば、吾が舎弟ゆえ分際は申し分ない。されど部屋住みの身ゆえ、家来衆は少ない」

 正に、御おあつらえ向きの人物である。

「彼ならば、適任である」

 信長は、佐久間信盛に交渉権を委ねた。佐久間信盛は、守山城へ行き、角田新五、坂井喜左衛門、丹羽氏勝らに、新たな城主として喜蔵信時を迎え入れるよう求めた。

「さすれば、この一件は落着いたす」

 守山衆は、事件の着地点が見いだせずに苦しんでいたところだったので、この提案を受け入れた。佐久間信盛は、直ちに清州に取って返し、信長に交渉が成立した事を報告した。

 信長は、飯尾定宗の部隊を撤収させ、柴田勝家と津々木蔵人が率いる末森勢にも帰城を促した。

 それに対して津々木蔵人は、

「勘十郎様の御命令無くば、退くわけには参らぬ」

 と、渋ったが、柴田勝家は、

「我等が上総介様の御命に逆らえば、勘十郎様が御立場を失う事となろう」

 と、津々木蔵人を説得し、兵をまとめて末森に帰還した。

 信長は、喜蔵信時に、

「そなたも、これよりは一城の主なれば、仮名が喜蔵では些か軽かろう」

 と、彼に新たに「安房守」の仮名を与えた上で、守山城へと遣わした。この仮名は、信長の「上総介」と同じく僭称であった。彼は、この時、

(名字や仮名を与える事は、賞与となり得る。これには元手がいらぬ)

 という発想を得た。そして、末森の勘十郎信勝にも「武蔵守」の称を与えた。

 勘十郎改め武蔵守信勝は、少しも嬉しくなかった。

(喜六郎の仇討ちが果たされておらぬ)

 仲の良かった弟・喜六郎秀孝の死を悲しんでいた武蔵守信勝は、信長が、孫十郎信次を討たず、守山城も攻めず、事件を政治的に解決したことを恨んだ。

 こうして、騒動は終息したが、清州城を奪取してから凶事が相次いだため、弾正忠流の家中は、

(これは、騙し討ちにされた彦五郎殿の祟りなのではあるまいか)

 という妄想に取りつかれた。

 そんな折、東方より使者が到来した。


 駿府の今川義元は、信長が清州城を落とした事を知ると、

(織田三郎は、このまま勢いに乗って鳴海や大高を攻めるやもしれぬ)

 と、警戒した。この頃、今川家においては重鎮・太原崇孚が病死していたので、合戦は避けたいところであった。

 しかし、その後、弾正忠流において騒動が相次いだことから、

(成り上がり者が、身の程を忘れて背伸びをした結果である)

 と、安堵した。そして、

(これを機に、調略を以て織田を屈服させるべき)

 と、考え、清州へ使者を遣わし、信長に、今川領と織田領の境界を定めるために、三河守護の吉良義昭と尾張守護の斯波義銀を会見させることを提案した。

 吉良家は、足利一門衆で将軍家に次する格式を有していたが、戦国大名に成長できず、地侍級の勢力しか維持できていなかった。

 今川義元は、その当主である西条城主・吉良義昭を後援して三河の守護を名乗らせていた。

 信長は、この回りくどい提案の意味を、すぐに理解した。

(守護職の会見にて境界を定めるという事は、当方と合戦をするつもりがないという事か)

 つまり、これは一種の休戦協定であると言えた。騒動の連続で衰弱している弾正忠流にとっては願ってもない話であったが、問題もあった。

 まず、このまま休戦協定を結べば、鳴海、大高、沓掛が今川領であると認めたことになる。

 また、斯波義と吉良義昭が会見するという事は、信長の主君が今川義元の被官と同格であると認めたことになる。そいうなると、世間に、東海地方の武家社会においては今川義元が最上位で織田信長が最下位であるという印象を与えかねない。

(撥ねつけるべきか)

 拒絶すれば、今川との消耗戦を覚悟しなければならない。また、信長と斯波義銀の関係にも亀裂が入る恐れがある。政治の実務から遠ざけられて退屈な生活を送っている斯波義銀としては、この会見は、初の晴れ舞台である。その機会すら奪われたなら、彼は、信長のことを恨み、

(家来筋である織田の傀儡でいるよりも、同じ足利一門である今川の被官となった方がましである)

 と、考えるようになるかもしれない。そして、彼が、今川の後援を受けて、鳴海の山口教継、沓掛の近藤景春、戸辺の戸部政直、笠寺の岡部元信らを指揮下に置き、岩倉の伊勢守流と結んで兵を挙げたなら、もはや信長の手には負えなくなる。

 斯波義銀を奉戴しているからこそ、弾正忠流は、宗家である大和守流を滅ぼしても世間から非難されなかった。そして、その大和守流は、斯波義統を殺害したからこそ滅亡に追い込まれた。

 信長は、悟った。

(これは、兵を用いぬ戦である)

 今川義元は、一兵も用いることなく信長を追い詰めた。

 信長は、斯波義銀と吉良義昭の会見を了承するしかなかった。会見に先立ち、彼は、斯波義銀を那古野の天王坊から清州城の本丸へと迎え入れ、自らは北の曲輪へと移った。少しでも斯波義銀の歓心を買い、今川義元に付け入る隙を与えないための措置であった。


 弘治二年四月、三河・上野原。一町五段の距離を取って、二つの床几が野に置かれる。

 東側の床几には吉良義昭が座り、その背後には今川義元が率いる千余の軍勢が控える。

 西側の床几には斯波義銀が座り、その背後には織田信長が率いる数百の軍勢が控える。

 やがて、吉良義昭と斯波義銀とは床几から立ち上がり、共に数十歩進んで距離を狭めたが、それ以上は歩み寄らず、すぐに床几に戻った。そして、その後、双方が陣を解いて退去し、会見は終了した。

 信長は、思った。

(我は、武衛様を奉戴せねば人より尊ばれぬが、今川治部は、誰も担ぐことなく世から崇められておる。織田の格式を上げぬ事には、今川には勝てぬ)


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