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信長公演義・桶狭間の合戦  作者: 酒井塞翁
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第四章 村木砦の合戦


〈狭間三つは、我が引き受けた〉


 今川家。足利将軍家の一門衆であり、駿河、遠江と三河の半分を領有する大名である。その当主である今川義元、仮名・治部大輔は、決して苦労知らずの御曹子ではなかった。

 義元は、先々代の当主・今川氏親の五男として生まれた。

 氏親の後を継いだのは嫡男の氏輝であったが、彼には子供がいなかったので、すぐ下の弟である彦五郎が世継ぎとされた。義元は、僧籍に入り、栴岳承芳と名乗っていた。

 ところが、天文二十年に氏輝と彦五郎が、ほぼ同時に急死した。今川家は、当主と世継ぎを一時に失ってしまったのである。

 今川氏真の未亡人である寿桂尼と、朝比奈泰能をはじめとする重臣たちは、栴岳承芳を還俗させ、時の征夷大将軍・足利義晴から諱の一字を賜って義元と名乗らせて当主の座に据えた。

 しかしながら、それに異を唱える者が現れた。今川氏親の四男で、やはり僧籍に入っていた玄広恵探という人物である。彼は、側室の子であるがゆえに義元の兄でありながら当主に選ばれなかった。その事に不満を抱いた彼は、母方の伯父であるそ遠江の大豪族・福嶋越前守の奉戴を受け、当主の継承権を主張して挙兵した。 この騒動は「花蔵の乱」と呼ばれている。

 義元は、それまでは僧侶として修業していたのに、いきなり大名家の当主に祭り上げられて国を二分する戦いに臨む、という過酷な状況に立たされてしまった。

 幸い、彼には頼りになる相談役がいた。太原崇孚、道号は雪斎。遠江の地侍・庵原家出身の高僧で、義元が僧侶時代の兄弟子であった。義元が僧侶の心を持った大名であるなら、太原崇孚は、武将の気概を備えた高僧であると言えた。

 崇孚は、義元に進言した。

「北条家に加勢を御求めなされませ」

 相模の大名・北条家は、今川家の同盟勢力であった。義元は、進言に従って相模の小田原城へ使者を遣わし、北条家に援軍を要請した。

 北条家の当主・北条左京大夫氏綱は、要請に応じて駿河に援軍を派遣した。

 北条家の加勢を得た義元方は、勢いづいて玄広恵探の拠る花蔵城を攻め落とした。玄広恵探は、城北の普門寺に逃れ、そこで自害した。こうして「花蔵の乱」は終息したが、新たなる乱の種子が、既に播かれていた。


 「花蔵の乱」の真の勝者は、義元ではなく、その母の寿桂尼であった。彼女は、二人の子を立て続けに失うという不幸に見舞われながらも、残る実子を当主に立て、将軍の承認を取り付けて重臣の大半を味方に付け、目障りだった側室の実家を排除した。

 それでも彼女は、勝利に浮かれることなく、次なる課題を見つけていた。

(北条に負い目を作りし事は、将来の禍根なり)

 彼女にとって北条家は、姑・北山殿の実家であったため、小うるさい存在だったのだ。

 寿桂尼の基本的な戦法は「夷を以て夷を制す」であった。藤原北家の観修寺流・中御門家の出身である彼女にとって、武家の大名など「夷狄」以外の何者でもなく、都合よく利用する事に何の抵抗も感じなかった。

(武田を以て北条を制する)

 寿桂尼は、甲斐の大名・武田信虎の元へ使者を遣わし、彼の息女を義元の正室に迎えたい、と要望し、それと引き換えに、信虎の嫡子である武田太郎晴信の正室に京都の公家の姫を世話する事を約束した。

 これまで、今川家と武田家の関係は良好ではなかった。これより十六年前の大永元年には、福嶋正成を将とする今川の大軍が武田家の本拠である甲斐の甲府に攻め込み、当時身重だった信虎の正室・大井氏が、躑躅ヶ崎館から要害山・積翠寺まで避難するという事態となった。この時、大井氏が積翠寺にて出産したのが、世継ぎの太郎晴信であった。

 その後、武田信虎は、飯田河原の合戦と上条河原の合戦に勝利して、今川勢を撃退した。

 このように、両家の間には遺恨があった。

 しかし、武田信虎は、感情よりも実利を重視する人間であった。今川と同盟を結べば、武田は後顧の憂いが無くなる。また、京都の公家と縁組をすれば、武田の家格が上がる。故に、武田信虎は、寿桂尼の申し入れを受諾し、天文六年の二月に息女を今川家に輿入れさせた。寿桂尼も、京都の三条家の姫を、武田晴信の正室に世話した。

 これを知った北条氏綱は、激怒した。北条家は、武田家と敵対していたからだ。

「恩を仇で返すか!」

 彼は、駿河に軍勢を派遣し、富士川より東の地を占領した。〈河東一乱〉の始まりである。この乱は、先の「花蔵の乱」とは異なり、十六年に渡って続く事となる。

 今川義元は、単独では北条と戦えないので、武田信虎に加勢を求めた。しかし、その一方で、

(首尾よく北条を駆逐できたとしても、武田に頭が上がらなくなる。今から、方策を立てておくべき)

 と、考え、北条と争っていた扇谷・上杉家や山内・上杉家、古河公方・足利晴氏などとも結び、対北条包囲網を構築した。

 これにより、攻めていたはずの北条が、受け身に立たされてしまった。

 その後、武田と北条の両家において、当主が交替した。北条においては氏綱が死去して嫡子の氏康が後を継ぎ、武田においては信虎が国衆に追放されて、嫡子の晴信が後釜に据えられた。

 父以上の現実主義者である武田晴信は、

(北条と争っても無益である)

 と、考え、天文十三年に北条と和睦した。これにより、対北条包囲網の一角が崩れた。

 しかし、義元に武田を責める資格はなかった。かつて今川も北条に対して同様の裏切りを行い、その結果として〈河東一乱〉が勃発したのだから。

 そもそも、今川と北条の争いは、利害の対立ではなく感情の齟齬から始まったものである。義元は、考えた。

(当方も、北条と和睦すべき)

 それなのに、彼は、直ちに北条に和議は申し入れず、逆に、扇谷・山内の両上杉家や古河公方との連携を強化した。

(今、当方から北条に和睦を申し出れば、足元を見られるであろう。まずは相手を追い詰め、向こうの側から和議を申し入れてくるように仕向けるべき)

 義元は、自ら兵を率いて駿河東部の北条占領地域を攻めた。それに対して、北条氏康も軍勢を率いて相模の小田原城より出陣し、今川勢と狐橋において対陣した。

 すると、その間に扇谷・山内の両上杉と古河公方・足利義晴が兵を動かし、北条家の武蔵における拠点である河越城を攻めた。これにより、北条氏康は、今川勢との戦いに専念できなくなった。

 すかさず、今川義元は兵を進めて北条勢を撃破し、吉原城と長久保城を取り戻した。

 北条勢は、決定的な損害を被ってはいなかったが、敵に東西から挟み込まれて窮地に陥った。北条氏康は、考えた。

(二兎を追う者は一兎をも得ず。ここは、今川とは和睦して両上杉との戦いに専念した方が良かろう)

 幸いにも、北条と今川には、武田という共通の同盟者が存在した。北条氏康は、武田晴信を仲立ちとして今川義元に、駿河における占領地の返還を条件として、和議を申し入れた。

 正に、義元が望んでいた展開となったわけである。義元は、氏康の申し入れを受諾して北条と和議を結び、ここに〈河東一乱〉は終結した。

 北条氏康は、河越城の救援に向かい、夜襲によって両上杉と古河公方の連合軍を撃破し、扇谷・上杉家の当主・上杉朝定を討ち取った。

 こうして、今川、武田、北条の三家は背中合わせとなり、今川は三河へ、武田は信濃へ、北条は上野へ進出するという路線が定まった。


 この頃、尾張においては織田備後守信秀が勃興し、三河に進出し始めていた。

 義元は、織田家に圧迫されていた岡崎の松平家を支援しつつ、天文十七年には小豆坂の合戦において織田の軍勢を撃破し、天文十八年には安祥城を攻め落として織田信秀の長子・三郎五郎信広を捕虜とした。

 危機感を覚えた織田信秀は、それまで争っていた斎藤利政と和睦して、今川家との戦いに専念しようとした。

 それに対して、今川義元は、織田信秀との関係が良好ではない楽田城主・織田寛貞、犬山城主・織田信清らと結び、対織田信秀包囲網を構築した。しかし、織田寛貞と織田信清は、織田信秀から威嚇されただけで怯んでしまったので、この包囲網は、それほど効力を発揮しなかった。

 天文二十年に織田信秀が急逝して三郎信長が後を継ぐと、鳴海城主・山口教継をはじめとする尾張東部の地侍衆が、織田家に見切りをつけて今川家に寝返ってきた。義元は、これで尾張を掌握できると判断し、軍勢を派遣した。

 ところが「大うつけ」と呼ばれていた織田信長が、果敢に反撃したため、今川家に傾きかけていた東尾張衆の心が再び織田へと引き戻され、山口教継らの寝返り組は勢いを失ってしまった。

 義元としては、笠寺に駐屯する部隊の兵力を増強したいところであったが、三河の知多半島を勢力圏とする水野家が兵站線を脅かしているので、できなかった。

(まずは、水野を討つべき)

 義元は、三浦義就と浅井政敏を将とする千余の軍勢を、知多半島へ差し向けた。

 三浦義就と浅井正敏の二将は、まず水野家の部将である山岡伝五郎が守る重原城を攻め落とし、ついで花井信忠が守る寺本城を降伏させ、更に水野家の本拠である緒川城を攻略するために、その北の村木郷に付け城を築いた。

 水野家の当主・水野信元、仮名・下野守は、

「これは容易ならぬ」

 と、織田信長に援軍を求めた。

 信長としては、

(今の我等の力では、今川には勝てぬ)

 今川家との戦いは避けたいところであったが、

(さりとて水野を見殺しにはできぬ)

 同盟勢力を見捨てれば、弾正忠流の威信は地に落ちてしまう。また、三河が完全に今川領となってしまっては、いよいよもって弾正忠流は今川家に勝てなくなる。

 今、信長に求められているのは、今川家の先手を撃ち破りつつも全面戦争は回避するという難しい芸当であった。

 那古野から知多半島に至るには、今川領である笠寺、鳴海、大高、沓掛の脇を通過しなければならない。それらの地を守る今川勢の備えを突破すると、知多半島に到達する頃には、弾正忠流の軍勢は損耗しきってしまう。

 しかし、信長は、打開策を見出した。

(屋島の合戦に習う)

 またしても、源義経の事績を参考として作戦を立てたのだ。前回の赤塚の合戦においては一ノ谷の合戦を手本としたのだが、今回選んだのは屋島の合戦であった。

 源義経は、讃岐の屋島に陣取る平宗盛の軍勢を相手とした時、摂津の渡辺津から荒天を押して出港して阿波のの勝浦に上陸し、そこから屋島の平家を強襲して勝利を得た。

 信長は、そこから思いついた。

(海を渡って知多まで行けば良い)

 弾正忠流に水軍の備えはないが、領内の熱田を本拠とする豪商・加藤順盛は多数の船舶を保有していた。彼に要請すれば、船と梶取の確保はできるはずであった。

 問題は、その後で、如何にして今川家との全面戦争を避けるかである。自分より強い相手を殴っておいて、殴り返すのを思い止まらせるのは難しい。

(今川治部大輔に、尾張に手を出せば火傷をすると思わせねばならぬ)

 では、力において劣る弾正忠流が、どうすれば今川家を尻込みさせることができるのか。

(当方に然様な力はない)

 それでも、信長は諦めなかった。

(無い力は、借りればよい)

 借りる当ては、一つしか考えられない。美濃の斎藤家である。

(今川治部に、当方の背後に斎藤家が控えておると思わせる)

 信長が考えていたのは、単に斎藤家に援軍を要請するという事ではなかった。

(我が出陣しておる間、那古野の守りを斎藤の兵に託す)

 そうすれば、今川義元に、弾正忠流と斎藤家の紐帯の強さを示す事ができる。

(さしもの今川治部も、二の足を踏むであろう)


 信長は、守山、熱田、そして美濃・稲葉山に使者を遣わし、孫三郎信光には加勢を、加藤順盛には船舶と梶取の提供を、そして斎藤道三には那古野の防衛を求めた。

 孫三郎信光は、即座に信長の求めに応じた。小豆坂の七本槍の一人である彼にとって、今川は仇であった。

 加藤順盛も応じた。今川家が尾張の主となれば、その御用商人に商業上の特権を奪われてしまうからだ。

 斎藤道三は、呆れかえった。

(本城の守りを他家の兵に委ねるなど、正気の沙汰とは思えぬ。我が那古野を奪わんと欲したなら、何とするつもりでおるのか)

 しかし、その一方で考える。

(もしも我が那古野の城を奪ったならば、尾張衆は我を憎み、今川に従ってでも我に逆らうであろう。織田三郎は、それを見越した上にて頼み事をして参ったのであろうか)

 彼には、信長の、

「和殿が当方に加勢せねば、尾張は早晩今川のものとなるであろう。我と今川治部の、いずれを隣人としたいのか、よくよく考えてみられよ」

 という声が、聞こえてくるような気がした。自分自身を人質として、道三を脅迫している。

(何たる厚かましさであろうか。なかなかの食わせ者である。そうでなくてはならぬ)

 道三は、安藤守就を将とする千余の軍勢を、弾正忠流への援軍として尾張に派遣した。

 安藤守就、仮名・伊賀守は、地侍の大物で北方城主であった。この時、五十二歳。彼は、道三から、

「尾張にては、織田三郎殿を主と思い、その指図に従うように」

 と、厳命されていた。

 聖徳寺の会見以降、世間における信長の評判は好転しつつあったのだが、安藤守就は未だに先入観に縛られていたので、

(いかに大殿の婿殿であらせられるとは申せ、そこまで大うつけ殿に肩入れする必要があるのか)

 と、訝りつつ那古野へ向かった。

 信長は、斎藤家の援軍が那古野に到着すると、自らで出迎え、

「役目大儀である。そなたが安藤伊賀か。その名は聞き知っておるぞ」

 と、労をねぎらい、城北の志賀と田幡の二郷を宿営地として提供した。

 ところが、それに憤慨する者が現れた。

「それがしは、承服いたしかねます」

 宿老の林秀貞である。

「いかに北の方様の御里であるとは申せ、他家の兵に御本城の守りを御任せになられるとあっては、我等譜代衆の面目が立ちませぬ」

 彼は、手勢を率いて那古野城より退去し、荒古城に入った。荒子は、彼の与力である前田利昌の居城であった。

 信長は、

(体面に固執して敗れるより、対面を捨ててでも勝つ方が良いに決まっておる)

 と、腹を立てたが、危急の時であるので放置し、千余の兵を率いて熱田へ行き、で孫三郎信光の率いる五百余の守山勢と合流した。熱田の加藤順盛は、既に十分な数の船と梶取を用意してくれていた。

 ところが、折悪しく海が荒れていたため、梶取衆が船出に難色を示した。

「今は大風が吹き荒れております故、それが止むまで御待ちになられるべきかと存じます」

 しかし、彼等の言葉は、却って信長の闘志を掻き立ててしまった。

 屋島の合戦の時、源義経が渡辺津から出港しようとすると海が荒れていたので、船頭たちが嫌がった。しかし、義経は、彼等を弓矢で脅して船出を強行し、荒海を押し渡って敵勢を撃破した。

 その逸話を再現するかのような状況に、信長は興奮し、

「九郎判官義経が摂津・渡辺より船出した時も、この程度の風は吹いておったはず」

 と、船出を敢行した。

 梶取州の奮闘によって、弾正忠流の軍勢は、何とか知多半島に到達する事ができた。信長は、上陸地点に一日野営した後、緒川城に入って水野信元から状況説明を受けた。そして、

「時を置けば、村木砦の備えが万全となる」

 と判断し、翌日から村木砦への攻撃を開始した。

 村木砦は、北は切り立った崖になっており、東に正門、西に裏門を構え、南に甕形に掘りぬかれた濠を設けた、なかなかに堅固な陣地であった。

 信長は、最も攻めにくい北側の斜面には兵を配置せず、正門は水野信元に、裏門は孫三郎信光に攻撃を委任し、自らは濠のある南側の攻めを担当した。

 弾正忠流勢は、信長の号令一下、砦への攻撃を開始するが、敵勢から猛烈な弓射を浴びせられて、甚大な損害を被った。

信長は、味方を支援すべく鉄砲衆に、

「入れ替わり砦の狭間を撃て」

 と、命ずる一方で、

「狭間三つは、我が引き受けた」

 と、自ら鉄砲を発射した。

 弾正忠流勢の鉄砲衆は、それを見て発奮し、競い合って砦の矢狭間を狙撃した。これにより。砦の弓衆は、被弾するのを恐れて矢狭間に近付けなくなった。その間に、弾正忠流勢の士卒は、濠を渡り、塁を上り、塀を乗り越えて城内に攻め込もうとする。

 弾正忠流勢の猛攻を受けて、砦を守る今川勢の士気は、次第に低下した。

(たかが付け城を守るために、命は捨てられぬ)

 三浦義就と浅井政敏の二将は、信長の元へ軍使を遣わし、砦の明け渡しと引き換えに攻撃の停止を求めた。

 信長は、味方の損害が余りにも大きかったため、敵方の申し入れを受諾して攻撃を停止した。

 今川勢は、砦を放棄して退却した。

 信長は、早急に付け城を落とすという目的ははたせたものの、味方の死傷者の多さに愕然とし、攻城戦の難しさを痛感させられた。

(急拵えの付け城如きを落とすのに、かほどまでに痛手を受けるとは)

 彼は、村木砦を水野信元に引き渡し、次に、今川家に降った花井信忠の守る 寺本城へ向かい、その城下を焼き払った後に那古野に帰還した。そして、まず安藤守就の元を訪れて謝辞を述べ、合戦の経過と結果について説明した。

 翌日、斎藤家の援軍は、美濃に帰還した。

 斎藤道三は、安藤守就から合戦の詳細について聞き、

「織田三郎殿は、随分と苛烈な御気性にていらせられる。隣人にはしたくない人物である」

 と、呟いた。


 今川義元の計画は、失敗に終わった。村木砦を落とされ、水野家を滅ぼす事ができなかった。彼は、

(おのれ織田三郎。このまま図に乗らせてなるものか。目にもの見せてくれよう)

 と、一度は報復を考えたが、信長の出陣中、斎藤家の軍勢が那古野を防衛していた事を知り、

(あの簒奪者が、律義に人助けをするとは。両家の紐帯は、さほどまでに強いのか。織田三郎のみならず、斎藤山城入道までも相手にするとなると、少々厄介である。軽挙は慎むべき)

 と、考えて、思い止まった。


 信長は、村木砦を落として水野家を救い、斎藤道三を巻き込むことで今川義元の逆襲を牽制した。

 しかし、先の赤塚の合戦にせよ、今回の合戦にせよ、信長は、窮地を切り抜ける事には成功しているが、勢力を拡大できてはない。寧ろ、縮小している。

 それに対して、今川義元は、赤塚の合戦の時には鳴海城、大高城、戸部城、沓掛城を、今回の合戦においては重原城と寺本城を獲得し、着実に領土を拡大している。このような事が続けば、いずれ負けるのは弾正忠流のほうであろう。

 信長も、それは認識できていた。

(勝ったのではなく、負けなかったに過ぎぬ)


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