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信長公演義・桶狭間の合戦  作者: 酒井塞翁
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第三章 聖徳寺の会見

〈であるか〉


 この時代、尾張の首府は清州城だった。この城の名目上の主は尾張守護職・斯波義統だったが、政務の実権は守護代の大和守流・織田家が握っていた。そして、大和守流の当主・織田彦五郎信友も、分家の出雲守流・織田家からの養子であったため、宿老衆の同意がなければ何も決められなかった。

 大和守流の宿老衆とは、坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位らである。彼等は、これまで、弾正忠流との正面対決は避け、相手が別の敵と戦っている時に、その腹背を衝くという戦法を取ってきた。

 例えば、織田信秀が斎藤道三の籠る稲葉山城を攻めた時、大和守流は、その留守を狙って古渡城を襲撃した。しかし、その後、信秀が斎藤道三と同盟を結んだため、彼等も弾正忠流と和睦した。

 織田信秀の急死は、大和守流にとって、再び巡ってきた好機であった。彼等は、弾正忠流に属する松葉城と深田城を強奪し、松葉城は、赤林孫七、土蔵弥助、足立清六らが率いる部隊に、深田城は、伊東弥三郎、小坂井久蔵らが率いる部隊に守らせた。

 更に、坂井甚介を将とするに二千余の軍勢を、清洲西南の萱津に陣取った。これは、信長が両城の奪還に動いた場合、その側面を脅かすための備えであった。


 大和守流の動きを知った信長は、

「守護代ともあろう者が、またもや火事場泥棒か!」

 と、と怒りかつ呆れ、直ちに兵を集める一方、これを契機としてある事を試した。

(一門衆が我に従うつもりがあるのか、確かめねばならぬ)

 彼は、守山城の織田孫三郎信光、末森城の織田勘十郎信勝、織田信秀の従弟で奥田城主の飯尾定宗、信長の大叔父で中村三郷の代官である織田玄蕃允秀敏らに手勢を率いて稲葉地に参集するように催促し、自らも八百余の兵を率いて同地へと向かった。稲葉地とは、庄内川の渡し場で、そこから西に進むと松葉・深田の両城に至った。


 守山城主・織田孫三郎信光は、これまで信長を敬遠してきた。彼の教育係が、平手政秀だったからだ。孫三郎信光と政秀とは、対外路線、特に大和守流への対応を巡って対立していた。孫三郎信光が大和守流の打倒を主張していたのに対して、政秀は大和守流との融和を主張していた。ゆえに孫三郎信光は、信長も大和守流に対して腰が引けているのであろうと思い込んでいた。

 ところが、その信長が大和守流合戦を始めたので、孫三郎信光は、

「三郎殿は、存外、賢明でいらせられる」

 と、喜び、自ら五百余の兵を率いて稲葉地に駆けつけた。

 奥田城の飯尾定宗と中村三郷の織田玄蕃允秀敏も、赤塚の合戦の後は信長に対する印象を改めていたので、それぞれ手勢を率いて稲葉地に参陣した。

 末森城の織田勘十郎信勝は、自らは出馬せず、柴田勝家を将とする三百余の兵を派遣した。

 柴田勝家、仮名・権六郎は、分際の低い地侍であったが、先代・信秀に才を認められ、侍大将に抜擢された人物であった。この時、三十一歳。

 信長は、勘十郎信勝が来ないことを不審に思い、柴田勝家に、

「勘十郎は、何故参らぬのか」

 と、尋ねた。

 勝家は、額に汗をかきつつ、

「勘十郎様は・・・・・・病にござります」

 と、弁明した。

 信長は、その言葉が信じられなかったが、勝家に対しては敬意を抱いていたので、

「ならば、致し方なし」

 と、それ以上責めなかった。

 その後、作戦と部隊配置を決めるために、簡単な軍議が開かれた。

 孫三郎信勝、飯尾定宗、玄蕃允秀敏、柴田勝家らは、このまま松葉・深田の両城を攻めるものだと思っていた。

 しかし、信長の考えは違った。

「我等が松田・深田の両城を攻めれば、萱津の敵勢に腹背を衝かれるであろう。ならば、まず萱津の敵をこそ先に叩くべきである。萱津の敵を撃ち破れば、松葉と深田の敵は自ずと退くに相違ない」

 そして、松田城へは滝川一益を将とする足軽部隊を、深田城へは飯尾定宗と玄蕃丞秀敏の部隊を押さえとして配置し、残る全軍を以て萱津を攻めるという作戦を示し、諸将の反応を窺った。

 孫三郎信光、飯尾定宗、玄蕃丞秀敏は、

「仰せ御もっとも。異存はござりませぬ」

 と、賛意を示したが、柴田勝家は、

(我は、陪臣に過ぎぬ)

 と、考えて、黙っていた。

 すると信長が、

「柴田権六郎よ、そなたは、如何に思うか。何か存念があれば、忌憚なく申し述べよ」

 と、意見を求めてきた。

 勝家は、予想外のことに驚きつつ、

「誠に殿の仰せの通りであると存じます。異存はござりませぬ」

 と、答えた。

 すると信長は、

「誠に、そう思っておるのか。我の意向を気にかけて論を控えるようなことがあってはならぬぞ」

 と、食い下がり、勝家が、

「誓って本心から申し上げております」

 と、言うと、

「然様であるか。ならば良し」

 と、ようやく納得した。

 勝家は、

(よく分からぬ御方である)

 と、首を傾げた。


 作戦と部署が決まった後、弾正忠流の軍勢は庄内川を渡り、滝川一益の部隊は松田城へ、飯尾定宗と玄蕃丞秀敏の部隊は深田城へ向かい、残りの全軍は萱津に攻撃を掛けた。

萱津の清州勢は、自分たちが真っ先に攻撃されるとは思っていなかったので浮足立つが、大将の坂井甚介は、

「怯むな。今こそ、那古野の三郎を討ち取れ」

 と、士卒を叱咤激励しつつ、自らも槍を取って戦う。その姿を、赤瀬清六という守山城の侍が見かけ、

「敵の大将と見受けたり。いざ勝負」

 と、槍を捻って突きかかる。坂井甚介は、

「小癪な奴」

 と、槍を振りかぶって赤瀬清六の兜を一撃し、相手がよろめいたところを喉を突いて斃した。

「見たか」

 獅子吼する坂井甚介。すると今度は、中条家忠、仮名は小一郎という那古野の侍が、

「見参」

 と、槍をしごいて坂井甚介に挑戦する。甚助は、

「推参なり」

 と、突きを連発して相手を牽制しておいてから、槍を袈裟懸けに打ち下ろして相手の肩口を強打した。

 中条家忠は、衝撃に腕が痺れて、槍を取り落とす。坂井甚介は、

「得たりや」

 と、槍を繰り込んで、相手の内兜を突こうとする。そこへ、

「小一郎、怯むな。柴田権六郎これにあり」

 と、柴田勝家が飛び込んできて、槍で坂井甚介の胴を突いた。甚介は、堅牢な鎧を着用していたので痛手は負わなかったが、体の平衡を失ってよろめく。すかさず、中条家忠が坂井甚介に組み付く。甚介は、家忠の体が乗った状態で地面に叩きつけられて、息ができなくなった。その間に、家忠が脇差を抜いて甚介を刺し殺し、その首級を挙げた。

 大将を失った清州勢は、士気が崩壊して敗走する。信長は、その後は追わず、松葉城へ向かって兵を進撃させる。


 松葉城を占拠していた赤林孫七、土蔵弥助、足立清六らの率いる清州衆は、滝川一益が率いる那古野の足軽衆が迫ると、

「足軽ばかりにて侍がおらぬ。あの兵は、我等を足止めするための擬勢に相違ない。その証左に、あの槍を見よ」

 那古野の足軽衆は、三間半柄の長槍を装備していた。

「あのように長い槍が、まともに使えるはずがない。定めし、あれは近在の郷衆を集めて、恐ろし気に見せるために大袈裟な槍を持たせたのであろう。詰まる所、案山子と変わらぬ。一気に駆け散らして、大将の首取るべき」

 と、城より出撃して滝川勢に攻めかかった。

 滝川一益は、せせら笑う。

「見くびりおって。目にもの見せてくれる」

 滝川一益は、槍衆に槍衾を作らせて敵勢の突撃を食い止めさせ、弓衆に矢衾を作らせて敵勢に損害を与える。清州勢は、何とか白兵戦に持ち込もうと焦るが、那古野勢は、一定の間合いを保ちつつ敵勢に弓射を浴びせ続ける。清州勢は、死傷者が増大して陣を保てなくなり、退却する。那古野勢は、それを追撃して、赤林孫七ら主立った侍衆を討ち取る。敗残の清州勢は、這う這うの体で松葉城に逃げ込んだ。


一方、深田城を占拠した伊東弥三郎、小坂井久蔵らの率いる清州勢は、

「敵勢は、既に萱津と松田を攻めておるようである。我等が、このまま城に籠っておっては、孤立して退路を断たれる。ここは城外に陣を張り、敵の動きに備えるべき」

 と、城外に出て三本木郷に陣取った。この郷は、周囲が開けていて動きやすい地形であったが、それは同時に敵からの攻撃を防ぎにくいという事でもあった。

 飯尾定宗と玄蕃允秀敏の二将は、

「彼奴等、うろたえて、のこのこと出て参ったわ」

 と、嘲笑い、一気呵成に攻めて清州勢を撃破し、伊東弥三郎と小坂井久蔵を討ち取った。生き残った者たちは、深田城に逃げ戻った。


 萱津で勝利した信長は、西進して滝川一益や、飯尾定宗と玄蕃允秀敏の部隊と合流し、松葉・深田両城に迫った。両城を占拠している清州勢は、抗戦を諦め、城を放棄して退却した。

 信長は、その後を追って清州城へと攻め寄せる。

 織田彦五郎信友や坂井大膳らの大和守流の首脳陣は、恐れおののいて城の守りを固める。

 しかし、信長は、性急に城攻めを行うつもりはなかった。その理由は、二つ。

 一つは、清州城が五条川の流れに守られた堅城なので、そう簡単には落とせないから。

 もう一つは、

(武衛さまを攻めるのは、まずい)

 武衛とは、兵衛府の唐名である。清州城内には、尾張守護・斯波家の館があった。斯波家の当主は、代々兵衛督に任じられていたので、「武衛様」と呼ばれていた。斯波家に危害を加えれば、弾正忠流は、世間から反逆者と見なされ、権力の正当性を失ってしまう。

 信長は、清州城周辺の耕作地を荒した後、那古野城に引き揚げた。これは、八つ当たりではなく、大和守流には領民の財産を守る力がない事を示すための行為であった。


 この戦いにおいて敗れたのは、大和守流だけではなかった。かねて大和守流とのつながりを強みとしてきた平手政秀も、面目を失い、政敵・孫三郎信光と立場が逆転してしまった。

 更に悪い事に、政秀の長男である五郎右衛門と信長の間に、軋轢が生じた。信長が、五郎右衛門の所有する駿馬を所望したのだが、五郎右衛門は、にべもなく拒絶したのである。自らだけでなく後継ぎまでも主君と関係が悪化してしまっては、平手家の将来は暗い。

 天文二十二年閏一月三十日、平手中務丞政秀は、自邸にて切腹した。享年六十二歳。

 関係が悪化していたとはいえ、幼少期からの補佐役の死は、信長を悲しませた。彼は、政秀の所領であった小木村に、その名を冠した政秀寺を建立して菩提を弔った。

 ところが、この件は世間において、

「那古野の宿老・平手中務が、素行の悪い主君・織田三郎を諫めるために自害した」

 という話になって伝播された。その噂は、美濃・稲葉山城にも届いた。

 美濃の国主・斎藤山城守利政は、この頃は、剃髪して「道三」と号し、「山城入道」と呼ばれるようになっていた。

 平手政秀の自害が斎藤家に伝わると、 日比野清実、長井衛安、竹腰直光らの宿老衆は、斎藤道三に対して、

「あの平手中務を死なせてしまうとは、織田三郎殿は、噂以上に暗愚な御仁のようにござります。かかる御方と盟を結んでおっても、益はござりますまい」

 と、弾正忠流との同盟を解消するように勧めた。

 それに対して道三は、

「早計はならぬ。今暫しの間は、様子を見るべき」

 と、判断を保留した。彼は、国内の反対勢力が、公然と道三を非難しにくいので、代わりに娘婿の信長を嘲弄する事で、間接的に道三の評価を落とそうとしているのに気付いていた。

 美濃国内の反道三派とは、旧国主・土岐家の復帰を望む者達である。彼等は、簒奪者である道三の支配下に置かれている事に、屈辱を感じていた。

 土岐家の敗北を決定づけたのは、斎藤家と弾正忠流の同盟締結である。土岐家は、弾正忠流からの加勢が得られなくなったがゆえに、道三との戦いを続けられなくなった。

 故に反道三派は、斎藤家と弾正忠流との関係を血させれば道三の権勢も揺らぐと考え、積極的に信長の悪評を拡散していたのである。

 道三としては、同盟を維持するために、信長の評判を改善する必要があった。彼は、信長との会見を思い立った。

(先代の織田備後守が、三郎を甘やかしたのが良くない)

 彼は、下剋上の典型とされている人間であるが、決して粗暴な無頼漢ではなかった。彼の父・長井新左衛門は京都のある山城国の出身であり、彼自身も寺院で育ったので、礼儀作法にはうるさい方だった。

(威儀を飾る事は、決して無意味ではない。我が、亡き織田備後守に代わって、織田三郎を導いてやらねばなるまい。全く、世話の焼ける婿である)

 大名同士が会見するとなると、場所の選定が難しい。

(織田三郎は、闇討ちを恐れて、美濃へは参らぬであろう。されば、我が尾張へ赴く他あるまい)

 とは言え、道三が那古野まで行けば、斎藤家が弾正忠流に朝貢しているかのような格好となってしまう。

 そこで、彼は、尾張・富田庄の聖徳寺を会見場所に選んだ。富田庄は、一向宗の門徒が自治検断する寺内町なので、一応は中立地帯であると言えた。そこに彼が先に入って信長を迎えるという形を取れば、双方共に客という事になり、体面を保てる。

 道三は、尾張・津島の商人である堀田道空という人物を仲介者として、信長に富田・聖徳寺での会見を申し入れた。

 信長は、この会見が同盟更新の査定であると認識し、申し入れを受諾した。

 目下、弾正忠流は、清州の大和守流と敵対関係にあり、岩倉の伊勢守流との関係も良好ではなく、更に東方には今川家という巨大な脅威が存在するという、四面楚歌の状態であった。

 ここで斎藤家との同盟を維持できれば諸方の敵を牽制できるので、信長としては、何としてもこの会見において道三から高評価を得る必要があった。

(我の評判は、芳しいものではない。さればこそ、斎藤山城入道は、直に相まみえて我が真に大うつけであるや否やを見定めたいのであろう)

 それならば、信長が、折り目正しい礼装で会見に臨めば、道三を安心させることができるはず。

(されど、それでは、世間の口さがなき奴原は『普段は虎の如く振舞う織田三郎も、斎藤山城入道の前にては猫となりにけり』などと申して嘲笑うに相違ない)

 それでは、信長の威信が低下してしまう。

(相手は、山城入道のみに非ず。世間の耳目も驚かさねばならぬ)


 天文二十二年四月、尾張・海東郡の富田において、斎藤山城守道三と織田三郎信長の会見が行われる。

 信長より先に富田に入った道三は、まず地元の古老を百人ばかり集めて礼装させ、聖徳寺の柱廊に並んで座らせた。礼装した多数の人間が居並ぶと、なかなかに壮観であった。

(織田三郎は、この有り様を見て気圧され、威儀を飾る事の大切さを学ぶであろう)

 その後、彼は、猪子高就という侍を一人連れたのみで町外れの小屋に身を潜め、そこの格子窓から那古野から到来する信長を観察しようとした。

 やがて、信長とその家来衆が富田に到着し、小屋の前を通過する。信長は、数百の足軽衆を率いていた。

 足軽衆は、槍、弓、鉄砲と兵器ごとに編成されており、中でも槍衆は三間半柄の長槍を装備していたので一際目立った。

 道三は、著しく感情を害した。

(我は三郎を導いてやるつもりでおるのに、三郎は我を脅すつもりなのか)

 そして、馬に跨った信長が、道三の前を通り過ぎてゆく。信長は、茶筅髷、袖なし羽織、半袴、金銀で装飾した大小両刀、という出で立ちであった。

 猪子高就は、吹き出す。

「これは、聞きしに勝るうつけぶりにござりますな」

 道三は、舌打ちする。

(何事も力ずくにて押し通せると思っておるのか。世の中は、然様に甘くはない)

 その時、偶然、信長が道三の潜む小屋の方を見た。道三は、矢で射られたかのように身を屈め、結果として窓に向かって土下座しているかのような格好となった。 そして、猪子高就が呆気に取られている事に気付いて、すぐに立ち上がり、窓に背を向けた。

「もうよい。寺に戻る」


 聖徳寺に入った信長は、堂外に屏風で囲いを作らせ、数名の小姓を従えてその中に入り、出てきた時には、すっかり様変わりしていた。即ち、頭髪は茶筅髷から折り髷に結い直し、袖なし羽織から普通の羽織に着替え、半袴も褐色の長袴に履き替え、金銀拵えの大小両刀は外して上品な拵えの腰刀を帯に差していた。

 これには、斎藤家の侍衆だけではなく、弾正忠流の家来衆も驚いた。

信長は、柱廊に居並ぶ古老衆には目もくれずに本堂に上がった。

 道三は、信長の装いを見て混乱する。

(織田三郎は、幻術でも使うのか⁈)

 春日丹後という斎藤家の侍が、道三に歩み寄り、

「つい今しがた、装束を替えられたようにござります」

 と、囁いた。

「何と⁈」

 道三は、悟った。

(織田三郎は、世間から笑い者にされておる事を承知の上で、あの餓鬼大将のような格好で参った。そして、対面の直前に装束を替えた。これは、世間を出し抜かんとしての事であろう)

 これにより、世間は、これまでの信長の奇行は他者を欺くための詐術だったのだと解釈するであろう。そして今度は、これまで信長を馬鹿にしてきた者達の方が「人を見る目のない、愚か者」とされてしまう。道三も、その愚か者の側に入っているはずだ。

 道三は、会見の場を利用して信長に訓戒を与えるつもりであったが、信長は、会見を利用して世間との勝負に出た。明らかに、信長の方が一枚上手である。自他ともに認める策謀家たる自分が「大うつけ」と呼ばれて若造にしてやられたという事実が、道三の自尊心に深く突き刺さった。


 会見の席は、本堂の座敷内に屏風で仕切って設けてあった。春日丹後と堀田道空は、信長を、

「どうぞ、あちらへ御通り下さりませ」

 と、席へ導こうとしたが、信長は、それを無視して縁側沿いに歩き、居並ぶ斎藤家の侍衆の前を通り過ぎて、隅に立つ柱に寄り掛かって立った。

 席で待っていた道三は、信長が来ないので業を煮やし、仕切りの外に出て、春日丹後と堀田道空の方に苛立った視線を送った。そこで堀田道空は、信長に歩み寄り、

「上総介様、あれにおわしますのは、斎藤山城入道様にござります」

 と、小声で告げた。すると信長は、

「であるか」

 と、言って振り返り、座敷に入って道三に挨拶した。その後、両者は 向き合い、儀礼的な軽食を取った。その間、道三は不機嫌であり、信長は不愛想だった。

食事が終わると、道三は、

「では、いずれまた機会があれば、参会いたしましょう」

 と、言って、辞去した。信長は、帰途に就いた斎藤家の主従を、家来衆と共に二十町ほど見送った。

 道三は、立ち去り際に一度振り返った。すると、弾正忠流の足軽衆が装備した三間半柄の長槍が目についたので、舌打ちをして前を向いた。


 稲葉山城に戻った道三は、聖徳寺の会見について何も語らなかった。

 日比野清実、長井衛安、竹腰尚光らの宿老衆は、道三が鬱々として楽しまない様子なので、

「富田庄において、余程に不快な思いをなされたのであろう」

 と、想像したが、本人には聞きにくかったので、随行した猪子高就を呼び寄せて、

「富田の聖徳にて如何なる事があったのか」

 と、尋ねた。

 猪子高就は、宿老衆に聖徳寺における顚末について話した。

 宿老衆は、話を聞いて、

「これにて織田との手切れは間違いあるまい」

 と、確信した。

 しかし、猪子高就は、

「畏れながら、それがしには、然様とは思えませぬ」

 と、述べた。

 宿老衆は、眉をひそめ、

「何故、然様に思うのか。その所以を申せ」

 と、問い質す。

 高就は、少し気後れしつつも意見を述べる。

「尾張よりの帰途上、茜部の辺りに差し掛かりし時、それがしは大殿様に申し上げました。『織田三郎殿は、噂に違わぬ愚か者にござりましたな』と。すると大殿様は・・・・・・」

「大殿様は?」

「大殿様は、かく仰せられました。『さればこそ無念なり。吾が倅共は、その愚か者に伺候する事となるであろう』と」

「⁈」

 宿老衆は、言葉を失った。


 聖徳寺での会見以後、美濃においては、信長の悪評は絶えた。それに替わって、別の噂が広まる。

「山城入道様は、御世継ぎの新九郎義龍様に御不満らしい」

 


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