第二章 赤塚の合戦
〈人の生涯など、夢か幻のようなものなれば〉
尾張の東隣に位置する三河においては、日の出の勢いであった松平清康が横死してからは旗頭が不在であり、混沌とした情勢が続いていた。 織田信秀は、それに乗じて三河へ攻め入り、松平家の第二の府である安祥城を攻め落とした。
また、尾張の北隣に位置する美濃においては、守護の土岐頼芸と、守護代の斎藤利政が争っていた。信秀は、土岐頼芸に味方して美濃へ出兵し、要衝である大垣城を奪取した。
そうして領地を拡大しつつ、朝廷に献金して従五位下・尾張守の官位を獲得した。
他国へ攻め入って領土を拡大し、それを分配する事で尾張衆の支持を集める一方で、中央の権威から官職を得て社会的な地位を上昇させる。それにより、主君の斯波家や本家の大和守流とは争わずに尾張の国主となる、というのが信秀が思い描く計画であった。
しかしながら、計画通りには進まないのが人生である。弾正忠流に追い詰められた三河の松平家は、駿河と遠江を領有する大勢力・今川家を頼った。今川家の当主・今川義元は、松平家を属臣として三河に進出した。
北の斎藤家、東の今川家と、強敵に挟み込まれて、さすがの織田信秀も後手に回り、苦しい戦いを強いられるようになった。そして、天文十六年九月には美濃の加納口において斎藤秀政に惨敗し、天文十七年七月には三河の小豆坂において今川義元に惜敗した。そして、清州の大和守流が、弾正忠流の窮状に付け込んで、古渡に攻撃を仕掛けてくるようになった。弾正忠流は、四面楚歌の状態となった。
信秀は、窮状を打破するために、古渡城に諸大将を集めて評定を開いた。
会議において最も声高に主張したのは、信秀の弟で守山城主の織田孫三郎信光であった。彼は、小豆坂の合戦において殿の役を果たした功により、「小豆坂の七本槍」の一人数えられる勇士であった。
「今川家や斎藤家と争う前に、清州を討って後顧の憂いを無くすことが先決であると存じます」
「それは、よろしからず」
平手政秀が、その意見に反対した。
「我等が清州を攻めておる間に、今川や斎藤に腹背を衝かれたならば何となされる」
「ならば、清州を捨て置けと申すのか」
孫三郎信光は、平手政秀を嫌っていた。
(文弱の徒が)
政秀が、衣装や住居が派手である上に、教養を鼻にかけるところがあったからだ。
「彼奴等は、斎藤家と結んでおるのだぞ」
「その事にござります」
平手政秀も、孫三郎信光を嫌っていた。
(猪武者が)
信光が、粗野で武断的だったからだ。
「清州衆が我等に牙を剝いたのは、斎藤家の加勢を頼みとしての事にござります。さすれば、当方が斎藤と和睦すれば、清州衆も意気を失うものと存じます」
「和睦⁈」
孫三郎信光は、いきり立つ。
「斎藤山城守は、食わせ者である。和睦したところで、彼奴を信ずる事などできぬ」
「でき申す」
政秀は、胸を反らす。
「両家の間にて縁組が結ばれれば、食わせ者の斎藤山城守殿とて、背反はいたしますまい」
そして、信秀に対して手をつき、
「畏れながら申し上げます。御世継ぎ・三郎様の御正室に、斎藤山城守殿の御息女を御迎えになられてはいかがでござりましょうか」
と、提案した。
斎藤山城守利政には、三郎信長より一つ年下の帰蝶という娘がいた。
孫三郎信光は、言葉を失う。
信秀は、斎藤利政を憎んではいたが、
(このまま斎藤家と争い続けても、双方ともに損耗するのみである。和睦すれば、我は三河攻略に、斎藤山城は美濃経略に専念できる)
と、考え、平手政秀の案を採用し、斎藤利政に、三郎信長と帰蝶の婚姻を申し込んだ。斎藤利政も、実益を重視する人間だったので、信秀の申し込みを受諾し、帰蝶を弾正忠流に輿入れさせた。
これで、弾正忠流は後顧の憂いが無くなり、三郎信長の世継ぎとしての立場は盤石となった。彼を廃嫡する事は、即ち斎藤家との同盟を破棄する事を意味するからだ。そして、この縁談を提案し、まとめた平手政秀の発言権は増し、逆に孫三郎信光の影響力は低下した。
清州の大和守流も、弾正忠流と斎藤家が同盟を結んだ事を知ると、信秀に和議を申し入れた。
全ては、平手政秀の思惑通りであった。
織田信秀は、三河への進出を本格化するために、尾張西部の末森に新城を築き、古渡から本拠を移した。
それに危機感を抱いた三河・岡崎城主の松平広忠は、今川家との結びつきを強化するために、六歳の嫡子・竹千代を、人質として今川家の本拠である駿河・駿府に送ろうとした。
ところが、三河・田原城主の戸田康光が、竹千代の身柄を奪い、弾正忠流に引き渡した。
人質を得た織田信秀は、松平広忠に今川家と手を切るように求めたが、広忠は、それを拒絶した。
そこで、信秀は、次の手を考える。
(松平家は、まとまりが取れておらぬ故、再び当主が不慮の死を遂げる事もあり得る。そうなれば、竹千代が新たな当主となる)
そして、信秀は、幼い竹千代の後見役として松平家を掌握する事ができる。
天文十八年三月六日、松平広忠が、家臣の岩松八弥に殺害された。正に、信秀が望んでいた展開であった。
しかし、これに対して、今川家が迅速に反応した。高僧にして軍師である太原崇孚と、遠江・掛川城主の朝比奈泰能を将とする軍勢が、弾正忠流の三河における拠点である安祥城を攻め、城将・織田三郎五郎信広を虜とした。三郎五郎信広は、織田信秀の長男であったが、側室の子であるがゆえに世継ぎとなれなかった人物である。
太原崇孚は、信秀に、三郎五郎信広と竹千代の人質交換を申し入れた。信秀は、長男を見殺しに出来ず、交換に応じた。
安祥城と竹千代。弾正忠流は、三河攻略の柱を二つとも失ってしまった。気落ちした信秀は、逸り病にかかり、天文二十年三月に病死した。享年四十二歳。
織田備後守信秀の葬儀は、彼が菩提寺として建立しておいた万松寺において執り行われ、尾張の内外から三百人もの僧侶が参会して、荘厳な式となった。
ところが、突如、怪人が葬儀会場に乱入した。その人物は、袖なし羽織と半袴を着用し、野太刀と脇差を藁縄で腰に佩帯し、頭髪を茶筅髷に結っていた。
外来者は、何故、この狼藉者が取り押さえられないのか、不思議に思った。
しかしながら、この狼藉者こそが、葬儀の喪主にして弾正忠流の新当主である織田三郎信長であった。この恐るべき喪主は、焼香の際、抹香を一つまみではなく一掴み取り、香炉に炊くのではなく仏前に投げつけた。
結果、灰が濃霧の如く立ち籠め、それが治まった時には喪主の姿は消えていた。堂内は、一瞬静まり返った後、騒然となる。弾正忠流の侍衆は長嘆するか赤面し、外来の客は呆れるか嘲笑した。誰しもが思った。
(この家も、もはやこれまでか)
ただ一人、筑紫から来た僧侶のみが、
「あの御方は、大器でいらせられる」
と、信長を高く評価した。
信長が姿を消したので、弟の織田勘十郎信勝が、喪主の役を務めた。彼が礼式に適った装束で作法通りに振舞った為、列席者の大半が、
(勘十郎様の方が、当主に相応しい)
と、思った。
信長の後見役である平手政秀は、針の筵に座らせられている心境であった。
(一体、三郎様は、何を御考えなのか)
信長は、恐慌していた。
(このような事が起こって良いはずがない)
彼は、これまで、人の寿命は、各自の才能や行動に応じて天から配分されるものだと思っていた。しかしながら、父の急死により、その仮説は崩壊した。
(才覚を与えておきながら、それを十分に発揮できるだけの寿命を与えぬとは、天は理不尽である)
信長は、天に抗議するために、喪服を拒絶し、仏前に抹香を投げつけた。しかし、抗議しても拒絶しても現実は変わらない。やるせなくなった彼は、葬儀会場から逃げ出し、騎馬で、あてどなく彷徨った。彼は、乗馬の達人であったが、この時は動揺していたので手綱さばきが荒くなり、方向転換しようとした時に、乗馬が対応しきれず棹立ちとなってしまった。
鞍上から地面へと投げ出される信長。その時、彼は悟った。
(これが人生か)
高所から落ちれば、空中で止まることはできず、地に激突する。人生も、それと同じで、始まったら途中で止まることはできず、死に向かって落下するのみである。
地面に叩きつけられた信長は、衝撃で、しばらくの間動けず、仰臥したまま雲の流れを見ていた。
やがて、痛みが少し治まってきたので、彼は、半身を起こして自らの負傷の具合を確認した。裂傷や擦過傷はあるが、深手は負っておらず、骨も折れていなかった。
次に彼は、自分の居場所を確認する。そこは、川の堤と低い丘に挟まれた場所で、竹が疎らに生えていた。
信長は、ふと後ろを顧みて、慄然とする。すぐ後ろに削ぎ竹が屹立していたのだ。誰かが、刀の試し斬りでもしたらしい。落馬の際に、彼がもう少し遠くに投げ出されていたら、竹に体を貫かれて死んでいたであろう。
(下手をすれば、このような所にて人知れず命を落としておったやもしれぬという事か)
彼は、脇差を抜いて、削ぎ竹の先端部を削って平らにした。
(嘆き悲しんでおる暇などない。人の生涯など、夢か幻のようなものなれば)
彼は、弾正忠流の当主となる覚悟を決めた。
(是非に及ばず)
弾正忠流の当主となった信長は、那古野城をそのまま本拠とし、末森城は弟の勘十郎信勝に与えた。
佐久間盛重や柴田勝家などの末森在番の侍衆は、そのまま勘十郎信勝の家来衆となった。
また、信秀の正室で信長の生母である土田御前も、それまで通り末森城に住み続けた。彼女が那古野城に転居しなかったのは、信長の正室である帰蝶に遠慮したからであった。
こうした事から、尾張の国衆は、勘十郎信勝こそが新当主であり、信長が単なる那古野城主でしかないような印象を持った。
実際、信長が確実に掌握できていたのは、那古野のみだった。彼が葬儀の席で狂態を示した事により、叔父で守山城主の織田孫三郎信光や、その弟で深田城主の織田孫十郎信次、信長の従弟で犬山城主の織田十郎左衛門信清などの弾正忠流の一門衆は自立の道を模索し始め、また諸大将の中からは他家へ鞍替えする者も現れた。
鳴海城主・山口教継、仮名は左馬助。彼は、小豆坂の合戦において戦功を立てた勇士であったが、「大うつけ」信長が当主となった事で弾正忠流を見限り、沓掛城主・近藤景春、戸部城主・戸部政直、星崎城主・花井右衛門らを仲間に引き込み、同調しなかった大高城主・水野大膳を騙して城を奪い、今川家に寝返った。
今川家の当主・今川治部大輔義元は、山口教継の行動を、心情的には、
(卑劣なり)
と、軽蔑したが、世辞的には、
(好機なり)
と、判断し、彼等を支援するために、葛山長嘉、岡部元信、三浦義就、飯尾信連、浅井政敏らを将とする数千の軍勢を、尾張へ派遣した。今川の派遣部隊は、鳴海城北西の笠寺に陣取った。
今川家の加勢を得て勢い付いた山口教継は、鳴海の守りは子息の山口九郎二郎教吉に任せ、自らは千余の兵を率いて出陣して中村郷に陣し、那古野城を脅かした。
これらの動きに対して那古野の重鎮である平手政秀は、
「これは、一大事‼」
と、信長に、諸大将を集めて対応を協議するべきと進言した。
信長は、その勧めに従い、主立った侍たちを那古野に召集して評定を開きはしたが、特に意志や方針を表明せず、他に意見を求める事もせず、ただ漫然と世間話をするのみであった。
平手政秀は、堪りかねて、
「今川家は、この那古野のみならず、織田一門全てにとっての敵にござります。ここは、清州の彦五郎殿に加勢を御求めになるべきと存じます」
と、具申した。
清州の大和守流の当主・織田彦五郎信友は、養嗣子であったために発言力が弱く、重要事項の決定は宿老衆の合議によって決められていた。平手政秀は、清州の宿老衆の筆頭である坂井大膳と親しくしていた。
「願わくば、それがしを清州へ御遣わし下さりませ」
彼は、そう志願したが、信長は、眉を顰めたのみで何も答えなかった。
もう一人の重鎮である林秀貞も、意見を述べた。
「末森と守山に加勢を御求めになられては如何でござりましょうか」
末森城の勘十郎信勝と守山城の孫三郎信光は、己の城の守りを固めるのみで、那古野を救援する姿勢を示していなかった。
信長は、鼻を鳴らしたのみで、やはり返答を与えなかった。
その他にも、
「美濃の斎藤家に加勢を求めるべき」
「籠城して敵勢の緩みを待つべき」
などという意見も出たが、信長は、全て、
「然様であるな・・・・・・」
と、聞き流し、果ては、
「既に日もくれた故に」
と、言って、皆に帰宅を促した。
諸大将は、呆れ果て、
「大うつけ殿なれば、致し方なし。当家も、もはやこれまでか」
と、弾正忠流の将来を諦め、今後の身の振り方について考えた。
(山口左馬助のように、今川家に寝返るべきか。あるいは、清州か岩倉にでも鞍替えすべきか)
対面所に一人取り残された平手政秀は、信秀の葬儀の時と同じ心境で、呆然と立ち尽くすのみであった。
(一体、三郎様は、何を御考えなのか)
信長が考えていたのは、歴史上の有名な戦いについてであった。
(一ノ谷の合戦に習う)
一ノ谷の合戦とは、これより三百六十八年前の寿永三年に、摂津の須磨において、源義経が率いる源氏方の軍勢が、平知盛と平忠度を将とする平家方の軍勢を撃ち破った戦いである。源義経は、この戦いにおいて、山間の隘路を踏破して敵勢の背後に回り込む事によって勝利を得た。
信長は、その故事に習い、中村の山口教継と笠寺の今川勢は放置し、長駆して鳴海城を急襲するという作戦を立てていた。評定において作戦を明かさなかったのは、諸大将の賛同が得られるとは思えなかったからだ。
(平手中務と林佐渡は、承知すまい)
この作戦において重要なのは、速さである。反対論者の説得に時間を割いていては、時機を逸してしまう。
しかし、そうなると諸大将の手勢を当てに出来ないので、信長が使えるのは直属する小姓衆と馬廻衆ののみとなる。その兵力は、八百程度でしかない。それに対して、中村の山口教継の兵は千余、笠寺の今川勢は二千以上はいる。信長が鳴海を攻めている間に、笠寺と中村の敵勢が背後から攻めてくれば、那古野の軍勢は潰滅するであろう。
それでも、信長には勝算があった。彼は、世継ぎ時代に御伴衆を率いて山野を駆け巡っていたので、尾張国内の地理を通暁していた。
(山口左馬助も今川勢も、周りを川や泥田に囲まれた要害の地に陣取っておる。当方からの不意打ちに備えての事であろうが、あれでは自在に進退する事はできぬ。我等が鳴海を攻めた事を悟っても、即座には動けまい)
翌日の未明、信長は、八百余の兵を率いて出撃し、北側に迂回しつつ西進し、鳴海城北の三ノ山に出た。
鳴海の留守を預かっていた山口九郎二郎教吉は、信長の兵が迫った事を知ると、
「いつの間に⁈」
と、狼狽したが、相手の兵力が、それほど大きくなかったので、
「あれしき小勢など、何ほどの事があろうか。返り討ちにしてくれる」
と、気を取り直し、千五百の兵を率いて城より出撃して三ノ山の麓に位置する赤塚村に陣取った。
信長は、山の上から敵の陣容を観察して、
(存外、多い)
と、顔をしかめた。これは、鳴海周辺に住む地侍の多くが山口教継の謀反に加担していたからである。但し、彼等は、寝返った疚しさから士気は低調であった。
信長は、それを見て取り、
「謀反人どもは浮足立っておるぞ。一気に蹴散らせ」
と、士卒に下知して鳴海勢に攻めかかる。
この頃は、まだ鉄砲が普及していなかったので、弓矢が最も有効な打撃力であった。まず弓衆が矢衾を作って敵勢を射すくめた後、侍衆と槍衆が突撃して敵陣を撃破するのである。
那古野と鳴海の両勢は、距離を隔てて楯を突き、弓射戦を行った。
この時、荒川与十郎という那古野の侍が、気を逸らせて前へ出すぎた結果、敵の矢が当たって馬から転がり落ちた。それを見て鳴海衆が、
「彼奴の首を取れ」
と、倒れている荒川与十郎に殺到し、それに対して那古野衆も、
「与十郎を討たせるな」
と、攻めかかる。足場が悪いので、双方ともに馬から降りて進撃した。
そして、奇妙な綱引きが繰り広げられる。鳴海衆は荒川与十郎の脚と帯を掴み、那古野衆は頭と肩を掴んで引っ張り合い、その周囲にて刀槍を振るっての激闘が展開された。
綱引きは那古野衆が勝利して荒川与十郎を守ったが、白兵戦はその後も続き、なかなか勝負がつかず、一進一退の戦況となる。
鳴海勢は、侍衆は歴戦の強者が揃っていたが、足軽衆が臨時に雇われた郷民だったので戦意が低かった。
それに対して、那古野勢は、侍衆は元より、中間、小者、小荷駄衆に至るまでが死に物狂いに戦った。
信長は、自ら槍を取り、敵勢へ向かって突き進んだ。これは、蛮勇でも美学でもなく、自らを人質として家来衆を戦いへ駆り立てるための行為であった。何しろ家来衆にとって信長は生活を保障してくれる大切な存在なので、死なせるわけにはいかない。故に、信長が突出すれば、家来衆は、それを守るために、より前進しなければならない。
信長が進めば、家来衆はそれを追い越して進撃し、家来衆が猛進すると信長が更に前へ出る。それは、槍を繰り出す行為に似ていた。信長は、配下の士卒を巨大な槍の如く繰り出し、鳴海勢に突きの連打を見舞った。
九郎二郎教吉は、味方の劣勢に苛立ち、
「三郎様、山口九郎二郎見参」
と、槍をしごいて信長に挑みかかる。
信長は、
「下郎推参」
と、九郎二郎教吉の突きをかわし、
「食らえっ」
と、その兜を一撃する。九郎二郎教吉は、脳天を打たれて目が眩んだが、歯を食いしばって耐え、槍を旋回させて信長の側頭部を打とうとする。信長は、それを槍の柄で受け止め、相手の内兜めがけて突きを放つ。九郎二郎教吉は、辛うじてそれをかわし、突きを返す。
両者が戦っているのを見て、信長の小姓衆と馬廻衆は、
「九郎二郎、分を知らぬか」
と、九郎二郎教吉に斬りかかり、鳴海の侍衆も、
「九郎二郎殿を討たせるな」
と、教吉の前に人垣を作って防ぎ戦う。
当初は那古野勢が優勢であったが、次第に数で勝る鳴海勢が押し始める。九郎二郎教吉は、
「今ぞ。一気呵成に押し潰せ」
と、味方を叱咤激励する。
それに対して、信長は、弓衆に命じて敵勢の後方に弓射を浴びせ、それで相手の勢いが鈍ったところに攻勢をかけて押し返す。しかし、兵力が寡少であるために、敵勢に決定打を与える事ができなかった。
やがて、双方ともに勢いが尽き、膠着状態に陥る。
九郎二郎教吉は、分からなくなってきた。
(三郎様は、大うつけどころか、かなりの勇士ではないか。我等が今川に寝返ったのは誠に正しかったのか)
彼は、兵を後退させ、鹵獲した兵と馬を那古野勢に返還した。
信長は、相手の意図を察した。
(勝負なしにしたいという事か)
彼としては、このような中途半端な形で戦いを終えるのは不本意であったが、味方の体力が限界に達していたので、気持ちを切り替えた。
(これ以上戦っても、益はない)
彼も、相手側に習って捕虜を解放した。そして、双方が兵を退き、合戦は終わった。
この間、笠寺の今川勢は、大小の河川や水田に行く手を阻まれて、鳴海勢に加勢できなかった。
中村に陣取っていた山口教継は、九郎二郎教吉から報告を受けて、
「あの大うつけに、然様な機略があったとは!」
と、狼狽し、陣を放棄して鳴海に帰還した。
信長は、那古野城の防衛には成功したものの、裏切った者達を討てず、奪われた城は取り戻せず、自軍から三十余名もの戦死者を出した。総勢が八百余であった事を考えると、これは大損害であった。
彼は、心に固く誓った。
(今川治部大輔義元。この遺恨は、いずれ必ず晴らすぞ)