第十章 桶狭間の合戦
〈勝敗の帰趨は、天にある〉
鳴海城は、信長にとっては当主となった直後に失った屈辱の地であり、今川義元にとっては棚から牡丹餅の格好で得た成果である。織田は損をし、今川は得をした。それが、普通の見方である。
しかし、少し視点を変えると、別の事情が見えてくる。
今川家は、駿河と遠江は掌握できているが、三河は完全には制圧できていない。故に、尾張における今川領は、離れ小島のような状態となっている。このような飛び地は、補給線を断たれると孤立するので、防衛上の御荷物となる。目下、城を守っているのは今川家が誇る勇将・岡部元信である。尾張に今川家の爪牙が食い込んでいるわけだが、織田が兵を動かせば、今川家の重臣が人質も同然の立場に追い込まれる。
信長は、地力に勝る今川家との戦いでは、何としても主導権を握らなければならないと考えていた。主導権を握るには、主体的に行動を起こし、相手をそれに乗せなければならない。彼は、鳴海城を利用する事で、今川家を奔走させられると考えた。
(鳴海を取り囲めば、今川治部は、岡部丹波の窮地を捨て置けず、加勢の兵を出すであろう)
今川家の主戦力を前線に引きずり出して痛撃を与える。それが、彼の立てた作戦であった。
そうなると織田側は、鳴海城を包囲しつつ今川の派遣軍を迎え撃たなければならない。兵力において今川に劣る織田には、荷が重い作戦である。
しかし、彼は、既に、少ない兵力で城を包囲する方法を見出していた。即ち、付城である。
信長は、鳴海城の北に位置する丹下郷の古屋敷と、東に位置する善照寺の旧跡、南に位置する中島郷の集落に補強工事を施して砦と成した。一から築くのではなく既存の建造物を利用したのは、早急に完成させるためであった。しかし、これだけでは鳴海城を孤立させる事はできない。鳴海城の南西には、やはり今川方の大高城がある。城主は、今川義元の寵臣・鵜殿長輝である。
そこで、信長は、鳴海城と大高城の間に位置する丸根山と鷲巣山にも砦を築いた。
そして、丹下砦は水野帯刀に、善照寺砦は佐久間信盛に、中島砦は梶川高秀に、丸根砦は佐久間盛重に、鷲頭砦は玄蕃丞秀敏と飯尾定宗に、守備を任せた。各砦の兵力は、百から二百程度であった。
鳴海城の岡部元信と、大高城の鵜殿長照は、駿府に急使を発して今川義元に救援を求めた。
今川義元は、驚きはしたが、動揺はしなかった。彼は、丁度、家督を嫡子の氏真に譲ったところだった。内治は息子に任せ、自らは西征に向かうつもりだったのである。
勢力が安定している今川家ではあったが、現状に満足しているわけには行かなかった。同盟勢力が急成長していたからだ。武田家は信濃を制しつつあり、北条家は武蔵を平定して上野や下総方面にも進出しつつある。それなのに今川家のみが現状に甘んじていれば、彼等との関係が対等でなくなる。
同盟者は、友人ではなく、一時的に協調する敵に過ぎない。状況が変われば、態度も変わってくる。
今川義元は、まず当座の援軍として瀬名氏俊を将とする二百余の部隊を尾張に派遣する一方、諸大将を駿府館に召集して、
「我は、これより自ら兵を率いて尾張へ赴き、織田を討つ」
と、宣言した。
諸大将は反対した。
「『鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いんや』と申します。鳴海へは、誰か大将を一人御遣わしになるのみにて事足りましょう」
しかし、義元の決意は固かった。
「それのみにては足りぬ。吾が本意は、鳴海城の救援のみに非ず」
「では、織田三郎の征伐でござりまするか」
「それも違う。我は、尾張の清州城を攻め落とし、織田の虜囚となっておられる斯波左兵衛佐殿を御助けする所存でおる」
斯波左兵衛佐とは、信長が奉戴している斯波義銀の事である。
鳴海城を救った後に清州城を攻め落として斯波義銀の身柄を確保すれば、尾張は一挙に今川家のものとなる。そして、尾張が今川領となれば、西三河の反今川勢力も降参を余儀なくされ、義元は、駿河、遠江、三河尾張の四ヶ国を領有する大諸侯となる。京都の将軍も、三好家も、無視できないほどの大勢力が誕生する事となるのだ。
それ程の大きな作戦を遂行できるのは、やはり義元を措いてはいない。
それでも難色を示す諸大将に、義元は言った。
「武田信濃守や北条相模守は、自ら陣頭に出て采配を振るい、領国を押し広げておる」
武田信濃守は武田信玄、北条相模守は北条氏康の事である。
「そなたらは、我が彼等に及ばぬと考えておるのか」
そう言われては、諸大将も、それ以上反対できなかった。
方針が定まったなら、それに基づいて作戦を立て、部隊編成を行わなければならない。
鳴海城を救うには、それを囲む付け城を攻める先手、清州から駆け付けるであろう織田勢の主力を迎撃する中備、そして後方から全軍を統括する後詰の三手が必要である。
義元は、先手の大将に、朝比奈泰朝と松平元康を任じた。
朝比奈泰朝は、遠江・掛川城主で、かつて太原崇孚と並ぶ重鎮であった朝比奈泰能の子息である。泰能は、信長が武蔵守信勝を謀殺した年に、病没していた。
松平元康は、かつて今川家と織田家の間で人質として身柄を争われた竹千代である。彼は、元服後は今川義元から諱の一字を与えられて松平二郎三郎と元信と名乗り、その後、松平蔵人佐元康に改名していた。この時、十八歳。
中備の大将には、井伊谷城主・井伊直盛、二俣城主・松井宗信、曳馬城主・飯尾信連、久野城主・久野久宗らの遠江の大侍が選ばれた。
そして、後詰の指揮は、総大将の今川義元が自ら執り、蒲原氏徳、葛山長嘉、三浦義就、由比正信、一宮宗是ら駿河の大侍が部将として脇を固めた。
兵力は、先手と中備えが、それぞれ三千余、後詰が五千余で、総勢一万余の大軍である。
しかし、用心深い義元は、それで十分とは考えなかった。
(織田三郎の敵を、利用すべき)
彼は、体の敵と結んでの挟み撃ちを、常套戦術としていた。花蔵の乱においては、福嶋家を討つために甲斐の武田家と結び、河東一乱においては、北条家を討つために扇谷・山内の両上杉家と結んだ。
信長の敵と言えば美濃の斎藤家であるが、義元は、斎藤義龍だけは同盟の対象から除外していた。
(父殺しとは結べぬ)
尾張の海東郡・戸田郷に、石橋義忠という人物が住んでいた。石橋家は、足利家の一門衆であったが、時代の変化に対応できずに落魄していた。
義元は、石橋義忠を庇護し、三河・東条の吉良義昭と同様に自家薬籠中の物としていた。
石橋義忠は、武力は持っていなかったが、人脈は豊富であった。彼は、義元に、ある人物を紹介した。
服部友貞、仮名は左京進。尾張の海東郡戸田郷の住人である。彼は、格式は地侍級であったが、強力な水軍を統率し、伊勢・長島の一向門徒に傭兵隊長として雇われていて、実力は大名級であった。
摂津の石山本願寺に雇われた紀伊・雑賀郷の鈴木重秀、仮名・孫市と似た存在である。
義元は、この服部友貞に、今川勢の動きに呼応して織田家を攻撃する事を求めた。
服部友貞は、この求めに応じた。彼の雇い主である伊勢・長島の一向門徒は、伊勢・桑名の商人から後援されていた。そして、桑名商人は、織田家が庇護する熱田商人と伊勢湾の航行権を巡って争っていた。
永禄二年五月十二日、今川治部大輔義元は、一万余の軍勢を率いて駿府より出陣し、十七日に尾張の沓掛城に入った。
沓掛城主は、元々は地侍の近藤景春だったのだが、鳴海城・山口教継の返り忠によって尾張衆を信じられなくなった義元は、直臣の浅井政敏を城主に任じ、近藤景春は、支城の高圃情に移転させられていた。
城に入った義元は、先に尾張入りしていた瀬名氏俊から情勢について説明を受けて大高城の兵糧が欠乏している事を知り、先手の松平元康に、大高城に兵糧を搬入し、その後に丸根砦を攻撃する事を命じた。また、もう一人の先手である朝比奈泰朝にも鷲巣砦の攻撃を命じた。
信長は、今川義元が沓掛城に入った事を知ると、諸大将を清洲城に召集したが、世間話に終始し、日が暮れると皆に帰宅を促した。
諸大将は、
「さしもの上総介様も、運勢が尽きたのか、何の知恵も湧かぬようである」
と、囁き合い、
「さて、これから何としたものか」
と、思い悩みつつ退出した。
しかし、信長の小姓衆の見方は、違っていた。
(何やら、あの合戦の時と似ておるような気がする)
あの合戦とは、赤塚の合戦の事である。あの時も、信長は、妙に緊張感を欠いた風情であったが、俄かに出陣して鳴海城を強襲した。
故に、小姓衆は、予測した。
(程なく、殿は、御出陣遊ばされるに相違ない)
信長は、鳴海城を包囲して今川家の主戦力を尾張へ誘き出し、痛撃を与えるつもりでいたが、さすがに今川義元が自ら大軍を率いて出向いてくるとまでは思っていなかったので、狼狽した。
(手立てを誤ったか)
しかし、別の考え方もできる。これまでは手の届かない場所にいた今川義元が、最前線に出てきたのだ。
(我は窮地に立たされておるが、今川治部も死地に足を踏み入れておる。これは、千載一遇の好機である)
信長は、 気を取り直し、
(赤塚の遺恨を、この一戦にて晴らす)
と、考え、あの時と同じ作戦を取ることにした。即ち、長駆して敵勢の核を突くという手である。
翌日未明、清州城に、丸根・鷲津の両砦から、今川家の攻撃を報告する急使が到来した。
就寝中だった信長は、寝床から跳ね起き、幸若舞の〈敦盛〉を舞った。
人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻が如くなり
一たび生を受けて 滅せぬ者のあるべきか
舞いつつ、彼は、将軍・足利義輝の前で語った言葉を思い起こしていた。
「それがしにとって〈敦盛〉は、陣貝や陣太鼓のようなものにござりまする」
舞い終わると、彼は、立ったまま湯漬けを掻き込み、鎧兜に身を固め、陣貝を吹き鳴らさせて、清州城より出陣した。と言っても付き従ったのは、岩室重休、佐脇良之、山口飛騨、加藤弥三郎、長谷川橋介らの小姓衆のみであり、下手をすれば夜逃げと勘違いされかねない光景であった。
この間、丸根・鷲津の両砦は、今川勢の猛攻に晒されていた。
松平元康の率いる千余の三河兵は、五月十八日の夜間に移動して大高城に兵糧を運び入れ、そのまま待機して翌十九日の未明に丸根砦への攻撃を開始する。
それとほぼ同時に、朝比奈泰朝の率いる二千余の遠江兵も鷲巣砦に攻めかかる。
早朝に攻撃を開始したのは、朝方は満潮で海岸沿いの道が通行できなくなり、清州からの攻撃経路を限定できるからだ。今川勢は、信長の奇襲を警戒していたのだ。
鷲巣砦を守る玄蕃丞秀敏と飯尾定宗の二将は、
「些かなりとも時を稼ぐのが、我等の役目である」
と、砦の守りを固めて防戦した。
一方、丸根砦を守る佐久間盛重は、
「些かなりとも敵に痛手を与えるのが、我等の役目である」
と、二百余の手勢を率いて出撃し、松平隊に攻めかかった。佐久間隊は、獅子奮迅の戦いぶりで松平隊を押しまくったが、小勢の悲しさで勢いが続かず、動きが鈍ったところを押し包まれて潰滅した。
佐久間盛重は、刀槍が折れるまで戦って討ち死にした。
片や鷲巣砦の守備隊も、果敢に戦って何度も朝比奈隊を撃退した。
それに対して朝比奈隊は、火矢を放って砦の楼門を焼き落とし、そこから砦内に攻め入って守備兵を殲滅した。玄蕃丞秀敏と飯尾定宗は、自害して果てた。
この頃、今川義元は、沓掛城を出て、鳴海城西南の丘陵に陣していた。この丘は、地元の住民から「桶狭間山」と呼ばれていた。
義元は、使番からの報告によって先手が丸根・鷲津の両砦を落とした事を知り、上機嫌で謡を三番歌った。
その後、伝令を走らせて松平元康に大高城の守備を命じ、それまで城を守っていた鵜殿長照を新たな先手とした。
一方、信長は、熱田に到達していた。彼は、丸根・鷲津の方角から煙が上がっているのを見て、両砦が落とされたことを察した。この時点での彼の兵力は、侍六騎と足軽二百四程度でしかなかった。彼等は、海岸沿いの道が満潮で通れないので、北側の道を進んで水野帯刀が守る丹下砦に至り、更に進んで佐久間盛重が守る善照寺砦に入り、そこで兵が参集してくるのを待った。
ここで、悲劇的な行き違いが生じた。井関城主・佐々政次と熱田大宮司・千秋季忠の率いる三百余の部隊が、信長が今川勢への総攻撃を開始したと勘違いし、桶狭間山に攻めかかったのだ。
桶狭間山の西裾に陣していた今川勢の中備は、これを迎撃、包囲、殲滅した。佐々政次と千秋季忠は、討ち死にした。
丘の上から合戦を見物していた義元は、
「吾が武力の前では、鬼神であろうとも一たまりもあるまい」
と、ますます上機嫌となり、更に謡を歌った。
総大将の気分が伝播して、今川勢の士気は高揚した。
反対に織田勢の士気は、沈殿した。合戦が始まるや、砦を二つ落され、城主級の大将を五人も討たれてしまった。更に兵の集まり具合も捗々しくなく、この時点での織田勢の兵力は一千程度でしかなかった。今川勢が先手だけでも三千以上いる事を考えると、圧倒的な兵力差である。
それでも、信長は、梶川高秀が守る中島砦へ向かおうとした。侍衆は、難色を示した。
「ここより中島へと通ずる道は、狭隘である上に両側が泥田でござるゆえ、隊列を細くせねば通り抜けられず、しかも当方の動きが敵方から丸見えとなってしまいまする」
しかし、信長は、構わずに中島砦へと進撃し、更に桶狭間山に向かって押し出そうとした。
侍衆は、信長に取りすがるようにして反対した。彼等の心は、既に敗走を開始していた。
信長は、彼等に諄々と説いた。
「皆、聞くがよい。敵方は、夜を徹して大高城に兵糧を運び入れ、すぐさま丸根・鷲津を攻めておる故、疲れ果てておるはず。それに比べて、味方は力に満ちておる。寡兵にて大軍を相手にするからと申して、勝負を捨てるべきではない。勝敗の帰趨は天にある。敵が押し寄せてくれば退き、退けば食らいつき、臨機応変に動いて敵を押し崩せば、勝てる。この一戦に勝てば、末代までの功名が得られると心得るべし」
日頃は性急な信長が落ち着いて語った事により、士卒の動揺が少し鎮まった。
そこへ、前田利家、毛利長秀、毛利十郎、木下嘉俊、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人らが各々手に首級を引っ提げて到来した。ここへ来る途中で今川の偵察部隊と遭遇し、これを殲滅したのだ。
彼等の一人前田利家、仮名・又左衛門は、元は信長の小姓衆だったが、同朋衆の重阿弥という人物を斬って信長の勘気を被り、致仕処分を受けていた。
同朋とは、貴人の身辺の世話や茶事を行う役職の者で、剃髪していたので「茶坊主」などと呼ばれていた。
小姓衆と同朋衆とは、主君の寵を争う険悪な関係にあり、頻繁に軋轢が生じていた。
今回、前田利家は、戦功を立てて信長の許しを得るべく参陣したのである。
信長は、前田利家の方を一瞥はしたが、何も言葉をかけなかった。
前田利家は、下唇を噛んで地を蹴った。
小規模なりとも戦勝を得た者達が合流した事により、織田勢の雰囲気が少し明るくなった。この時、織田勢の兵力は二千余に達していた。
「頃合い良し」
信長は、桶狭間山に向かって全軍を進撃させた。
今川義元は、桶狭間山の上から織田勢の動きを観察しつつ、嘲笑する。
「織田三郎は、猪武者なり」
ところが、直後、両勢から、ざわめきが生ずる。天が瞬いたかのように、風景の色が明滅したのだ。
(何事⁈)
織田勢も今川勢も、信長も義元も、一斉に空を見上げた。
天空において気流が渦巻き、暗雲が湧き、稲妻が走っていた。
頻繁に野外活動を行ってきた信長には、次に何が起こるのかが分かった。彼は、直ちに士卒を密集させ、低い態勢を取らせた。
義元には、この先何が起こるのか、全く分からなかった。
直後、雷鳴が轟き、強風が吹き荒れ、雹が降り注いだ。風は、今川勢の正面に、織田勢の背面に吹きつけた。
今川勢の将兵は、強風に煽られて、次々と転倒する。義元は、幔幕に囲まれた座所において鎧櫃に腰かけていたのだが、風圧に耐えられず、鎧櫃もろとも転倒し、甲冑の重さに負けて立ち上がれず、もがく。
旗本衆が駆け寄って義元を助け起こすが、そこへ風に飛ばされてきた幔幕が大蛇のように巻き付く。
誰かが叫んだ。
「御屋形様を山の陰へ‼」
旗本衆は、その勧めに従い、義元を守って丘の陰に避難した。彼等は、吹き降ろす風に背を押され、のめるようにして斜面を降り、麓の窪地に入った。その窪地は、近隣の住人から「田楽狭間」と呼ばれていた。
松井宗信、飯尾信連、久野元宗、井伊直盛らの率いる中備衆と、蒲原氏徳、由比正信、三浦義就、葛山長嘉らの率いる後詰衆は、何も知らされないまま取り残された。
やがて、暴風が止んだ。
面を上げて一息つく今川の中備衆と後詰衆。しかし、彼等は、すぐに取り乱した。本陣から総大将と旗本衆が消えていたからだ。彼等に見えたのは、義元が移動に用いていた朱塗りの輿だけであった。
「御屋形様は、何処に?」
彼等は、統制を失った。
その隙を、信長は見逃さなかった。彼は、馬に跨って槍を取り、士卒に下知した。
「さあ、かかれ‼」
織田勢は、奔流の如く今川勢に攻めかかった。
疎らに散開してしまっていた今川勢は、組織的に対応できず、薙ぎ倒され、突き伏せられ、蹴散らされ、壊乱した。その間に、松井宗信、飯尾信連、久野元宗、井伊直盛、蒲原氏徳、由比正信、三浦義就、葛山長嘉、一宮宗是ら諸大将が、鋒刃を浴びて討ち死にした。
一方、田楽狭間に避難していた義元と旗本衆とは、激戦の音を聞いて、桶狭間山の上に戻ろうとした。しかし、丘の上は、既に織田勢に制圧されていた。義元が見上げた先には信長が、信長が見下ろした先には義元がいた。
信長は、叫んだ。
「あれなるは、今川治部の旗本衆なるぞ。者共かかれ‼」
織田の侍衆は、馬から降りて今川勢に攻めかかる。信長も、下馬して戦闘に加わる。
義元は、悪夢を見ている心地がした。つい先頃までは勝利は目前と思われていたのに、一瞬で形勢が逆転してしまった。義元の旗本衆は三百余に過ぎず、対する織田勢は、その五倍以上の兵力である。
しかし、今川勢にも、まだ勝機はあった。中備衆と後詰衆は潰滅したが、先手衆は健在である。彼等と合流すれば、巻き返しは可能である。
義元は、太刀を抜いて叫んだ。
「怯むな! 持ちこたえておれば、先手の兵が駆けつけるぞ」
今川の旗本衆は、義元を核として円形の隊列を組み、織田勢の攻撃を凌ぎつつ、大高城方面へと徐々に退却する。織田勢は、それを追撃し、執拗に攻め立てる。三百余いた旗本衆は、次第にその数を減らし、遂には五十足らずとなってしまう。
服部一忠、仮名・小平太という織田の侍が、旗本衆の防御線を突破して義元に迫り、槍を繰り出す。
義元は、太刀で槍先を払いのけつつ踏み込み、相手の膝を斬る。
服部一忠は、痛手に耐えかねて転倒する。
すると、今度は、毛利良勝、仮名・新介という織田の侍が、野太刀を振るって義元に斬りかかり、その兜を一撃する。
兜は頑丈だったので砕けなかったが、衝撃が脳に伝わり、義元は目が眩んでよろめいた。
毛利良勝は、野太刀を捨てて義元に組み付く。
義元は、倒されまいとして足を踏ん張る。
毛利良勝は、相手を引き寄せておいて、いきなり体重を浴びせる。
意表を衝かれた義元は、支えきれずに倒れる。
すかさず、毛利良勝は、相手の上に覆いかぶさる。
義元は、相手の首にしがみついて態勢を入れ替え、相手の体の上に馬乗りになる。
すると、毛利良勝は、右手で脇差を抜き、左手で相手の鎧の草刷りを持ち上げ、下腹部を数度刺した。そして、弱った相手の体を撥ね退け、俯せにして上に跨り、兜の前立てを掴んで引き上げ、首を掻いた。
やがて、今川兵の大半が地に臥して息絶え、織田兵は武器を杖にして息をついた。
信長は、義元の首のみを確認し、
「残りの首実検は、清州にて行う」
と、宣し、兵をまとめて清州城に引き揚げた。
直後に、朝比奈泰朝、鵜殿長照、瀬名氏俊の部隊が、戦場に駆けつけた。彼等は、首のない主君の屍を目の当たりにして戦意を失い、大高城を守る松平元康には何も知らせずに、退却した。
置き去りにされた松平元康は、敵方である水野信元からの急報によって義元の討ち死にを知り、大高城を捨てて三河へ退いた。水野信元は、織田家の同盟者である一方、元康の生母・於大の方の兄でもあった。
沓掛城の浅井正敏と鵜殿長照も、城を放棄して退散した。
鳴海城を守る岡部元信のみは、逃げずに踏み止まった。
この間、服部友貞の率いる水軍は、上陸して熱田を襲撃したが、熱田の町衆は豪商・加藤順政を将としてこれを迎え撃ち、打ち負かした。服部勢は、数十名の死者を出して敗走した。
信長は、今川義元の首級を馬前に掲げさせて清州に凱旋し、翌日に首実検を行った。首級の数は、二千に達していた。
下方九郎左衛門という侍が、今川義元の同朋の一人を生け捕りにしていた。信長は、この同朋に首級の確認をさせたので、首実検が迅速に進んだ。
信長は、その謝礼として、この同朋に金銀で飾った大小両刀を与え、更に白木の箱に収めた義元の首級を託し、鳴海城の岡部元信への伝言を依頼した上で、身柄を解放した。
同朋は、義元の首級を抱いて鳴海城へ行き、岡部元信に、信長の言葉を伝えた。その言葉とは、
「主君の首級を守って駿府に戻り、葬儀を執り行ってはどうか」
という趣旨のものであった。つまり、義元の首を返してやるから城を明け渡せ、という事である。
勧告を受けて、岡部元信は、考え込んだ。このまま城を守っていても活路はなく、全滅は必至である。それでも彼が踏み止まっているのは、名誉のためであった。
(主君を討たれながら、皆が逃げ落ちてしまっては、今川家の名折れである)
義元の死により今川家が再起不能であるという印象が世間に浸透すると、傘下の国衆が離反し、同盟勢力が敵に回る恐れがある。それ故、岡部元信としては、何としても今川家の意地を示さなければならなかった。
しかし、主君の首級と引き換えに城を明け渡して撤退するという形ならば、何とか体面を保つ事ができる。
岡部元信は、
(命あらば、御屋形様の仇を報ずる機も得られよう。今は、御家の立て直す事が先決である)
と、考えて、信長の勧告を受け入れ、鳴海城を放棄して撤退した。但し、相手側を完全に信じていたわけではなく、
(我等を城から出しておいて追い討ちをかけるつもりやも知れぬ)
と、警戒し、指揮下の兵に警戒態勢を取らせつつ整然と退却した。
信長は、斥候から、その事を報告されて、
「さすがは、岡部丹波守」
と、感嘆する一方、兵を動かして今川勢が放棄した諸城の奪還に取り掛かった。
鳴海城と大高城は空き城になっていたので容易に制圧できたが、沓掛城には兵が籠っていた。元の城主である近藤景春が、高圃城から戻っていたのである。
信長は、城を攻め落とし、城を落として近藤景春を討ち取った。当主となってから九年にして、彼は、尾張を平定した。この時、二十七歳。
その後、彼は、清州と熱田を結ぶ街道上の一地点に塚を築き、その上に卒塔婆を立てて、今川義元の供養を行った。
この「桶狭間の合戦」における勝利により、織田上総介信長の名は、天下に轟いた。
京都の足利義輝は、報告を受けて、思わず天を仰いだ。
(人の生涯の良し悪しは長短ではなく成否で決まる、と申しておったな)
彼は、時代の転機が到来したと感じた。この時、二十五歳。
信長は、義輝の命に背いて今川家と戦ったわけだが、彼は、怒っていなかった。
(彼ならば、三好に勝てるやもしれぬ)
その三好長慶は、河内に出陣し、守護職の畠山高政と戦っていた。この時、三十九歳。
彼は、今川義元の敗死を知ると、
「武田、北条、今川の盟は、遠からず破られるであろう。そうなれば、越後の長尾が動く。長尾は、上洛して公方様に拝謁しておった。そして、織田も、やはり上洛して公方様に謁見しておる。織田が今川を討ち、長尾は武田と北条を攻める機を得た。これは、偶然であろうか」
三好長慶は、優れた君主であったが、うち続く闘争に疲れ果て、目の下の隈が濃くなっていた。
「水面下において、何か良からぬことが起きておるのではあるまいか」
「御懸念には及びますまい」
傍らに控える人物が、長慶をなだめる。
「長尾も織田も、遠方の大名にござりますれば」
その人物の名は、松永久秀、仮名・弾正少弼。三好長慶の腹心の家来である。この時、五十一歳。
「公方様が遠国の大名に何かしらの働きかけをなさるのは、毎度の事にござりまする」
「甘いぞ、弾正」
長慶は、納得しなかった。
「今川治部大輔が敗れしも、織田を侮ったが故であろう」
彼の予測通り、越後の長尾景虎は、今川義元の戦死を転機と認識した。今川家は、彼の宿敵である武田、北条両家の同盟勢力だったからだ。
長尾景虎は、非常に自己嫌悪の強い人間だった。
(吾が父は、私利私欲に走って主君を弑逆し、上越の秩序を乱した。そして、我も、やむを得なかったとは申せ、兄を押しのけて守護代の座に就いた。誠に罪深き事なり)
そして、正義の戦いを起こして自らに身を危険に晒せば、魂が浄化されると信じていた。
正義の戦いとは、悪を相手に行うものである。彼にとっての悪とは、私利私欲を動機として秩序を乱す者達であった。そして、室町幕府の体制を無視して勢力を拡大している武田家と北条家を敵視した。
彼は、天文二十二年に京に上って後奈良天皇と足利義輝に拝謁し、更に六年後の永禄二年にも上洛して正親町天皇と足利義輝に謁見した。自らの戦いが私戦ではなく公戦である事を天下に示すためである。
二度目の上洛の際、彼は、足利義輝から、二か月前に尾張の織田信長という新興大名が義輝に拝謁していた事を教えられた。
長尾景虎は、
(我の他にも公儀を重んずる大名がおったのか)
と、信長に対して 同志的な感情を持った。
そして今回、その織田信長が、武田と北条の同盟者である今川義元を討った。
(我も、遅れを取ってはならぬ)
長尾景虎は、諸大将を召集して宣した。
「兵を集めよ。北条を討つ」
その北条家の本拠である相模・小田原城にも、今川義元戦死の報は届いていた。
当主の北条氏康は、調和と均衡を重視する人物だった。この時、四十六歳。
彼の祖父である「北条早雲」こと伊勢長氏は、戦乱に便乗して成り上がった梟雄であるかのように見られていたが、その事績の多くは、相続争いの調停・解決であった。彼は、権門・大族の起こした騒乱を鎮定し、新秩序を構築した。彼の子である氏綱や孫の氏康も、幕府から権威的な地位・称号を受けて地元の大族を従属させるのではなく郷民を北条家の組織・体制に組み込んでゆくという形で勢力を成長させた。関東再編である。
これにより、関東の旧勢力の大半が、彼等の敵に回った。敵に囲まれているがゆえに、北条家には武田・今川両家との同盟関係は、非常に大切なものであった。
しかしながら、北条氏康は、手放しで同盟者を信じていたわけではなかった。
(武田も今川も、いざとなれば己の損得に重きを置くであろう。油断はならぬ)
そして今、三家の一つである今川家が、弱体化してしまった。北条氏康は、憂慮する。
(武田の動きが気にかかる。水は高所から低所へと流れるもの。武田の目には、弱り切った今川は、味方ではなく獲物に見えるのではあるまいか。今後は、武田の動きに目を配らねばならぬ)
その武田家の当主・武田信玄は、甲府・躑躅ヶ崎館にて、間諜からの報告に基づいて、桶狭間の合戦について分析していた。
(織田上総介の勝因、そして今川治部大輔の敗因は何か)
彼は、剃髪して僧侶のような外見をしていたが、中身は全く違っていた。高僧は人々を導く道を追い求めるものであるが、彼が追求しているのは、勝つための手段であった。この時、四十歳。
彼は、様々な経験から、闘争に勝利するには相手を騙すのが一番であるという結論に至った。多くの人間が知っている事実であったが、実行すれば嫌悪・軽蔑されて人心を失い、結局は勝てない。
人を騙し続けながらも人々から尊敬されるなど不可能と誰しもが思うが、武田信玄は、格好の隠れ蓑を見つけ出した。
(兵は詭道なり)
即ち、唐土伝来のと兵法書「孫子」である。孫子の兵法と言えば、高邁な思想であるかのように思われがちであるが、実際には、敵味方双方を騙して巧みに操作する詐術の集大成であった。
武田信玄は、唐土伝来の兵法書を旗幟とする事で、自らが陰湿な策謀家ではなく高等な思想を実践する名将であるという印象を世間に浸透させようとしたのである。
今川義元の死は武田家にとって損失であったが、信玄は、出来事に対しては過剰な感想を持たず、先ず分析するように努めていた。
(勝敗を分けたのは、大風であろう。大木を薙ぎ倒すほどの大風が吹かなければ、織田が勝つことは難しかったであろう)
ただし、彼は、信長の勝利を単なる僥倖だとは思わなかった。
(織田上総介は、怯むことなく果敢に動いたがゆえに、好機を得る事ができた。彼の胆力が、幸運を引き寄せたのである)
分析は、さらに続く。
(今後、織田と今川は、如何様に動くのであろうか。織田は、勢いに乗って今川の領地に攻め入るのか)
織田信長が今川領を併呑しようとするのであれば、武田家は、今川家に加勢しなければならない。それは、武田家にとって負担ではあるが、好機であるとも言えた。公然と今川領内に武田兵を入らせられるからだ。そして、新当主の今川刑部大輔氏真を補佐する体を装いつつ、駿河と遠江を乗っ取る事ができる。
しかし、織田信長が東進せずに美濃に向かう可能性もある。その場合には、今川家は勢威回復の猶予が得られる。
(されど、それは難しかろう。侍大将の大方を討たれてしまっては、今川家は、もはや空蝉も同然である)
武田領は海から離れた内陸部に位置している為、塩の流入を断たれると致命的な問題となる。
もし海に面した今川領が手に入れば、その問題は一挙に解決される。
(焦りは禁物である)
信玄は自分自身を戒める。
(急いては事を仕損ずる。まずは、今後の織田の動静を見守るべき)
その時、間諜頭の山本勘助が参上し、
「御府内の寺に、天沢と申す尾張の僧侶が逗留しております」
と、報告した。
信玄は、山本勘助に、
「その僧侶を、この館へ招け。織田上総介にまつわる話を聞きたい。賓客として丁重に遇するように」
と、命じた。
信長は、本願である上洛の準備に取り掛かる。
(まずは、美濃へ攻め入り、斎藤新九郎を討つ)
そのために、彼は、生駒家長を海東郡の蜂須賀村に遣わした。ある人物に美濃攻略の先導役を依頼するためだった。
その人物の名は、蜂須賀正勝、仮名は小六郎。彼は尾張衆であったが、美濃の斎藤道三に仕え、その旗本衆に加えられていた。長良川の合戦においては、斎藤義龍方の軍勢と果敢に戦ったが、主君を守れず、家来も失い、郷里に逃げ戻ってきていた。この時、三十五歳。
蜂須賀正勝は、信長の要請を断った。
「儂は、斎藤山城入道様を守り申し上げる事ができず、家来も大勢死なせてしまった。もはや侍を名乗るには値せぬゆえ、出家遁世するつもりでおる」
「気の弱い事を申すものよ。和主らしくもない」
生駒家長は、何とか翻意させようとするが、その背後にて、
「さても笑止。音に聞こえたる蜂須賀小六郎様が、かくも腑抜けにていらせられたとは」
と、哄笑が湧いた。
「何と⁈」
蜂須賀正勝は、血相を変えた。
「何奴か。今、儂の事を、腑抜けと申したか」
生駒家長は、振り返り、
「これ、口を慎まぬか」
と、後ろに控えていた者を叱りつけた。
それは、貂か鼬に似た顔立ちの若い男であった。彼は、少しも怯まず、
「いや、これは無礼を申し上げました。されど、蜂須賀様が、余りにも恥知らずな事を仰せられましたゆえ、つい可笑しくなりまして」
「何⁈ 今度は、恥知らずと申したか!」
「あるいは、卑怯と申すべきでござりましょう。まあ、確かに、それしきの御器量と御胆力にては、織田家の侍大将は到底つとまりますまい。早々に髪をおろして仏門に入られるべきかと存じまする」
「こ奴・・・・・・」
蜂須賀正勝は怒りに顔を紅潮させ、生駒家長は恐怖に顔を蒼褪めさせた。
鼬面の男は、太々しく胸を張っている。
蜂須賀正勝は、大刀を取って立ち上がった。
生駒家長は、
「待たれよ、小六郎殿。この者は、乱心いたしたに相違ござらぬ。直ちに下がらせまするゆえ、何とぞ御容赦を」
と、嘆願したが、蜂須賀正勝は、
「いかに生駒八郎右衛門殿の家来であろうとも、掛かる雑言を許すわけには参らぬ」
と、刀の柄に手をかけて鼬面の男に詰め寄る。
生駒家長は、必死に説く。
「この者は、それがしの家来ではござらぬ。元は吾が父に仕えておりましたが、今は清州に出仕しており申す」
「ならば、尚のこと許せぬ。かかる者を御遣わしになるおられるのは、織田上総介様が儂を侮っておられる証左ではござらぬか」
「断じて然様な事はござらぬ」
生駒家長は必死に弁明するが、鼬面は、せせら笑って言う。
「されば、それがしが蜂須賀様を恥知らずの腑抜けと申しましたる所以を申し上げましょう。それを聞いて得心が行かぬとあらば、それがしの首をはねられればよろしい」
生駒家長は、
「何たることを申すものか」
と、為す術を知らぬ体である。
蜂須賀正勝は、
「おお、良い覚悟である」
と言って刀の鯉口を切り、
「いざ、申せ!」
鼬面を睨みつけた。
鼬面は、態度から不遜さを消し、
「されば申し上げまする。受けた恩義には報い、借りた金銀は返すのが当然の理でござりましょう。それがしの言葉に誤りはござりまするか?」
「否、誤ってはおらぬ」
「蜂須賀様は、亡き斎藤山城入道様には恩義が、討ち死にさせた家来衆には責務がござるはず。違いまするかな」
「否・・・・・・」
蜂須賀正勝は、刀の鎺元を鞘に収めた。
「違わぬ」
「ならば、山城入道様の恩義に報いるためには、その仇たる斎藤新九郎殿を討たねばならぬはず。また、討ち死にさせた家来衆への責務をはたすためには、その一族に応分の扶持を与えねばならぬはず。いかに思し召しまするや」
「うむ・・・・・・」
蜂須賀正勝は、腰を下ろし、刀を脇に置いた。
「そなたの申す通りである」
「山城入道様の仇を討つには、織田上総介様に仕え申し上げるのが、最善の道にござりましょう。そして、戦功を挙げて取り立てられれば、討ち死にした家来衆の一族に高い扶持を与える事ができるのではござりますまいか」
「むむ・・・・・・」
蜂須賀正勝は、両手を膝の上に置いた。
「そうかもしれぬ」
「しかるに蜂須賀様は、出家遁世なさると仰せられました。これは主君への報恩も、家来への責務も投げ出して逃げるのも同然の行い。恥知らずの腑抜けと謗られても、致し方ないのではござりませぬか」
「確かに」
蜂須賀正勝は、深く首を垂れた。
「儂は逃げておった」
「斎藤山城入道様が貴方様を旗本衆に加えられたのも、家来衆が貴方様のために命を捨てたのも、偏に貴方様の御器量を高く見積もってのことにござりましょう。天より与えられし器量は、十分に生かすべき。それこそが、天命であると心得まする」
「参った!」
蜂須賀正勝は、鼬面に対して深々と頭を下げ、
「儂が、心得違いを致しておった。どうか許されよ。貴公の言葉にて目が覚め申した」
と、謝罪した。
生駒家長は、安堵の息をつく。
「どうなる事かと思ったわ」
蜂須賀正勝は、顔を上げて鼬面に尋ねる。
「貴公、名は何と申される」
「これは、申し遅れました」
鼬面は、手をついて丁寧に辞儀をした。
「それがしは、木下藤吉郎と申しまする」
木下秀吉、仮名は藤吉郎。この時、二十四歳。
了