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信長公演義・桶狭間の合戦  作者: 酒井塞翁
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第一章 優等生から餓鬼大将へ

日本史を題材とした三国志演義のような読み物を書いてみたいと思い、挑戦しました。

 

〈我は、寺の御本尊にあらず〉


 尾張国、愛智郡、那古野城。この城は、元々は那古野庄という荘園の政所であった。

 室町時代後期、駿河、遠江二国を領有する大諸侯・今川家が、尾張にも進出し、この荘園を制圧して政所を城塞化した。

 まず、政所の周囲に壕を掘り、かき上げた土を固めて土塁とする。次いで、塁上に塀を築く。その塀の表面に粘土を塗り、それが乾いた後に狭間を切る。巡らせた土塁の四隅に、櫓を建てる。これは防火のために土蔵のような塗籠の造りとし、格子窓を開ける。先に掘った濠には、周辺の河川や沼沢から水を引き入れる。これで、本丸の完成である。

 本丸の周囲に更に塁濠を巡らし、二の丸、三の丸とする。そして、その外側に侍の居住区を築く。この区域は、塀と堀切で仕切って迷路のような構造とする。

 こうして、那古野城が出来上がった。


 天文元年、那古野城主・今川氏豊は、連歌の会を催し、親交のある勝幡城主・織田信秀、仮名・備後守を招待した。

 織田信秀は、招きに応じて那古野城を訪問し、機嫌よく饗応を受けていたのだが、俄かに苦しみだして倒れ、

「どうやら、それがしの命もこれまでのようにござる。後事を託すために、家来の者どもを召し寄せる事を御許し願いたい」

 と、今川氏豊に懇願した。

 氏豊は、暗殺の嫌疑を掛けられる事を恐れて、勝幡城の侍衆が那古野城に入るのを許可した。

 ところが、織田信秀は、家来衆が城内に入ると、病床から起き上がって彼等を指揮し、城を乗っ取ってしまった。那古野の侍衆は信秀に降参し、今川氏豊は放逐された。彼のその後の消息は、不明である。

 世の人々は、

「詐術を用いて、誼のある人物から城を奪うとは、織田備後守は卑劣なり」

 と、非難したが、信秀は、

「そもそも、城を奪うために誼を通じていたのである。城を正面から攻めていたならば、敵味方の双方から数多の死者が出ていたであろう。そちらの方が余程に惨いのではないか」

 と、意に介さなかった。

 彼は、我慢比べと徒労が、何よりも嫌いだった。普通に城を攻めたならば我慢比べとなり、それで落とせなければ徒労に終わる。必要最小限の努力で大きな成果を得るのが、彼の好むやり方であった。



 室町時代、尾張の国主は斯波家であった。斯波家は、足利将軍家の一門衆であり、尾張の他に越前も知行国とし、管領職に就く資格も有していた。しかし、応仁文明の乱において足利家と同様に相続争いを起こした彼等は、弱体化し、越前の知行権を守護代の朝倉家に奪われ、尾張においては辛うじて守護の座を維持できていたが、政治の実権は守護代の織田家に移っていた。

 織田家は、斯波家の相続争いに巻き込まれて、伊勢守流と大和守流の二派に分裂していたので、朝倉家のように新たな国主とはなれずにいた。

 伊瀬守流は丹羽郡の岩倉城を本拠として尾張の北部を、大和守流は清州城を本拠として尾張南部を支配していた。両派の呼称は、世襲の称号に因んだものである。血統的には伊勢守流の方が本家だったのだが、勢威は斯波家当主の身柄と府城・清洲を確保している大和守流の方が優位に立っていた。

 織田信秀は、大和守流の分家である、弾正忠流の当主であった。弾正忠流は、分際は奉行級でしかなかったが、牛頭天王社の門前町である津島を掌握することで財力をつけた。と言っても、ただ単に町衆から金銭を取り立てたのではなく、彼等を理療に登用して所領を管理させ、財政を充実させたのだ。

 しかしながら、出る杭は打たれる。信秀は、それを警戒して表面上は大和守流への恭順の体を示しつつ、勢力を伸張させるための隙間を探した。今川家の飛び地である那古野城は、正にその隙間だったのだ。


 那古野城の南には、門前町であり海港としても栄える熱田があった。

 信秀は、一旦は勝幡から那古野へと本拠を移したが、その後、より熱田に近い古渡という集落に城を築いて新たな本城とし、那古野城は、数え年で九歳となっていた世継ぎの吉法師に与えた。幼少時から城主としての経験を積ませるための措置だった。

 無論、幼童に城主が務まるはずがない。信秀は、平手政秀、仮名は中務丞という人物を、吉法師の教育係に選んだ。彼は、教養があり、弾正忠流の外交担当者であった。この時、四十三歳。

 また、吉法師が成人に育つまでの城主代行に、林秀貞、仮名は佐渡守という人物を選んだ。彼は、荒子、米野、大脇の三城主を与力とする准大名級の地侍であった。その他にも、青山信昌、内藤勝介という老練な侍大将が、那古野城に配属された。

 吉法師は、この城において、英才教育を受けて育った。即ち、市川大介から弓矢を、平田三位から刀槍を、橋本一把から鉄砲を学んだ。その他にも、乗馬と水練の教練を積んだ。

 学問は、妙心寺の沢彦宗庵と言う僧侶から学んだ。沢彦宗庵は、吉法師が漢籍や仏教説話に興味を示さなかったので、

(このままにては、暴君となる)

 と、憂慮し、保元物語、平治物語、平家物語、源平盛衰記、太平記などといった戦記物語を教材として、吉法師に君主学を説いた。

 この頃の吉法師は、多少気難しい所はあっても、概ね素直で品行方正な優等生であった。しかし、それが、ある日を境に変わる。


 天文十五年、十三歳となった吉法師は、元服して織田三郎信長と名乗った。父の信秀が、三十七歳の時のことである。

 その一年後の天文十六年、三郎信長は、傅役の平手政秀が率いる数百の兵に守られて、三河の大浜へ出陣した。初陣である。

 大浜は、矢作川の河口付近にある港町で、東海地方の雄たる今川家の領土であった。弾正忠流の軍勢は、大浜の周辺において焼き討ちを行った。信長は、紅筋の頭巾に陣羽織という出で立ちで甲馬に跨っていた。

 敵勢との戦闘は、なかった。平手政秀が、敵の戦力が存在しない場所を選んで攻めたからだ。つまり、これは世継ぎのために御膳立てされた式典でしかなかったのだ。

 それでも、信長は、恐ろしくて仕方がなかった。敵の姿が見えない分、妄想が肥大し、風の音や鳥の声が敵の喊声に聞こえ、森林の樹木が敵兵の姿に見えた。彼は、自らの臆病さを恥じた。

(座敷にて学問を習得し、馬場にて武芸を修練しても、胆力は備わらぬ)

 弾正忠流の軍勢は、その日は野営し、翌日に退陣した。

 その後、信長は、しばらくの間ふさぎ込んでいた。

(いかにすれば心魂を鍛えられるか)

 書物には、その方法は書いてなかった。家来衆に尋ねても、

「然様なものは、戦に出ておれば自ずと備わるものにござります」

 としか答えてくれなかった。

(然様なことでは、負け戦続きとなるではないか)

 学も臣も当てにならないと悟った彼は、愛好する戦記物語に救いを求めた。

(九郎判官は、いかにして強くなったか)

 九郎判官とは、これより三百年以上前に活躍した武将、源義経のことである。彼は、幼少期は寺院に預けられて稚児として育ったため、武芸の修練ができなかった。そこで、彼は、夜な夜な僧房を抜け出し、裏山に登って武技の修練を積んだと言われていた。

 信長は、そこから着想を得た。

(我もまた山野に起居して心身を鍛えるべき)

 その日から信長は、加藤弥三郎、長谷川橋介、岩村重休、山口飛騨、佐脇良之らの小姓衆を率いて城外に出て、野山を疾駆し、町宿を徘徊するようになった。

 それにより、信長の服装が変化した。

 まず、腕を動かしやすくするために帷子の袖を外し、前腕部に太縄を腕抜きとして巻いた。

 次に、頻繁に川に入ったので、半袴を用いるようになった。

 また、活発に動き回ると、髷が乱れてくる。それを一々結い直していては時間と手間が掛かって仕方がないので、頭髪は無造作にまとめて茶筅髷とした。

 野外で水分を補給するには水筒が、炊事を行うには火打石が必要である。そこで、信長は、水の入った瓢箪と火打石の入った袋を、腰の周りに太縄で吊り下げた。また、朱鞘の野太刀を、太縄を下げ緒として腰に帯びた。

 小姓衆も主君の装いに習ったため、ここに異様な集団が出来上がった。このような一団が、柿や瓜を齧りながら盛り場を闊歩したため、領民は、

「那古野の織田三郎様は、大うつけなり」

 と、噂し合った。

 しかし、これは求人活動でもあったのだ。信長主従が物を食いながら町を歩くと、郷村から流れてきた者達が後をついて回った。信長は、そうした者達を、中間や小者として召し抱え、衣食住を与えた。

 信長は、人を採用するに当たっては、出自と生国を問題としなかった。これは、憧憬の対象である源義経が、僧兵の武蔵坊弁慶、盗賊の伊勢義盛、猟師の鷲尾十郎など様々な出自の者達を配下としていた事に習ったものであった。

 若殿が貴公子から餓鬼大将に豹変したため、後見役の林秀貞や平手政秀は狼狽し、取りすがるようにして諫めた。

「御世継ぎともあろう御方が、野伏の如く御振舞いになってはなりませぬ」

「野伏と申したか」

 信長のこめかみに太い青筋が立つ。

「汝等は、我が着飾って本丸に端座しておれば満足なのであろうが、我は寺の御本尊にあらず。行儀良くしておれば、戦に勝てるのか」

 彼は、宿老衆が、自分の行動を頭から奇行・愚行と決めてかかっている事が、腹立たしくてならなかった。

「我は、戦に勝つために調練しておるのだ。益体なき諫言は無用である」

 信長と宿老衆の間に、深刻な亀裂が入った。


 ある日、信長が、御伴衆を率いて庄内川の河口付近を散策していると、郷衆とも町衆ともつかぬ者たちが、竹竿を使って戦の真似事をしているのを見かけた。関心を抱いた彼は、彼等に近寄り、

「我は、那古野の織田三郎である。汝等は誰か。ここで何を致しておるのか」

 と、尋ねた。

 すると、彼等の中から一人の侍が進み出て、

「それがしは、津島の足軽大将にて、滝川左近将監一益と申します。募った雑兵どもに調練を施しておりました」

 と、答えた。つまり、彼等は津島の町衆に雇われた傭兵隊であった。

 信長は、滝川一益が鉄砲を所持している事に気付き、

「それを使えるのか?」

 と、問いつつ、小姓に命じて、少し離れた場所に竿を立てさせ、更にその上に笠を掛けさせた。返答は、言葉ではなく行動で示せということだ。

 滝川一益は、

「承知つかまつりました」

 と、承諾した。

 銃声が轟き、笠が吹き飛ばされる。

「おお、見事!」

 信長は、手を打って喜び、

「我もまた兵の調練に参ったのである。どうであろう、我等と勝負いたさぬか」

 と、提案した。勝負と言っても、実戦ではなく、竹竿を用いての模擬戦である。

 滝川一益は、

(吾が器量の程を示す好機なり)

 と、考えて承知した。


 滝川一益、仮名は左近将監。近江国、甲賀郡の出身である。彼は、門地は低かったが志は高く、

(ゆくゆくは一城の主に)

 という目標を立て、地元の大名である六角家には将来性を感じなかったので、より良い仕官先を求めて諸国を転々とした。しかし、何処においても重用されず、尾張にまで流れてきて、日々の糧を得るために津島の牛頭天王社に用心棒として雇われた。

(何が一城の主か・・・・・・)

 と、嘆いていたところに、信長と出会ったのである。


 竹竿を用いた乱暴な競技会。

 競技には、規則が必要である。まず、何を以て勝利とするのかを決めなければならない。本当の戦ならば、敵勢を殲滅するか、敵の大将を討ち取るかすれば勝利が確定するが、これは模擬戦なので、そこまではできない。そこで、彼等は、双方が竹竿と筵で大将旗を作り、それを先に奪った側が勝者である事に決めた。

 それぞれの旗を背に対峙する両勢。

 片や織田信長が率いる御伴衆、片や滝川一益が率いる雑兵衆。数においては雑兵衆の方が上であったが、戦力的には侍の比率が高い御伴衆の方が上であるように思われた。

「掛かれ!」

 先に攻撃命令を出したのは、信長だった。下知を受けて、御伴衆は竹竿を構えて猛然と進む。

 それに対して滝川一益は、兵を密集させて迎撃態勢を取る。

 御伴衆は雑兵衆を一気に突き崩そうとするが、雑兵衆は粘り強く戦う。

 信長は、苛立つ。

(敵方は、大将以外に侍がおらず足軽ばかりなのに、存外、強い)

 彼は、躍起になって味方を叱咤激励し、雑兵衆を攻め立てる。

 すると、雑兵衆の中央部が大きく凹んだ。信長は、勝利を確信した。

(得たりや!)

 ところが、雑兵衆は、中央が凹んだ分、両翼が突出してきて御伴衆を挟み込んだ。

 御伴衆は、狼狽して算を乱す。

 すかさず、雑兵衆は嵩にかかって攻め立る。

 既に体力が限界に達していた御伴衆は、この攻勢を支えきれず総崩れとなり、大将旗を奪われてしまった。

 凱歌を上げる雑兵衆。しかし、滝川一益は、信長の逆上を恐れて、それを制止した。

 信長は、悔しがりはしたが、怒りはせず、

「誠に天晴れなり。よくぞ我等を打ち負かした」

 と、雑兵衆を称えた。彼は、この敗北によって、ある認識を得ていた。

(足軽も、調練次第では相当な力となる。侍を増やすには」土地を要するが、足軽衆は銭があれば集めることができる)

 彼は、滝川一益に、

「どうであろう、那古野在番の侍となる気はないか。さすれば、当座は物頭として遇し、ゆくゆくは侍大将に取り立てよう」

 と、提案した。

 一益にとっては、願ってもない話である。

(これは、夢か)

 しかし、彼は、信長の悪い評判を聞いていたので、

(侍大将は有り難いが、主君が大うつけでは困る )

 と、一瞬、躊躇した。

 信長は、一益の逡巡を、別の意味に受け取った。

「そなたが迷うのも当然である。此度の勝負においては、そなたが勝者であり、我は敗者である。勝者が敗者に従うのは、理に合わぬことである。されば、こうしよう。日を改めて今一度勝負し、我が勝ったならば、そなたは那古野に出仕せよ。そなたが勝ったならば、何か望みを叶えよう」

 と、提案した。

 どちらに転んでも損はないので、一益は了承した。

 彼等は、再戦の期日を決めた上で、別れた。


 那古野城に帰った信長は、御伴衆の敗因について考えた。

(味方は雑然としておったが、敵方は整然としておった)

 御伴衆の内、小姓衆は信長のためとあらば水火も辞さぬ覚悟を備えていたが、町宿で集めた中間・小者には、そこまでの覚悟は備わっていなかった。士気に、落差があったのだ。それに比べて滝川一益の率いる雑兵衆は、気勢が均一で調和が取れていた。

(中間や小者を、より強くせねばなるまい)

 しかし、短期間で兵の練度を上げる事は難しい。過酷な訓練を強行すれば、彼等は逃げてしまうであろう。

 彼は、憧れの対象である源義経の事を思い浮かべた。

(これしきの事で窮しておるようでは、九郎判官の如く武名を轟かす事はできぬ)

 ただし、彼は、義経の全てを評価していたわけではなかった。

(摂津、渡辺における戦評定の時、九郎判官は、梶原景時の進言を無下に退けるべきではなかった)

 平家物語によれば、屋島に陣取る平氏の軍勢を討つために開かれた軍議において、軍奉行の梶原景時が源義経に、兵船の後ろだけでなく前にも櫓をつければ海上においても自在に進退できると進言したのだが、義経は、戦う前から退くことを考えるのは不吉であると言って、その意見を退けたと言われていた。

 信長には、梶原景時の提案が間違っていたとは思えなかった。

(勝つために道具を工夫するのは、悪い事ではあるまい)

 その時、信長の脳中に案が閃いた。

(より良い道具を用いれば、兵を強くする事ができる。これは槍の勝負なれば、槍を工夫すればよい。より長い槍を用いてみてはどうであろうか)

 彼は、直ちに長い竹竿を人数分用意させ、それを用いて調練を行ってみた。

 しかし、御伴衆からは苦情が出た。

「かように長くては、自在に操れませぬ」

 確かに、長い竹竿は繰り出すのが難しかった。信長も、自分で使ってみて不便さを認識したが、諦めず、

「無理に繰り出すことはない。皆が槍先を揃えて進むだけにて、敵勢を圧倒する事ができる。また、敵の脳天に打ち降ろすか、股下に差し入れて突き上げるという手もある」

 と、言った。

 御伴衆は、信長の言葉通りに用いてみて、

「なるほど、これならば扱えます」

 と、認識を改めた。

 信長は、長槍の使用を前提として戦術を立て、それを元に調練を重ね、問題点が見つかると戦術を修正した。

 そして、再戦の期日に至る。


 再び庄内川の河口付近にて相対する、御伴衆と雑兵衆。

 雑兵衆は、御伴衆がやたらと長い竿を携えるのを見て、

「これは、また長い竿を用意したものじゃ」

 と、驚いたが、

「あのように長くては、うまく扱えまい」

 と、恐れはしなかった。

 滝川一益も、

(長ければ良いというものではあるまい) 

 と、思わず笑ってしまった。

「掛かれ!」

 今度は、一益が先に攻撃命令を出した。

 進撃する雑兵衆。

 信長も、御伴衆に下知する。

「構えよ」

 命を受けて、御伴衆は一斉に長竿を構える。それだけで、雑兵衆は動きを止められてしまった。御伴衆の竿は雑兵衆に届いたが、雑兵衆の竿は御伴衆に届かなかったからだ。 御伴衆は認識して勢いづき、雑兵衆は狼狽する。

 、一益は、

(竿が長ければ、容易には向きを変えられぬはず)

 と、考えて、兵の一部を割いて敵の側面を衝こうとするが、一方的に押されているために、その間を掴む事ができなかった。

 一方、信長は、御伴衆に対して、

「押せ、押しまくれ」

 と、命ずる。

 命を受けて、御伴衆は長竿を打ち降ろしつつ猛進する。

 雑兵衆は、持ちこたえられずに総崩れとなり、大将旗を奪われてしまった。

 滝川一益は、

(この殿は、大うつけにあらず)

 と、認識し、信長に臣従することを誓約した。

 信長は、一益を足軽を募集、編成、訓練を担当する奉行に任じ、

「委細は、そなたに任せるが、陣法を細かくしてはならぬ」

 と、命じた。

 一益は、この命令が理解できず、

「相模の北条家や甲斐の武田家においては、陣法が細かく定められておると聞き及びますが」

 と、尋ねた。

 それに対して信長は、

「陣法を細かくすると、人数を増やしにくくなる。武田と北条の軍勢は、精強ではあるかもしれぬが、一たび大きな損害を被れば容易に立ち直れまい」

 と、答えた。

 一益は、

(そのような考え方もあるのか)

 と、一応納得した。


 信長が滝川一益を奉行に登用した事に対して、平手政秀と林秀貞とは、

「氏素性の知れぬ浪人者などを重用なされては、譜代の家来衆が不満を募らせるでありましょう」

 と、苦言を呈したが、信長は、

「新参者を冷遇しては、勢威を押し広げる事ができまい」

 と、一蹴した。

 このようにして、信長は、自らの組織を着実に強化した。早く一人前の武将になって父を支えたい。それが、彼の望みであった。

 しかし、運命は、それを許さなかった。




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