人身事故で電車が止まった
――人身事故で電車が止まった
そう聞くと、いつも私は考える。
自殺だろうか、酔っ払いだろうか、事故だろうか、と。
怪我で済んだのだろうか。
それとも、亡くなったのだろうか、と。
どんなに苦しく、辛くても、恐怖が勝り、最後の一線を越える人は少ない、と聞いたことがある。自ら死を選ぶ、という行為は本能に反するからだろうか。
もし、自殺であれば、本当に周りが何も見えないほど、追い詰められていたに違いない。
いじめられていたのだろうか。
仕事に忙殺され、心身ともに限界だったのだろうか。
いわゆる、社畜と呼ばれる人だったのだろうか、と。
さまざまな想像をし、そして、いつも、同じことを考える。
きっと、”あの意見”を言う人間が現れるのだろう、と。
――電車が止まって、迷惑だ
それに始まり、”一人で死ね”、”死ぬときは周囲に迷惑をかけないように”、その他もろもろの言葉が聞こえてくる。
「たすけて」の一言が言えなかった、その苦しみを、無関心の冷めた瞳で見下ろしながら。
またか、と面倒そうに、ため息をつきながら。
駅の雑踏を効率よく、迅速に、障害物には目をやることもなく、すり抜けていくように。
そうやって、他人の苦しみに無関心で、見て見ぬふりをする。
関係ない、わざわざ自分が関わる利点も、責任もないとばかりに。
仕事に忙殺されている人に、一言でも、労りの言葉をかけたことがあるだろうか。
いじめられている人に、逃げろ、の一言でも言ったことがあるだろうか。
友人のいない人間に声をかけるどころか、嘲笑っているのではないだろうか。
底意地の悪い言葉に迎合して、一緒に笑っているのではないだろうか。
弱音を吐けば言い訳するなと怒鳴り散らし、誰かに頼ることを弱さだと侮蔑して。
一人で解決しろ、自立しろ、自分はできたからお前もやれ。
そんな言葉の暴力で延々、殴り続ける。
相手が闘うことも、逃げることもできず、身を丸めて耐える意外、なにも出来なくなるまで攻撃し続ける。
そんな人間にかぎって。追いつめる側の人間にかぎって、言うのだ。
「迷惑だ」と。
問題を作り出している自覚もなく、迷惑をかけられた、と被害者面で。
――追い詰めたのは、誰だ?
「一人で死んでろ」と言葉の暴力をふるいながら、人の心をへし折りながら、周囲への無関心を続けている。
「それが普通なんだ」と、声にならない声で互いに確認しあい、皆がそうしているからと、責任をなすりつけあっている。
「またか」と思うほど頻繁に、誰かの心が追い詰められているのに。
「迷惑だ」「一人で死ね」と、心ない言葉に同意して。
誰かが言ったセリフを正論だとばかりに真似をして、扇動されるように、皆が同じセリフを口にする。
言い始めたのは誰なのか。
不謹慎だと諌める声はなく、正論とばかりに広まっていく。
この冷酷さが、誰かを、苦悩の中に孤立させるのではないだろうか。
正論を振りかざし、誰かを非難して、正しい自分に酔いしれる。
苦しむ誰かを、間違っている人間だと見下し、悦に入っている。
「死んで楽になりたい」なんて。
拷問の末、出て来る言葉じゃないのか。
今、目の前にいる誰かは、精神が拷問されているのかもしれない。
「大丈夫」と笑顔でいるその人は、心の中では「たすけて」と叫び続けているのかもしれない。
明日には、この世にいないのかもしれない。
……だから、血反吐を吐くような。一度知ってしまったら、一生、脳裏にこびりつくような。
そんな、誰かの苦悩を、苦痛の慟哭を。少しでいいから想像してあげて欲しい。
電車が止まる。
それは、だれにも届かなかった「たすけて」の残響なのかもしれない。
一ヶ月以上前だったか、私がいたホームで人身事故が起こり。
今日、スマホをいじっていたら、自殺のニュースを見つけ、投稿しました。
今まで何度か、実際に耳にし、私自身、この言葉に同意していた時もあったのですが。
皆さんは、どうでしょうか。