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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

企画提出作品集(短編中心)

I'M ROSE

作者: 長谷川

Jun.1 Wed

貯金残高 $751.80


 今日は記念すべき20社目の面接だった。

 受けたのは自動車販売会社の営業事務。そこそこ大手だし、若い女性の多い職場だっていうから今度こそ私にピッタリだと思ったのだけど、ああ、神様はなんてお優しいのでしょう、彼の方のお計らいによって私は〝お局様〟を絵に描いたような三角メガネのオバサンに30分、引き攣った愛想笑いを振り撒くハメになった。


「それでは最後に自己PRを」


 いつだったか、どこかの国では針山地獄とか釜茹で地獄とか、地獄にも色々な種類があるらしいと聞いたことがあるのだけれど。

 もしかしたら私はもう死んでいて、ここはその数ある地獄の1つなんじゃないかしら、なんて真剣に考え始めてしまうような時間の最後、東の魔女はそう言った。


「……あー、すみません。私の記憶が確かなら、確か自己紹介は最初に済ませたと思うんですが?」

「ええ、自己紹介・・はね。だから今度は自己PRを。あなたを雇うことでうちの会社に一体どんなメリットが発生するのか、それを簡潔に教えてちょうだい」


 まるで未来の車のパーツを先取りしたような、流線型を描くデスクの向こうでふんぞり返った魔女は言う。趣味の悪い網タイツを履いた足を組み、ちょっと小首を傾げてこちらを見る様はさも〝このくらい答えられて当然でしょ?〟と言いたげだ。


「あ、ああ、そうですね、ではえっと……」


 だけどそんな質問をされたのは、私の転職活動20社目にしてこれが初めてのことだった。大学卒業後の面接ではよく訊かれた質問だけど、まさか27歳中途採用希望の行き遅れにそんな質問をしてくるなんて!

 もうかれこれ4年近く就職戦線を離れていた私にとって、それは想定外の質問だった。だから思わずしどろもどろになってしまい、とにかく必死で言葉を探す。真っ先に浮かんだのは、


「そんなの、そこにある私の経歴を見て自分で考えたら?」


 だったけど、まあ、さすがにこれはマズい。私は思わぬ展開に麻痺した思考をフル回転させて、どうにかこうにか二の句を継いだ。


「あー、では、その、まず第一に、私はこう見えて我慢強い方です。多少の問題なら逃げずに粘り強く解決のための道を探します。大学時代には社交クラブソロリティーにも積極的に参加していたので、社交性もあります。それから、半年前まで勤めていた会社では――不当な理由でクビになりましたけど――企画関係の仕事にも携わっていたので、お客様に対するプレゼンテーションや新しいアイディアの創作についても自信があります。つまり何が言いたいかと言うと――」

「――もう結構」


 私の渾身の自己PRは、魔女がピシャリと放ったその一言で幕を閉じた。いきなり話を遮られた私は、せっかくこれから結論を話すところだったのに、という非難の眼差しを真っ向から浴びせたものの東の魔女はどこ吹く風。そして最後にこう言った。


「ポートマンさん。あなた、我が国の面積を知っていますか?」

「え?」

「私たちが今暮らしている、このアメリカ合衆国という国の面積です」

「え……あ、えっと、細かい数字までは分かりませんけど……5000km2くらい?」

「9857km2です」

「……」

「あなたの挙げた数字の約2倍ね」

「は、はい……そうですね……」

「つまり、このアメリカという国はそれだけ広大だということです。国が広いということは、その広さの分だけ多くの企業があるということ。分かるかしら?」

「は、はあ……」

「それだけ多くの企業があるのだから、その中には1つくらいあなたの素質にも見合った会社があるでしょう。私からは以上です。お疲れ様」


 そう言って手元のファイルを優雅に閉じると、東の魔女は初めてにこやかに微笑んだ。

 そのとき私が心の中で叫んだ言葉を、敢えて記す。


 You're ratchet!!






Jun.2 Thu

貯金残高$740.31


 ――で、何がどうしてこうなったのか、誰か説明して欲しかった。


 今現在、私の目の前には2人の男がいる。暗くて顔はよく見えないけれど、彼らは先程からこちらに向かって何事か怒鳴り続けている。

 あの制服は警官? それともどこかの警備員? まあ、どちらでもいいけどそんな出で立ちだ。片方は白人男性でもう片方は黒人男性。それくらいは辛うじて見て取れる。それから彼らが非常に差し迫った様子でこちらに銃を向けていることも。


 たぶん、これは世に言う〝絶体絶命のピンチ〟ってやつだ。

 何せそんな彼らの目の前で、私は今、蟀谷こめかみに銃を突きつけられている。


 おかしいな、なんでこうなったんだろう。私、何も悪いことなんてしてないはずなんだけど。

 ただ昨日の面接の結果にムシャクシャして、更に今日、ご丁寧に採用お断りのメールまで届いて、それが大層頭に来たものだからヤケ酒に走っただけだ。行きつけのバーでバーテンのマイクに散々愚痴を聞いてもらいながら深酒し、べろんべろんに酔っ払い、タクシーを呼ぶと慌てていたマイクに大丈夫だからと見栄を張って徒歩での帰路に就いた。そして気づいたら知らない路地にいた。まるで人気のない、細くて暗い路地に。


 そう。要するに私は迷子になったわけだ。しかも毎年我が国で〝最も治安の悪い都市ランキングTOP10〟に数えられる、このカリフォルニア州オークランドで。


 自分が一体どういう経緯でこの路地へ迷い込んだのか、その間の記憶はない。ただ気づいたら薄汚いゴミや壁の落書き、無機質な配管ばかりが目につく道の真ん中にいて、背後から駆けてくる足音を聞いた。あ、人だ、道を聞けるかも――そう思い振り向いた次の瞬間には、私は見知らぬ男に肩を掴まれ、その腕の中にすっぽりと収まっていた。

 それが愛の籠もった熱烈な抱擁だったなら、たとえ見知らぬ相手であったとしても今の私なら多少慰められたかもしれない。けれど、そう、これがそんなラブロマンスの始まりであるはずもなく。


 私はどうやら、人質にされたらしい。


「あー、クソッ、さっきからゴチャゴチャうるせえな! いいからさっさと失せろっつってんだ! さもないとこの女殺すぞ!」


 少しザラついた感触の、頭の悪そうな声が頭上から降ってくる。声からして男はまだ若い。ただその声がやけにくぐもって聞こえるのは、男が黒いフルフェイスメットを被っているせいだ。

 だから男の顔は見えない。同じく黒い革製のライダースジャケットを着ているところを見ると、先程までバイクにでも乗っていたのだろうか? それが交通違反か何かやらかして逃げてきたとか?

 だけどもしそうなら、いくらここが事件の絶えない西部の辺境地ワイルドウエストだとしても、通りすがりの酔っ払いを捕まえて銃を突きつけるというのはやりすぎだと思う。それにこのひと――まだ1発も撃っていないのに、何故だか硝煙の匂いがする。


「おい、落ち着け。落ち着いてまずはその銃を下ろせ。そうしたら我々も銃を下ろす。お前の話を聞くのはそれからだ」

「だーかーらー、なんでオレが先に銃を下げなきゃなんねえんだよ? だったらてめえらが先にその銃を下ろしやがれ!」

「人質の安全が最優先だ。お前が人質に危害を加える可能性がある以上、それはできない!」

「あっそう。――じゃ、こうするわ」


 「え?」と、私が疑問符を浮かべる暇もなかった。男は私の首もとに回していた腕を解くと、代わりに突然左手を掴み、全力で後ろへ駆け出した。

 いきなり腕を引かれた私はよろけ、転びそうになりながらも何とか体勢を立て直す。男の力は抗い難かった。酔っ払って足元がおぼつかない私をぐいぐい引っ張り、路地の奥へと駆けていく。

 背後からは警官らしき2人の怒声が聞こえた。ところが2人が追ってこようとすると、男はすかさず銃を天に掲げて1発――撃った。


「ついてくんな! 追ってきたらこのアマ殺すぞ!」


 そのバイオレンス極まりない脅し文句は、果たして一定の効果を発揮した。私が撃たれることを恐れた2人が脅迫に屈したのだ。

 駆けながら器用にヘルメットのシールドを上げた男は、それを確認して満足そうに「ヘヘッ」と笑った。そこから覗いた目元はやっぱり若い。私と同じくらいか、あるいはいくつか年下か――。


「あ、あの、どこに行くの……!?」

「うるせえ、人質は黙ってついてくりゃいいんだよ!」


 まったく事態についていけない頭からどうにか捻り出した質問は、横暴に一蹴された。私はそのことに腹を立てても許される立場にあったはずなのに、アルコールの回った頭はそれ以上働くことを放棄して、「とりあえずその男についていけ」と命じるとあとは不貞寝を決めてしまう。

 おかげで思考も感情も真っ白になった私は、ただただ男に腕を引かれるまま駆けた。ここで足がもつれて転ぼうものならその場で殺されるような気がして、とにかく必死に、そして愚直に男の背中を追いかけた。

 やがて男が飛び出したのは、路地の先に横たわっていた大きな道路だ。そこで一度足を止めるかと思いきや、男は迷わず車道へと走り出た――車が来る!


「おい、止まれ!」


 ヘッドライトを皓々と光らせながら迫り来る鉄の塊に私が身を竦ませた刹那、再びドンッと銃声がした。見れば白い乗用車の前に立ち塞がったヘルメット男が、またも銃口を暗い空へ向けている。

 ドライバーもその銃声と、大胆すぎる男の行動と、その奇妙な出で立ちに驚いたのだろう。車は甲高い悲鳴を上げて急制動し、私たちに激突する寸前でピタリと止まる。


「よし。おいホモ野郎、さっさと車を降りろ。降りろよ! さもないと殺すぞ、オラ!」


 それから男は銃をチラつかせて怯えた初老の男性ドライバー――ゲイには見えない――を引きずり下ろすと、そのまま運転席に私を押し込んだ。そこでようやく私の思考は息を吹き返し、「まさか運転しろってこと!?」と喫驚する。

 けれどもそれは杞憂だった。というか事態はもっと最悪だった。

 男は声を荒らげて私を助手席まで追いやると、自分が運転席へ乗り込み、車を発進させたのだ。


「冗談でしょ……!?」


 私はそう叫びたかった。しかしそれができなかったのは男の運転があまりにも荒々しく、発進と共に大きく揺さぶられたから。

 おかげで私は思いきりつんのめり、危うくダッシュボードに頭を打ちつけるところだった。いや、いっそそうして額を強打し、失神でもしてしまった方がマシだったかもしれない。


 何せそうしなかったおかげで私はおよそ20分もの間、銃を持った見知らぬ男と楽しくドライブする羽目になった。

 男は片側2車線の道路をものすごいスピードで疾走していく。深夜なのが幸いして車通りは少ないけれど、それにしたっていくらなんでも出しすぎだ。

 おまけに先行車両が前を塞げば、男は「チッ」と舌打ちしていきなりハンドルを切る。私は思わず悲鳴を上げた。ぐねぐねとそれこそ酔っ払いのように蛇行した車は反対車線に飛び出し強引に前の車を抜き去ると、あわや対向車とぶつかるというところで元の車線へ帰還する。

 そんなことが何度も続いて、私はその度に助手席で悲鳴を上げ続けた。そのうち何かのたがが外れ、車がちょっと揺れただけで悲鳴を上げるようになると、さすがにイラッとしたのだろう、ハンドルを握ったまま男が怒鳴りつけてくる。


「おいてめえ、さっきからギャーギャーうるせえぞ! 気が散るだろうが!」

「だったらもっとゆっくり走ってよ! このままじゃ命がいくらあっても足りないわ!」

「ケーサツに追われてんのにのんびり信号守って走るバカがどこにいんだよ!? いいから黙ってろ!」

「警察に追われるようなことするのが悪いんでしょ!? アンタの自業自得に私を巻き込まないでよ!」


 たぶん〝恐怖〟という感情にメーターがあるのなら、そのときの私はそれが完全に振り切れて、何かが爆発していたのだと思う。加えて元々短気な性格なのが災いし、私は一度キレると男に暴言を吐きまくった。それはもう、とても人には聞かせられないような暴言を。

 けれども男も負けじとそれに怒鳴り返してくるせいで、車内はすさまじい罵詈雑言の応酬になった。あのとき、もしかしたら私たちは世界中に存在するすべてのスラングを使いきっていたかもしれない。


 そんな怒鳴り合いをしながら20分。とうとう車は路肩に乗り出して停止した。

 男はエンジンを切らずにこちらを向くと、上げたシールドの向こうから蒼い目で睨み据えてくる。というか〝苦虫を噛み潰したような顔〟ってこういうときのためにある言葉なんだろうなと思わず納得してしまうような、そんな顔だ。


「あのさ。お前、可愛いげのない女だってよく言われねえ?」

「あら、よく分かったわね。先月別れた彼氏にもしょっちゅう言われたわ」

「ソイツの連絡先教えろよ。〝お前はよくやった〟って慰めてやりてえ」

「それなら間に合ってると思うわよ。何せ彼、他に女を作っていなくなったから」


 ――結婚の約束までしてたくせに。思わずそう続けそうになって、けれど私はすんでのところで出かかったものを飲み込んだ。

 ……そんなこと、こんな頭空っぽ男に言ってどうするのよ。そう自嘲しながら前を向いたところで鼻の奥がツンとする。


 ああ、やだ、こいつのせいで思い出しちゃった。別れた彼がいつも喧嘩したあとに、「だけどお前のそういう不器用なところが好きだよ」と言ってくれたこと。

 あの言葉は全部嘘だったのかしら? 彼氏と別れてから夜ごと繰り返してきた疑問が今夜もやってくる。まるで昔からの友人のように狎々なれなれしく、場所も空気も読まないで。


 だって、彼のこと、本当に愛してたのよ……。

 ぶつかることもあったけど、私なりに精一杯彼を大事にしているつもりでいた。


 なのに結末はコレ。私は自惚れ屋のピエロだったってわけだ。そう思うとついつい涙が溢れそうになる。なんで私ってこうなんだろう?

 会社はクビ、再就職先は半年も見つからず、彼氏には捨てられ、母親は蒸発、父親はアルコール中毒の引きこもり……。


 ほんと最高の人生。生きてたっていいことなんて1つもない。

 こんなことならいっそ……。


「なんだ。だとしたらソイツは英断を下したな。軍人だったら軽く大統領に表彰されるくらいの英断だ」


 と、そんな私の心中も知らずに男は言う。そのぬけぬけとした口調が頭に来て、私はキッと男を睨みつけた。けれど、


「……何してるの?」


 何かしら痛烈に言い返してやろうという気勢はたちまち削がれた。何故なら男が急にモゾモゾし始めたからだ。

 それを見た私は一瞬、男が何かいかがわしいことを始めるのではと身構えた。けれど何のことはない、男はただジャケットを脱ごうとしていただけだ。

 脱ぎ捨てられたジャケットの下は、どこにでもあるような赤いTシャツだった。そのシャツの背中には黒字で大きく『FLY TO FLY』とプリントされている。……頭のネジの話かしら?


「そんなに暑い?」

「違えよ。俺は降りる」

「降りるって、車を?」

「そうに決まってるだろ。こっからは地下鉄に乗り換える。サツも撒いたことだしな」


 ああ、なるほど。言われてみればフロントガラスの向こうには地下鉄駅へ下りるための階段がある。どうやら男は初めからそのつもりでここに車を停めたらしい。

 加えて暑くもないのにジャケットを脱いだのは、服装を変えてカモフラージュするためか。頭が軽いのかと思ったら意外とよく考えている――けれど、顔を隠すフルフェイスメットだけは頑なに外そうとしない。


「ねえ、それならそれで別にいいけど、まさかその格好で地下鉄に乗るつもりじゃないでしょうね?」

「お前、オレのことバカだと思ってんだろ?」

「あ、バレた?」

「否定はしねえけどな。色々と予定が狂って、コイツにはあと1発しか残ってねえ。バカはバカでも、そんな状態でケーサツを挑発するほどバカじゃねえよ」

「なら、最後の1発はいざというときの自決用ってわけね」

「いいや。――証拠隠滅用だ」


 言って、男は黒光りする凶器をこちらへ向けた――どうやらくだらないジョークが通用するのはここまでみたいだ。

 私は泣きもせず喚きもせず、ただじっとヘルメットの中の、冬の空に似た瞳を見据えた。こうなるような予感はしていたのだ。だからと言って甘んじてその運命を受け入れよう、なんて心の準備ができていたわけではないのだけれど、何故か不思議と恐怖はなかった。

 あるいは直前までのジェットコースタードライブとアルコールの影響で、感情が麻痺していたのかもしれない。とにかく銃口を向けられても心は平静で、そこにはただ凪があった。


 だって、このまま生きていたって、きっとこの先もいいことなんてないのだから――。


 だったらいっそ、ここでこの男が殺してくれたら、


「――やっぱやめた」

「……え?」


 それはハンバーガーを頼んだらアップルパイが出てきたような、そんな予想外の一言だった。

 男はそれまで私に向けていた銃を腰の後ろに収めると、やはりエンジンはそのままにさっさと車を降りていく。


「ね……ねえ、ちょっと待って! どうして……!」

「お前、殺してもつまんねえ」


 思わず身を乗り出した私の問いを、男はやはり横暴に一蹴した。

 そのまま一度も振り返らずに男は去っていく。意味不明な英語が書かれた背中を見せつけながら。


 私はそれを茫然と見送ることしかできなかった。


 男が駅へ消える前に外したヘルメットの下は、ボサボサの黒髪だった。






Jun.10 Fri

貯金残高$703.80


 私の行きつけのバー『HANG OVER』は、イーストオークランド、メリット湖の傍にある。

 18thストリートからちょっと横道へ逸れた先。道路に面して並ぶ低層の建物の中の1つ、まるで西部劇に出てきそうな見た目のそれが『HANG OVER』だ。


「しかしあれから1週間経ったってのに、まだそのヘルメット野郎は捕まりそうにないな。元々犯罪の多い街だが、そんなイカレた野郎がまだこのあたりをうろついてるかもしれないと思うとゾッとするよ」


 そう言ってカウンターの向こうでグラスをピカピカにしているのは、バーテンのマイク。顔はチャラそうなのに意外とガッシリした体格のナイスガイで、彼は私が1人で飲みに来ると決まって話し相手になってくれた。

 週末の今日は薄暗い店内も賑やか。7席しかないカウンター席は私の隣以外すべて埋まっていて、皆が上機嫌に楽しい時間を満喫している。


 そんな中で私はマイクの作ってくれるノンアルコールカクテルを飲みながら、1週間前、このバーから帰る際に巻き込まれた事件について話していた。あの日以来ここへ飲みに来るのは今日が初めてだったから、話を聞いたマイクは大層驚いたようだ。

 何せあの晩、このイーストオークランドでは高級住宅街で暮らしていた1組の夫婦が殺されている。翌日のテレビではその夫婦殺害の現行犯として、警察が黒のライダースジャケットを着たフルフェイスメットの男を追ったが逃亡されたというニュースが大々的に報じられていた。


 そのニュースはまだマイクの記憶にも新しかったらしい。彼は私が犯人と思しい男に捕まり死ぬ思いをしたと話すと、ただ「ジーザス……」と呟いた。それからあの晩、やはり私をロープでぐるぐる巻きにしてでも引き止めてタクシーを呼べば良かったと、本気なのか冗談なのか分からない口調で悲嘆した。

 そんなことがあって、私も今夜はアルコールの入っていないカクテルを注文したというわけだ。もう深酒が原因であんな恐ろしい体験はしたくなかったし、サディストの気があるマイクにロープで巻かれるのはゴメンだし、当面は自分への戒めとしてお酒を自粛しようと思っている。


「いくらワイルドウエストなんて呼ばれても、このイーストオークランドなら安全だと思ってたんだけどね。最近はどこも治安が悪くなる一方でイヤになるわ」

「まあしかし、君の命があって良かったよ、本当に。何でも一部の噂じゃ、例の夫婦を殺したのは〝マッド・ジョン〟じゃないかって言われてるらしいし、ヤツに会って殺されなかったのは奇跡と言うしか……」

「何、その〝マッド・ジョン〟て?」

「ウエストオークランドで有名な殺し屋だよ。スラムの方じゃ〝狂人マッド〟の愛称で通ってるらしい。その名のとおり、とにかく残虐で人殺しをゲームみたいに楽しむキチガイだって話さ。神出鬼没で、殺しをするときはいつも顔を隠してるから、警察も未だに尻尾を掴めないでいるとか何とか……」


 言いながら、マイクはすっかり空になった私の皿を新しいナッツのバスケットと交換してくれる。そのさりげない気遣いにお礼を言いながら、しかし私は上の空だった。


 〝マッド・ジョン〟。

 なるほど、あの頭のおかしい男にはピッタリのアダ名だ。

 だけどどうして〝ジョン〟なのだろう?

 それが本名? それとも偽名?

 スラムで名前が通ってるってことは、そこへ行けば彼に会える……?


「なあ、ローズ」


 と、ときにカウンターの向こうから名前を呼ばれて、私はハッと我に返った。

 とっさに顔を上げたせいか、前髪ごと左右に分けた赤毛が弾んで顔にかかる。それを鬱陶しく思いながら掻き分けると、赤いカーテンの向こうではマイクがちょっと深刻な顔でこちらを見ていた。


「つまり、その、ほら……今日は週末だしさ……」

「何?」

「いや、だから、何だったら帰りは俺が送っていこうかって話。君が閉店まで待っててくれるなら、だけど」


 いつもよくそこまで舌が回るなと思うほど話の上手いマイクが、今日は何故だか歯切れが悪い。目線は氷を入れたシェイカーへ向いていて、珍しく私を見ない。


「閉店までって、ここ、閉まるの夜中の2時でしょ? 気持ちは有り難いけど、そんな時間まで待ってたらさすがに寝ちゃうわ」

「いや、別に、それならそれで……何ならバックヤードで待っててくれても構わないし……」

「マイク……ありがとう。でも、今日はお酒は飲まないって決めてきたから車なの。夜道を1人で帰るのも何だかちょっと不安だったし」

「あ、ああ……なんだ、そうなのか」

「ええ。それにウチには来ない方がいいわ。たとえ外までの見送りだったとしても、ウチの父親に目をつけられたらあなたも何を言われるか」


 そう言って私が自嘲すれば、マイクは何か言いたげに――けれど何も言葉が浮かばないといった様子で沈黙した。

 私の父親が重度のアル中だということはマイクも知っている。記憶にはないのだけれど、以前にも正体を失うほど酔ったとき、私が自分で暴露したらしい。


 私はつい先月まで、2年間付き合った元彼の家にいた。アルコールに狂った父と2人で暮らすことに耐えられなくて、彼の安アパートに転がり込んだのだ。

 以来父親とは音信不通で、父の方も一人娘が家出同然に出ていったところで何の関心も示さなかった。私を探すこともなく、心配する素振りもなく、ただ貯金を崩しに崩して浴びるように酒を飲み、どんどん自分を失っていった。


 父がおかしくなってしまったのは私たちがまだロスで暮らしていた頃、母が突然姿を消してからだ。

 大手貿易会社に勤めていた父は、確かに出張ばかりで家にいることは少なかったけど、口下手で無愛想で優しい人だった。それが母の蒸発を機に会社を叩きやめ、嫌がる私を無理矢理連れてこのオークランドへ移り住み、酒に溺れるような弱い人間になってしまった。


 元彼と別れさえしなければ、私は二度とあの人と共に暮らそうとは思わなかったと思う。

 だけど半年前にそれまで勤めていた会社を突然クビになり――理由は経営不振だった――次の就職先が決まらず荒んでいくうちに彼氏にも愛想を尽かされた。数ヶ月にも渡る就職活動で貯金が擦り減っていた私は他に行く宛もなく、父親が買い上げた一軒家に出戻った。


 だから早く次の仕事を決めてあの小さな牢獄から脱出を図りたいのに、どういうわけか何もかもが上手くいかない。

 加えて毎日のように酔った父から浴びせられる怒声と皮肉とで、私の心は摩耗していく一方だった。暴力を振るわれないだけマシと言えばマシだけど、私が今となってはすっかりそうであるように、父も私を愛してはいない……。


 もう、何もかもが泥沼のよう。

 果たしてこんな私に生きている価値なんてあるのだろうか?


 ……あのとき。


 あのときあそこで、あの男が私を殺してくれていれば――


「なあ、ローズ。これは君が良ければなんだが……」


 と、ときにマイクが言うので、私はハワイのビーチみたいなカクテルから視線を上げた。


「その……君がまだ元彼のことを愛してるのは、知ってるんだ。もしチャンスがあるなら、君たちがもう一度やり直せたらどんなにいいかと、そう思ってる。だけどもし……もし、その、君が――」

「――ヘイ、マスター! 注文お願い!」


 そのとき、何か言いかけていたマイクの言葉を遮って、奥の席から呼び声が飛んだ。そこには男女2人ずつのすっかり出来上がった4人組がいて、赤ら顔でマイクを呼んでいる。


「呼んでるわよ、マイク。行ってあげたら?」

「あ、ああ、そうだな……じゃ、今の話はまた今度」


 マイクはそう言って脱力したように笑うと、飴色のカウンターを出て注文を取りに向かった。

 私が『HANG OVER』からの帰路に就いたのは、それからおよそ1時間後のこと。時刻は22時を回り、ますます忙しそうにしているマイクを煩わせないために、私は店を出て愛車のプリウスに乗り込んだ。

 駐車していた路肩を出、聖アントニオ公園方面へ向かう。18thストリートをまっすぐ南東へ。自宅までは徒歩なら15分、車ならたったの5分程度だ。

 この街のランドマークであるベイブリッジがあるあたりとは違い、メリット湖の東は一本道を入れば閑静な住宅街が広がっている。カリフォルニアでは8番目に大きな都市、なんて言われてるけど、ロスに比べたらずいぶん田舎だ。


 この時間ともなると、フェスティバルでもない限り車通りも少なくなる。おかげで私はラジオから流れるポップスに鼻歌を乗せながら、すいすいと自宅までの道を走ることができた。

 さあ、あとはこの角を曲がれば愛しのアルカトラズへ到着だ――と、無理矢理テンションを上げてハンドルを切った、刹那、


「ドンッ!」


 とすさまじい音がして、私の頭は真っ白になった。悲鳴を上げる隙もなかった。


 だって、今、ボンネットに――人が。


 いきなり横道から飛び出してきてぶつかった!


「う、嘘……!」


 私は慌ててブレーキを踏み、車の外へ飛び出していく。左折のために減速こそしていたけれど、確かにいた。ねた。ぶつかった――!


「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」


 こんなときに限って道路を走る車の波はぱったり止まっている。おかげで事故の目撃者はいないけど、だからってこのまま轢き逃げするのはまずい!

 そう判じた私は半ばパニックを起こしたまま車の前へ回り込んだ。そこには1人の若い男が倒れていて、苦しそうに呻いている。


「ね、ねえ、ちょっと、あなた……!」


 どうしよう。どうしようどうしよう、私のせいだわ!

 気が動転してそれ以上何も考えられず、私は急いで倒れている男性を抱き起こした。けれどその瞬間、彼の腰を支えた左手にぬるりと触れる――嫌な感触。

 私はゾッとして自身の左手を見た。かわいいプリウスが気をきかせて照らしたその手は、ベットリと血で濡れていた。


 まさか、そんな……私、なんてことを……


 今まで感じたことがないほどの絶望にのしかかられながら、私は茫然と男を見下ろす。


 そして、気づいた。


 …………待って。これ、車に轢かれてできた傷じゃないわ。


 だって男の腰のあたり、渋い色のミリタリージャケットの下に見えるシャツが、まるで刃物でも掠めたように裂けている。血が出ているのはそこからで、これはどう見ても車と接触してできた傷じゃない。

 むしろ、この傷は……。そこまで考えて冷静になったところで、私は改めてゾッとした。


 うん、まずい。

 逃げよう。

 だって、たぶんこれは。

 もしかしなくてもまた、何かの事件に――


「――おい」


 瞬間、私がドサリと地面に置いたその男が、立ち上がりかけた私のシャツを掴んだ。おかげでお気に入りのフリルが血で汚れる。ああ、もうダメだ。完全に巻き込まれた。


「お前……こないだの……」


 と、ときに男が掠れた声で言う。

 何? 今、何て言ったの? ――〝こないだの〟?

 そう思って私が見下ろした先。

 そこでボサボサの黒髪の間から、見覚えのある蒼い目がじっと私を見上げている。


「あ……あなた、もしかして――」


 あの日ヘルメットの中からこちらを見ていた眼差しと、今、目の前にあるそれが重なる。途端に足元から震えが来た。間違いない。この男、あのときの――〝マッド・ジョン〟。


「な、なんで……なんであなたがここに……まさか、やっぱり私を殺しに……!?」


 1歩あとずさりながら私が言えば、男は何か言いたげに口を開いた。

 けれどその乾いた唇から言葉が零れる前に、背後から怒声がする。驚いて振り向けば、先程この男が飛び出してきた通りの方で数人の男たちが騒いでいるようだ。


「おい、どっちへ行った!?」

「向こうだ、向こうを探せ!」


 暗くて姿は見えないけれど、そんなことを叫んでいる。その瞬間、私はふと気づいた。正直気づきたくなんてなかったけれど、気づいてしまった。


「あなた――もしかして、追われてるの?」


 男はイエスともノーとも言わなかった。ただ狼みたいな目で射抜くように私を見ると、ゴリ、と黒くて硬いものを私のお腹に押し当てた。


「寄越せ」

「は?」

「車を寄越せ」


 ――こんな最低な再会の挨拶があるだろうか。私はとっさに「イヤ」と答えようとして、しかし思い留まった。

 よく見れば男の呼吸は荒い。額にもびっしりと脂汗が滲んで苦しそうだ。

 脇腹の傷からはなおも血が流れている。彼を追っているのは警察? それとも彼の同業者?


 どちらにしてもこの状況じゃ、見つかれば彼は終わりだ。


「――残念だけど、車はあげられないわ」

「ああ、そうかよ。じゃあ殺してもらってく」

「もらったところで、その怪我じゃ運転できないでしょ?」

「うるせえ、オレに説教を垂れるな――」

「人に説教できるほど教会には行ってないわ。助けてあげるって言ってるの」

「あ?」

「車はあげたくないし、あなたも運転できる体じゃない。だったら私が運転してあなたを安全なところまで送り届ける。どう、この方が合理アメリカ的でしょ?」


 男はしばらく呆気に取られて私を見ていた。

 だけど私は知っている。

 彼は見た目ほどバカじゃないってこと。




 男が行き先として告げたのは、ウエストオークランドにある波止場の廃倉庫だった。

 そこは古い倉庫街の一角で、錆と潮と廃棄物の匂いが複雑に入り混じっている。暗い海の向こうにはギラギラ光る摩天楼。この時間もたくさんのヘッドライトが行き来しているベイブリッジの先――サンフランシスコだ。


 この時間のウエストオークランドへ来るのは初めてだけど、湾を挟んであちら側は楽園、こちら側は地獄なんて言われる所以が何となく分かった。華やかな電飾で飾られたあの大都市の夜景に比べると、なるほど、こちら側・・・・はあまりに暗い。

 それでなくともこの界隈はオークランドいち治安が悪いと言われていて、私はここへ至るまでの街灯の少なさにさえ何らかの悪意を感じた。男がなるべく安全な道をナビしてくれたから良かったものの、それがなかったらさすがの私も道に迷って、ハイエナみたいに待ち伏せするギャングどもの餌食になっていたかもしれない。


「――ほら、しっかりして」


 その倉庫街にある、壁に『13』と書かれた廃倉庫。私は言われるがままその倉庫に進入して車を停めると、負傷した男を助手席から引っ張り出した。

 男は既に意識朦朧としていて、私が声をかけてもろくな返事がない。ただ譫言うわごとのように「2階へ」と言ったのが最後だ。


 廃倉庫と言えど電気は通っているようで、シャッターも動いたし、今は白熱灯が真昼のように私たちを照らしている。私はその明かりの下でどうにかこうにか男を支え、がらんどうの倉庫の隅から伸びるボロボロの階段を上った。

 古いスチール製の階段は錆だらけで、途中で崩れるんじゃないかとヒヤヒヤする。手摺も素手で触るのがためらわれるほど汚くて、私は男を支えながら階段を上ることに苦慮しながらも、手摺には頼らない道を選んだ。

 倉庫の2階部分はほとんど吹き抜けだけど、階段を上った先には足場が張り出している。更に足場の上には薄い仕切りが佇んでいて、嵌め殺しの窓の向こうに小さな部屋が見えた――どうやらそこが男の隠れ家のようだ。


 元は事務所として使われていたのだろう、部屋の中には埃を被ったデスクや椅子が乱雑に積み上げられていた。

 そして元々それらが置かれていたのであろう部屋の真ん中に、堂々と居座るボロボロのベッドが1つ。他に目につくものと言えば見るからに立てつけが悪くなっているキャビネットと薄汚れたミニ冷蔵庫、それから「コレクションなのかしら?」と首を傾げたくなるほどたくさんの酒瓶が置かれたラウンドテーブルに、見渡す限りのゴミ、ゴミ、ゴミだ。


「……素敵な部屋ね」


 気をきかせて皮肉を零してみたけれど、男は力なくうなだれたまま答えない。さすがの私もこれはふざけている場合ではなさそうだと判じて、ひとまず男をベッドの上に寝かせた。

 ところどころ汚れ、布が裂け、スプリングが覗いているベッドはお世辞にも衛生的とは言えない。けれど他に男を横にできる場所はないし、今は緊急事態だ。

 私は仰向けに寝かせた男が既に意識を失っていることを知ると、「ねえ」と呼びかけながら男の額に張りつく前髪を掻き上げた。


「ねえ、ちょっと。部屋に着いたわ。薬はある? 手当てしないと」


 ――こうして髪をどけてやると、思ったより少し幼い顔。歳はたぶん20代前半。頬が血で汚れてさえいなければ、たぶん――いや、だいぶハンサムだ。

 その事実に気がついて、私は思わずキュンとする。……いやいや、ときめいてる場合じゃないわ。いくら元彼にフラれて傷心中とは言え相手は殺し屋よ。冷静になりなさい、ローズ。

 私はだんだん感覚が麻痺しつつある自分を叱咤して、ひとまず部屋の隅にある冷蔵庫を開けてみた。中身はとにかく酒、酒、酒――だけどその中に混じってミネラルウォーターのペットボトルが1本、肩身が狭そうに佇んでいる。


「これだわ」


 私はそのペットボトルを場違いな冷蔵庫の中から救い出すと、テーブルの上にあったグラスへ注いだ。その水は一旦床に捨て、更にもう一度注いだ水を男の口元へ持っていく。


「飲んで」


 私がそう告げたのが聞こえたのだろうか。男はグラスの縁から舐めるように水を飲むと、やがて重たそうに瞼を開けた。


「……給湯室」

「え?」

「給湯室に、薬が……持ってこい」


 男がこんなときまで命令口調で話すことに、私は若干の腹立ちを覚えた。これでもし彼がブサイクだったなら、グラスに残った水を顔面にぶっかけて立ち去っていたかもしれない。

 だけど男が若くて綺麗な女に目がないように、女だってルックスのいい男はついつい甘やかしたくなるのだ。

 私は部屋の奥に見える給湯室へ向かった。ゴチャゴチャと物が散乱している流し台は見なかったことにして、その上にある吊り棚を開く。

 そこには数種類のシリアルの箱と、薬瓶と包帯の類と、何故か銃。

 最後のそれはやはり見なかったことにして、私は包帯、ガーゼ、消毒液、そして鎮痛剤を手に取った。






Jun.11 Sat

貯金残高$703.80


 東海岸にあるニューヨークなんかと違って、オークランドの6月は少し肌寒い。

 特に朝は、サンフランシスコ湾に霧が立つ。私は上半身にかけたジャケットの下でもぞりと動き、寒さに震えて目を覚ました。


 うすぼんやりと朝日を取り込んだ部屋の中は相変わらずゴミだらけ。黄ばんだガラスの向こうから斜めに射し込む光の中で、無数の埃が小さな宇宙を作っている。

 ベッド代わりにしたオフィスチェアの寝心地は最高だった。おかげで体中がガチガチだ。

 膝の上に置いていたスマホを手に取ってみると、時刻は午前6時32分。……無断で一晩外泊したというのに、やはり父からは電話もメールもない。つい1週間前、あんな事件があったばかりだというのに、だ。


 その事実を確認した途端、私は自分がひどく失望していることに気がついた。どうやら私は心のどこかで父の愛を試そうとしていたらしい。

 そしてそれは証明された。そんなものは既に幻想の中にしかない、という形で。


「――水」


 と、ときにすぐ傍から短い声が上がって、私は微かに肩を震わせた。

 驚いて目を向けると、いつの間にか男がベッドの上に体を起こしている。寒いだろうとは思ったけれど、昨夜は傷の手当てをするだけで精一杯で、男の上半身は裸だ。

 その腹部にはぐるぐる巻きにされた包帯。傷口には分厚いガーゼが当ててあるためだろう、血はそれほど滲んでいないものの、私は昨夜見た生々しい傷痕を思い出すだけでゾッとした。


 あれはたぶん、刃物で切られた傷というより銃弾によって抉られた傷だと思う。あんな量の血を見たのは生まれて初めてで、手当てをしている途中、見ているこちらの方が何度か眩暈に襲われた。

 けれど当の怪我人おとこの方はけろりとしていて、私がぼんやりしているのを見るとちょっと苛立たしげに「水」と再度催促する。

 寝ぼけていなかったら一言文句を言っているところだった。私は悲鳴のように軋む椅子から腰を上げて黒のライダースジャケット――これはその辺にあったダンボールの中から勝手に拝借したものだ――を肩に引っ掛けると、まるで自分の家でそうするように冷蔵庫を開け、取り出した水を男のもとへ持っていく。


「具合は?」

「悪くねえ」

「そう。そのわりには自分で水も取りにいけないみたいだけど?」

「動くのがだるいんだよ。血が足りてねえ」

「ひどい出血だったわ。生きてるのが不思議なくらい。一応応急手当はしたけど、今からでも病院に行った方がいいんじゃない?」

「必要ねえよ。こんなの、あとは寝れば治る」

「寝れば治るって……あなた、スーパーマンか何かなの?」

「あ? 何だよその〝スーパーマン〟って?」

「スーパーマンも知らないわけ?」

「知らねえし興味ねえ。それより、煙草」

「は?」

「昨日オレが着てたジャケットのポケットに入ってるはずだ。どこにやった?」


 よくも勝手に片付けやがったな、と言わんばかりの言い草に、私は改めて腹を立てた。その前に助けてもらったお礼を言うべきなんじゃないの? とか、怪我人が煙草なんて吸うんじゃないわよ、とか、言いたいことは色々ある。

 けれどもそのいずれもこの男には言うだけ無駄なような気がして、私はため息と共に踵を返した。

 すっかり血まみれになった彼の衣服は空いていたダンボールの中。そこからくたびれたミリタリージャケットだけを引っ張り出し、お望みどおり煙草の箱とライターを探り当てて投げてやる。

 男はそれを鮮やかに受け止めると、急に上機嫌になって煙草をふかし始めた。……まるでお菓子を与えられた子供みたい。


「ハ~、クソ、生き返ったぜ。てめえがなかなか起きねえから、ヤニが切れて死ぬかと思った」

「あらそう、それはごめんなさいね。あんなに血を流しても死なない人が、まさかヤニ不足で死ぬとは思わなくて」

「相変わらずツンケンした女だな。お前、名前は?」

「ローズよ。ローズ・ポートマン」

「ローズ。お前、なんでオレを助けた?」


 その一瞬、中途半端に低くザラついた男の声に名を呼ばれ、私の心臓が小さく跳ねた。

 何故だか分からないけれど、たったそれだけのことがぞくりと不可解な興奮を呼び起こす。何かむず痒くて、叫び出したいような、そんな小さな興奮を。


「その前に、私の質問に答えてくれる?」

「今質問してんのはオレだ」

「そっちが答えてくれなきゃ、私も答えないわ」

「……チッ。めんどくせえな、何だよ」


 ぶっきらぼうに言いながら、しかし男は私の言うことを聞き入れることにしたようだった。ようやくイニシアチブを得た私は気を良くしてオフィスチェアの上へ戻り、さっきまでとは打って変わってまずそう・・・・に煙草を咥えている男の横顔を覗き込む。


「まず、あなたの名前。あなた、この界隈じゃ〝マッド・ジョン〟って呼ばれてるらしいけど、ほんと?」

「あ? 何だよ、調べたのか?」

「知り合いから聞いたの。この辺じゃ有名な殺し屋だって。でも、まさかそれが本名ってことはないわよね?」

「――ジョナサン」

「え?」

「本名はジョナサンだ。ジョナサン・リヴィングストン」


 退屈そうに煙草をふかしながら、正面にある窓を見つめて男は言った。

 ジョナサン・リヴィングストン――ああ、そうか。だから〝マッド・ジョン〟。〝ジョン〟はジョナサンという名前の愛称だ。つまり半分は本名ってこと。


「そう、ジョナサン。いい名前ね」

「名前にいいも悪いもねえだろ」

「あるわよ。響きがいいわ」

「質問はソレで終わりか?」


 まったく興味ない、と言いたげに、男――ジョナサンはふーっと煙を吐き出した。……さすがは殺し屋、情緒とか場の空気とか、そういうものは一切お構いナシらしい。


「もう1つあるわ。あなた、昨日はなんであんなことになってたの?」

「言わなきゃ分かんねえか? しくじったんだよ」

「しくじったって……つまり〝殺し〟を?」

「そうだよ。昨日はその、なんつーか、気が逸ってた。ずっと殺してえと思ってたヤツとり合うことになって浮かれてたんだ。だから失敗した」

「あなた、人殺しを楽しんでるって噂は本当だったのね……」

「お前の知り合いはずいぶん耳がいい・・・・らしいな」


 こっちは心底呆れているというのに、ジョナサンはそう言って――初めて、笑った。

 その笑顔があまりに無邪気で、私は思わずドキリとする。……この男、なんて顔をするのだろう。人殺しの話をしながら、まるで夢を語る子供みたいに。


「実際楽しいぜ、殺し屋ってのは。仕事の度に相手と命のやりとりをするんだ。特に昨日みたいな同業者相手の仕事はサイコーだな。なんつーかこう、ビリビリする。女を抱くより何倍も気持ちいい」

「昨日死にかけた口でよくそんなことが言えるわね。あなた、一歩間違ってたら命を落としてたかもしれないのよ? どんなに気持ち良くたって、死んだらそれでおしまいでしょ?」

「オレはあの快感の中で死ねるなら本望だね。お前もイッペン誰か殺してみろよ。毎日飯食って寝るだけの人生なんてつまんねえだろ。んなモンはサルでもできる」

「生憎だけど、私は犯罪者になるつもりはないの。そんな真似するくらいならサルになった方がマシだわ」

「じゃあなんでオレを助けた? 人殺しを助けるのはハンザイじゃねえのか?」


 そうして突然話を戻され、私は思わず言葉に詰まった。

 そんな私の反応を愉しむように、ジョナサンは煙草を手にしながらニヤニヤしている。その顔があまりに憎たらしいので、私は一瞬彼の傷に八つ当たりをかまそうかと思った――けれどそうしなかったのは、もう1つ訊きたいことがあったから。


「私があなたを助けたのは、訊きたいことがあったからよ」

「あ? まだなんかあんのかよ」

「先週の木曜日のこと。あなた、あのときどうして私を殺さなかったの?」


 それは私がこの1週間、ずっとこの男に問い質したいと思っていたことだった。

 あの日、一度は私に銃を向けたこの男がそれを撃たずに去った理由。

 あれは同情? 気まぐれ? それとももっと別の何か?

 私はその答えを知りたかった。

 それがもし、私の予想どおりの答えなら――。


「言っただろ。お前は殺してもつまんねえ」


 再び煙草を咥えて、ジョナサンは言った。


「〝つまらない〟って、つまりどういうこと?」

「お前、あのときオレに銃を向けられても平気なツラしてただろ。アレは〝別に殺されてもいいや〟ってヤツの顔だ。そんな顔したヤツを殺しても楽しくねえ」


 図星だった。

 あのときローズ・ポートマンという殻の中には、額に突きつけられた死に対する恐怖がまるでなかった。

 あの日、私はそれが自分の運命ならと受け入れるつもりになっていたのだと思う。どうせこのまま生きてたってロクなことがない人生。だったら終わり方もロクでもない方がいい、なんて取り澄まして。


 ジョナサンはそれを〝つまらない〟と言った。自ら死を望み、あるいは受け入れた人間を殺すということは、彼にとって戦う前から相手が白旗を挙げているゲームみたいなものなのだろう。

 要するに彼はゲームに勝利するまでの過程を望んでいる。目的は勝利ではなく、その勝利へ至るまでの闘争や心理戦の方なのだ。


「だったら」


 と、そこで私が切り出せば、ジョナサンの目だけがこちらを向いた。


「だったら……どうすれば殺してくれる?」

「あ?」

「お金を払えばいいの? いくら?」


 私はその目を直視できないまま、けれどもずっと大事に温めていた言葉をつかえることなく吐き出した。

 ジリジリ、と煙草の燃える音がして、ジョナサンの反応が止まったのが分かる。早朝の、しかも私たちの他に近寄る者などいないであろう廃倉庫は、イヤになるくらい静かだった。


「……あの、一応、700ドルくらいならすぐに用意できるんだけど」

「――お前バカじゃねえの?」

「えっ」

「たったの700ドルぽっちでつまんねえ殺しなんか請け負えるか。そんなに殺してほしけりゃ10000ドル用意しろ」

「い、10000ドルって、こっちは無抵抗なのよ!?」

「無抵抗だろうが何だろうが、オレに殺しを依頼したきゃ最低10000。それ以上はまからねえ」

「ぼ、ぼったくりだわ……」

「なんとでも言えよ。ていうか、そんなに死にたきゃ自分で死ねばぁ?」


 煙と共に吐き出されたその一言は、これ以上話をするのもバカバカしいと言いたげな、あまりにも冷たく突き放したものだった。

 もちろん殺し屋なんかに気遣いとか慰めとか、そんなものを期待するだけバカげてるってことは分かってる。

 ……分かってる。けど――


「――帰る」


 子供みたいなのは、私の方だった。

 正論を突きつけられて、だけどそれはイヤだとゴネて逃げ出す聞き分けのない子供。

 そんな子供をもう1人の子供がどんな顔で見送っていたのかは知らないけれど。

 交渉は決裂し、私は廃倉庫を飛び出した。

 何だか無性に惨めで、泣き出したい気分だった。




 警察にジョナサンの居場所を教えるのは簡単だった。

 スマホのダイヤル画面を開いて911。そのたった3つの数字をタップするだけでいい。

 聖アントニオ公園近くにある自宅。その前に頭からプリウスを停めて、私はしばし手にしたスマホと睨み合っていた。


 ジョナサンの血で汚れたシートを隠すためのシートカバーを探したり、同じく汚れた服を替えるためにお店が開くのを待ってたらもうお昼。早くも1日を台無しにした気分だ。

 だけどそんな中で唯一幸いだったのは、勢いに任せてあの廃倉庫を飛び出してきたせいで、彼のライダースジャケットをそのまま借りてきてしまったこと。おかげで私は血まみれのシャツを見せびらかしながら街をうろつく羽目にならずに済んだ。


 ついでに朝食も昼食も外で済ませてしまったから、あとはあの殺し屋との奇妙な縁にケリをつけるだけ。

 さすがのマッド・ジョンもあの怪我では当分動けないだろうし、通報するなら今がチャンスだ。このオークランドで日々数多の犯罪発生を許している優秀な市警察も、さすがに今回ばかりはあの殺人鬼を捕まえられるだろう……。


「……」


 私は意を決してスマホのダイヤル画面をタップする。

 マニキュアの匂いを忘れて久しい親指で、9、1、……


「………………はあ……もういいわ」


 最後のワンタップをためらっておよそ30分。私はついに嫌気が射してスマホの電源ボタンを連打した。星条旗柄のカバーですっかりオシャレをした助手席から鞄を引ったくり、車を降りて家へ向かう。

 玄関の鍵は開いていた。今日も父はいるということだ。ドアノブを握ってそれを確かめた途端、更なる憂鬱が肩にのしかかってくる。……昨夜からどこへ行っていたのかと訊かれたらどうしよう。友達の家に泊めてもらったとでも言えば大丈夫だろうか。

 まるで企業との面接前のように、やや緊張しながら脳内で繰り広げるシュミレーション。しかしそんなものは跡形もなく、ものの1分後に吹き飛んだ。


「……何これ」


 玄関を入ってすぐの階段を上り、くるりと折り返した廊下の一番手前にある白いドア。そのドアをいつものように押し開けて、直後、私は目を疑った。

 もうすっかり住み慣れた、淡いブルーの壁紙だけがお気に入りの私の部屋。

 その部屋がほんの1日留守にしている間に、もぬけの殻になっていた。


 ベッドもクローゼットもない。ロスにいた頃から愛用していた小さなデスクも、厳選されたごくわずかな蔵書を収めていた本棚も、その上に飾っていた子供の頃からの写真も。

 唯一残されたものはと言えば、開け放たれた窓の傍で揺れる白いカーテンと味気ないシーリングライトだけだ。

 私はしばし部屋の入り口に立ち尽くしたあと、茫然とするあまり鞄を落としたのも気づかずに1階へ駆け戻った。何とかという大して有名でもない画家の絵がかかった廊下を走り抜け、奥にあるダイニングへのドアを叩き開ける。


「やっと帰ってきたか、このアバズレめ」


 酒焼けした声がした。それと同時にむわりと襲いかかってくる、胸が悪くなるほどのアルコールの匂い。

 案の定父はそこにいた。ジョナサンの隠れ家を笑えないくらい大量の酒瓶をあちこちに散らかし、半分溶けてしまったような胡乱な目をしながら。


「お父さん、アレはどういうこと? 私の荷物をどこへやったの!?」


 オークランドへ来てから一回りも二回りも体が縮んだ父に、私は怒声を叩きつけた。この4年、狂った父の言動に我慢を重ねるのにももう慣れたと思っていたけれど、今回ばかりはさすがに黙っていられない。


「お前の部屋の荷物なら今朝業者に預けたよ。ホレ、そこにあるメモが連絡先だ。契約金を少し多めに払ってやったら、融通をきかせて2ヶ月預かってくれるとさ」

「なんで急にそんなこと? 私に何の断りもなしに荷物を出すなんて信じられないわ!」

「断ろうにもお前がほとんど家にいないんだからしょうがないじゃないか。だいたいお前、いつも言ってただろう? こんな家さっさと出ていきたいって」


 私が酔った父と口論になる度に漏らしていた台詞。それを得意げに唱えると、父は欠けた歯を見せて笑った。

 その、こちらを見下し嘲笑うような顔つきにはらわたが沸騰する。父の目は明らかに私をわらっていた。家では偉そうなことを並べ立てながら、何1つ満足にいかない負け犬の私を。


「だからこの俺がわざわざ金を払って家を出ていきやすくしてやったんだ。あとはロスなりシスコなり頭の緩いヤリチン野郎のところなり、好きなところへ勝手に行け。そんなに帰ってきたくないなら、もう二度と帰ってこなくていいぞ」


 皺だらけになった手を大袈裟に振りながら父は言う。その言葉が私の無断外泊を咎めているのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。

 実は父に何も言わずに家を空けるのは、これが初めてではないのだ。私は父の見えない暴力に耐え難くなると、度々家を飛び出して友人宅やモーテルへ逃げ込んだ。元彼と別れてこの家へ帰ってきてからも、無断外泊は既に3回目だった。

 そうして自分から逃げていく娘を、父も快く思っていなかったのだ。

 たとえ無断外泊しようが2年も音信不通になろうが、心配1つしないくせに。


「とにかく、お前のそのキーキーうるさい声を聞くのはもううんざりだ。どうやら忘れているようだから言っておくが、この家は誰のものだ? 大金を叩いて買った俺のものだ。そこに家賃も払わず図々しく居座る居候などもういらん。さっさと出てけ!」


 家中に轟き渡る父の怒号へ背を向けて、私はリビングを飛び出した。

 そのまま玄関をも飛び出し車へ向かう。だけど運転席のドアを開けようとして、キーがない。部屋に落としてきた鞄の中だ。

 本当に何をやっても上手くいかない。私はそんな自分をくびり殺したいほど苛立ちながら、家に戻って鞄を回収した。


 たぶん、もう二度とこの家へ帰ってくることはない。そう思いながら改めて玄関を出ようとしたところで、背中にコツンと何かが当たる。

 その感触に気づいて振り向けば、足元に丸められた紙屑が転がっていた。拾い上げてみると、さっき父が言っていた業者の連絡先だ。……なるほど、そっちも〝二度と面を見せるな〟ってわけね。


 私はやり場のない怒りと共に車へ乗り込み、思い切りエンジンをふかして自宅をあとにした。

 感情が昂るあまり、ろくに思考が働いていない。そんな状態で私の頭が勝手に目指したのは、マイクのいる『HANG OVER』だった。

 だけどよくよく考えたら、こんな昼間からバーが開いているわけがない。『CLOSE』の看板が下がった店の前まで来て、私はようやくそれを理解した。

 それならマイクと連絡を取ろうかと思ったけれど――ダメだ。この時間、彼は次の営業に備えて眠っている。昨夜も遅くまで働いていただろう彼のことを思うと起こすのも忍びなく、私は店の前に停めた車の前でハンドルの上に突っ伏した。


 ……どうしよう。どこへ行こう。


 今夜1晩くらいならモーテルにでも行けば凌げるけれど、次の仕事が見つかるまでずっとモーテル暮らしはさすがに無理だ。何せ今の私の通帳には殺し屋に笑い飛ばされた700ドルしかない。

 普通に生活していても1ヶ月しか持たない貯金。これじゃ新しい家を見つけることも困難だ。


 だとしたら……しばらくの間友達を頼る?


 キャシー? ……いいえ、ダメだわ。彼女はもう結婚していて、毎日3人の子供の世話で悲鳴を上げている。

 それならアイリーンは? ……いいえ、彼女もダメ。何せ最近フィアンセとの同棲を始めたばかりだ。散々そうした方がいいと焚きつけた私が、2人の愛のプロセスを邪魔するわけにはいかない。

 あとは……タチアナ? そうだ、タチアナがいるわ!

 そう閃いてパッと顔を上げたところで、すぐに気づいた。……そう言えば彼女、昨日から1ヶ月のヨーロッパ旅行に行ってるんだっけ。


 私は再び脱力した。他に「しばらく居候させて」なんて言えるほど親しい友人の名前は思い浮かばなかった。

 こうして見ると、私って友達少ない。学生の頃から付き合いのあった友人はみんなロスに置いてきてしまったから。

 彼女たちとは既に疎遠になって久しい。今更突然連絡して「しばらくルームシェアさせてくれない?」なんてとても言えない。


 ひとりぼっちだった。


 せっかく唇を噛み締めたのに、そんな私の努力を無視して涙は伝う。




 黒いジャケットを目の前に突きつけると、殺し屋は露骨に不審そうな顔をした。


「――これ。返しに来たわ」


 わざと不機嫌を装った声で、そっぽを向いて私は言う。いや、正直に言えば半分くらいは本当に不機嫌だった。だってローズ、あなたはこの汚ならしい廃倉庫以外に、しばらく雨風を凌げる場所を見つけ出せなかったのだから。


「あと、これ。お土産」

「は? ……煙草?」

「ヤニが切れると死んじゃうんでしょ? その怪我じゃ煙草1箱買いに行くのもつらいんじゃない?」

「いや、別にそのくらいダチに頼むし」

「あなた、友達なんているの?」

「お前、マジでいちいちムカつくな」


 そう悪態を垂れながらも、ジョナサンはちゃっかり私が差し出した煙草へ手を伸ばしてくる。口では何だかんだと言いながら、やはりこの男も体は正直なのだ。それを確かめた私はジョナサンの指が煙草に触れる寸前に、ヒョイッとその箱を取り上げた。


「ごめんなさい。これ、タダじゃないの。取引したいんだけど」

「はあ? 何だよ取引って。まさかその煙草買うのに10000ドルかかったとか言うつもりじゃねえだろうな?」

「違うわよ。――あのね、しばらくここに住まわせてほしいの」


 ジョナサンが手にした煙草から、ぽろりと灰が落ちるのが見えた。彼はすごくつまらないコメディアンのショーでも見るような顔でこちらを見ている。だけど残念、私は観客の反応に振り回されるコメディアンじゃない。


「そしたら毎日煙草を買ってきてあげるわ」

「だから、それはダチに頼むって――」

「あと、朝昼晩の食事も作ってあげる。あなた、どうせロクなもの食べてないでしょ?」

「うるせえ。何を根拠に――」

「ついでにこの部屋も私がピカピカにしてあげるわ。こんな不衛生な場所じゃ治る傷も治らないでしょうし」

「お前、オレにケンカ売りに来たのか?」

「――お願い。ほんの数日でいいの。仕事が決まったら出ていくから」

「仕事だぁ?」

「ええ、そう。もう半年くらい決まってないけど――でも、さすがにそろそろ決まると思うし。夜はもちろん車で寝るから」

「……」

「……住む家をなくしたの。お願いよ」


 いくら相手が常識外れの殺し屋だからって、厚かましいお願いをしているのは分かってる。けれどここ以外にもはや行く宛をなくした私は必死だった。

 さっきまで自分を殺してほしいと言っていた女が、生きるために足掻いている姿を見るのはどんな気分だろう。私はそんな自分をもう一度鼻で笑ってくれやしないかと、ジョナサンの表情を覗き見る。


 それもこれも、あなたが殺してくれないからよ。


 そんな私の身勝手な恨み言が届いたのかどうか。

 ジョナサンは呆れ顔でため息をつくと、再び煙草を咥えてその先を明滅させた。


「まあ、いいけど? その代わり厄介事に巻き込まれても文句言うなよ」

「本当!? ありが――」

「あと、ここにいる間はオレの言うことに絶対服従。それがイヤなら出てけ」

「……イエス、サー」


 何だか足元を見られている気がしないでもなかった。けれども他に頼る宛のない私は、屈辱を呑み込んで頷いた。

 だけど同時に――心のどこかで気持ちが弾んでいたことも本当なの。

 理由は自分でも分からない。

 けれどそのときにはもう、彼が凶悪な殺人鬼だなんて事実はどうでも良くなってたのよ。おかしいでしょ?


 だから笑って、ジョナサン。






Jun.12 Sun

貯金残高$632.21


 かくして私とジョナサンの奇妙な共同生活は始まった。

 記念すべき1日目は掃除。ミサへ行くのもサボってとにかく掃除。掃除、掃除、掃除、掃除。

 早朝から始まったゴミの片づけに、寝ていたジョナサンはひどくうるさそうにしていたけれどそんなことは関係ない。というか同居人として、1秒でもこの部屋をこのままにしておくのは耐えられない。


 これが宝の山だったらどんなにいいかと思えるほど大量のゴミは、買い込んできた大きめのビニールに入れて倉庫の外へ。

 初めは市指定のゴミ箱を持ってこようかとも思ったけれど、こんなところまで回収車が来るとは思えないし。邪魔になったら自分でどこかへ運んでちょうだいと私が言うと、ジョナサンは倒れたまま呻くように返事をして再び眠った。

 丸1日かかった掃除の成果は上々。元々古くて錆だらけの汚らしい建物なのに、こうして見ると魔法がかかったように見えるから不思議だ。


 私は1日頑張った自分へのご褒美にケーキを食べた。夕方頃になってようやく起き出してきたジョナサンは、私がそのケーキと一緒に買ってきた数種類の惣菜を見ると「メシはお前が作るって言ってなかったっけ?」なんて言い出したけれど、それも無視だ。

 果たしてその仕返しだろうか。2人で夕飯を食べながら「電子レンジが欲しいわ」と試しに零してみると、ジョナサンは華麗にそれを無視した。


 毎回仕事の度に10000ドルも儲けてるくせに、ケチな男。






Jun.13 Mon

貯金残高$591.33


 ようやくキッチン――というか、古いガスコンロつきの給湯室だけど――が使えるようになったので、今朝はちょっと気合いを入れて朝食を作った。

 メニューはフレンチトーストと厚めのベーコン、ハッシュブラウン、ふわふわのスクランブルエッグ。彩りには生のトマトを添えて、我ながら完璧な朝食だ。

 この日のために真っ白で清潔な陶器のプレートだって買ってきた。別に昨日のジョナサンの言い草を根に持ってムキになったわけではない。彼を見返したいなんて不純な気持ちは1ミリもないわ。神に誓って。


 だけど人がそうしてせっかく朝食を用意したのに、何度呼びかけてもジョナサンが起きようとしないのには腹が立った。どうやら彼は完全に夜型の人間らしく――まあ、殺し屋という彼の職業を思えばそれも当然か――業を煮やした私が無理矢理叩き起こそうとすると、「うるせえ、寝かせろ! さもないと追い出すぞ!」と怒鳴られた。

 頭に来た私は彼の分の朝食をキンキンに冷やしてやろうと冷蔵庫にブチ込み、古巣のイーストオークランドへ。そこでネットが使えるカフェへ行き、企業の採用情報を調べては、めぼしい企業へ送るための経歴書を作成、送付した。今日は2社。


 それからまた少しばかりの買い物をして、再びあの廃倉庫へ。真っ暗なウエストオークランドで車を走らせるのは不安だから、日のあるうちに行動しないといけないのがあの仮住まいのデメリットだ。

 本当は『HANG OVER』にも顔を出したいのだけれど、当分あの店のサルサ&チップスはおあずけ。マイクお手製のグワカモーレが恋しくて気が狂う前に、早く次の就職先を見つけなきゃ――と運転中はそればかり考えていたものの、ひとたび倉庫へ帰り着くと、薄情にもそんな思考はどこかへ行ってしまった。


 だって冷蔵庫の中に押し込めていったはずのプレートが、帰ったら綺麗になっていたから。


 時刻はまだ14時を過ぎたばかり。完食したプレートをテーブルの上に放置して、ジョナサンはまた眠っている。

 私はそんなジョナサンの、殺し屋にしては無防備な寝顔とテーブルの上のプレートを見比べて、思わず頬を緩ませた。


 夕飯も頑張って作らなきゃ。






Jun.21 Tue

貯金残高$562.09


 驚くべきことに、この1週間あまりでジョナサンの怪我は驚異的な回復を見せた。

 もちろんまだ立って歩くのはつらそうだけど、包帯を交換する度に傷がどんどん癒えていっているのが分かる。病院にも行かず、ありあわせの薬剤で消毒し痛みを散らしているだけなのに、こんなに回復が早いなんて信じられない。

 あるいは彼が来る日も来る日も寝てばかりいるのが効いているのだろうか?

 だとしたらジョナサンはただ単に怠惰だとか前世は猫だったとか、そういう理由で1日中惰眠を貪っていたわけではないのだ。私は素直に感心した。


 その日、私がいつものようにキッチンで夕飯を作っていると、珍しくジョナサンの携帯が鳴った。

 部屋はあんなに汚かったくせに、ジョナサンは新品同然の、私には到底手が出せないような最新式の電話を持っている。私はそれを恨めしく思うと同時に、また出ていけと言われるのかしら、と少しばかり身構えた。前に一度同じように電話が鳴ったとき、ジョナサンはシッシッと手を振って私を部屋から追い出したのだ。


 けれども今日は、どうやら奥の給湯室にいたことで許されたらしい。ジョナサンはそのまま電話に出て誰かと話し始めた。

 私はポークチャップにするための豚肉を炒めながら、その会話に耳を澄ます。が、油の跳ねる音が邪魔で、途切れ途切れにしか彼の言葉が聞き取れない。


「――あ? ああ、大丈夫だ――じゃねえだろ? もしそうなら、とっくに――ってる。分かってるって。とにかく――ああ、そうだ――あのポーランド人はオレが殺す。――から、お前は――すんなよ。いいな?」


 通話時間はほんの5分足らずだろうか。電話の相手が誰かは知らないけれど、ジョナサンは相変わらずぶっきらぼうな応対を済ませると、すぐに通話を切ったようだった。

 ……何だかポーランド人を殺すとか殺さないとか、そんな物騒な単語が聞こえてきたような気がしたけれど。

 もしかして、もう次の仕事の依頼かしら? それとも前回〝しくじった〟っていう標的への報復?


 どちらにしても楽しい話題じゃない。私はフライパンに大量のケチャップを投入しながら、胸中に暗雲が立ち込めるのを感じた。

 いくら命知らずのジョナサンでも、怪我が完治していない状態で次の仕事へ赴くとは思えない。だけどそれは逆に言えば、怪我が治れば彼は再び人を殺しに行くということ……。


 私はそれを思うと憂鬱になった。彼のその行動を黙認すれば、その時点で私も共犯になるから――ではない。


 私はこれ以上、彼に危険を冒してほしくなかった。

 そんなこと、人殺しを人生最高の楽しみにしている彼には口が裂けても言えないけれど。


 先週経歴書を送った企業からは、いずれも採用お断りの連絡があった。


 ここ数日、私はネットカフェに行っていない。






Jun.26 Sun

貯金残高$511.48


 ジョナサンが、ついに立って歩けるようになった。

 もちろんまだ激しい運動はできない。脇腹の傷はようやく塞がったばかりで、走ったり飛び跳ねたりすれば簡単に開いてしまうだろうと思う。

 けれどもジョナサンがここ半月ほど眠りっぱなしでなまった体を動かしたいと言うので、私は彼を車に乗せてイーストオークランドへ繰り出した。

 そうでもしないと彼が1人で無茶をしそうだったから――というのは建前だ。


 知り合いに会いそうなメリット湖方面は本能的に避け、イーストベイエリアへ。このあたりはシスコやロスへ至るフリーウェイが走っているせいもあり、オークランド内でもそれなりに賑わっていた。

 車はフルートベール駅に停めて、車外に出る。鈍った体を動かしたいと言っているのにずっと車の中にいたんじゃ意味がないので、そのまま2人でフルートベール通りをぶらつくことにした。


 気温はそこまで高くないけれど、見上げればうんざりするほどよく晴れた空。北から吹く乾いた風は、乾季がまだまだ明けそうもないことを教えている。

 だけどここしばらく海の傍で暮らしているせいか、こういう爽やかな風を浴びるのは久しぶりのような気がした。車でばかり移動しているのも考えものね。私は何だか少し懐かしい気さえする風を大きく吸い込み、そしてゆっくりと吐き出していく。


「どう、久々の外は?」

「別に久々じゃねえだろ。お前、昨日ガスステーションまでシャワー借りに行ったのもう忘れたのか?」

「あなたってほんと情緒に欠けるわね。こうして自由に外を歩き回るのは久しぶりでしょって意味よ」

「あー、別に何も感じねえよ。オレ、この辺はあんまり来ねえから分かんねえし」

「あなた、仕事がないときはいつもあの穴ぐらみたいな倉庫に籠もってるわけ?」

「それか飲み屋で飲んでるか、ギャンブルしに行ってるかだな」

「もしも不健全な生活を送るための教科書があったら、あなたは間違いなくお手本として掲載されるでしょうね」


 私が深々と嘆息しても、ジョナサンは相変わらずどこ吹く風。この男はいつだって自由気ままだ。誰の意見にも、どんな生き方にも囚われない。ただひたすら自分の乗りたい風にだけ乗って飛んでいる、気まぐれなカモメ。


「ねえ。訊いていい?」


 一体どうしたら彼のような人間が生まれるのだろう。

 それが不思議でならなかった私は、ついに意を決して口を開いた。路傍の商店などを覗きながらジョージー公園まで歩いた帰り、ちょうど昼時を迎えて入ったブランチカフェでのことだ。


「あなた、どうして殺し屋なんかになったの?」


 それは今日まで訊いてみたいと思いながら、何故だかずっと訊けずにいた疑問。周りを憚り、低めた声でその問いを絞り出せば、ジョナサンは向かいの席でヒョイと片眉を持ち上げた。


「どうしてって、お前こそなんでそんなこと訊くんだよ?」

「だって……ずっと気になってたから。あなた、どう見ても私より若いでしょ? 他にも選択肢はいっぱいあったはずなのに、どうして――」

「ねえよ」

「え?」

「他の選択肢なんて、そんなモンはハナからなかった。ベンジャミンは最初から殺し屋にするつもりでオレを引き取ったらしいしな」

「ベンジャミン?」

「オレの育ての親だ。よく知らねえが、オレの親とは懇意だったらしい」

「その親御さんのところからあなたを引き取ったってこと?」

「いや。オレの両親は殺されたんだとさ。ベンジャミンと敵対してた組織の殺し屋にな」


 ゾッと得も言われぬ感覚が背筋を駆け抜けて、私は思わず凍りつく。けれどもジョナサンにはそんな私の様子が見えていないのだろうか、彼はジャケットの胸ポケットから煙草を1本取り出すと、それを咥えて火をつけながら淡々と続けた。


「ま、オレは覚えてねえから別にいいって言ったんだけどよ。それじゃベンジャミンの気が済まねえってんで、アイツの下で面倒見てもらうことになったワケ」

「ま、待って。〝覚えてない〟ってどういうこと?」


 私が急き込んで尋ねれば、ライターをポケットにしまったジョナサンが顔を上げた。何の感情もない、何となく流し見たドラマのあらすじでも喋っているような、そんな顔つきだ。


「あ? 言ってなかったか? オレにはガキの頃の記憶がねえんだよ」

「は、初耳だわ!」

「あっそう。じゃ、言ってなかったってこった」

「だ、だけど記憶がないってどうして? 事故にでも遭ったの?」

「いや。頭を撃たれた」

「は……!?」

「親が殺されたとき、一緒に撃たれたんだと。だが幸か不幸か、オレは記憶を命の代償にして助かった。だから今こうして元気に人を殺して歩いてる」

「……悪いけど、とてもハッピーエンドには聞こえないわ」

「そうか? オレはハッピーだ」


 そう言ったジョナサンがニヤリと笑い、私が唖然としたところで、テーブルに注文した料理が運ばれてきた。私もジョナサンも頼んだのはカリカリに焼かれたベーコンとレタス、そしてチーズのホットサンドだ。

 それと同時に運ばれてきた2杯目のコーヒーを飲みながら、私は冷静になろうとしていた。……今のジョナサンの話が本当なら、確かに彼には殺し屋になる以外の選択肢なんてなかったのかもしれない。


 だけど、どうして? おいしそうな焼き色がついたホットサンドに囓りつきながら、私は思う。

 ジョナサンはそんな自分の人生を不満に思わなかったのかしら? 家族を奪われ、未来を奪われ、仕方なく歩むしかなかったその道を。


 ……私は、自分の人生に不満ばかりだ。母は突然いなくなり、父親は悪魔、彼氏にはゴミのように捨てられ仕事もない。おまけに金欠。

 そんな状況を、どうしたらジョナサンのように楽しめる?

 私には無理だ。自分の不幸をジョークみたいに笑い飛ばすなんて。


「……本当に、何もかもジョークだったらいいのに」

「あ? なんか言ったか?」

「いいえ、何も。……ところでそれ、食べないの?」


 と、ときに顔を上げた私は、向かいのジョナサンの皿に食べかけのホットサンドが放置されているのを見咎めた。皿には綺麗な三角形を描くホットサンドが2つ。けれどジョナサンはそのうちの1つを半分ほど食べたと思ったら、あとは食事をやめてまた煙草をふかしている。


「もしかしてお腹空いてなかった?」

「いや。なんかソースが甘ったるいんだよ、コレ。食う気しねえ」

「ひょっとして甘いもの嫌い?」

「普段あんまり食わねえからな」

「じゃあ、他のメニューを……」

「いい。どうせもう帰るだろ? だったらお前がなんか作れ」

「え?」

「お前のメシならハズレはねえからな」


 言いながら、ジョナサンは短くなった煙草の先をぎゅっと灰皿に押しつける。そうして早々に次の1本を取り出し、咥えて火をつけるという一連の動作のおかげで彼は見逃した。私の顔が耳まで真っ赤になっていく様を。


「……あ? 何だよ、お前も食わねえのかよ」

「……食べるわ」


 消え入りそうな声で答え、私はホットサンドの耳を咥える。だけどもう味なんて分からなかった。視線はもう1枚のホットサンドに釘づけで、ジョナサンを直視できない。


 ……普段は〝おいしい〟なんて一言も言わないくせに。

 胸中そう悪態をつきながらも、私は何故だか泣き出しそうになっている自分が可笑しかった。


 だって半年ぶりだったの。誰かに認めてもらえたのは。




 マズいマズいと散々文句を言いながら、カフェでの食事代はジョナサンが持ってくれた。

 意外といいとこあるじゃない、と見直せば、金なら腐るほどあるからな、とジョナサンは嫌味に口角を吊り上げる。その瞬間、私は迷わず前言を撤回した。


 小さな商店やカフェが並ぶ通りを、フルートベール駅へ向かって歩く。ジョナサンは怪我人のくせにスタスタと先へ行き、私はその後ろを少し遅れてついて歩いた。

 本当は隣に並んで歩きたかったけど、彼はこちらの歩調に合わせるということを知らない。きっと普段、こんな風に誰かと一緒に歩く機会が彼にはないのだ。

 おまけに私が履いているサーモンピンクのハイヒールは、見た目こそ最高にキュートだけれど殺し屋と競歩をするのには向いていない。私は急いでも急いでも彼の背中に追いつけないことにもどかしさを覚えた――その事実が、私には彼のように生きることなど不可能だと言われているようで。


「……あなた、どうしてそんなに眩しいの?」


 私を置いてどんどん先へ行ってしまう黒い背中に、私は思わずそう呟く。上から下までカラスのように黒ずくめで、しかも人殺しのくせに、何故だか私には彼が眩しくて仕方ないのだ。

 その眩しさは私の胸をキュッと締めつける。切ないような、恋しいような、妬ましいような。今の私はそんなわけの分からない感情の塊だ。


 ――まったくどうかしてるわ、ローズ。


 自分でもそう思うのに、転がり出した感情はもう止まらない。


 私はジョナサンの背中を追いかけながら、〝インターネット使えます〟と書かれたカフェの看板の前を素通りした。


 ――追いつきたい。


 その一心で足を速め、追いつき、彼の背中へ手を伸ばそうとした、そのとき、


「――こんにちは。ローズはいかがですか?」

「……え?」


 突然知らない声に名前を呼ばれ、驚いた私は足を止めた。

 振り向けば、そこには色とりどりの花に埋もれるようにして微笑んでいる初老の女性。目元にいくつも刻まれた皺には品があり、艶のあるブロンドを後ろで団子状にまとめている。


 まるでイギリスのファンタジー小説にでも出てきそうな、妖精の花園。

 そこは小さな花屋だった。通りに向かって張り出した黒いオーニングの下には、穴開きボードへ引っ掻けるようにして吊られた什器がいくつもあり、そこに溢れんばかりの生花が陳列されている。

 その光景をしばし唖然と見つめたあと、私はようやく理解した。

 ――ああ、なんだ。今のは名前を呼ばれたわけではなかったのだ。


「ああ、えっと、ごめんなさい。私、今急いでて……」

「オランダ産の珍しい薔薇ローズを入荷したんです。贈り物にいかがですか?」


 女性の言葉はただの客引きだ。それなら私も無視して立ち去れば良かったのだけど、そうしようとした直後、差し出されたそれ・・に思わず目を奪われた。


 老女の手の中でシンプルにラッピングされたその花は――虹色の薔薇。


 本当に、作り物かと見紛うほど花びらが虹色なのだ。私はそのあまりの美しさに我を忘れ、買う気もないのにひとまず薔薇を受け取った。


「これ……本物の薔薇ですか?」

「ええ、もちろん生花です。美しいでしょう? その名もレインボーローズ。最近オランダで作られた品種なの」

「すごい……こんな色の薔薇、生まれて初めて見ました。だけど、一体どうやったらこんな色が?」

「残念だけどそれは企業秘密だそうよ。けれどあんまり美しくて珍しいから、最近贈り物としてとても人気なの。花言葉は〝無限の可能性〟」

「無限の……」


 まさにこの7色の薔薇にピッタリの花言葉。私はそれを口の中で復唱し、しばし手の中の奇跡に見とれた。

 レインボーローズ。なんてカラフルで美しい花。青い薔薇の話なら聞いたことがあったけど、まさか虹色の薔薇まで存在するなんて思わなかった。


 同じ〝ローズ〟でも、私と本物の薔薇じゃ大違い。むしろ今の私はただの赤い薔薇にだって劣るわ。

 何の取り柄もなく、価値もない……私はこんなに美しくは咲けない。

 そう思った途端胸裏には惨めさが溢れ返って、またしても泣きたくなった。母譲りのこの赤毛を疎ましく思うことはあっても、母からもらったこの名前を嫌ったことなどなかったのに――今は無性に、この美しい薔薇ごとむしり取って捨ててしまいたい。


「――おい、何やってんだ」


 私がそんな衝動に身を任せそうになった、瞬間。

 突然真横から声がして、私はハッと我に返った。

 振り向いた先には、相変わらず煙草を咥えたままのジョナサンがいる。どうやら私がついてきていないと気づいて引き返してきたようだ。その表情は少しばかり不機嫌で、蒼い双眸はまったくの無感動に私の手の中の薔薇を見下ろしている。


「こっちは腹減ってんだ。さっさと帰んぞ。……それ買うのか?」

「あ、いえ、ちょっと珍しかったから……」

「すげえ色の花だな。ニセモンか?」

「本物よ。レインボーローズっていうんですって。綺麗ね」

「レインボーローズ? ローズって、お前と同じ名前かよ」

「あら、お嬢さん、ローズってお名前なの?」

「え、ええ、まあ……この赤毛が薔薇みたいな色だからって、母が」

「そう、素敵なお名前ね。それならちょっと待っていて。今、普通の赤い薔薇も持ってくるから」


 店員の女性は、物腰穏やかと見せかけて実は商売上手らしい。こちらは買うとも見たいとも言っていないのにウインクを決めると、まるで花盛りの森を思わせる店の奥へと姿を消した。

 何ならその隙に逃げ出すこともできたけど、それは少し忍びない。私は女性が戻ってくるまでの間、手持ち無沙汰にレインボーローズのラッピングを眺めた。そして思わず「げっ」と声を漏らす。


「こ、この薔薇、14ドルもするわ……普通の薔薇は1本8ドルくらいなのに」

「へえ。14ドルもありゃ、煙草が3箱買えるな」

「……あなたの脳はニコチンでできてるの?」

「ならスコッチが2杯飲める」

「なるほど。お金持ちの発想はやっぱり違うわね」


 私はもはやまともに相手をするのが馬鹿らしくなって、薔薇についた値札を見ながら肩を竦めた。

 そのときふと、店の奥から電話のベルの音がする。私がそれに気づいて目を上げれば、先程の女性が小走りに花の間を横切っていくのが見えた。

 恐らく問い合わせか何かの電話だろう。だとすれば彼女が戻ってくるまでもう少し時間がある。

 私はその間、手の中の薔薇を意味もなく回して幻想的な虹色を眺めた。

 そして、言う。


「……ねえ。それなら私はいくらだと思う?」

「あ?」

「私に値段をつけるなら、いくらだと思う?」

「4ドル40セント」


 即答だった。

 まさか本当に答えが返ってくるとは思わなくて、私は驚きと共に顔を上げた。


「たったの4ドル? それじゃ普通の薔薇よりも安いわ」

「お前だけじゃねえよ。人類皆平等に4ドル40セントだ。ベンジャミンがそう言ってた」

「どういう意味?」

「難しいことはオレも知らねえよ。ただ成人した人間を燃やして灰にしたあと、その中からミネラルとか炭素とかいうのを集めて売ると、それくらいの値段になるんだと。つまりそれが人間の最終価値だ」

「じゃあ、あなたはたった4ドル40セントの価値しかないものを10000ドルも取って殺してるってわけ? それって詐欺じゃない?」

「馬鹿言え。10000ドルってのは相手の値打ちじゃねえ、オレの値打ちだ。オレがオレ自身をその値段で売ってる」

「あなた自身の?」

「そーだよ。その花――薔薇っつったか? それだってそうだろ。同じ薔薇でも色が違うだけで値段が違う。1色しかないより7色あった方が価値が高いからだ。人間だって人を殺せるヤツと殺せないヤツなら、殺せる方が価値が上がる。ソッチの方が断然貴重だからな」


 ジョナサンが退屈そうに話すその言葉には、恐ろしい説得力があった。

 この店に並ぶ何種類もの花のように――スーパーの陳列棚に並ぶ野菜のように。

 人間も原価は同じなのに、学歴や能力や見た目によって価値が違う……。

 そんなこと、今まで考えたこともなかった。人間は神の前では皆平等である、なんて教会の言葉を信じていたわけではないけれど。

 たぶん私は、心のどこかで誰もが皆平等だと思いたかったのだ。だってそうでも思わなければ、自分自身の存在を肯定することができなくなってしまうから。


「だけど……だけどそれじゃあ、あなたのその値段は誰が決めたの?」

「バァカ。てめえの値段をてめえ以外の誰が決めるってんだ? オレはガキの頃からてめえでてめえの値を吊り上げてきた。だから誰が相手でも、これ以上はまからねえ」


 私は、私を殺してほしいと告げたときのジョナサンの言葉を思い出した。

 それと同時に彼を見上げ、返す言葉を失った。


 ああ、そうか。だからこのひとは――


 ただ煙草を吸って煙を吐いているだけの横顔が、こんなにも眩しい。


「っつーワケで、お前も自分の値段くらい自分で決めろ。んなモン、オレの知ったこっちゃねえよ」

「でも……私、何の取り柄もないのに?」

「取り柄がねえなら作りゃいいだろ。そもそもお前、何のために生きてんだ?」

「何のため?」

「お前はサルかって訊いてんだよ」


 指の間で紫煙をくゆらせながら、ジョナサンはそう言って私を見た。

 彼の視線は文字どおり私を値踏みしている。私という人間の正体を暴いて、その真価を見定めようとしている。

 途端に私は恐ろしくなった。いつも虚勢の仮面の裏側にいる、ちっぽけな自分の姿をこのひとには知られたくないと思った。

 だって、彼にだけは見放されたくなかったから。

 だから私は正面から彼を見据え、なけなしの勇気を総動員して言う。


「いいえ。――ローズ。私はローズよ」


 そう答えた声が震えていなかったか、どうか。

 そんな不安ではちきれそうになっている私の前で、ジョナサンは――笑った。

 まるで悪戯好きの子供みたいな、あるいは共犯者を見つけた悪党のような、そんな笑み。

 そうして彼が手にしていた煙草を足元に放ったところで、店の奥から先程の女性が戻ってくる。


「ごめんなさい、お待たせしてしまって。赤い薔薇にも色々と種類があるのだけれどね。お嬢さんのイメージに近いものだと――」

「いや、悪ィ。やっぱ赤いのはいいわ。コッチの趣味の悪いケーキみたいなヤツを1本くれ」

「あら、ありがとうございます」


 唐突なジョナサンの発言に、女性の方はパッと表情を明るくし、私はぎょっとして彼を見た。趣味の悪いケーキみたいなヤツ、というのは他でもない、今私の手の中にあるレインボーローズだ。

 私がそれとジョナサンとを見比べている間に、彼はポケットから無造作に取り出した札束を数えもせず女性に渡した。それから「釣りはいらねえ」なんてカッコつけて――いや、違う。たぶん彼は計算がめんどくさかっただけだ――手を振ると、あとは踵を返して歩き出す。


「あ……ちょ、ちょっと、ジョナサン!」

「どうもありがとうございました」


 呼び止めたところで聞きもしないジョナサンの背中と、嬉しそうに笑った女性の見送り。その双方に急かされて、私は仕方なく駆け出した。

 そうしてまたさっさと歩いていってしまうジョナサンに何とか追いつき、隣に並ぶ。わずかに息を切らせて見上げれば、彼の口にはいつの間にか新しい煙草があって私は呆れた。


「ちょっとジョナサン、これどうするつもり?」

「やるよ。なんかソレ、お前に似てるしな」

「はあ? 似てるって?」

「笑ったり怒ったり、ころころ態度イロが変わるあたりが似てる」

「……それ、褒めてる?」

「4ドル40セントから14ドルに格上げだ。悪かねえだろ」


 言いながらこちらを見下ろして、ジョナサンはまた嫌味っぽく笑った。私はそれに腹を立てたフリをして、ぶつくさと文句を並べ立てる。

 けれどそのときにはもう気がついていた。いつの間にかジョナサンが私の歩調に合わせてくれていること。

 いいえ、あるいは私が追いついた?

 肩から提げた鞄の中で、虹色の薔薇がご機嫌に揺れている。




 2時間ほどの散策を終えて駅に戻った私たちは、帰路へ就くべく車へと乗り込んだ。

 ジョナサンは口や態度には出さないけれど、少し疲れているように見える。当たり前だ、彼はつい昨日までベッドの上から動けない怪我人だったのだから。

 私はそんな彼を早く休ませたい一心で車のエンジンをかける。車内は禁煙、絶対禁煙と事前に騒いだせいだろう、ジョナサンは愛国心たっぷりの助手席で憮然と外を眺めていた。


「お望みどおり帰ったら食事を作るけど、何かリクエストは?」

「あー、肉」

「あのね、あなた、原始人じゃないんだから……」

「アレだよ、アレ。前にお前が作ってた、肉とケチャップのヤツ」

「ポークチャップ?」

「たぶんソレ」


 火のついていない煙草を未練がましく咥えながら、窓枠に肘をついてジョナサンは言う。彼は食事というものはとりあえず〝食えればいい〟と思っているようで、料理や食材の名前をまったく覚えようとしない。


「分かったわ。でもそれなら豚肉を買ってこなきゃ。帰る前にちょっとだけスーパーに寄るけど、いい?」

「おー」

「他に何か食べたいものは?」

「……」

「……何?」


 と、そのときジョナサンが助手席からまじまじとこちらを見ているのを感じて、私は彼を振り向いた。

 ジョナサンは少しばかり気怠そうに頬杖をつきながら、ぼんやりとこちらを眺めている。私はそんな彼の不躾な視線に戸惑った。……顔に何かついてるのかしら?


「――お前さ」

「え?」

「お前、いつまであの倉庫にいるワケ?」

「え……だ、だからそれは、仕事が決まるまで……」

「その仕事っていつ決まんの?」

「そ、そんなの私にだって分からないわよ。今は求人を出してる企業も少なくて……」


 ――嘘だ。良心がすかさずそう咎めるのを、私は耳を塞いで黙殺した。

 本当はもう1週間以上まともに仕事を探してない。貯金はどんどん磨り減っているし、このままではいけないと分かっているのに、どうしても気持ちがそちらへ向かないのだ。


 ――だって。


 私は自分にそう言い訳する。


 だって仕事が決まってしまったら、私はあのボロボロの倉庫を去らねばならない……。


「あ、あの、でも、もうすぐ決まると思うから……だからもう少しだけあそこに置いてくれない? それとも私がいると邪魔?」

「そうじゃねえよ。別にいたきゃいていい」

「え?」

「つーか、お前がいいなら――」


 そのときだった。

 ドクン、と一際大きく脈打った私の心臓から何か受信したみたいに、突然電話が鳴り出した。

 あの着信音は私の携帯だ。後部座席に置いた鞄の中から聞こえてくる。

 私がそれを一瞥すると、ジョナサンは目だけで「出れば?」と促してきた。


「――は、はい、もしもし……」


 そんな彼の気遣いを無下にするわけにもいかず、私はひとまず電話に出る。

 すると受話器の向こうから聞き慣れない女性の声が聞こえてきた。


『もしもし。ローズ・ククリンスキーさんのお電話ですか?』

「……? はい、私がククリンスキーですが……」

『失礼しました。わたくし、先日求人の件でご連絡いただきました株式会社センチュリーのマディソンと申します。今、お電話大丈夫ですか?』


 いかにもキャリアウーマンといった感じの、凛と張りのある声。その声によって紡がれた企業名を聞き、私は驚きに目を見張った。

 センチュリーと言えば、確か2週間くらい前に求人に応募してすぐに不採用の連絡があった企業だ。それも単に突っ撥ねられたわけではなく、ネットに掲載されていた求人情報は担当者が消し忘れていたもので、私が応募した職種は既に採用が決まってしまったのだと鄭重に謝罪の連絡をくれた感触のいい企業だった。


 恐らくそのときのお詫びという意味もあったのだろう。マディソンと名乗った女性からの電話は、私が希望したのとは別の部署から求人が出たため、もし良ければそちらの面接を受けてみないかというお誘いだった。

 まさかこんな形で企業から連絡が来るとは思ってもみなかった私は、とっさに「受けます」と返答する。答えてからすぐにジョナサンのことが頭をよぎったけれど、こうなったらもう遅い。


『――では、7月1日の午後2時から面接ということでお待ちしておりますので』

「は、はい……その時間に伺います。お電話ありがとうございました」


 一抹の緊張と共に通話を切り、私はふーっとため息をついた。

 想定外の事態に何だか脱力してしまい、背中からゆっくりシートへ沈み込む。もう少しモラトリアムを満喫したいと思った矢先にこの電話とあっては、さすがの私も苦笑するしかない。


「びっくりした。この間不採用の連絡があった会社からだったわ。何でも別の部署の面接を受けさせてくれるみたいで――」


 と、一方的に言いかけたところで、私は気づいた。

 助手席に座ったジョナサンが、いつになく険しい顔で窓の外を睨んでいる。

 その刃物めいた横顔にドキリとして、私はとっさに彼の視線の先を追った。

 けれどそこには無人のワゴン車があるばかりで、特に誰かいるわけでも、何か不審なものがあるわけでもない。


「ジョナサン?」

「……。お前、名前はローズ・ポートマンだって言わなかったか?」

「え?」

「今、電話で〝ククリンスキー〟って名乗ったろ。ありゃ何だ?」

「あ……」


 それまで窓の外を向いていた鋭い視線が、斬りつけるように私を見た。その眼差しに思わず竦み上がった私はわずかにたじろぎながら言う。


「あ、あれは父方の姓で……役所にはそっちの名前で登録されてるから、経歴書はそれに合わせてるの。ポートマンは母方の姓よ。普段はこっちを名乗ってる。だから別に偽名を使ったわけじゃないわ、本当よ」

「じゃあなんでわざわざ母親の姓を名乗ってる?」

「それは……父との関係が、あまり上手くいっていないの。だからあの人の名前を名乗るのは嫌で……」

「なら、母親との関係は上手くいってんのか?」

「……いいえ。母は4年前に失踪したわ。行方は今も分からない」


 ついでにいなくなった理由もね、と肩を竦めれば、ジョナサンはそれきり何も言わなくなった。

 ただ私へ向けていた視線を再び外へ戻すと、手にしていた煙草を咥える。そうして彼がおもむろにライターを取り出したのを見て、私は思わずそれを咎めた。


「あ、ちょっと! だから車内は禁煙だって――」

「うるせえ、吸わせろ。ちょっとくらい窓開けりゃ済むだろ」


 その突き放したような言い方に、私は小さく肩を竦めた。理由は分からないけれど、何故だかジョナサンは苛立っている。

 それが先程までの彼とは別人のようで、私はそれ以上声をかけることができなかった。


 ――何がいけなかったのだろう。


 今のジョナサンは研ぎ澄まされたナイフのようで、触れられない。




 その晩。


 私はあの不衛生なベッドの上で、ジョナサンにめちゃくちゃに抱かれた。


 理由は分からない。帰宅してからというもの、どこかずっとピリピリしていたジョナサンに呼ばれたと思ったら、次の瞬間にはベッドに押し倒されていた。


 傷に障るわ、と言っても聞かない。やめて、と騒いでも届かない。


 まるで嵐に巻き込まれたみたいだった。


 切れ切れになる意識の狭間で見た、迷子の子供のような目が頭から離れない。



              ×   ×   ×



 気絶するように眠ったローズをベッドに置いて、ジョナサン・リヴィングストンは部屋を出た。

 彼女が先日ランドリーで洗ってきた、気に入りの赤いシャツに黒のジャケット。それらが纏う知らない洗剤の匂いを嗅ぎながら、ジョナサンは倉庫の1階へ向かう。


 動きすぎたせいだろうか。脇腹の傷が疼いた。

 すっかり体力の衰えた体には重い疲労がのしかかっていて、自分も倒れてしまいたいほどにだるい。

 けれども今はそのときではなかった。ローズが車外で眠っているこのときしかチャンスはない。


 ジョナサンは彼女の上着からくすねてきたキーで車のドアを開けた。がらんとした倉庫の中に、ロックを外す音がやけに響く。

 小型のハンディライトで後部座席を照らし、そこにローズの鞄があることを確認した。ジョナサンはそれをひったくるように掴み出すと、乱暴に中身をあさる。

 そして見つけた。彼の目当てはローズの携帯電話だった。

 ジャケットのポケットに突っ込んでいたくしゃくしゃのソフトケースを取り出し、軽く振って煙草を取り出す。そうしてそれを咥えながら、ジョナサンは背中をプリウスに預けてスマホの画面をタップする。


 倉庫が溜め込んだ闇の中で、スマホの画面と煙草の火だけが異様なほど明るかった。ジョナサンは手早くアドレスブックを開き、目当ての名前を探してすいすいと画面をスクロールする。


 ――あった。


「……やっぱりな」


 誰にともなくそう呟き、ジョナサンはニヒルに笑った。それが自嘲めいた笑みになっていることを、彼は知らない。

 画面の右上に表示されたデジタル時計は、既に日付が変わって久しいことを示していた。が、ジョナサンは構わずその人物の電話番号をタップする。

 そうして受話器を耳に当て、無機質なコール音を聞いた。

 待つこと十数秒。

 相手が出た。


『ローズか?』


 低く酒焼けした声。

 ジョナサンは今度こそ口角を吊り上げた。


「ハロー、ダディ。ご機嫌いかが?」



              ×   ×   ×



Jun.27 Mon

貯金残高$503.26


 目が覚めると、ジョナサンは既にいなかった。

 薄汚れたベッドの上でうつぶせになりながら、ぼんやりと部屋の静寂を聞く。まるで背中に誰か乗っているかのような倦怠感。昨夜の嵐に打ちのめされた体はくたびれきっていて、寝返りを打つのさえ億劫だった。

 それでもどうにか腕を動かし、手首に嵌めたままだった華奢な腕時計へ目を向ける。午前6時53分。まごうことなき朝だ。こんな早朝からジョナサンはどこへ行ってしまったのだろう? そんな疑問に押し上げられるように、私はゆっくりと体をもたげた。


 文字どおりベッドから這い出すと、体中にジョナサンの痕跡が残っている。嬉しいのか悲しいのか、まだ半分眠ったままの頭は考えたくないようだ。

 とりあえず裸のままでは肌寒かったので、その辺に投げ出されていたシャツとクラッシュデニムをのろのろと身につけた。それからおぼつかない足取りで冷蔵庫の前まで行き、扉を開ける。水が飲みたい。その欲求に従いミネラルウォーターのボトルへ手をかけた、そのとき、


「――バンッ!」


 と背後から大きな音がして、私はその場に飛び上がった。しゃがんでいたせいで腰を抜かしそうになり、とっさに冷蔵庫の扉を掴んで体を支える。

 私の心臓を思いきり蹴り上げたそれは、入り口の扉が乱暴に開け放たれる音だった。

 何事? と思いながら振り向けば、そこには予想もしていなかった人物が立っている。


「――……お父さん?」


 私は、目を疑った。夢か幻覚でも見ているのだろうかと思った。

 けれどどこからどう見てもそれは父だ。生やしたい放題の口髭も、後ろへ撫でつけられた髪も、暗い沼の底を思わせる色の瞳も。


「お、お父さん、なんでここに……」

「ローズ。無事か?」

「は?」


 寝起き直後の頭はまったく事態についていけず、私はよろよろとその場に立ち上がった。そこへ父が大股に歩み寄ってくるので、私は思わずあとずさる。

 一体何がどうなっているのか。私はもう一度そう問い質したかったけれど、あまりにも険しい父の剣幕に臆して言葉が出なかった。

 しかも――体の前に添えられた父の手には、拳銃。


「ちょ、ちょっとお父さん、それ――」

「あの男はどこだ?」

「あ、あの男?」

「この前俺を殺しに来た小僧だ」


 怒りを込めて吐き捨てられたその言葉が、私の思考を白く染めた。


 ――殺しに来た? お父さんを?


 いつ? 誰が?


「まあいい。とにかく来い。ここは危険だ」

「ま、待って……待って、お父さん! どうしてここが分かったの? 殺しに来たってどういうこと?」

「お前が家を出ていく前の晩のことだ。どこぞの殺し屋ヒットマンがうちに乗り込んできて俺に銃を突きつけた。そのときは返り討ちにしてやったが、そいつが昨晩俺に連絡してきたんだ。娘を誘拐した、無事に返してほしければ1人でこの倉庫まで来いとな」

「は……!?」


 ますますわけが分からなかった。たぶん父の話から察するに〝殺し屋〟というのはジョナサンのことで間違いない。

 だけどジョナサンが私を〝誘拐した〟? そんな事実は微塵もない。

 ここへ来たのは私の意思だ。それはジョナサンだって知っている。

 そもそも、彼はどうしてお父さんを――


「――伏せろ!」


 そのときだった。突然父の怒号が響き、私はその場に押し倒された。

 瞬間、ドンッと体の芯を震わすような音がする。銃声。次いで鋭い跳弾の音。

 私は押し込められたベッドの陰で完全にフリーズした。思考も体も何もかもだ。


「よォ、リチャード・ククリンスキーさんよ。娘と感動のご対面は済んだかぁ?」


 もうすっかり聞き慣れた、中途半端に低くザラついた声。

 途端に私の動悸は早鐘になり、どんどん呼吸が浅くなる。


 だって――嘘よ。嘘よ、こんなの。


 一体何がどうなってるの?


 ジョナサン――!


「これでようやく借りを返せるぜ。こないだはよくも人の話を無視して撃ちやがったな、ククリンスキー」

「……俺はお喋りな男は嫌いでな。お前も殺し屋なら、殺しの前の挨拶くらい手短に済ませろ。それが相手への礼儀ってもんだ」

「ハッ、殺し屋に礼儀もクソもあるかよ。で? 結局オレのツラは思い出せたか?」

「ああ、思い出したさ――死に損ないのクソガキめ!」


 再び銃声がした。1発、2発、3発。

 撃ったのは父の方だった。物陰から顔を出した瞬間に発砲。直後、ガラクタの山が崩れるような音がして、私は予期せぬ騒音ラッシュに耳を塞ぐ。

 崩れたのはたぶん入り口の傍に積まれていたデスクの山だ。ジョナサン。まさか撃たれたのだろうか?

 そんな不安が衝動へと変わり、私は飛び起きようとする。けれどそれを父がまた押さえつけた。銃声。父がすんでのところで身を屈める。撃ち返してきた。彼は無事だ!


「お父さん、待って、撃たないで! 彼と話を――」

「駄目だ、お前はここで大人しくしていろ!」


 父は聞く耳を持たなかった。なるほど、これはいつもどおりだ。

 だけどジョナサンと激しい銃の撃ち合いをする父の横顔は、私の知るそれではなかった。いつもみたいにアルコール臭くないし、人を小馬鹿にして笑うこともない。それどころか獲物ジョナサンを狙って引き金を引くその目つきは――まるで殺し屋。


 その瞬間、私は我を忘れた。すべてのピースが一斉に嵌まっていくような、そんな感覚が五感と思考を遮った。


 幼い頃からほとんど家にいなかった父。

 母が消え、突然ロスを出ることになった日のこと。

 急増したアルコール。

 呪いのように私を遠ざけた罵詈雑言。

 そしてジョナサンとの因縁。



 それならあの日、父が私を家から追い出したのは――



「嘘よ」



 私の呟きは、轟然と上がった銃声に掻き消された。

 再び父が放った1発。その直後、ベッドの向こうで足音がした。父の銃口がそれを追う。ジョナサンが部屋の外へ飛び出したのだ。

 それを見た父は迷わず、通路とこの部屋とを隔てる仕切りを撃った。嵌め殺しの窓が砕ける。すさまじい音の雨。窓越しに撃たれたジョナサンは、果たして逃げ延びたのだろうか? 突然父が立ち上がり、同じく部屋から走り出ていく――。


 銃声。


 父が破壊した窓から、1挺の拳銃が宙を舞うのが見えた。

 飛んでいったのは、父の銃。

 次の瞬間、こちらに背を向けた父の肩から血が噴き上がって、彼は背中から倒れ込んだ。


 すべてがスローモーション。


 私は思わず立ち上がり、叫ぶ。


「お父さん!!」


 父は被弾した肩を押さえ、部屋と通路の仕切りを背にして座り込んでいた。

 そこへ足音が近づいてくる。カン、カン、カン、と、スチール製の階段を1歩ずつ踏み締める音。

 現れたのは〝マッド・ジョン〟。

 彼は一度階下へ飛び下りたのだろう、再び階段を上ってくると、倒れ込んだ父を見て残酷な笑みを刻む。


「腕が鈍ったんじゃねえの、オッサン」


 やがて父へと歩み寄ったジョナサンは、その額にピタリと銃口を突きつけた。

 父はそんなジョナサンを睨み上げている。同じように酷薄な笑みを湛えながら。


「その〝腕が鈍った元殺し屋〟に殺されかかったのはどこのどいつだ?」

「アレはてめえが卑怯なマネしやがるからだろぉ? コッチは正々堂々正面から乗り込んでいってやったってのによ」


 言いながら、ジョナサンが黒い銃の撃鉄を起こす。引き金にしっかりと指をかけたまま。

 けれども父は動じない。額に浮かんでいる汗は恐怖や緊張からというより、肩を撃たれたことによる生理反応だ。その横顔には明確な殺意を向けられてなお、微かな余裕が浮かんでいる。


「だいたいてめえの腕がイマイチなのは昔からだ。10年前だってオレを殺し損ねた。あのときしっかり殺しときゃ、こんな目に遭わなくて済んだかもしれねえのによ」

「ああ、あのときのことは後悔してるよ。お前の母親が蜂の巣になってもお前を守ろうとする姿を見て、手元が狂った。あの頃にはもう俺も所帯持ちだったからな」

「つまんねえ言い訳だ。お前、それでも〝アイスマン〟って呼ばれた殺し屋おとこかよ」

「昔の名前で呼ぶのはよせ。で、これは誰の復讐だ? お前か? それとも麻薬商人ベンジャミンか?」

「復讐? バカ言うな。確かに依頼人はベンジャミンだが、オレはそんなつもりでお前を撃ったワケじゃねえ。ただ、オレを一度殺したヤツと本気でり合ってみたかっただけだ。――ま、結果は拍子抜けだったけどな」


 つまらなそうにそう言って、ジョナサンは軽く銃を構え直した。

 発砲の合図。父もそれを察したのだろう、あとは眠るように目を閉じる。


「娘は殺すな」


 死の間際、父はそう告げた。

 それが聞こえなかったのだろうか。ジョナサンは顔色1つ変えず、引き金にかけた人差し指に力を込める。


「――待って!」


 その瞬間、私は叫んでいた。手にした銃をジョナサンへ向けながら。

 そんな私を横目に見て、ジョナサンは笑う。いつもみたいに口角を上げて、嫌味っぽく。


「おい、人のモンを勝手に盗むんじゃねえよ。父親に似て手クセの悪い女だな」

「その銃を下ろして、ジョナサン。……お願い」


 私の手の中にある銃は、給湯室の吊り棚に保管されていたものだった。父とジョナサンが話し込んでいる間にその存在を思い出し、急いで取ってきたものだ。

 それを見た父が、顔色を変えて口を開いたのが見えた。けれど彼が言葉を発するよりも早く、ジョナサンの方がちょっと首を傾げて言う。


「悪ィがその銃、弾は入ってねえぜ」

「嘘よ。ちゃんと確認したもの」

「あっそう。じゃあ安全装置は?」

「もう外した」

「おっかねえ女だな」

「銃の撃ち方は、昔父に習ったの」


 思えばあれも、父がこうなったときのことを考えて私に施したものだったのだろう。銃は嫌い、と嫌がる幼い私に、父は「いざというときのためだ」と言って基本的な扱い方を叩き込んだ。

 もちろん実際に引き金を引いたことはない。弾倉が空の銃を持たされて、引き金の重さを教えられたのがせいぜいだ。

 護身用に1挺くらい持って歩けと言われたこともある。けれど私はそれを拒んだ。だからこうして銃口を人へ向けるのも初めてだ。

 ジョナサンはそんな私の虚勢を見抜いたのだろう。

 彼の銃口は未だに父を向いたまま、動かない。


「撃ちたきゃ撃てよ。ま、そんなに震えてちゃ、狙いなんてつけられねえと思うけどな」

「……!」

「だいたいお前、父親とは上手くいってないって言ってなかったか?」

「ええ、そうよ。私が馬鹿だったの」


 言ってから、声まで震えているのを自覚して私は笑った。こんなんじゃバカにされて当然だわ。あなたは本当にダメね、ローズ。彼にだけは――ジョナサンにだけはガッカリされたくなかったのに。

 だけどここで銃を下ろすわけにはいかない。私には父と話さなければならないことがたくさんある。

 だって私、知らなかったの。自分を生んでくれた父親のことを、何1つ分かってなかったのよ。

 なのにこのまま父を見殺しにすることなんてできない。たとえ彼がたくさんの人の命を奪った殺人鬼だとしても。


「ねえジョナサン、お願い。お願いだから銃を下ろして。本当は私だってこんなことしたくないわ。あなたに銃を向けるなんて……」

「だったらお前が銃を下ろせ。それができねえなら撃て」

「ジョナサン」

「お前、オレを〝スーパーマン〟だとでも思ってたのか? 悪ィがオレは殺し屋だ。殺せと言われた相手は必ず殺す。でなきゃオレがオレじゃなくなるからだ」

「ジョナサン――」

「なあ、ローズ。お前は何になりたい?」


 私は、答えられなかった。

 ただ銃を構える手の震えが増し、視界がぐしゃぐしゃに歪んだだけだった。


 何になりたい?と尋ねるその口で、私のことをローズと呼ぶ。


 あなたはひどい人だわ、ジョナサン。


「よう、ククリンスキー。お前の娘は大した女だぜ」

「……娘は殺すな」

「それはさっき聞いた。他に遺言は?」

「ない。この世にはもう何も」


 低い声で、父はしっかりとそう答えた。ジョナサンはそんな元殺し屋をつまらなそうに見下ろしている。

 それ以上面白いものは望めないと思ったのだろう。ジョナサンは白髪混じりの父の髪に銃口を突っ込んだ。

 やめて、と再び私は叫ぶ。けれどジョナサンは聞く耳を持たない。

 それどころか私の存在などもう忘れたかのように一瞥もくれず、口の端を持ち上げる。


「なあ、ククリンスキー。最後に1ついいことを教えてやるよ」

「……何だ?」

「お前、ずっと知りたがってたろ。だから特別に教えてやる。4年前、お前の女房を殺したのは――このオレだ」


 燃え上がった父の目が、ジョナサンを見上げた。対するジョナサンは満足そうに目を細めて、引き金を引いた――引こうとした。

 もう何度目か分からない銃声がこだまする。

 その瞬間、私の人差し指は引き金の重さを思い出した。いや、思い知った。

 ジョナサンの右胸に穴が開き、血が飛沫く。

 彼の手から落ちた銃が床を滑った。そしてあまりにも呆気なく、階下の倉庫へと落ちていく。


「あ――」


 束の間、世界の時間ときはゆっくり流れた。

 吹き飛ばされたジョナサンが冷たい床へ倒れ込むのを見て、私は銃を取り落とす。

 ガツン、と鉄と鉄のぶつかり合う音が、私の鼓膜を突き刺した。

 一瞬竦んだ両足が、すぐさま彼のもとへと駆け出していく。


「ジョナサン!」


 そのときになって、私はようやく自分が何をしたのか理解した。

 それ以上のことは何も考えられない。ただただ頭の中が真っ白になり、倒れたジョナサンを抱き起こす。

 ジョナサンはまだ息があった。私に撃たれた胸を押さえて、口から血を吐きながら――それでも彼は、笑っている。


「ジョナサン……ジョナサン! ああ、うそ、嘘よこんなの、私は……!」

「お前……ほんと、大した女だな……普通当てるか? あの状態で……」

「違う、違うのよ、私は……!」

「違わねえよ」


 パニックを起こし、泣きじゃくる私を見上げてジョナサンは言った。その頬にボタボタと私の涙が零れ落ちる。

 ジョナサンはそんな私を見つめて、蒼い目を少し細めた。何故だろう。

 まるで眩しいものでも眺めるみたいに。


「――10000ドル」

「え……?」

「これでお前も10000ドルだ。だから、喜べよ」


 私は、何も言葉を返すことができなかった。

 喉の奥が引き攣って、ただただ声を放って泣いた。


 自分であなたを撃ち殺しておいて、おかしいでしょ?



 だから笑って、ジョナサン。






Jul.1 Fri

貯金残高$10517.26


 約束の14時に、私はイーストベイエリアにある商社ビルを訪れた。

 そのビルの7階にセンチュリーの事務所がある。迎えてくれたのは、あの日電話で連絡をくれたマディソンさんだった。

 声の印象どおり、すらりと背が高くて〝デキる女〟を絵に描いたような人。まるでスポーツ選手みたいに短い髪と少しカジュアルめのスーツが、フォーマルでいながら親しみやすい印象を与えてくる。

 1ヶ月前に私を地獄へ送った東の魔女とは大違い。私にレズビアンの気はないけれど、「ようこそ」と零れた白い歯を見たとき、笑顔が素敵な人だなと思った。


「――なるほど。では一応、過去に販売員の経験はあるんですね?」

「ええ。就職後、家庭の事情でこちらへ越してくることになって、すぐに辞めてしまいましたけど……だけど機会があればまたこの職種に挑戦してみたいと思っていたんです」

「ですが経歴書を拝見する限り、当時働いておられたのはアパレル系の会社ですよね? 弊社のフラワーマーケティング事業とはまったく勝手が違いますし、普通の販売業より覚えていただかないといけないことも多いと思います。そのあたりは大丈夫ですか?」

「もちろんです。仕事上必要なことは何でも学ばせていただきたいと思ってますし、過去に服飾関係の仕事に就いていた経験を新しい形で活かせる可能性もあると考えています。たとえばお客様のその日のコーディネートに合わせて花を選んだりとか、アクセサリーのような感覚で生花の購入を提案するとか」

「なるほど。それは面白そうなアイディアですね」

「前の職場では企画立案のアシスタントもしてましたから」


 私がちょっとてらうようにそう言えば、マディソンさんは笑ってそれに応えてくれた。センチュリーは様々な業種の小売店をチェーン展開している企業で、現在は去年始まったばかりのフラワーマーケティング事業に力を入れている。

 今回私が誘われたのも、その事業に関係する部署だった。どうやらここで採用された場合、私はセンチュリーが展開しているフラワーショップのチェーン店に販売員として派遣されるらしい。ゆくゆくは店舗を預かる店長に選ばれるかもしれない仕事。出世のチャンスもある、かなりおいしい求人だ。


 それからも一通りの質問や確認が続き、私は比較的リラックスしてそれに答えることができた。面接担当のマディソンさんが気さくで話しやすいからというのはもちろんだけど、そもそも今の私はもう、1ヶ月前までの私とは違う。


「では、最後に何か自己PRを」


 やがて面接がそろそろ終わりそうな気配を見せた頃、マディソンさんは私の経歴書から顔を上げて、笑顔と共にそう言った。


「ここまでのお話で、ククリンスキーさんがお持ちの能力や適性についてはおおよそ分かりました。ですので他に何かアピールしておきたいことがあれば、ぜひここでお話を」

「分かりました」


 私はマディソンさんの目を見て頷き、一度深く息を吸った。

 そうしてゆっくりとそれを吐き出す。ある人の姿を脳裏に思い描きながら。


「その前に1つお訊きしたいのですが――マディソンさんは、人間の値段をご存知ですか?」

「人間の値段?」

「はい。一生を終えた人間が、最後に行き着く値段です」

「ええと……ごめんなさい、考えたこともありませんわ。だけど人間の一生や命に値段をつけることなんて、誰にもできないんじゃないかしら」

「そうですね。ですが敢えて科学的な言い方をすると、4ドル40セントなんです」

「4ドル40セント?」

「はい。たったの4ドル40セント」


 私がはっきりそう答えると、マディソンさんはさすがに眉をひそめた。私たちが必死に悩んで、苦しんで生き抜いて、最後に辿り着く値段がたったの4ドル40セント。

 そんな話を聞けば、誰だって彼女みたいな反応をしたくなるだろう。事実、初めてその話を知ったときの私もそうだった。


「だけど、たった今マディソンさんがおっしゃったとおりです。人間の命に値段をつけることなんてできない。誰もがみんなそう言います。それは人が生きながら、自分や他者に4ドル40セントという値段以上の付加価値を見出していくからです。たとえば人より顔がいいとか、料理が上手いとか、家族をとても大切にするとか……そんな付加価値を」

「ええ。確かにそうね」

「ですが私はついこの間まで、自分には4ドル40セントの価値もないと思ってました。自信がなかったんです。自分の嫌なところや醜いところばかりが目について、正直疑問でした。こんな人間に生きている意味はあるのかって」


 マディソンさんは何も言わず、ただ何度か小さく頷いた。その眼差しが話の続きを静かに促しているのを感じて、私は言葉をつなぐ。


「だけどある人が私に教えてくれました。私自身の価値を。その人は私にこう言ったんです。〝お前には10000ドルの価値がある〟って」

「素敵な人ね」

「ええ、本当に。彼は……彼は私の〝スーパーマン〟でした」


 私がそう答えると、マディソンさんが少し驚いたような顔をした。私の瞳から思わず涙が零れたせいだ。

 けれど私はそれを拭って、もう一度前を向いた。

 そして言う。


「彼のおかげで、私は学びました。自分自身の価値の見つけ方や、どうすれば自分の値打ちを高めていけるのかを……ちなみにマディソンさんは我が国の面積をご存知で?」

「え? ええと……確か10000km2くらいだったかしら?」

「そうです。9857km2」


 さすがに彼女は私みたいなバカとは違う。そう思うとつい吹き出しそうになりながら、私は続けた。


「つまり、このアメリカという国はそれだけ広大だということです。国が広いということは、その広さの分だけ多くの企業があるということ。私はその気になれば、自分の素質や才能に見合った企業をいくらでも選ぶことができる。だけどマディソンさんからお電話をいただいたとき、私はこう思いました。同じように、私はこの会社で、この会社にしかない価値を見出したい――そして、あなた方と一緒にその価値を高めていきたいと」


 マディソンさんはデスクの向こうから、じっと私を見つめていた。

 私もその目をまっすぐに見返して、笑う。


「私からの自己PRは、以上です」


 その日の面接はそれで終わりだった。最後に立ち上がったマディソンさんと握手を交わして、私はセンチュリーのオフィスをあとにする。

 帰りはまた車だった。私は愛車のプリウスを走らせて、オークランド・ハイスクール方面にある病院へ向かう。現在入院して怪我の治療を受けている父を見舞うためだ。


「お父さん」


 病室を訪ねると、そこにはベッドに横になった父と刑事らしい2人組の男性がいた。2人は私の姿を見るや父に会釈し、「また来ます」と告げてそそくさと立ち去っていく。


「具合はどう?」

「悪くない。ただ、酒が飲めなくて死にそうだ」

「殺し屋ってそんなのばっかりね」


 そう言って私が肩を竦めると、父は少しだけ困ったような顔をした。病院に担ぎ込まれた際に髭を剃られた父は、少しばかり若返ったように見える。

 けれども私を見つめるテールグリーンの瞳には、年季の入った深い愁いと後悔があった。あの日以来、父は私を前にするといつもこうだ。まるで生まれたての赤ちゃんを抱けない新米の父親みたいに、娘に触れることを恐れている。


「……今日は会社の面接だったんだろう?」

「ええ。それが終わって帰ってきたところ」

「成果はどうだった?」

「まだ分からないわ。合否の連絡は電話でくれるって。でも、最近受けた会社の中では一番手応えがあったかも。面接官もすごくいい人だったし」

「そうか」

「ええ。だからもう心配しないで、お父さん。私は大丈夫」


 父は何も答えなかった。ただその代わりとでも言うように、じっと私を映した瞳から涙が1つ、静かに零れ落ちていく。

 私はそんな父の傍に屈み込んで、彼の額にキスをした。

 子供の頃以来だろうか。だけど不思議と気恥ずかしさはない。


「どこの刑務所に入ることになっても、必ず毎月会いに行くから」

「ローズ。すまなかった」

「今更謝らないで」

「だが俺は、お前まで人殺しにしてしまった」

「ええ、そうね。だけどお父さんがいなければ、私は彼と出会えなかった」


 だから、謝らないで。


 私が笑いながらそう言うと、父はますます泣いた。彼がこんなに涙もろい人だったなんて、私は知らなかった。

 父は左肩の怪我が治ったら刑務所へ行く。あの一件のあと、駆けつけた警察に自分の過去を洗いざらい打ち明けたからだ。

 私は正当防衛と見なされ罪を許されたけど、父は同じようにはいかない。たぶん一度刑務所へ入ったら、二度と戻ってはこられないだろう。


 それでも罪を償いたいと父は言った。

 私は娘としてそれを認め、支えようと思う。

 たとえ世間からどんな非難を受けようとも。


「手紙も書くわ。だからお父さんも返事をちょうだい」

「ああ。約束する」

「きっとよ。お父さん、昔から約束破ってばかりだから」

「そうだな。だからこそ、今度は守る」


 そう言って、父はようやく笑った。苦笑のような弱々しい笑みだったけれど、私はもう一度父の頬にキスをした。


 病院を出て、再び車に乗り込む。『HANG OVER』の開店まではまだ時間があった。

 そこで私は元来た道を引き返し、ウエストオークランドを目指す。古く寂れた波止場の倉庫街。そこにはもう誰もいない。


 けれども私は車を降り、そうして海と向き合った。

 遠くに見えるベイブリッジと摩天楼。この湾を挟んであちら側は楽園、こちら側は地獄。

 だけど地獄暮らしも悪くないわ。そんなことを思って微笑むと、不意に電話のベルが鳴り響く。肩に提げた鞄の中からだ。


「はい、もしもし……ああ、マディソンさん? いえ、こちらこそ。先程はありがとうございました――」


 波止場に佇み、そんな会話を始めた私の頭上うえを1羽のカモメが飛んで行く。眼下の私になど目もくれず、風に乗って自由気ままに。

 そのカモメが私の車に降り立って、「クアッ」と鋭く一声鳴いた。私は電話しながらそれを振り向き、小さく笑う。


 フロントガラスの向こうには、ドリンクホルダーに立てられたシンプルな花瓶があった。


 その花瓶の中で誇らしげに、虹色の薔薇が咲いている。











END.


BGM:『Jonathan Jet-Coaster』(BUCK-TICK)


I'm grateful to "Jonathan Livingston Seagull" by Richard Bach.

With great respect.

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[良い点] ローズの人生の一部が鮮明に切り取られた切ないけれど前向きな気持ちにもなれるような、非常に素敵な作品でした。 ローズ同様にクズな父親だと思っていたところからの、職業についての展開には衝撃を受…
[良い点] 読み終わった後に清々しい気持ちになれる話でした。 最初は自分に自身がなかったローズ。そんな彼女が最後にはしっかりと前を向いて歩いていける様が、読んでいるこちらにも勇気をくれるなと感じます。…
[良い点] 最後までわくわくを感じさせてくれて、すっきりしたアクション映画を見た気持ちです! 皮肉いっぱいの会話、素敵でした。 最後にジョナサンを撃った主人公、誰でもない主人公が撃った、主人公が決め…
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