依頼
「事務所」は、フォード達がよく使う拠点の一つだ。あくまで一つであり、それ以上ではない。
黒興の中でもとびきり治安の悪い地区のぐねぐね曲がる薄暗い路地を抜けた突き当たりの三階建て。コンクリの腐食した外壁とは裏腹に、内装を床に寝そべることができるくらいには掃除してある。中は涼しい。客を迎える時には一階を使う。防音はしっかりとしている。銃声くらいはかき消せる。椅子は二つで机は一つ。そして、壁側の椅子に座ったフォードは、客にも座るように丁重な手つきでテーブルを挟んだ向かいの椅子を指し示した。エヴァは、フォードの後ろに立っている。椅子は本人の希望で用意していない。動きやすいからだ、と言っていた。
フォードは客を観察した。客は落ち着いて深く椅子に腰掛けた。
ここは客を招くことが多い。暗く、狭く奥まっていて人通りが少ないからだ。
人殺しを生活の糧にして稼いでいるのだから、少しくらいのトラブルなら始末できるようにしている。金と仕事が見合うものであることがわかるまでは、どいつも嘘つき野郎と似たものくらいに思わなくてはならない。信用できるものは自分達以外になし。仕事以外の用事で来やがったり、ゴネるお客様は丁重に説得する。それでも帰らないのなら、それまでだ。バカにかける義理もない。
フォードは、男のポケットの少しの硬い輪郭の膨らみを認めていた。きっちり仕事をこなす銃だ。もっとも今回の客は「持ち合わせ」はあっても少なくともそれを抜く気はさらさら無いらしい。エヴァも腕を組んでいる。
まともな客だ。
机が汚れることもなさそうだ。
男は、身長はエヴァよりもひと回り高く、締まって均整のとれた体に清潔な服装。髭を剃り、髪の毛筋は整然としていた。表情の乏しい顔からは年齢が掴みにくい。老けても見えるし、餓鬼にも見える。身元がしっかりとしている客。ある意味では、とても安全な客だ。
頼みがある。金は弾む。と、言った男の言を鵜呑みにする気は無いけれど、茹だった頭が冷めても期待は抑え切れはしない。静かな空気に染み入る男の息遣いは規則正しい。フォードは、タバコを差し出そうとしてまた右ポケットがからだった事を思い出した。上等のタバコはいいものだが、ついつい吸い過ぎてしまう。肺に煙を吸い込んだ時の感覚が蘇る。もう一ヶ月以上も吸っていない。品質の悪いのは吸えない。いろいろな不純物でカサ増ししてあるからだ。それでも需要はあって、道端にたむろした男たちが吸っているのはだいたいそれだ。
男の身体からも、少しタバコ臭い臭いが漂っていた。フォードが好んで吸っている銘柄のものを、この男も日常的に吸っている。服装も汚れは少なく、高級そうな腕時計をつけている。時計に詳しくはないフォードでもわかる。それなりの立場にいるのだろう。顎で使われるより、人を顎で使っている方がよく似合う。歓迎すべきだ。事実、フォード達は金に困っていたし大抵の依頼なら諸手を上げて歓迎だ。
男は相変わらず黙りこみ、口を開こうとしない。フォードが、口火を切って
「フォードだ」そして後ろを振り返り、「こっちはエヴァ、相棒だ」
エヴァは軽く会釈だけした。男は眉の一つも動かさない。
「ようこそ…それで、あんたは?」フォードは、微笑を浮かべて手を差し出した。愛想は努めて良くしておく。なにせ、久しぶりの金だ。男は、薄い唇を開き「楊だ」と単語の切れ端にしか聞こえない返事をし、しかし手は握り返す。それでも表情は動かさない。取り敢えず、今は何もわからなかった。転がり込んできた幸運に浮き足立っていたともいえ、切羽詰まっていたとかヤケになっていたとの言い方もできた。タバコが切れ、酒ビンも空。財布は羽のように軽いときている。何かきな臭いのはわかっていたけれど、どうにかなるなら、何かしなければという気持ちだったのだ。なので、気軽さを装い「楊...楊さんか。どこからの紹介だ」
「お前が前に依頼を受けたところから。そこから直接やってきた」
「ああ、テスラの件か」テスラ・フォウを殺し、その死骸を砂塵の奥に葬った本人であるところのフォードはもちろん覚えていた。撃った弾丸のかずから掛かった経費まで。エヴァの甲殻は大破した。追跡と戦闘を繰り返した手強い相手。タフで、ずる賢い。その名を聞くだけで、エヴァの瞳は眼球の奥まで真っ赤に染まる。
しかし、そのテスラが殺されるに至った経緯はさほど複雑なものではない。上等どころか、くだらないこと極まれりだ。8本のシャフトを占拠する資産家の、その子飼いのマフィアのプライドをしたたかに傷つけたのだ。その幹部の一人と口論になった末に、護衛の三人ごとまとめてバラした。それで詰みだ。横っ面を張り飛ばして無事で済むわけがない。首領は怒り狂い、腕利きのテスラを殺すために金を払ってフォード達を雇った。
金はきちんと札束一枚の狂いもなく受け渡された。こちらは懐が満たされ、あちらは心が満たされて、それで終わりのいい仕事だった。これからも、末長いお付き合いをお願いしたいと思った。金回りも気前もよい人間は、思い出すのも簡単だ。なんでも、事業が上手く回っているそうだった。だからだろう。
電気麻薬のパルスを垂れ流す機械を売り、銃を売り、人を売りそれで、ねえ、おもしれえぜ。とやっちまうひどい人たちの事だから、フォードにもだいたい何をやっているのか、つまりは何をやらかしているのかわかっている。そして、今回もそこからの依頼だ。プレゼントを待つ子供の気分にもなる。
そこは、表向きこそ貿易会社という体裁をとっていたが、正体は、この都市では二番目に大きい縄張りを持つ東部系のマフィア、「黄龍会」である事はだれもが知っている。公然の秘密、という奴だ。
特に、撃った撃たれたを専門にするフォード達甲殻乗りにとっては馴染みと言っていいほど、だれもが関わりを持っている。一度も関わった事のない者は珍しい。
だから、相手がわかると手慣れたものだ。これまで、口を開かなかったエヴァが、フォードの横にでて、微笑みながら「これは、どうも。ようこそいらっしゃい。それで要件は何でしょう」
「簡単な仕事だ」と楊は言う。実に事も無げだ。「金も用意してある」
「どんな仕事だ。それを聞いてからだ、全ては」と、これはフォード。
「ルール通りならなんでもいいですよ、金さえもらって、ドンパチやれるなら」と、エヴァがきやすい表情を見せる。フォードはエヴァが乗り気で大層嬉しい。この相棒は、意外にも気難しい。血まみれ、銃声まみれの仕事が本分と言ってはばからない。思い返すだけで、気に入らないからと言って追い返したのが5回。話を聞かなかったのが3回。こんかい仕事を持ちかけてきた黄龍会は血なまぐさが絶えないという点では実にお眼鏡にかなっている。ただ、フォードとしては消費される弾代と燃料で頭が痛くなる。呑気で陽気な顔の裏でエヴァはぞっとさせるものを持っている。死にたがりにつける薬はない。そして、今はフォードも依頼ならなんでも受けると決めていた。金の欠乏に勝る問題はないのだ。フォードは耳を澄ました。
楊はしばし考えをまとめるように黙っていたが、口を開ける。
「ああ、多分条件には叶うと思う。金もそちらが満足するだけ払う。弾代と燃料代諸々の必要経費もこちらが持つ」楊は、顔の表情は変えないままで、そういった。
「こいつは結構、で具体的には何をする」平静を装えているか自信がなくなった。とにかく表情筋の一つ一つがムズムズした。ゆっくりと脳に染み渡った声の内容は小躍りしたい気分にさせたが、ここでダンスとしゃれ込むわけにもいくまい。
「引き受けてくれるか」楊が聞く。どういうわけかその瞬間得体の知れない無表情が緩んだようだった。
「そりゃあ、もちろん」
つとめて落ち着いて、自分では落ち着いたつもりでフォードは頭の中で札束を降り注がせていた。フォードの目には、満足そうに目を細めた相方が見える。大金には面倒ごとがつきものだという事実に極めて近い教訓は、この瞬間あってなかった。急ぎすぎだった。それがフォード達を縛った。どこにも行けなくなってしまった。返事をした以上は、契約は成立していた。
しかし、その瞬間は少なくともフォードは幸せな気分に浸れていた。それこそ、楊が口をもう一度開くまでは。
相棒は、なおも満足したように笑っていたが。