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荒涼たる地①

久しぶりに美味いものを食えた。いい気分だ。

口元についた油は袖で拭い、勘定を机に放り投げた。

財布をしまい、席を立った。椅子を蹴る。壁紙に油染みの浮かぶ店内は煙草の煙と、その他よくわからない匂いで溢れていたがここは馴染みの店で、鼻をつまむ異臭は半分自身にも染み付いていた。

薄暗い中他の客を避けて店の外に出ると一転して眩しくなる。光を避けて軒先を歩く事になる。

ギイは、急ぎ足で歩く通行人を避けて通りを進んでいく。汚い乗客が詰め込まれた小型のバスが、そばをかすめると、砂煙りを吸い込まないように首をすくめた。

ギイは歩く。鼻歌を歌いながら。

これから行くのはギイの甲殻を預けてあるハンガーだ。

ギイの甲殻の調子がおかしくなったのは、あの件が終わってからだ。

帰ってくるとジョーは笑って約束の金額を差し出した。実際はそれよりも多いに違いなかった。口止め領も多分に含まれている事はわかった。ギイが黙って頷くと、ジョーもそれを当然だと思っていたようになにも言わずに立ち去った。黒いケースを持って。

それから、整備を頼み、食事をし、その後はシャワーを浴びて眠った。ギイのねぐらは、地下水道だ。水道といっても正確には、廃棄された区画の水の枯れた場所だから、濡れもしない。そしてギイのねぐらは、うねうねと捻れた通路の奥に隠し扉をつけて、さらにその奥の小さな部屋だ。誰にも見つけられていないはずだ。それでも不安は募るもので、2、3ヶ所他にも準備している。だが、ギイは結構な恨みをかっているので、必要以上に用心深くなっている。貸し部屋や、ホテルだと突き止められる危険があったが、さすがに廃棄区画の奥も奥だとその危険も少ない。今のところはうまくいっていた。

だけど、それもいつまでかわからない。偶然はいつでも敵だ。隠れに隠れてそれでダメなら逃げるしかない。きっと、金さえ渡せば裏切る奴などごまんといる。借金、ギャンブル、裏切る理由はそれで充分なのだ。しかし、そこまでギイが他人を恐れるのは、自分に原因があるのだと

そして、ギイは一人で遅い起床をして、昼飯だか朝飯だかわからなくなった食事を掻き込んだのが先ほどのことだ。日差しを浴びたり避けたりしながらハンガーに向かう。角を曲がる度に、人が多くなっているようだった。実際、今日は人出が多く、ひっきりなしにクラクションがなっていた。

肩をぶつけるなど珍しくもなかった。鬱陶しい喧騒が耳を塞いでいた。

靴が汚れたら嫌だな。むせかえる匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、ギイは考えた。

大通りを曲がった時などはバイクに乗った浅黒い顔の少年が、ギイにぶつかりかけた。ハンドルを急に切ったせいでそいつは転がったがギイは無事だった。人が集まってきたので、ギイは人並みに逆らうように囲みを抜け出して、早足でかけていると、肩を叩かれた。

反射的に手を叩き落としてから、ギイは肩を叩いた相手が誰であるかに気がついた。

「ああ。あんたか」ギイを振り向かせたのは、なじんだ声だった。顔がフードの陰になっている。ギイは半歩下がって向き直った。フードの中の男の顔を見た。長々と複数の傷が顔を横切っていて、特に唇にかかった傷跡なぞは、唇を釣り上げていて笑ったような印象を与えているのだ。昔の色男っぷりと比べれば見る陰もなくなった男が、ギイを見下ろしている。「あんたか、とはご挨拶。ギイさんよ」としわがれた声をして言った。有毒ガスで喉をやられたと聞いていた。

少し見ない間に酷い有様になっていた。

「クロッゾ、何か用」

「少し話したいんだけれども、時間あるか?」と、人混みの中にちらちらとクロッゾは、目を左右に走らせる。ギイは、瞬きした。「いいぜ。構わん」と、「いつもの場所でいいか」と顎をしゃくって歩き出した。

クロッゾは横に並んで付いてくる。「できれば静かなところがいいんだが」と囁く。

ギイは頷いた。久しぶりだった。「わかった」踵を返す。

日陰に入ると、少し涼しくなる。後ろから人々の立てる騒音が追いかけていたが、それも間も無く消えてしまうだろう。道を横切り、路肩を小走りで賑わいから逃げるように進んだ。ちょうど正午の鐘が鳴り、人が増えるところだった。路地へ入って、その先のゴミが積み重なっているような裏道に。

そこで足を止めた。それ以上先に行こうとしても行き止まりだった。誰が捨てたのか、道を塞ぐほど盛り上がっている。ネズミ一匹だってすり抜けられそうにない。日もほとんど届かないようなよくある路地裏だ。「ここでいいか」

「ダメだ」立ち止まろうとすると、クロッゾが険しい声音でギイの言葉を否定した。「不安だな」

「臆病だね」くすりと笑えた。同時に猛烈な不安が襲ってきた。甲殻に乗っていないときは裸にされたようだ。何かが起こっているということはこうまで、心をかき乱すものだ。縁のある懐かしい感覚が、背筋のあたりから入り込んでくる。知識と経験が囁く。悪寒がする。

それは、ともあれ、まずやることがあった。

「慎重といってくれ」苦笑いをするクロッゾを尻目に、ギイは、ゴミ山を崩し始めた。足でけり飛ばし、残骸の中に踏み込んでいくように。生ゴミはあまり含まれておらず、軽いものが大半だったから、すぐに、地面の表面が見え始めるだろう。クロッゾのあっけに取られた気配がする。間抜けもいいところだったが、ギイもここを始めて知ったときは似たようなものだった。「手伝ってくれ、一人じゃ手間がかかる」

「見張りじゃダメか?」

「誰かがくる方向は一つ」と、ギイは親指で後ろを指す。「声をあげても誰もくるようなところじゃないのに。話をもうここで済ましてもいいだろ」

「…了解。やるよ」クロッゾも、隣に来てゴミの山を掘り返し始めた。

「ちぇ」

ギイと二人で黙々と、ゴミをどかし続ける。大の大人が二人だったから、早いものだ。脇へと退けられたものの方が高くなり始める。汗を書くまでもなかった。予想通りに五分もたたないうちにもう、踝くらいの高さだ。匂いが酷いだけだ。油と、腐ったような甘酸っぱい匂いだ。クロッゾは、鼻をつまむことができないので、顔をしかめていた。

すごい形相だった。ギイは黙ることに神経を集中させて汚らしい何かの残骸を脇に放り投げた。そのとき、クロッゾがギイの肩を叩いた。口を開けると匂いが入ってくるというように身振りでさした。ギイはそちらの方に近づきながら、身をかがめた。クロッゾがギイを通すために脇を開けた。クロッゾはギイよりも早いペースで進めていたから地面がほとんど見えていた。コンクリの灰色。そしてその中に金属の輝きがあった。手を伸ばすと、指が表面に触れた。匂いが強くなっていた。そこから来ているのだ。

「まさか、下水道巡りをしようってか?俺はごめんだぜ」クロッゾは後ずさりしているようだった。ゴミが当たってその度に左右の壁に音が反響した。

「半分正解。似たようなもんだ」ギイは、マンホールの表面に顔を近づけた。今や、むせ返りそうだ。指の感覚に集中する。みつからない。

注意深く、もう一度表面をなぞる。あった。

かすかな、それと気付かなければ見過ごすようなとっかかりだ。それに爪をかけ、引き上げる。ぶしゅ、と息の漏れるような響きがして、マンホールの蓋が溜まったガスを吐き出す。ギイは、素早く離れた。マンホールの蓋が勢いよく開いた。「う、わ」とクロッゾが背後で驚く声が耳に触る。表面こそ標準的なそれだが人差し指の長さを上回るほど分厚く、それにぽっかりと開いた穴が吐き出す匂いは下水道や上水道の水臭さではない。何か、甘ったるい香りだ。

「いくぞ」ギイはほんの少し親切な気分になって、笑った。

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