第三話 花街の家族たち
娼館では身請け先が決まった者がいると、盛大に祝う風習がある。
一度は地に堕ち、籠女などと揶揄された身分から解き放たれるからだ。
花街出身である証の姓も変わり、まさに生まれ変わると表現すればいいだろうか。
ただアイギールの場合はかなり特殊な部類に入る。
身請けをするにはそれなりの金が必要となるのだが、問題はそこでは無い。
金はあるのに身請け人が存在しないのだ。
資金を用意したのは恐らく爺やなのだが、養子縁組は断られてしまったのである。
もう一つ考えられるのはあの変人のエルフなのだが、彼にしたってここ数ヶ月は姿を見せていない。
結局自分自身の持ちうる手段で、将来の道を決める事になってしまった。
何とも妙な話だと、そう思いながらアイギールは杯の酒を煽った。
見れば周囲は目を覆いたくなるような光景で、まさに死屍累々の様相である。
リタをはじめとする子らはとっくに眠りについたのだが、大人はタフなのだ。
一次会は常連や上客を交えてのどんちゃん騒ぎ。
その後はちゃっかり客を部屋へ上げて、二つの意味で搾り取っていたりする。
二次会に参加したのはアイギールと縁の深い、姉と慕っている高級娼婦が三名ほど。
言ってしまえば今日くらいは客など取らなくとも、大した問題ではない連中である。
まず真っ先に潰れたのは、一番年上のフラウだった。
フラウは元々エルフの名家に生まれたのだが、没落してその身を売る羽目になった。
おしとやかな物腰とエルフの中でも飛びぬけた美貌もあり、椿楼の看板である。
貴族連中からは引く手数多だそうだが、身請けの話には一切興味無し。
本人曰く、ここでの暮らしの方がよっぽど華やかで楽しいらしい。
現在の所、かか様の跡を継ぐのはフラウだろうと誰もが思っている。
次に退場したのは三番目のルシアで、彼女曰く明日に差し支えるからとの事。
獣人族ルー・ガルーではあるのだが、アイギールと同じくいくつかの種の混血だそうだ。
椿楼の三姉妹の中で一番若いのだが、現在二番人気を誇っている。
ここにやって来る前はコロシアムで闘奴をしていたなどと、変わった経歴を持つ。
足の腱を切る大怪我を機に引退し、今度は娼婦として荒稼ぎをしているのだ。
三人の姉の中でも一番金に煩く、そして派手好きである。
最後まで残ったのは、真ん中の姉であるドワーフのクローディア。
種族の特性ゆえか、酒には滅法強い。
そして同じく種族の特性で、その容姿は一見するとアイギールよりも幼く見える。
酒を嗜む客と、その手の趣味の客とを一手に引き受け、三番人気を維持している。
本人がもっとやる気を出せば、看板などあっという間だとかか様がよくぼやいている。
その酒豪のクローディアも限界が訪れ、今はアイギールに抱き着いたまま夢の中だ。
この場において残されたのは、アイギールとかか様のみ。
かか様と言えばただ黙々と、隅の方でちびりと酒を舐め続けていた。
流石に酔いが回っているのか、どこか視線は宙を睨んだままである。
アイギールはクローディアを引き剥がすと、その小さな身体に毛布を掛けてやる。
そしてかか様の前に座り直すと、差し出された空の杯に酒を注いでやった。
「かか様、飲みすぎですよ」
注意したところで無駄なのは分かっているが、明らかに普段より飲んでいる。
随分と若作りをしているが、少なくとも歳は五十を超えているはずだ。
最近では何かと子供らに肩や腰を揉ませていたりする。
歳が歳なので仕方が無いが、それならもっと自愛するべきだと常々思うのだ。
「煩いねェ、あたしゃ嬉しくって仕方が無いんだよ」
「僕が居なくなって寂しいとか無いんですね」
「馬鹿言ってんじゃァないよ、どうせそんなんじゃァ売り物にならないだろうよ」
ちくりと痛いところを突かれ、アイギールが苦笑いを浮かべる。
その両の掌には刺青があり、娼館で働くにしてはあまり良いものとは言えない。
はっきり言ってしまえば、商品価値を下げる傷でしかないのだ。
「それで、あの子はどうするんだい?」
「まだ連れていくわけにはいかないですね、家を持つまではここに置いていきます」
「ったく、その分しっかりと身請け料に上乗せしておくよ」
かか様が言うあの事は、ケット・シーの少女であるリタの事だ。
身体が弱く、元々娼婦としては期待されていなかった。
それならばここで小間使いとして扱おうと、今もそうしているのだが、ちょっとした不祥事が起こったのだ。
本来は娼館の中では禁止されている、お手付きと呼ばれる行為である。
事が起こった原因なども踏まえて追い出される事は無く、リタを将来的に身請けする事で話は纏まった。
今から一年と少し前で、アイギールが十四、リタがまだ僅か十一の出来事である。
表向きはまだリタが八歳とされていた事もあり、事情を知るのは僅か数名程しかいない。
まさかケット・シーの幼い子供が、サルナシの酒で発情するなど、誰が思っただろうか。
「なァに赤くなってんのさ」
「酔いが回っただけですよ」
「本当かねェ?」
その時の事を思い出してしまい、思わず赤くなってしまった。
アイギールにしてみれば、男としては初めての相手である。
いち早く状況を飲みこんだルシアが立ち合い、手ほどきをしてもらいながらであったが。
「とにかくリタは当面ここで面倒を見てもらいます」
「あァ、任せときな」
「よろしくお願いします、かか様」
深く頭を下げるとごつんと鈍い衝撃が頭を襲う。
今まで何度となく、この鉄拳が振り下ろされたものである。
弱弱しく感じたのは手加減をしているからか、それとも老いのせいだろうか。
「言っておくがね、あんたァ陽が昇ればうちの子じゃなくなるんだよ」
「…かか様はかか様です」
「違うねェ、リンダの子だよ」
「顔も知らない母親ですよ」
「それでもだよ、あんたァ…リンダによく似てるんだ」
顔を上げると、かか様が徳利から直接酒を煽っていた。
アイギールの実の母親であるリンダの話は、この椿楼では禁忌とされている。
娼婦として生きるからには、子を身籠る事はあってはならない事だ。
そのためには毒を飲み続け、子を宿さぬように徹底しなければならない。
身請けが決まってはじめて、その毒薬を手放すことが許されるのだ。
しかしリンダは、アイギールの母親はそれをしなかった。
とあるエルフの男と恋に落ち、身籠った事をひたすら隠し続けたのだ。
その結果として母体に負担が掛かり、早産の上に酷い難産だったと聞かされている。
「あの、どんな人だったんですか?」
「とにかく無口でねェ、でもやたらと花が好きだったよ」
ちらりとかか様が視線を流すと、その先にはアイギールが買ってきた花が活けてある。
煌びやかな花街にはおよそ不似合いで、とても地味に見える花だ。
「あれは自分で選んだのかい?」
「はい、いろいろ迷ったんですが一番好きな花にしようかと」
「はは…やっぱ親子だねェ」
「リンダもあの花が好きだったんですか?」
群撫子と呼ばれる、本来ならば他の花を引き立たせるために使われる花だ。
アイギールはどういうわけか、その素朴さに惹かれたのだった。
「あの子の故郷はねェ、雪の降る北の山奥だったんだよ」
「雪…ですか」
「あたしも見た事ァ無いんだけどね、あれは雪に似てるんだとさ」
大陸でも比較的暖かいこの地方では、雪など降った事が無い。
「いつか僕も雪を見たいものです」
「そうさねェ、そん時は是非とも土産話を聞かせてもらおうか」
恐らくはアイギールの人生で初めての、親子水入らずの語らいは明け方近くまで続いた。
かか様の話はアイギールが幼い頃の失敗談などが殆どで、その度に恥ずかしい思いをする羽目になる。
やれいくつまでおねしょをしていたとか、こっそり姉様方の床を覗いていた事とか。
そんな話を何度も繰り返すうちに、やがてかか様はアイギールの膝の上で眠ってしまった。
「…アイちゃんは優しい子だねェ」
夢でも見ているのか、随分と懐かしい呼び方をされた。
まだこの椿楼の表へ立たされる前の呼び名だ。
十歳を迎えたその日から、アイギールもしくはあんたと呼ばれるようになったのだ。
今生の別れでもあるまいに、何とも大袈裟だと思う。
あと最低でも三日はここで寝泊まりをするのだ。
それにこことギルドの場所はほんの小一時間歩くほどしかない。
それなのに、どうして涙が止まらないのだろうか。
例え誰が何と言おうとも、かか様はかか様だと、アイギールは心の中で呟いた。
◇
いつの間に眠ってしまったのかは覚えていないが、目が覚めた頃には既に陽が昇り切っていた。
容赦ないかか様の蹴りが脇腹を抉り、まるで昨夜の姿は別人かと思ったほどである。
「いつまでも転がってんじゃァないよ!」
痛む脇腹をさすりながら身を起こすと、今度は向こうでクロ姉が蹴飛ばされている。
飲めるのはいいが、後がだらしないのがクローディアの悪い所だ。
ひとまず顔を洗おうと水場へ向かうと、道中の階段でフラウと出くわした。
「おはようございますフラウ姉様」
数人の世話役に囲まれながら、フラウは湯浴みを済ませたところらしい。
薄手の肌着一枚とあられもない姿だが、ここでは日常風景である。
因みにどこの娼館でもそうだが、看板を背負う娼婦は特別待遇である。
場所によって一番星や花魁など呼び名は様々だが、ここでは花形と呼ばれている。
アイギールが特に慕っている三姉妹のうち、フラウだけは様付けなのはそのせいだ。
「おはようアイギール、昨日はお疲れ様ね」
「姉様こそ、お酒は大丈夫でしたか?」
「ちょっと残ったみたいだけれど、夜までには持ち直してみせるわ」
フラウは三姉妹の中でも一番酒が弱い…というよりも下戸である。
無理矢理付き合わせてしまって申し訳ないと、アイギールは内心穏やかではない。
「ほら、またそうすぐに顔に出るのね、気にしないでいいのよ」
「…はあ、ありがとうございます」
優しく頭を撫でてもらっているが、実はアイギールはこれが恥ずかしくてたまらない。
頭を撫でてもらう事がではなく、そのフラウとの身長差が如実に表れるからだ。
純粋なエルフであるフラウは、ドワーフとの混血であるアイギールと比べて頭一つ以上背が高い。
母親の血が色濃く表れているのか、アイギールの背はクローディアよりも少し高い程度だ。
もう少しでルシアに追いつくかと思ったところで、成長はぴったりと止まってしまった。
願わくばリタにだけは背丈を追い越されたくないと、密かに思っていたりする。
「ルシアが目が覚めたらでいいからと、呼んでいたわよ?」
「ルシ姉が?」
「出来れば湯浴みを済ませてからの方が…良さそうね」
フラウの言葉に、アイギールは思わず自分の体臭を確認する。
どうやら自分では気付かないが、相当に酒臭いようだ。
ルシアは鼻が利きすぎるので、こういった臭いには非常に敏感である。
まずはフラウの言葉に従うべきだろう。
「ありがとうございます姉様、ではまた後で」
「ええ、あんまり長湯をしては駄目よ?」
「分かってますってば」
またしても頭を撫でようとするので、逃げるようにして廊下を走る。
後ろから廊下を走ってはなどと聞こえたが、どうにも子ども扱いされ過ぎている気がするのだ。
ある意味三姉妹の中で、一番苦手なタイプだとも言えるだろう。
着替えを手にして共同の大浴場に向かうと、早くも賑わっていた。
最も繁盛する夜に向けて、皆それぞれが身体を綺麗にしておくのだ。
今日のフラウは例外だが、この時間帯に湯浴みをするのは夜の客をとる者達である。
昼過ぎまで眠り、夕刻までに準備を整え、夜は一晩中相手をして朝を迎えるのだ。
言ってしまえばこの椿楼でも色の強い面子である。
だがまあこうして一緒の場所で湯浴みをする時は、誰もが淡々としているものだ。
数多くの娼婦や、また中には男娼も一緒にいるのだが、要するに見飽きているのである。
世の中には女の園だと憧れを持つ者も多いそうだが、蓋を開けてみればこんなものだ。
もしかして自分はこのまま不能になってしまうのではないだろうか。
そんな事を考えながら、アイギールは手桶の冷水を頭から被った。