江戸時代のキリスト教とザビエル、そして天国とは
キリスト教といってもいろいろあります。それによってその規律が緩和されたり、厳しかったりするようです。
ローマンカトリック教会、ギリシャ正教、ロシア正教、英国国教会、プロテスタントなど。
皆さんもご存じのフランシスコ・ザビエルは、日本にはたったの二年二か月しかいなかったそうです。
彼の目的は、天皇から日本で宣教することを許してもらい、教会を建てたかったとのこと。けれども天皇との謁見も宣教も許されず、失望して中国へ旅立ったとされています。
その頃の京都は、応仁の乱で慌ただしかったので、そんなことも謁見を許されなかった原因となったようです。
キリスト教は、その神以外のものを崇めてはいけないことになっていることから、寺との衝突もありました。寺に火を放ったらしいということも読みました。
大名の多くがお家のために持つ側室もだめ、そもそもが子孫繁栄のため以外の性交はいけないとされています。
私はキリスト教徒ではありません。あまり宗教自体に特に関心も持ってはいませんでした。
でもその無関係の私が、惹きつけられるかのように何度もバチカン市国へ足を運びました。バチカンの中に知り合いがいたので、一般人は入れないその中庭、ローマ法王の私邸と言われているその外観も見てきました。ローマもあちこち教会巡りをしましたが、どうしてもバチカンに引き寄せられました。
それがとても不思議に思い、リーディングで聞いてみると、私の前世は何度もキリスト教に係わっていたとのことでした。
一番先に出てきた人は、男性でした。彼は教会の指示により、その塔の鐘を定期的に鳴らすという仕事をしていました。
毎日その塔の長い階段を登ったり、下りたりを繰り返すだけの人生。でも、彼にとってそれが誇りであり、喜びだったそうです。
それを聞いて、ああ、今の私でもやれると思いました。割と孤独に、地道に何かをすること、好きです。でも今は、他の人とのかかわりを持つという意味で、家族があると思っています。
一度行ったことのあるローマ市内のジェズ教会にはザビエルの右手が祀られています。当時はそれほどザビエルという存在に興味はありませんでしたが、教科書に載っていた人、というだけで訪れていました。
その右手の入ったガラス戸?はとても厚く、曇っていてまったく見えませんでしたが。
キリスト教徒が受けた拷問の様子が描かれた屏風もそこに飾られていてギョッとしました。
天国は、キリスト教を信じる者はみんな死んだら行けるということのようです。イエスが信徒たちのために十字架上で罪をあながい、死んで復活してくれたからだと。
これも無償の愛です。
天国へということについて、カナダでの実際の出来事です。
七年ほど前、娘のクラスメイトが亡くなりました。そのお葬式に参列した時のこと。
うちの娘はお葬式中、ずっと泣いていました。小学生でも人の死はわかりますから。
でも他のクラスメイト達は皆、ものすごく楽しいイベントに参加しているかのようにはしゃいでいました。くすくす笑ったり、顔を見合わせては手を振ったり、いつもの教室で遊んでいるかのようでした。
極めつけは、亡くなった子供と一番親しいという家族とその子供が前に立って、ご遺族に挨拶をしたときでした。その親友とも言われたその子供、代表に選ばれ、嬉しくて仕方がないという表情でずっとニコニコしていたのです。誰かと目が合えば手を振っていましたし。
私は思わず、こっち(カナダ)のお葬式って泣いたらいけないのかと思いました。でも、大人たちはごく普通に彼女の死を悲しんでいました。
それで私にもわかったのです。こちらは、人が死んだら天国という幸せな所へ行った、と子供に言っているということを。
思い当たることがありました。
幼い子供の死に、学校から手紙がきていました。死というものを説明するには子供が動揺しないように気を付けて説明をしろ、傷つけないように言いなさいと。
その子供の親がそういう言い方をし、死とは悲しい事ではないと話すのなら、私はそれでいいと思います。
私は私なりに自分の子供に死というものを教え、娘はその友人がいなくなったことを悲しんでいました。一方は天国へ行けて喜び、こちらはもう友達と遊べなくなって悲しいという表現をしたまでです。
所変われば、当たり前のことも変わってくるんだと実感しました。
無宗教の私のような日本人には驚きの出来事でした。