第三章「魔王像の真実」
かつてトゥリーズンでは世界規模で戦争があった。選別戦争と言われるその戦争は、その世界の中で神にとって必要ではない人間にとっての地獄だった。空の全てを多い尽くすような膨大な数の天使と悪魔が大空を飛び交い、陸地では人間をただ殺すためだけに発生してくる魔物や悪魔たちが抑えていた空をすり抜けて地上に降りてくる天使との壮絶な戦いが繰り広げられた。正に生き人類の存亡をかけたといっても過言ではないほどの戦いを強いられた大多数の人間はその手に魔法武器を持ち、魔法を唱え唯ひたすらに抗うことしか出来なかった。
神は何を基準に選ばれた者と選ばれざる者とを区別するのか? 何を持って選別するのか? 区別することなく全てが選ばれ、救われることは無いのか? 抗う者たちの疑問は尽きなかった。結局その理由は判明しなかったし、知ったとしてもどうしようもないことだったのかもしれない。故に見捨てられた人間はそれらに抗い続け、生き残るために戦いを選択する以外の道がなかった。
娘が選ばれホッと安堵して逝く両親がいた。自分だけ選ばれることを良しとせずに、その場に残って戦い続ける青年がいた。選ばれたことで率先して選ばれなかった人類の敵に回った裏切り者のような若者がいた。また、人語を解し魔法を使い人間の姿を取っては人間の味方になったドラゴンと呼ばれる魔物もいた。
区別されるということに耐えられない連中は、戦って戦って戦い抜いて、そうしてようやく勝利するための好機を得た。抗い続けた結果に掴んだそれは、黙示録の獣がその身を犠牲にしてでも時間を作り、最終的には封印の魔王シリウスがその力でもってこの世界を封印することで辛うじて手に入れた安息であり、勝利であり、神との決別を明確にした歴史的ターニングポイントである。
理解する者はその偉業を誇らずにはいられない。
手に入れた絶対的な安堵と、神などという存在によって右往左往しなくてすむことなくこの世で生を謳歌できる幸福は、すでにトゥリーズンに住む人々にとっては無くてはならない大切なモノである。だからこそ魔物が発生し攻撃してくるような異常な世界であってもそれを幸福だと信じて皆生きていくことができるのだ。
神の区別とは絶対的な恐怖であり、理不尽であり、そして選ばれない存在にとっての地獄である。『造物主』だという理由だけで何もかにも好き勝手することが許されるのだとしたら、何者も神のご機嫌を取っては媚びへつらい、神の奴隷になるしか生存する術が無い。ソレに耐えられない連中がいる世界こそがこのトゥリーズンであり、そんな生き汚い連中の希望を打ち砕くためにその天使の欠片はそこにいた。
照明一つ無い薄暗い地下の一室。だがそれにしては広大な面積を持つ人工の空間。普通の教会の礼拝堂よりもさらに広いそこには、敬虔なる信徒が集めた魔王像が数体ある。北と昨晩中央区から集めてきた魔王像だ。それらは適当にその場に置かれ、来るべき時まで五体満足な姿でそこにある。その中には、勿論レイドの家に受け継がれていた魔王像もった。
白く発光する天使の欠片には明確な自我はほとんど無いようだ。それがあったのだとしたら、既に魔王像は粉々に打ち砕かれていたはずだろう。悪魔に気取られぬように存在を分割し、最低限の機能だけを与えて四人のシスターに仕込まれていたそれのうちの二つが融合しているそれは、今はただ静かに元に戻る時を待つばかりであった。
何のためにそれをするのかと問われたら、きっとその天使は『神のために』と答えるだろう。神の愛に満たされていなければ幸福ではなく、またそうあることでしか自らを守ることができない彼としては。選別戦争で既に証明されているのだ。神の意に沿わぬ者たちはどういうことになるのかということを。
神から密命を受けた彼はこうして長きに渡って潜伏し、様々な活動を裏で行って来たが結局魔王の行方は掴めなかった。辛うじて掴めた情報といえば世間一般で言われるよう都市伝説にも似た与太話だけ。魔王像化――魔王が世界を封印するのに力を裂いたせいで自己消滅しないために編み出した方法。だがそれでも魔王の力は強大だ。並の攻撃など歯牙にもかけずに弾き返し、世界を封印し続ける要として存在し続けているという。とはいえ、一度も天使側がそれを見たことは無い。悪魔たちの巧妙な立ち回りと協力する人間によって秘匿されたそれは、もはや本当に在るかどうかさえ分からない伝説の代物と化している。
結局のところ、だとしたらことの真偽を確かめるために現存する全ての魔王像を破壊するしかない。しかし魔王像の数は膨大だ。だからこそまず天使は魔王教会に目をつけた。一番トゥリーズンでありえそうなのはやはり教会だ。悪魔たちの住む魔界に魔王像が持ち出されている可能性は無い。異界に運べば下手をすれば封印の効力が届かない可能性がある。間違いなくこの世界のどこかに存在するはずだった。だからこそ彼はそこで待っている。自分の分割した体が、手駒が、それを持ってくることを。
――神の敵を滅ぼすために、天使の欠片は今はただ黙って時を待っていた。
レイドの家から魔王像が盗まれた日の早朝、騎士団に突き出されたシスター二人は武器などの危険物を携帯していないことを確認された上で牢屋に放りこまれていた。手錠と足枷を嵌められ、拘束具で束縛された二人には昨夜のような元気は無い。ただただ神への祈りを捧げながら自らが信じる天使の助けを待っていた。目を覚ましてすぐに尋問も行われたが質問をしても何一つ答えない。尋問官が武力行使に出ようとしたが、それはエクスの父ハイデン・ローゼンバーグが止めた。
こういう手合いは下手に手を出せばすぐに自害しようとするし、何よりも女に手を上げるのは本位ではない。生ぬるい処置だったが、下手に意固地になられるよりも根気強く説得するべきだと彼は考えていた。それに天使がこの二人を助けにやってくる可能性もある。大事な情報源でもあるし餌としても使えるかもしれない。手荒な真似はするのは少しばかり憚られた。
「それで、結局まだ何も分からないんですか?」
「ああ、すまんなレイド君。神聖教会の連中は下手に刺激すると何をするか分からんからな。慎重に対処しなければならん。それに彼女たちはただ居るだけで餌になる」
「父さん、天使が彼女たちを見捨てるってことはないのかな?」
「彼女たちが本当に”選別されし者”だとすれば助けに来るはずだ。連中は数が少ない分結束力は高いことが多いからな。君たちが言うように天使がポゼッションする程の逸材なのだとしたら見逃すとは思えん」
執務机に座ったまま、険しい顔で言う騎士団長。賊への警戒を密にしていた矢先のことだっただけに、こうも呆気なく警戒網を素通りして犯行が行われたことは屈辱だった。四十代半ばのハイデンは鋭い眼光で部下たちの報告書に眼を通しながらため息を吐く。今現在部下たちが走り回って足で連中を探し回っているものの未だにシスターたちの目撃証言は無い。いきなり教会に現れたとしか思えないほど突然に現れ、突然と消えていく。敵が空間転移を可能とする以上、確かにそれは仕方の無いことなのかもしれない。
「ハイデン叔父様、レイドがかけていたっていう魔法で探せないの?」
「今現在探知魔法で町中を団員が探しているところだ。だが騎士団員の数にも限りがある。巡回警備の人員に移動しながら探させてはいるが、まだ報告は無いな。結界を張って探査魔法に対処している可能性もある。そう簡単にはいかないだろうな」
「ふーん、手の出しようが無いわけね」
来客用のソファーの上でフレスタがどうする? とばかりにレイドに視線を移す。レイドは両腕を組んだまま黙考した。だが、良い意見などそう簡単に出るはずが無かった。
「まぁ、この件は我々騎士団に任せてくれ。レイド君が気に病む気持ちは分かるが、さすがに天使がいるとなると君たちには危険すぎる。相手が街中で出てくるような弱い魔物であれば民間協力者として受け入れることもできたが、相手が相手だ。私たちに任せて欲しい」
「……やっぱりそうなるか」
ある程度察しはついていたのだろう。なんとも言えない表情でレイドは呟く。
被害者として情報を入手することはいくらかはできそうだったが、さすがに事が事だけに捜査に協力させてくれそうにない。ハイデンもエクスの親だ。自立しても居ない息子と同年齢の少年少女をこの件で危険に会わせたくはないのだろう。
「とりあえず、君たちは学校があるだろう。この件は私たちに任せてしっかりと勉強してきなさい。ああ、エクスにはちょっと話すことがある。少し残っていけ」
「うん? 分かったよ父さん」
「ハイデン叔父さん、魔王像の件よろしくお願いします。エクス、とりあえず家の前で待ってるぜ」
「分かった、すぐに追いつくよ」
「じゃ、また後でね」
レイドとフレスタが部屋を出て行く。それを確認してからハイデンは執務机から立ち上がってエクス前まで歩いた。二人とも長身だが、エクスとハイデンの身体つきには随分と差がある。年齢差を差し引いてもがっちりと全身を鍛えているハイデンと、どこか線の細く見えるエクスとでは見る人の印象は大分違うだろう。どちらかといえば母親似のエクスであったが、それでもハイデンが持つ正義感と真面目さをしっかりと受け継いでいる。エクスには大体父が何を言おうとしているのか察しがついていた。そこには親子の間にある確かな絆があった。
「できるだけレイド君から目を離すなよ。彼はきっと一人でも魔王像を探しにいくぞ」
「だろうね。まだ襲撃されていない教会の話を注意深く聞いていた。今夜もまた動くつもりなのかもしれないね」
「お前は止めないのか?」
「止められないよ。眼がマジだったからね。だからまあバックアップに徹しようかなとは思ってる。勿論危なくなったら全力で巡回の騎士に連絡するよ」
「そうしてやれ。お前の魔法の腕は信頼しているが、相手が相手だ。そこら辺に出る雑魚の魔物とは根本的に違うだろう。母さんは心配するだろうが、お前なりに出来る範囲で彼を出助けしてやれ。友達は大事にしろよ」
「分かってる。やり過ぎたら止めるのも僕の役目さ」
苦笑しながら頷く。するといきなりハイデンに背中をバシンと叩かれた。
「いつつ……いきなり何するのさ」
「一丁前に男の顔をしやがって、インテレクトに通い出してから随分と良い顔するようになったじゃないか」
「学校で面白い友達が出来たんでね、そりゃ変わりもするさ」
「そりゃあ良かった。ああそうだ、ところでさっきの娘はどっちの彼女だ? お前の彼女なら急いで母さんに教えてやりたいと思うんだが……」
「あのね父さん、彼女はそんなんじゃないよ」
ニヤニヤと唇を釣り上げながら余計な詮索をしてくる父親に頭痛を感じながら、エクスは仕返しとばかりに父親の背中に返礼する。容赦なく全力で放たれた掌がバシンと父親の背中を打った。どうやらローゼンバーグ家の子供は父親の背中を打って育っていくようである。
深夜に騒動があってから仮眠こそとったものの、ぐっすりと眠ってはいなかったレイドはインテレクトに来るなり授業のほとんどを夢うつつの状態で聞いていた。今のレイドにとっては授業などどうでも良かった。騎士団が動き回ってくれているので自分一人で探し回るよりは見つかる可能性は高いとレイドは考える。だがそれでも見つかる可能性は低いかもしれない。ならば、やはりもう一度連中の仲間を発見するしかないという結論に達し夜に備えて体力を温存しようとしていた。
授業終りの鐘が鳴る。教師が授業を終え、休み時間に突入するとレイドはエクスの席に向かった。エクスもまた眠そうだった。軽く欠伸をかみ殺しながら次の授業のための準備をしている。
「エクス、ちょっと部室の鍵を貸してくれ」
「いいけど、何か用でもあるかい?」
「寝る」
「まぁいいけど……先生方に見つからないようにしておくれよ」
「善処する」
レイドはそれを受け取ると鞄を引っつかんですぐに教室を出て行った。教室移動の連中やトイレに向かう学生たちの間を縫うようにして部室に向かっていく。すると、部室にはまたも先客がいた。
「あれ? あんた何しに来たの」
「……お前と一緒だよ副部長殿」
「サボリ?」
「端的に言えばそうなる」
机にだらしなく上半身を預けているフレスタの右斜め前の机に座ると、レイドもフレスタに倣って体を机に預けた。ひんやりとした机の感触を頬に感じながら再び襲ってくる睡魔に身を任せる。典型的な駄目学生が二人そこにはできあがっていた。
「……あんたさぁ、一人で探すの?」
「手伝ってくれるんなら頼みたいんだが、あの悪名高い天使がでてきちまったからな。さすがに話が大きくなりすぎて頼めそうにないわ」
「あんた、変なところで遠慮するわね」
「実際な話、天使が出てきたらどうすんだっていう問題を解決する方法が思い浮かばないからな。何か良い方法があったら頼んだかもしれんが、さすがに危険すぎて巻き込めん」
「多分私様がいないとあんた死ぬわよ?」
その歯に衣着せぬ物言いはしかし、静かに事実を告げていた。フレスタは机に突っ伏したままのんびりと怖いことを言った。レイドもそれは分かっていたが、じゃあどうすれば良いのかなんてことは分からない。天使は強い。少なくとも一人では勝てないだろう。ならば勝率を高めるために仲間を連れて行くのが良いとは思うが、その仲間がいたとしても完勝できるかどうかの確証がもてない。それに騎士団が動いているのだ。彼らがなんとかしてくれる可能性もある。とはいえ、やはり何もしないわけにはいかない。だからこそ彼は今現在こうして英気を養っているのだから。
「じゃあフレスタやエクスが入れば勝てるのか?」
「さぁね。向こうがどれだけ強いのかが分からないもの。分割してたのが全部融合して本来の姿になったら多分もっと強いわよ。でも、勝てなくても逃げるぐらいはできるかもしれないわよ? 私様がいたらね」
「危険だぞ」
「あんたの危険度は爆発的に下がるけど?」
「意地の悪い言い方をしやがって。危ないからやめろって素直に言えないのかよ」
つまりは、なんだかんだ言ってもフレスタは心配してくれていたわけである。レイドはぶっきら棒に言いながらも苦笑する。心遣いが嬉しかった。
「……なによ?」
「いや、フレスタにそんなに心配されるとは思ってなかったから驚いた」
「失礼ね、私様の半分は博愛精神で出来てるから優しいのは当然よ」
恨めしげな眼をしながら、フレスタが首をレイドの方に向ける。釣りあがった眉が不機嫌さを主張していた。若干顔が紅いのは柄にも無いことをしていると思っていたからかもしれない。
種族を超えた友情という奴なのかもしれなかった。部活を通して育んだそれは、奇妙なくすぐったさと共に確かにそこに存在している。悪くなく、寧ろ心地良い感覚がする。思わず二人とも鼻の頭辺りがむずむずしてきた。
「そ、それよりあんたはどうしてそんなに魔王像に拘るのよ。そりゃあマニアなあんたが盗まれたことに激怒するのは分かるけどさ、命を賭けるのはちょっと異常すぎるわよ。新しいの買えば良いじゃない」
妙な雰囲気になりかけたのをかき消すようにしてフレスタが尋ねる。レイドは少し迷ったが、自然と口を開いていた。後悔は無かった。
「あの魔王像は魔王様だからな。変わりなんてこの世の中にはないんだよ」
「……はぁ?」
こいつ頭は正気か? なんて目で見られたレイドだったが、構わず続けた。
「俺の家はどうも従者の一族の末裔らしくてな、代々魔王様の石化解除の秘儀が伝えられてるし、それと一緒に石化した魔王様の管理も任されてきた。まぁ、つまりは今世界は超ピンチなわけだな。この際俺の命なんて四の五の言ってられないぐらいに。あ、これは内緒だぞ? バラしやがったら本気でドラゴンスレイヤーにならなきゃならなくなる」
「あ……」
「あ?」
「あんたアホなの!? そうなの!?」
いきなり席を立ったフレスタはレイドの胸倉を掴んで引っ張り上げた。竜の腕力という奴の賜物である。面白いほど呆気なく宙吊りにされたレイドはこのとき猛烈に話したことを後悔した。
「証拠は!? 証拠はあるわけ!?」
ニョッキリと生えた角がバチバチと紫電を走らせている。興奮の余り変身魔法が部分的に解けかけているようだ。だが無理も無いことだった。嘘であるならば冗談で済む。そうでないとしたら冗談では終わらない。魔王像はもう奪われてしまっている。仮に何らかの手段で魔王様が殺されるようなことがあれば、トゥリーズンに再び選別戦争を再来させてしまうことになるだろう。そうなれば世界は終りだ。
「そ、そうだ。失われた魔王の従者の名前を言ってみなさいよ。あんたが本物の末裔なら言い当てられるはずよ!!」
魔王の従者の名前は表向きには世界から失われていることになっている。魔王像の管理をしているわけだから、変に名前を知られていると困るのだ。選別戦争後従者は名前を変えトゥリーズンのどこかへと消えた。元々名前はその時に世界規模の情報操作で抹消されている。その名前が今も伝わっているとすれば、各国の王族やドラゴンたちのコミュニティぐらいだ。例え魔王様のファンであろうとも、普通の少年が知っているはずがない。フレスタの懸念を他所にレイドはしかし事もなげに失われた名前を口にした。
「ミリア・キースだ」
「……」
フレスタは実際その名前を知らない。けれどこうも簡単に答えが帰って来るとは思ってもみなかった。それが本当のことか確かめなければならない。レイドの身体を床に下ろすと、無言で荷物を引っつかんで帰り仕度を整えていく。そうして準備を整えた彼女は部室を出る寸前レイドに言った。その顔には余裕は無かった。
「――コミュニティで確認してくるわ。私様が帰って来るまで、それまでは絶対にあんたは動くんじゃないわよ。部室か家で待機していなさい。いいわね?」
「……できるだけそうする」
あまりの剣幕に思わずレイドはこっくりと頷いた。
数分後、校舎の屋上から一匹の魔物が飛び立った。青く強大な体躯を持つその魔物の名は竜という。何故か竜は右側の角に白い布を巻きつけていた。
(ああもう、あの馬鹿レイド……そんな大事なことは早く言えってーの!!)
間違いであって欲しいと願いながら、その青い竜――フレスタは全速で空を飛翔した。
放課後までずっと部室で寝ていたレイドは、部室にやってきた二人の話し声で眼を覚ました。エクスとフェリスの二人である。小声で話しながら、なにやら魔法談義に会話の華を開かせているらしかった。
「おはようレイド」
「お、おはようございますレイド先輩」
「ああ……おはよう。なんだ、もう放課後かよ」
大きく伸びをしながら、レイドは二人が見ている本に視線を向ける。二人が見ているのは魔道書だった。高等魔法学校の図書室にでもある本だろう。タイトルは分からないが、それでも魔法が得意なエクスが読むほどのものだから難解なものに違いない。特に興味をそそられなかったので気になることを尋ねてみた。
「なぁ、フレスタは帰って来たか?」
「屋上から飛んでいってそのままだよ。先生方も首を傾げていたよ。レイドは理由を知っているかい?」
「あー、まあ知っているといえば知っているな。そうか、まだ戻ってきてないか」
このハイドランドから一番近いドラゴンのコミュニティといえば街から西南に三日ほど進んだところにそびえ立つ霊峰『ピーグリッヒマウンテン』だろう。雲にも届くその山頂にはドラゴンたちのコミュニティがある。人間にとっては過酷な環境でもドラゴンたちにとっては大したことはない。コミュニティは各国に大体一つほど有り、そこにはドラゴンたちが住んでいる。人間が稀にそこを訪れることもあるが、そんなのは極ごく一部の人間だけだ。人間とドラゴンは友好的に付き合ってはいるし、人間に混ざって生活する者もいるがまず初めにこのコミュニティである程度の知識を得てから人里にやってくるように決められている。さすがに常識が無い状態で人里に下りて何か問題を起こすわけにもいかないので当然の処置であった。
「まあ、今はフレスタのことは置いておこう。それよりも魔道書のこの部分を見てくれないか?」
「ん……これは結界系の魔法か?」
「昼休みにちょっと図書室で調べてみたんだ。天使を封印するような魔法はないかなと思ってさ。そしたら一応は存在するらしいことを突き止めたよ」
「なんだって!!」
目を凝らしながらレイドは魔道書を睨みつけるようにして文章に目を通す。すると確かにそういう意図でもって開発された結界魔法があるらしいことは注釈を見て分かった。だが、かなり高度な術式らしくこの魔法は酷く難解な作りになっている。
「これは……一朝一夕で使えそうな魔法じゃないな。俺には無理そうだぞ」
「でも僕ならなんとかなりそうだ。ちょっと分からないところがあったんだけど、フェリスが今しがた上手いやり方を教えてくれたんだ」
「マジかよ、すげーなフェリス」
「えと、そんな大したことじゃあ……」
謙遜しながらももじもじと照れくさそうにはにかむフェリス。大人しい彼女らしい可愛らしい仕草である。フレスタと違って妙に癒される。
「謙遜することは無いよ。君のその魔法知識は三年生クラスかもしれない。魔法の実戦は苦手なのかもしれないけど、君は十分に魔導師としての素質を持っているんだね」
知は力である。強力な魔法程難解だ。新入部員にこれほど難解な魔法を容易く理解する力があるというのはエクスもレイドもかなり驚かされた。そして同時に戦術研の部員として心強いものを感じた。魔物が怖いと彼女は言ったが、彼女は直接戦わなくても戦えるらしい。直接的なものではないが、これも立派な力であることに変わりは無かった。
「あいつに効くと思うか?」
「多分……ね。あの白い霧ならギリギリいけるかもしれないね。何せこちらを攻撃してこなかった。あの状態だと逃げるぐらいしかできないんだと思う。なら閉じ込めてしまえば何もできないはずさ」
お互いに顔を見合わせながらニヤリと笑う。
「エクス、悪いがお前の力を貸してくれ」
「勿論さ。昨日の雪辱戦といこう」
お互いに右手の掌を上げてハイタッチを交わす。思わずフェリスが驚いてビクっとしたが、先輩二人がなにやら不気味なほどにハイテンションになっているのに目を瞬かせるだけだった。
少し前にレイドはフレスタにはああ言ったが、明確な対抗策があるのであれば話は別だった。力を借りられるのであれば越したことはない。危険に巻き込もうというのだから心苦しくはあった。とはいえフレスタに感じたときのように何かくすぐったいものを感じていたのも事実。後でエクスにもフレスタに話したことを話してやろうとレイドは心に誓った。
そのまま今日は魔法談義に華を咲かせ、辺りが暗くなる前に解散。フェリスと分かれた帰り道の間に、レイドはエクスに自分の秘密を打ち明けた。エクスとしては到底信じられない話ではあったが、どこかで納得するものを感じていたことも確かだった。レイドの常軌を逸する魔王像への執着心の根源を見た気がしたからである。
少なくともレイドにとってはその話は真実なのだろう。親友が嘘を言っているとは思えない。間違いであったらそれで良いが、そうでないのだとしたら危険すぎる。どちらにせよこの犯人たちの狙いが魔王像であり魔王の命なのだから、そんな不穏な輩を見逃すことはできない。正義感と合理的な思考からエクスはそう判断していた。間違いなら思いっきり笑ってやろうとおも思ってはいたが。
「驚いたよ。僕が知らないうちに随分と世界はピンチになっていたんだね」
「まだ天使が空から馬鹿みたいに現れてこないから、ギリギリセーフだと思うぞ。手を出しかねている可能性もある。何せ世界を封印するほどの力を持った魔王様だからな」
「そうあって欲しいものだね。しかし、となると封印魔法が見つかったのは行幸だった。後の問題は敵のアジトを見つけるだけかな? 父さんたちに期待したいところだけど……多分捜索は芳しくないだろうね」
相手は結界に隠れて探知魔法から逃れている。こうなるとよほど近づかない限り見つけられないだろう。騎士団全員が走り回っているとはいえ、広大なこの街を相手に果たしてどこまでやれるか? エクスには疑問だった。
「俺はもうこうなったら昨日掴まえた連中を解放してアジトに逃げ込むのを尾行するしかないと思う。とはいっても、さすがに俺は騎士団員じゃないしそんなこと頼んでも聞いてもらえないだろうってことも分かってる。だから連中がまだ襲っていない教会から魔王像を奪って逃げ出すときにあえて見逃してアジトまで追跡するしかないと思うんだが……」
「それが無難かな? でもいい加減騎士団の面子もあるから教会に護衛が派遣されてると思うよ」
「ああ、それが問題だな。シスター連中はとりあえずあの神聖術の護りを破れる程の威力のある魔法を放てる奴が居たら問題は無いかもしれんが、天使は出現させちゃだめだ。あいつは空間転移で逃げるから後を追えなくなる。それをやられたらアジトの探索なんてできっこない……あー、でもあれか。俺が考え付くようなことを親父さんが考え付かないわけも無いだろうから……まあ、これは後で考えよう」
「そうかい? なら僕の考えを披露しようかな。実はちょっと考えたがあっ――」
と、そこまでエクスが話したところでレイドが急に足を止めた。その視線は前方の十字路に向けられている。あんぐりと口を開け、半ば放心しているようなその顔を怪訝に思ったエクスもその視線を追ってそれを見つけた。
「馬鹿な……」
呆然と呟いた。街中で魔物が発生するのは日常茶飯事だ。今更その程度でエクスは驚かない。まず間違いなく異常だった。街中ではそれほど多く数が現れることは無いはずなのだが、十字路の中心に見える白い霧の周囲から空間を歪ませながら延々と魔物が発生している。
よく見かける人型の魔物『ゴブリン』を筆頭に、豚の頭に太くて丸まった身体を持ち手には槍や棍棒を握っている魔物『オーク』、二股に分かれた首の先に二つの犬の頭を持った四足の魔物『ヘルハウンド』、さらにはこの街では滅多に出現したことが無い比較的強力な魔物『ダークナイト』などの魔物がいた。
「嘘だろ……ダークナイトって言えば下級上位クラスだぞ? 街中だと一体以上同時に出ないはずなんだが……」
戦術研の活動中に資料の挿絵でその姿を見た記憶がある。レイドもエクスもありえない現実を前に思わず言葉を失っていた。漆黒の全身鎧と長剣を握る黒騎士といった風情の趣を持つ魔物であるダークナイト。鎧の中には黒いガスのような本体がおり、それが鎧を操っているらしい。鎧ではなく本体を倒さない限り動き続ける手強い敵だ。
十字路まで三十メートル以上はあったが、先にいる一般人も思わず動きを止めてそれを見ていることしかできなかったようだ。さすがにあんな大群を相手に攻撃を仕掛けたら無事で済むわけが無い。懸命な判断だったと思われる。少しずつ後ずさりながら距離を取ろうとしている。
険しい目で状況を推察する二人も思わず手を出しかねた。いつもなら発見したら即時殲滅するのが常識なのだが、この状況は不味すぎる。だがこのままだと更に厄介なことになることは明白だった。時間にして数十秒。そのまま動きを止めていた二人の元に遠くの方から爆音や雄たけび、悲鳴が聞こえ始める。遂に戦闘が始まったのだ。その頃には空間の歪みは消え、魔物たちを生み出していたようにも見えた白い霧も消えていた。
「来るぞ!!」
レイドが刀を抜き放ちながら言う。その言葉にハッと意識を取り戻したエクスは魔法を詠唱。横幅が十メートル程の通路一杯に広がってくる魔物たちの戦闘集団に向かって魔法を放つ。
「アイスウォール!!」
エクスが叫んだ瞬間道一杯に広がるようにして戦闘集団の頭上から分厚い氷塊が落ちてくる。高さにして凡そ三メートル、縦と横の幅が八メートルほど有りそうな透明の氷が戦闘集団を押しつぶしながら地面に落下。一瞬周辺の地面が重い音を奏でながら落下の衝撃で震動する。質量が質量だ。それに押しつぶされた魔物が血黙りを作りながら魔物の行く手を阻む壁となった。魔物の咆哮が耳朶を打つ。落下の衝撃で割れた氷の破片に邪魔されながらも魔物同士を踏み台にしながら邪魔な氷を乗り越えようと蠢いた。
いきなり頭上から降ってきた氷に通路の先にいた人々が驚きはしたが、すぐにそれが魔法だと分かると目前まで迫っていた魔物から距離を取るようにしながら詠唱を開始。各々手に持った剣や槍といった武器を構えながら戦闘態勢に入る。日頃から魔物に襲われてきた人間たちだ。覚悟を決めたときの立ち直りは早い。
「前に出れる奴は壁になってくれ。近接戦闘が苦手な奴は後ろから援護。初めは氷の上の奴を狙ってくれ、一片にかかって来られたらやばいぞ!!」
レイドがエクスの意を汲んで大声で叫ぶ。それを聞いた人間は突然の少年の声に驚いたが、意図を理解して従った。砕けた氷の壁が邪魔をして魔物の大群は一斉に襲い掛かっては来れない。とんでもない数の魔物が発生したのを皆自分の眼で確認しているし、それが最善の方法だとすぐに気づいていた。
氷の上に上った魔物たちに次々と魔法が浴びせられていく。風の刃が、氷の槍が、火炎弾の魔法が次々と放たれていく。魔法の着弾音に混じって魔物の怒りとも悲鳴とも分からぬ絶叫が次々と響く。
そんな中氷塊の最前列まで詰めていたレイドは魔法の波状攻撃を越えて走り寄ってきたヘルハウンドが跳躍するのに合わせて全力で刀を振り下ろす。真正面から飛び掛ってきた獣の眼前を奔った青の軌跡。魔法武器としての特性を発揮した刀が、唾液を滴らせながら大きく広げた口の中から凶悪な牙を見せ付けてくる左の犬頭ごと縦に切り裂く。撒き散らされる血と右の首の絶叫。ヘルハウンドの身体までしっかりと両断した体制で、振りきった刀をレイドが跳ね上げ返す刀で残った首を両断した。
瞬間空気に溶けるようにしてヘルハウンドの身体が消えていく。神の呪いは死体など残さない。自然の摂理を超越したその忌まわしい存在の消失を確認しながらレイドは周囲を確認した。
前に出てきたのは三人ほどの男たちだった。白髪頭の見える老人は杖に仕込まれた仕込み刀で迫り来るゴブリンを一刀両断し、筋肉質の青年は槍をオークに突き刺している。最後の一人はレイドと同じ学生だ。手に持っている長剣を握ったまま魔法を唱えている。どうやら遠近両方やれるタイプらしい。後方ではエクスを筆頭に六人ほどの通行人が魔法を唱えている。即席の布陣としてはこんなものだろう。さすがにエクスと二人だけだったらジリ貧も良いところだったが、なんとかなりそうな気がしてきた。四人の前衛が壁を形成する。レイドは左から二番目に陣取っていた。
「インテレクトの学生よ、あの黒い奴の相手を頼んでよいか? さすがに年寄りにはアレの相手は疲れるからのう」
声をかけてきたのは左側にいる老人だった。確かにアレは強敵だ。ゴブリンなどとは比べられないほどに強い。レイドはそれと戦ったことは無いが頷く。
「雑魚の方は任せていいですか?」
「うむ、そちらは任せなさい」
後衛が放った石の槍を長剣で真っ二つに両断しながらダークナイトが氷塊の上から跳躍する。地面に降り立った衝撃で全身から立ち上る闇が黄昏の中で蠢く。レイドは気圧されれないように気合を入れながらその闇の戦士の行く手を阻むように立ちふさがった。
資料に書かれていた記述を思い返す。全身鎧はあくまでも鎧であり本体はあの闇だ。普通の魔物と違って一撃で致命傷となる部分は無い。ならば、消えるまで刀で切りまくるか魔法で吹き飛ばすしかないだろう。
「はぁぁぁ」
深く深呼吸しつつ全身に空気を送り込み、それと同時にレイドは一瞬でダークナイトとの距離を詰める。ウォームアップは既に使用中だ。人外の膂力を持つ魔物連中にも対抗できるために近接要員が習得を欠かさない強化魔法の恩恵をもって刃を振るう。奔る銀閃は青を宿しながら高速の薙ぎ払いとなってダークナイトを襲った。それに対するダークナイトは右に握った長剣を無造作に振り下ろす。――衝突。刀と長剣がぶつかりあって甲高い音を奏でる。闇と青が互いに接触し火花を散らした。
両者の威力によって弾かれた二振り。先に二撃目を繰り出したのはダークナイトだ。上方にかち上げられた長剣の勢いを利用して剣を振り上げ、再びレイドに向かって振り下ろす。再び振り下ろされた長剣。だがその頃にはレイドの身体は既に左に移動していた。ダークナイトが気づいた頃には、振り下ろしたダークナイトの右腕が飛んでいた。
黒を切り裂く青は、そのままでは終わらない。咄嗟に回避しようとする胴体部分を右斜め下から強引に切り上げて胸部半ばで止まる。鎧の強度が思いの他強固だったのだ。ダークナイトの左腕がレイドの顔に向かって振るわれる。レイドは咄嗟にその場にしゃがみ込むようにして姿勢を下げて敵の左腕を避けると、右足を跳ね上げて鎧の胸部を蹴り飛ばす。
(動き自体はそれほど速くないが、鎧の強度が予想より硬いな)
後ろに二メートルほど蹴り飛ばされたダークナイトが立ち上がる前に体制を整えると、レイドはすぐに駆け出していた。ダークナイトは既に獲物を失っている。既に脅威ではなかった。
「らぁぁぁぁぁ!!」
今度は鎧の強度を考えて刀を振るった。魔法武器である刀がレイドの意思を受けて輝きを増す。袈裟切りから逆袈裟へとつなげ、丁度斜め十字に鎧を切り裂くとその時点でようやくダークナイトの身体が虚空へと解けていった。二連撃はどうやら存在できぬほどに敵の本体を切り裂いていたようだった。
「よっしゃ、やってやれないことはないみたいだな」
「うむ、よくやったぞ少年。若いのに大した奴だ」
ゴブリンを居合い切りで斬り飛ばした老人が感心しながら言う。技の練度と鋭さに関していえば老人も大したものであったが、どうしても威力に自信がなかった。魔法で後衛に吹き飛ばしてもらうという選択肢もあったが、それをすると射線的に壁となって敵の侵入を減らしている氷塊まで巻き込む可能性がある。早めに片付けられてほっとしていた。
魔物たちは知性が低い。そのせいで氷塊を乗り越えて直進するなどという愚作を繰り返し続けた。一同はそのまま十数分ほど戦い、耐え凌いだ。その頃になってくると巡回中の騎士団や戦闘の音に気づいた住人たちが集まり、一気に攻勢に出て魔物たちを殲滅していった。
戦闘を終えた頃にもうかなり辺りは薄暗くなっていた。視界を確保するためにライトの魔法を唱えたエクスと共にレイドは帰宅を急ぐ。
大きなボールサイズの光の玉が頭上から二人の周囲を明るく照らす。星空を当てにするよりも確実だし、凄まじい数の魔物が発生していたことを考えると用心するに越したことは無かった。
「結局、アレは天使のせいだったのかな?」
「だろうな。魔物は神の呪いだ。同じく神の御使いである天使には魔物を意図的に発生させたりできても不思議じゃない気がするぞ。ただ、どんな種類の魔物も自由に召喚できるってわけじゃないみたいだったな。あいつらハイドラントで出てくるレベルの奴ばっかりだった」
「ダークナイトなんてレアな奴もいたけどね……でも、どうしてこの街ではああいうことをしたんだろう? モレスでは魔物が大量発生したなんて話は出回ってないみたいだったけど……」
「夜の一件でフレスタを警戒したんじゃないか? ドラゴンはさすがにシフトダウン状態の天使でもキツイんだろう。介入してくるかどうか確かめたかったんじゃないか?」
「……それだけなら良いんだけどね。どうも嫌な予感がするんだ」
明確に人間の敵として存在する天使が現れた。それはエクスを不安にさせるには十分なことである。選別戦争から五百年。もうそれだけの時間が経っているというのに連中が動き始めた理由が気になってしょうがなかった。同時に苦いものも感じていた。人間と共存する天使がこの事件のせいで再び迫害されやしないかと心配なのだ。母のこともあるし天使と人間のハーフであるエルフたちも少なからずこの事実のせいで揺れることになるかもしれない。それは彼にとってとても恐ろしいことである。
魔王像のこと、天使のこと、ついさっきの魔物のこと。考えることは沢山ある。これから何をするべきなのか。エクスは考えるだけで気が滅入る思いだった。
「とりあえず飯喰ってから考えないか? 昼に何も食ってないからいい加減腹ペコだ」
「腹ペコって……よくそんな余裕があるね」
「単純に開き直っただけさ。俺だって魔王様がとてつもなく心配なんだ。けど、今はどうにも動きようが無いからな」
敵のアジトが分からない以上はどうしようもない。無駄に走り回って探すよりも夜に勝負をかけようとしているレイドにとって今は待つ時であると理解している。そのために英気を養うなどというもどかしい時間に耐えていた。
本当はとても不安だ。石化した魔王様は誰にも傷つけられないというが、天使もそうなのかなんて話は聞いたことが無い。しかも復活が目前に控えたこの時期によりにもよって天使に奪われるという大失態だ。思い出したら怒りで頭が可笑しくなりそうな程である。
レイドは自分の弱さが憎かった。自身の無力さが許せなかった。己の不甲斐無さが堪らなく辛かった。
石化してまでも人類を救ってくれた恩人を守ることもできずに奪われ、挙句の果てには命の危険に晒してしまっている。一人の人間としてレイドの罪悪感は現在進行形で募り続けている最中だった。それから五分後、レイドの家の前で一旦二人は別れた。
「……そうだった、扉を買い換えないといけないんだよな」
玄関の大扉はシスターたちによって鍵の部分に穴が開けられてしまっている。当然鍵なんてかけられない。次の休日にでも修理を頼もうと決意し、レイドは中へと入っていく。照明の魔法を放ち、室内を照らす。ほとんど昨日の戦闘のままで放置された室内は色々と悲惨な姿を晒していた。穴が空いた壁や砕け散った椅子の破片。これらの修理費用を考えると思わず頭が痛くなってくる。だが、もっとも頭が痛くなるのはあるはずの物が無いことだった。
最近では毎朝欠かさずにレイドが手入れし、磨いてきた魔王像が無い。大事なものを失った喪失感で思わず胸にぽっかりと穴が空いてしまったような気分になる。もう一度深くため息を吐いた。
(とりあえず飯だな)
夜に備えなければならない。台所のテーブルに鞄を置くと、冷蔵庫を物色して中身を漁る。料理はあまり得意ではないが、とりあえず満腹になれば良いという主義なので自分が満足させるだけならば問題はなかった。適当に野菜と肉を取り調味料で味を調えながらフライパンで炒める。そうしてテーブルの上に置いてある鍋敷きの上に置いた。
食卓に着くと今度はパンを取り出すと適当に挟んで食べていく。ガブリとパンに豪快にかぶりつくと、塩コショウの利いた肉と野菜の旨みが口一杯に広がった。味付けはシンプルであったが、それでも十分にレイドは満足できるようになっている。何も問題はない。
祖父が死んでしまってからずっとこんな感じの食事が続いていた。偶に誰かが作ったものが食べたくなれば外の店で食べることもあるし、エクスの家で夕食に誘われた時には喜んでご馳走になっている。そのせいでレイドはエクスの母親に餌付けされている。
エクスの家が羨ましく思うことがある。両親は金を送ってくるが滅多に帰ってこない。誰かの作ったご飯の美味さというのにある意味では焦がれていた。その分一人暮らしの自由を満喫できるので突然帰ってこられたときにはやり辛いものがあった。両親が嫌いなわけではないが、微妙な気分になる。
多めに用意してはいたが十数分後にはそれらをペロリと平らげたレイドは冷蔵庫の中の氷を冷やして水に戻った部分を凍らせ、鞄を持って部屋へと向かった。学生服を脱いで私服に着替え、刀を置いてベッドにゴロリと横になる。そうしてしばらくは満腹になった腹を落ち着かせながらこれからのことを考えた。
とにもかくにも魔王像の在り処を探さなければ話にならない。そしてそのためにはシスターたちに魔王像を盗ませなければならない。北と中央がやられた。残りは南と東にある教会だ。魔王像の見学のためにハイドラントの街にある教会を全てレイドは覚えている。南に一つ、そして東にも二つある。このどれかに張り込み、なんとしてでも連中のアジトを突き止めなければならない。果たして自分にそれができるのかと弱気な考えが頭を過ぎるが、そんな情けない自分を戒めるために懐からロザリオを取り出した。
逆十字の上に腰掛けている小さな魔王様は相変わらず精巧な作りをしている。盗まれた魔王像と同じぐらいにしっかりと作りこまれているそれを見ていると、レイドは何故か弱気を叱咤されているように感じた。
そういえば、いつから自分はこんなにも魔王様に恋焦がれるようになったのか? ふと、思い立ったレイドは旧い記憶を探りながら跳ね起きるようにしてベッドから立ち上がる。
「……確か母さんの部屋にまだあったな」
刀を引っつかんで腰に提げると、旧い記憶を掘り返しながら母親の部屋へと向かっていった。掃除は月に一度やる程度。埃が少し気になったが今はそんな気分ではない。照明の魔法に照らされた室内は酷く静かだ。木造のベッドとクローゼットやタンスなどがあるが、最も一目を引くのは巨大な本棚である。魔導師である母の蔵書だ。びっしりと魔道書や専門書が詰まっておりこれを使って勉強させられた記憶があった。
「えーと、確か幼児用の絵本だったかな……お、あったあった」
手に取ったそれは肩身の狭そうに本棚の端の方で眠っていた。黒い装丁の薄い本。題名は『封印魔王の冒険』と書かれている。ページを適当に捲ると子供用に可愛らしくデフォルメされた魔王様が従者と勇者と賢者を引き連れ恐ろしい姿をした神様や天使と戦っている場面に出くわした。
『従者は杖を、賢者は銃を、勇者は剣を、そして魔王様は剣と刀の二つを持って人類の敵と戦いました。沢山の人間が死にました。沢山の悪魔が死にました。それでも、魔王様は決して最後まで諦めませんでした――』
選別戦争時代の戦いを簡単に描いた絵本であるそれは、最後はハッピーエンドで終わっている。だが、それはあくまでも生き残った連中にとってのハッピーエンドだった。一番苦労したはずの魔王様は石化したままでそれっきり。人間と悪魔が勝っておしまいというそんな分かりやすいハッピーエンド。
「ああ、そうだったな。俺は結末が納得できなかったんだ」
子供心にそれが納得できなかった気がする。一番頑張ったはずの魔王様が石化したままで終わるなんて絶対に可笑しいと思ったのだ。だから当時のレイドは生き残った賢者や勇者や従者のことよりも魔王様のことを考えた。子供たちのゴッコ遊びでも毎回魔王役を進んでやった。当時の遊び仲間は皆勇者や賢者は従者をやりたがった記憶がある。
最後には石化して動けなくなる魔王よりも他の役の方が楽しいからだろう。一応それでも敵役の神と天使よりは人気があったが子供にとっては魔王という役は途中から楽しくなくなる役であった。そうして、関心が魔王へと移っていたところで従者の一族の話を聞いて魔王様が復活することを知ったときに興味も好奇心も全部持っていかれたのだ。秘密を知っているという優越感と魔王様のお世話をしているのだという自負。さらには魔王の姿を模して作られた魔王像の美しさに魅せられてしまったおかげで、今のレイドの基本ができた。
レイドは今の自分になるまでの記憶を振り返って出た結論に思わず笑った。あの頃から結局自分は何も変わっちゃいない。あの魔性の魅力を持つ魔王様に心を奪われて以来そのままだ。嫌な気はまったくしなかった。寧ろ誇らしいぐらいだ。他人に笑われようがそれでも良いと思う。少なくともレイドは今も心底そう思っている。
『黙示録の獣が強大な力を持つ天使長とその命が尽きるまで戦い、その間に魔王様の一行は神々の住む世界と人間の住んでいた世界とを行き来できなくするために封印を施しました。ただ、封印の代償として沢山の力を消耗した魔王様は自身を石化して生きながらえなければなりませんでした。従者は石化した魔王様はいつか必ず復活なさると言い残し、二人一緒に姿を消しました。残った賢者と勇者もまたそれぞれ自分たちの守った世界に帰ります。人間と悪魔はこうして世界の平和を手に入れたのでした。めでたし、めでたし』
人間と悪魔たちだけではなく今度こそ魔王様もハッピーエンドの中にいて欲しい。そのために全力を尽くそう。幸い、日付さえ変われば誕生日が来る。そうなれば、ようやく魔王様を復活させることができる条件は整う。一人で行く場合に考えていたレイドの唯一の勝利条件。復活を果たした魔王様が全力を振るえば天使の一人ぐらい物の数では無いはずだ。身動き取れない今、寝込みを襲うような真似をする卑劣な天使に負けるはずがない。
封印魔王シリウスは唯一神に反逆できる力を持った魔王であり限界突破者。例えシフトダウンによって力を落とされようと、同じくシフトダウンしている天使など数秒もかからずに消滅させるだろう。そのためには、レイドが絶対に魔王像のある場所にたどり着かなければならない。魔王像が破壊される前に。
「ん……来たか」
来客を知らせるベルが鳴った。絵本を本棚に戻したレイドは急いで礼拝堂の方へと向かっていく。すると、そこには長剣と軽鎧で武装したエクスがいた。それだけなら別に不審でないが、何やら様子が可笑しい。不審に思って声をかけようとする前にエクスが口を開いた。
「大変だよレイド。捕虜のシスターが奪還された!!」
「なんだって!?」
「夕方の騒動が騎士団の詰め所の近くでもあって、それでシスターが逃げたらしいんだ」
「追跡できたのか?」
「いや、それどころじゃなかったらしい。僕たちが見たアレと同じで、白い霧が現れて魔物を大量に生み出していったらしい。騎士団はそのせいで動くに動けなかったみたいなんだ。僕たちが相手にした数よりも更に沢山の魔物がいたらしいよ」
「くそ、えげつない真似をしやがる」
早々簡単に街の住人がやられるとは思えないが、それでも何人かは負傷したり死んだかもしれない。インテレクトの学生はかなり戦闘用の魔法を習得しているが、一般人で義務教育程度の魔法しか習っていない人間にとってはあの数はかなり危険だっただろう。騎士団が追跡できなかったのも頷ける話だ。
「マジで連中はトゥリーズンで生きる気がないらしいな。魔物を大量に発生させるなんてやり方を平然と行えるだなんて、この世界で住む者の風上にもおけん」
毒づくレイド。エクスもそれには同意しながらも更に続けた。
「同感だよ。ただ、その時少し変だったみたいなんだ」
「変とは?」
「その際にシスターの一人が魔物に襲われて死んだらしいんだ」
「なんだって」
「リースとか呼ばれていたシスターが襲われないように庇いながら逃げようとしたらしいんだけど、守りきれなかったらしい。その後で白い霧に取り込まれて空間転移したそうだ。もしかしたら天使にポゼッションされると神に選ばれたのと同じ効果が現れるのかもしれないね。恩恵は神聖術だけじゃあないらしい」
「なるほど……そうか、その事実があるから神聖教会の連中は信徒を増やしていけるのかもしれないな。魔物に襲われなくなるのだとしたら、そりゃあ連中を信仰しようとするかもしれん」
「根本的な解決にはならないけどね。だいたい魔王様の封印が解けてまた選別戦争が勃発したとしたら、そいつらの命はないはずさ。授業でよく習ったあの神様がそんな慈悲を持っているなんてとても思えない」
一方的でかつ絶対的な支配者。それが神という奴だ。でなければ人間を選別するなどするはずがない。少なくとも慈悲深い顔を持っていると言われていた神は選別戦争が始まった頃には既に人類の過去の妄想となって死んでいる。今では神聖教会の教義の中でひっそりと生きているぐらいだろう。現在のトゥリーズンでは誰もそんな与太話を信じることはない。
「まずは作戦会議だな。適当に座ってくれ」
「そうだね、連中が魔物を使うということが分かったんだ。僕たちの方も動き方が変わることになるかもしれない」
二人して礼拝堂の椅子に腰掛け、敵の今までの動きから行動を予測していく。敵の狙いこそ分かっている。ならば、自分たちが同じ立場だったとして、いったいどんな作戦を取るだろうか。戦術研の二人は知恵を絞っていく。
「一番やりそうなのが魔物で陽動しておいて、手薄になった教会を狙うことだろうな」
「それだと必然的に騎士団は人手を割く羽目になる。襲われていない教会は今のところ三つ残っているけど……君ならどうする?」
「今日中に一気に全部襲う。この街で連中は騒ぎを起こしすぎている。俺らに天使が見つかってるし、悪魔が介入してくるよりも先に連中は仕事を終えたいはずだ。なら速攻で全部行くか最悪でも今日中に二つは襲いたいと思ってる可能性がある」
「向こうの正確な人数が分からないけど?」
「昨日襲われた中央区の教会は二つ。俺の家ともう一つ中央区であった教会で、他は襲われていない。向こうは神父と警備の騎士が殺されたおかげで犯行者の人数が分からないわけだが、俺たちの所に二人来た。ということは最低でも一人か二人は絶対にいたはずだ。逃げ延びたリースってシスターと合わせて最低二人。戦力を半々で分けていたと仮定して四人いたかもしれない計算になる。今は一人死んでるから可能性としては三人で、丁度一人ずつ教会を襲えると推察される」
「面白い推理だね」
「駄目押しでもう一つ。極端な話だが天使にとってシスターたちは必要ない可能性がある。倒されても自分の欠片が魔王像を奪取すれば良いわけだから、そこまで案内させるだけで良いのなら、やらない理由がないんじゃないか?」
「シスターはいつでも用済にできると? 魔物に殺されるリスクを与えてまで助けたのにかい?」
「シスターを骨の髄まで使い切るためには必要だとは思わないか? 助けられたシスターは恩義を感じて更にその天使の言葉に盲目的に従うだろうし、今夜のための数が揃う」
話していて自分でもえげつないと思ったが、レイドは最悪この天使はそれぐらい平気でやりそうだと考えていた。例えばエクスの母親はそういう手段は取らない。そもそも人間と敵対していないからだし、それどころかできれば今のこの状態で止めておきたいと考えているかもしれない。この状態でならば人間と仲良くしても問題にはならない。天使の中にもそういう優しい性根の持ち主がいる可能性があるから、ああして魔物を平然と放った今回の天使は人間にとって冷酷な存在であると考えらえる。
「よし、じゃあレイドの推理が当たっていると仮定して僕たちはどうやって動く?」
「教会のどれか一つを見張っていたら良いと思うんだが……それだけじゃあ駄目か」
「駄目だろうね。邪魔だと判断されて排除される可能性があるし巡回の騎士に呼び止められる可能性もある」
「あー、そうか。騎士団が見張ってるはずなんだよな。仕事の邪魔するわけにもいかないし……どうしたもんかな」
「それについて、今度は僕から提案があるよ」
「ほう?」
「一つ不思議に思っていたんだけどね、どうして君の家は襲われたのかな」
「どういうことだ?」
「だって君の家は確かに魔王教会だけど、普通に考えたら今はもうやっていない教会じゃないか。そんな家に態々入ろうなんて普通考えるかな」
「……夜だったから張り紙の文字が暗くて見えなかっただけじゃないか?」
「だとしたら連中は昼間に場所を確認したりしていないということになる。普通は犯行前に忍び込む場所の下調べをするのが普通だと思うんだけど、教会はそんなことしなくても場所だけは街で売ってる地図で大体の場所は分かるからね。それに夜の暗闇でも星明り程度があればなんとか判断するための材料が屋根の上にはあるだろう?」
「なるほど、屋根の上にある十字架を目印にしているわけか」
「その通り。連中が昨日の夜巡回している騎士団から逃れられたのは多分空を飛んできたからだ。あの修道服って黒いから、夜空を飛んでいたとしても夜の暗さで判別し難い。これなら逃げるのも簡単だと思うんだ。というわけで僕たちは連中の更に上空から教会を監視していよう。これなら騎士団に止められることもないし、犯人が逃げたとしても監視することができる」
「……空か。飛ぶのは授業でやったが……夜の間ずっと飛び続けるなんてできるか?」
「大丈夫だと思うよ、昔子供の頃に家を抜け出して星を取りにいったんだけど、翌朝まで余裕で飛べたから」
「星を取る……手掴みでか?」
「勿論虫取り網を持ってたさ。結局届かなかったけどね」
子供の頃の思い出をさも楽しそうに語るエクスに、レイドはなんともいえない表情を向けたが、微笑みで迎撃された。
「なんだよその自慢げな笑顔は。武勇伝のつもりかエクス。それがありなら俺は幼少時に既にハイドラント中にある教会の魔王像を拝むという偉業を成し遂げていたぞ」
「実に君らしい武勇伝だね」
「ああ、そうだろう友よ」
ニヤリと唇を釣り上げた不敵な笑みで対抗しながら、レイドは頷く。それからもさらにいくつかの作戦を語り合ったが、中々ピンとくる作戦は浮かばず、結局空で見張ることにした。途中でフレスタに家か部室で待っていろと言われていたことを思い出したので、書置きを玄関に残していくことにした。フレスタがそれに気づけば途中で合流することもあるだろう。レイドとエクスはそうして夜が更けた頃に空を飛んだ。
ハイドラントの空は恐ろしく寒かった。用心して長袖とマントで武装していた二人であったが、吹き付けてくる冷たい風には辟易した。これで季節が暖かな春ではなくて冬だったとしたら二人とも既に空からの監視などという行為を断念していたに違いない。この時期であったということと、何よりも都合が良かったのが今日はほぼ満月に近い月が出ていることである。星明りともあわせれば随分と夜目が利くようになる。持参した望遠鏡で教会を見張れるギリギリの高度まで上昇していた二人にとって、その事実が非常にありがたかった。
「へっくしょい!! くそ……連中のアジトを見つける前に風邪になりそうだ」
「確かにね」
懐から取り出した懐中時計を月の光に照らして眺めながらエクスは相槌を打つ。時刻はすでに日付が変わってから二時間は経過している。時間的にそろそろだと思う。シスターが空間転移してきたらそれでおしまいだったが、モレスで連中を発見できたということは少なくともそれでアジトに移動しているということはないと思われた。
レイドは一心不乱に教会を眺める。何時間もずっと一つの教会を飽きもせずに眺めている。凄まじい根気強さだ。雑談を交えながらだったが、ずっと警戒し続けている彼の姿に執念のようなものをエクスは感じた。
二人が選んだのは東側の教会の監視である。二つ同時に監視することはできないが、見張っている教会で見逃してしまっても運がよければもう一つの教会の方で発見できる可能性があった。少しでも連中のアジトへの手掛かりとなるのなら些細な確率でも上げる場所を取らざるを得なかった。
「エクス、周囲に異常は無いか?」
「まだないよ……いや、始まったようだね。僕たちの読みも満更ではないみたいだ」
エクスはレイドと違って街の様子を監視していた。すると、監視していた教会の近くにあるメインストリートから魔法の照明が打ちあがったのを確認した。その近くでは空間が歪み、夕方のときのように次々と魔物が召喚されている。巡回中の騎士が戦闘に入っていくのが見える。続々と出現する魔物たち。普段なら露天商が並んだり、昼間の人通りもそれなり多いはずのその通りは『海への道』と呼ばれ、街の東西に一直線で繋がっているため、東側の港にまで通じている。そのためか通常の通りよりもかなり広い。魔物の発生速度も夕方の非ではないように思われた。
戦闘が激しくなればなるほどただ事ではないと判断した付近の住民たちも起き出して来る。皆手に魔法武器を持ちだし、魔法を放ちながら次々と参戦。激しい戦闘状態に陥った。
望遠鏡でそれを眺めるエクスは少しばかり罪悪感を感じた。自分もあの中に行き、人々のために参戦するべきではないかという使命感のようなものが胸を焼く。騎士団に入ることを目標にしているエクスにとって、魔物と戦わないという選択は相当にストレスが溜まることであった。手に汗を握りながら、住人や騎士たちが怪我をしないように祈ることしかできない。
自分一人の力で全てを守れるなんてことは思ってはいない。だが、それでも何かできることがあるはずだった。エクスはエルフであり、年齢のわりには強力な魔導師に分類される。自分一人いるだけで少しでも戦闘時の負担を減らすことができる。そのことを知っているエクスにとってはもどかしく思ってしまうのも無理からぬことだった。
「大丈夫か? そんなに気になるんだったら行っても良いんだぜ。俺は力を貸してもらってるけど無理やり力を貸してもらっているつもりはないんだからよ」
「僕はここに残るよ。君を一人にするわけにもいかないし、騎士団も続々到着している。この世界の人間は皆強い。僕はそれを信じている」
「そうか、サンキューな」
「その代わり、絶対に連中のアジトを見つけよう。こんなことをやる奴は絶対に野放しにしちゃあいけない」
神の呪いである魔物を使うという行為を容認できる時点で、そいつらはトゥリーズンで生きる資格は無いとエクスは思う。目を凝らしながら魔物の発生源の中心にいる白い霧を睨みつける。望遠鏡越しに見るその白が、今は堪らなく憎い。と、次の瞬間にはその白い霧が消えた。空間転移だ。急いで周囲を見回すと、また別の場所で魔法の照明が上がるのが見えた。
「別の場所へ移動した。次々と魔物を生み出しては消えて行ってる……」
「連中の狙いは明白だな、お……こっちにも来たぜエクス!! お前の予測ドンピシャだ、空から降りていったぜ」
「人数は?」
「シスターが一人だ。しかも俺の家に来たシスターみたいだな。今扉に穴開けて教会の中に入ろうとしているところだ」
「護衛にいるはずの騎士段はどうなっている?」
「少し前に四人ほど外に出て行った。多分外の戦闘を確認しに行ったんだろう」
魔王像の護衛の仕事もあるが、住人の命を守るのも騎士の仕事だ。来るか来ないか分からない連中のために人員を割くよりも明確な敵のいる方へ人をやることを選んだのかもしれない。だが、それを聞いてエクスは訝しげに眉を顰める。
「おかしい、父さんは教会に少数精鋭の腕利きをやるといっていた。四人も外にいくはずがないと思うんだけど……」
エクスは教会の周辺に目をやる。すると、教会の周囲に散らばった騎士たちが見張っているのが目に入ってきた。どうやらエクスの父親も連中のアジトを発見するために盗ませることにしたようだった。
(考えることは一緒みたいだね父さん)
陸と空からの監視。空間転移以外の手段で逃れる術はないと思われる。エクスはそのままレイドと一緒に教会の監視を続ける。
「頼むから空から逃げてくれよシスター。空間転移なんてされたらどうにもならない」
祈るようにレイドの呟きが虚空へと融けていく。数分が過ぎた。その頃にはレイドもエクスも望遠鏡を握る手に力が篭っていた。出てくればそのまま見逃して案内させることができる。それに、これで分かったこともある。どういう理由があるのかは分からなかったが、本物の魔王像を手に入れたはずの連中は本当ならもう盗むはずがないのだ。ならば答えは一つ。連中はまだ確認をしていないということなのだろう。恐らくこの街にある教会の魔王像全てを集め、その上で確認するつもりなのだ。どうしてそういう回りくどいやり方をするのかは分からない。唯一本物か確認できるのが天使で、悪魔の介入を恐れているから一度に全部確認するということにしているのではというのが二人の共通の予測だった。
刻一刻と時間は過ぎる。数分が数十分にも感じられる。思わず喉が乾いてくる。唾を飲み込んで強引に喉の渇きを癒しながらさらに監視を継続。
「よっしゃ!」
レイドが歓声を上げる。扉から出てきたシスターが魔王像を神聖術で浮遊させながら教会から姿を現したのだ。ゆっくりと周囲を警戒しながら空へと飛び上がっていく。方角は北。初めに襲われた地区の方角だ。黒の衣装のおかげで酷くその姿は見難い。だが、魔王像はそれとは対照的に白かった。恐らくは大理石の類で作られた魔王像なのだろう。闇の中にある白は美しさと共にレイドたちの希望となった。
「確認してるな?」
「ああ、このまま気づかれないように上から追跡しよう。念のため高度を上げようか」
「そうだな」
用心深いほどに用心を重ね、そのまま二人は夜の街を飛んでいく。空を飛ぶという行為は不慣れであったはずだが、それでも今このときばかりは二人して抜群の集中力を持って魔法をコントロールしていた。これを逃せば後が無い。それぐらいの心持ちでいる以上、今の二人からは鬼気迫るほどの真剣さが伝わってくるようだ。
数十分後、二人は一つの屋根の下で止まった。初めに襲われたはずの北区の教会だ。そこに降りていくシスター。エクスとレイドは空からシスターが中に入っていくのを確認して、顔を見合わせる。
「やられたね。もう襲われるはずが無いって思い込んで騎士団は誰もここに張り付いていないみたいだ」
「初めから乗っ取られてた可能性もあるぜ。……踏み込むか?」
「ちょっと待って、先に巡回の騎士団に連絡……いや、その必要は無いか」
眼下にはシスターを下から追跡していた騎士たちがいる。一人は応援を呼ぶためか場を離れていく。残った三人は慎重に周りを伺いながら周辺の様子を伺い、踏み込むタイミングを計っている。応援を待つつもりはなさそうだった。
「これで騎士団連中がしくじったら終りだな」
「少し遅れたタイミングで僕たちも踏み込もう。騎士は剣は得意な連中は多いけど、魔法を重視している連中は少ない。戦闘中に割って入ってなし崩し的に共闘に持ち込むんだ」
「つまみ出されないか?」
「邪魔しなければ大丈夫だと思うよ。連中相手に余裕があるとは思えない」
ベテランの騎士であってもあの神聖術の守りを突破するのは難しいのではないかとエクスは判断している。魔物や人が相手なら騎士団は戦い慣れていて強いだろうが、神聖術を扱う敵と戦った経験など選別戦争当時ならばともかくとして、現代の騎士団には皆無だろう。苦戦は必至だと思われる。一応捕虜を捕まえたときに連中のやり口を説明していたために情報の共有はしているだろうが、それでも一度も見たことが無いそれに対処するのは難しいはずだ。
数分後、三人の騎士が踏み込んだのを確認してからレイドとエクスは空から降りた。数時間振りの地面の感触に思わず感激したレイドだったが、すぐに気を取り直してマントを脱ぎ捨てる。その際望遠鏡やら水筒やらの余計な荷物をその辺りに放置した。帰りにでも拾って帰れば良い。
「気をつけて行こう。何があるのか分からないからね」
「ああ」
絶対に生きて帰ると目線で語り合いながら、二人は揃って騎士たちが踏み込んだ教会に進入していく。礼拝堂の扉は既に騎士たちによって破られている。前衛のレイドを先頭にして礼拝堂へと足を踏み入れた二人の目に映ったのは、蝋燭の明かりに満たされたやや薄暗い室内だった。
壁の周囲に灯された蝋燭が揺らめきながら影を映す。木造の椅子が綺麗に整列しながら並びながら何列にもなっている。中央部分から真っ直ぐに伸びる床の先には教壇が据えられており、そ上には随分と立派なステンドグラスが存在した。昼間にそれを見れば一枚の絵画のように美しい物が拝見できるのだろうが、薄暗い室内では拝むことはできない。
「騎士たちは居ないようだね」
「魔王像を隠せるようなスペースがある場所なんて限られていると思うんだが……居住スペースお方にあるのかな」
レイドの家はこじんまりとした教会であり、かなり規模が小さいがこの教会を外から見ときにはレイドの家の二倍はありそうな大きそうだった。隠す場所など沢山あるのかもしれない。とはいえ二階建てではなかったようだったからそれほど多く探す場所な無いと思われる。
ゆっくりと歩きながら、居住スペースの方へ通じる通路へと向かう。入り口から教壇の右側にある通路。刀を抜き放ちながらレイドが首だけ出すようにして様子を伺う。真っ暗で様子が見えないかと思ったが、備え付けられている蝋燭の明かりがその心配を杞憂にしてくれた。
一部屋ずつ慎重に確認する。騎士団も探したのだろう。扉はほとんど開け放たれており、中には誰も居ない。寝室、台所、浴室、書斎と順々にめぐりながらやがて全ての部屋を見回した頃には二人は首を傾げていた。
「隠し扉でもあるのか?」
「かもしれないね。でも、だとしても騎士たちが部屋を漁った形跡が残っているはずだ。ここじゃあないのかもしれない。一旦礼拝堂に戻ろう」
すぐに礼拝堂に取って返す。そういえば死角になっていて一箇所だけ確認していない場所があった。エクスが言ったのは教壇の裏側だった。確かに死角になっていて確認していなかった。確認してみると、確かにそこには地下へと通じる階段があった。エクスが教壇の上に置いてある蝋燭を手に取り、暗黒が広がる階段の周囲を照らす。床には何かを動かした形跡があり、どうやら普段は教壇でこの階段を隠しているらしかった。底は見えない。だが、騎士たちもこれを発見したのだろう。
「随分と呆気なく見つかったな」
「そうだね。この蝋燭を床に置いておこうか。後から来るだろう騎士たちの良い目印になる」
手に持っていた蝋燭を燭台に戻し、蜀台ごと床に置く。二人は照明の魔法で光の玉を作るとそれで明かりとしながらゆっくりと階段を下りていった。
階段の壁は随分と年季が入っているように思えた。石を積み上げて作ったと思われる階段の壁には表面がひび割れ、時間の経過を感じさせる。大体目算で四階分ほど地下に降りただろうか。百八十度折れ曲がり地下へと通じる踊り場を四つほど経由して下った先には松明の明かりに照らされた鉄の扉が見えた。重そうなその扉はしかし錆びに錆びていて、全く扉の役目を果たせなかったようだ。力づくで破壊されたらしく、中央部で大きくひしゃげている。辛うじて左側は残っているが、右側の扉を強引に破壊されてしまっているためもはや扉としての力は無い。
「騎士の人かな?」
「おそらくな。しかしこの教会の地下にこんなものがあるなんて想像もしていなかったぜ。もしかしたらここは選別戦争以前から在った神聖教会の教徒の隠れ家なのかもしれないな。上の魔王教会は隠れるためのダミーだったんだ」
「ありえる話だね。そうやって彼らはひっそりと暗躍してきたのかもしれない」
鉄の扉の前にたどり着き、室内に入ろうとしたレイドたちに微かな金属音が聞こえてきた。どうやらこの先で騎士が戦っているらしい。中を覗き込んだレイド。次の瞬間にはもう室内に飛び込んでいた。
室内はちょっとした大広間になっている。その奥で、一人の騎士がたった一人で戦っていた。三人ほど踏み込んだはずだったが、残りの二人は大量の血溜りの上に伏していた。
一人は鎧の上から叩き切られたらしく臓腑を撒き散らしながら事切れ、もう一人は頭部を粉々に粉砕された状態で無残な死体となって転がっている。
「レイド! く……これは酷い」
遅れて入ってきたエクスが室内の様子を確認して呻いた。生き残った騎士はダークナイト三匹に追い詰められながらも、たった一人で奮戦していた。右手に握った長剣と左手の盾を巧みに操り、猛攻を凌いでいく。だが、背中には石の壁で塞がれておりもう後は無い状態だった。避けるスペースが無い。このままでは数の暴力に押しつぶされるのは名白であった。
「ダークナイトども、こっちにも人間はいるぞ!!」
レイドは刀を掲げながら自分の存在を誇示するかのように声を張り上げた。突然の乱入者にダークナイトたちが一斉に振り返る。その瞬間、背後から盾を前に突き出しながら体当たり。包囲網を突破しようとしたその騎士によってダークナイトの一体が吹きぶ。騎士はそのまま空いた隙間から転がるようにして包囲網を脱出し、ダークナイトたちから距離を取りながら身体を跳ね上げる。一瞬の隙を突いて魔物に体当たりをかますなど凄まじい度胸だ。レイドは騎士に感心しながら、その騎士の隣で立ち止まり刀を構えた。
「助太刀します」
「すまない少年、助かった」
横目でちらりとレイドの姿を確認した青髪の騎士は、いきなり現れた少年たちに驚いてはいたものの、素直に手を借りることにした。すぐにその場に追いついたエクスは、レイドと騎士の後ろから騎士に呼びかけた。
「一人一体ずつ相手にしましょう」
「なら俺は右側の奴をやるぜ」
「私は左を抑えよう。倒せなくても良い、時間を稼いでくれれば私がやろう」
低い声でそういう騎士。何故少年たちがこんなところにいるのか疑問ではあったが、敵というわけではないと判断していた。件の魔王像泥棒の一味であればダークナイトたちの注意を逸らす必要など無い。今はただ共通の敵を倒すだけだった。
話が纏まったところでそれぞれの相手に向かってレイドと騎士は突っ込んだ。エクスは長剣を構えはしたが、その場で詠唱を開始する。
「せやっ!!」
気合を入れながら右にいるダークナイトに向かって距離を詰めるレイド。対するダークナイトは剣ではなく柄の長い鉄槌を構えていた。随分と重そうだ。受けたら力づくで粉砕されるだろう。血が滴っているところを見ると、恐らくは事切れていた騎士の一人を殺害した相手なのだろう。
レイドは刀を構えたまま近づき、敵が槌を振り上げたとみるやいなや右に飛んだ。床石を砕く勢いで振り下ろされた槌を避けレイドが刀で切りかかる。鉄鎚は剣よりも重い。ダークナイトが槌を振り上げるよりも先に、背後に回りこむとそのまま後ろから斬り付ける。腕に伝わってくる硬質な物体を切り裂く独特の感触。ダークナイトの背中がバックリと切り裂かれ、鎧の内部を曝け出す。空洞の中に黒いガスのようなものがある。
斬られた衝撃で前に倒れてたダークナイト。レイドはその隙を見逃さない。すり足で距離を詰めるようにしながら、右手を引き、身体の捻転を利用して切り裂いた部分を目掛けて必殺の突きを繰り出す。青く光る刀身が放たれた矢のような速度で空気を切り裂き、黒いガスのような本体を貫く。その瞬間ビクンっと一瞬鎧でできた体が痙攣にも似た反応を返す。レイドはその状態から刀で抉るように手首を返しそのまま切り上げて離れた。
本体をやられたダークナイトが消えていく。周囲を確認すると、既に青髪の騎士とエクスは敵を倒していたようで、レイドの戦いを観察していたようだった。
「助かったよ。助太刀感謝する」
戦闘がひと段落した頃、初めに切り出したのは騎士だった。礼儀正しい性格の人物のようで、レイドたち二人に対して深々と礼をした。
歳は二十代前半ぐらいだろうか。短めに切られている青髪と柔らかな物腰。誇り高い騎士として、真っ直ぐに人を見るその青の双眸には確かに感謝の念が宿っていた。
「私の名はカイン・サンズレッド。中央区の騎士団に所属する騎士だ。君たちの名前は?」
「レイド・ハーヴェイ、インテレクトの学生です」
「同じくインテレクトの学生、エクス・ローゼンバーグです」
「ローゼンバーグ? もしやハイデン団長のご子息か?」
「はい、そうです」
「なるほど……中々強力な魔法を使う魔導師だと思ったが合点がいったよ。しかし、どうしてインテレクトの学生たちがこんな所に?」
疑問に思うのは当然だった。レイドが簡単に事情を説明する。自分の家の魔王像が盗まれたので、二人して犯人のアジトを探していたのだと。カインは頷きながらも渋い顔をする。騎士として当然の反応だったが、その二人に命の危機を救ってもらったという事実があるために軽く注意するだけに止めた。
「これから二人はどうするつもりなんだ?」
「勿論、先に進む。この機会を逃したら取り返しの付かないことになるかもしれない」
「危険だぞ」
「それでも行きます」
レイドの黒瞳がカインの青い瞳を真っ直ぐに見上げてくる。決して引かないとその目には書かれていた。
「……エクス君も同じ考えなのか?」
「レイド一人に行かせるわけにもいかないですし、あのシスターには借りがあります。ここでリベンジしておきたいですね」
少年たち二人は本気だ。インテレクトの学生ということもあって、騎士団員に十分通じるようなレベルの戦闘能力を有していることも確認した。少し迷ったが、カインはすぐに決断した。
「命を失う覚悟があるんだな?」
「当然。命に代えても魔王像は取り戻してみせる」
「死ぬために行くつもりは無いよ。危なくなったら僕がレイドを連れて逃げるから」
「……分かった。ならば私もいこう。学生二人を置いて私だけ逃げるわけにはいかない」
「いいんですか?」
「レイド君は私が止めても振り切っていくつもりだろう。そうなったら君はレイド君につくだろう? 君たち二人掛りでこられたら、私は多分君たちを止められない」
カインは一人ずつならば相手にできるだろうとは思っていたが、二人同時に相手にできるほど自惚れてはいなかった。それにハイデンの妻が天使だということを知っている。エルフであるエクスの魔法の力はかなり強力であることは先の戦闘で十分に分かっていたから、かなり分が悪いと考えた。ならば一人でも多いほうが生存率は上がる。
「防御力が高い私が先頭を歩こう。殿はレイド君に任せる。エクス君は中央でいつでもサポートできるように控えていてもらいたい」
「はい、分かりました」
「それと、君たちは昨日連中と交戦しているのだったな。敵の情報を詳しく教えてくれないか?」
「分かりました」
カインに邪魔されるかと思って少し構えていた二人だったが、随分とカインの対応が柔らかかったので毒気を抜かれていた。カイン自身は危険だと思っているが、この少年たちの気持ちは少なからず理解できるものがあった。ハイドラントの騎士団の一人として、今回の賊には思うところが多々あったのだ。当事者の一人だというのであれば、その念もさぞ強いだろうことは想像に難くない。それに第一、こういう行動力旺盛で真っ直ぐな少年たちは嫌いではなかった。
「それでは進むとしようか。二人とも十分に気をつけるように」
先頭に立ったカインは、そういうと盾と剣を構えて先へと向かっていく。レイドとエクスは一瞬顔を見合わせると、苦笑しながら人の良いその騎士の後を追った。
情報交換しながら三人は進んだ。途中で二度ほどダークナイトやオークなどに襲われたが、エクスの強力な魔法とカインの防御力、そしてレイドの素早さを利用したかく乱戦術によって次々と奥へ歩んでいた。
「驚いたな。二人ともかなり戦い慣れているな」
「魔物の相手は街を歩けば大抵経験するし、学校でもそれなりに魔物について勉強してきたからね」
「頼もしい限りだな。私も息子ができたらインテレクトにやることにしよう」
「結婚しているんですか?」
「いや、相手を募集中だ。騎士よりも農民の男の方が人気があるからな」
「農民……ああ、あのエリート騎士たちですか」
神の呪いによって広大なスペースのある土地では強力な魔物が多数出現する。だが人間が食料を生産するためには広大な土地が必要になるので、そこを管理する農民は例外なく破格の戦闘能力を持っていなければ絶対に勤まらない。つまり農民とは選ばれたエリートたちにしか勤まらない過酷な職業なのである。国からも多額の給金が支払われるし、公務員扱いされている。女性たちから男を捜す上で農民なら間違いなしと言われているぐらい人気がある。
「農民か……インテレクトでも学生がなりたい職業の上位に位置していたな」
「毎日死と隣り合わせの生活を送りながら、我々のために食料を生産してくれている。彼らが厚遇されるのは当然だ。噂では農民は一人で三人の騎士を相手に戦っても勝てるといわれる程の戦闘技術を持っているそうだ。正に戦闘のエキスパートだよ。五人も入れば竜も狩れるらしい」
「竜を!? そいつは凄いね」
「私もまだ会ったことは無いがな。ハイデン団長は元々農民の出らしいから、興味があるなら尋ねてみると良い」
「父さんが? うわぁ、そんな話聞いたことなかったな」
思わぬところで出た名前に、エクスは興奮を隠せなかった。レイドは緊張感が大量に失われていくのを感じながらも、緊張を解してくれたカインに感謝した。連続の戦闘で少しばかり張り詰めすぎていた感があったが、さすが現役の騎士である。それに気がついて緊張しすぎていた雰囲気を和らげてくれたらしい。
「おっと、そろそろ無駄口をやめて気を引き締め直そうか。また扉だ」
今までよりも随分と立派なその扉は、驚くことに金で出来ているようだった。魔法の照明の光を反射して輝く光沢、そして美しい天使の姿が刻まれたその扉からは今までとは違う雰囲気が感じられた。三人が三人ともその気配を感じ取り、各々の武器を構えつつ慎重に近寄る。
「鍵はかかってはいないようだな」
ドアノブを回し確認したカイン。だが不必要に開け放つことはしなかった。レイドとエクスを手招きし、作戦を伝える。頷いた二人はそれぞれドアの右側と左側に陣取る。左の扉の向こう側にはカインエクス。右側にレイドがついた。準備ができたことを頷きあいながら確認すると、レイドは右側でドアノブに手をかけ、一気に開け放ちながらドアの右側に退避した。
その瞬間、開け放たれたドアの向こう側から凄まじい光陵の白い閃光が空間を白く染めていった。リースの神聖術に違いない。数秒そのまま白い光が通過していき、やがてはまた通路に暗黒が戻ったその瞬間、ドアの向こう側にカインが魔法の照明を放った。
一瞬で室内を照らす魔法の照明。それとほぼ同時に開いたドアの向こうに飛び込んでいく黒い影。黒のジャケットに身を包んだレイドだ。一番足が速いレイドは照明の光に照らされた室内に飛び込む。
「――!?」
先ほどの白い閃光で侵入者を撃退したと思い込んでいたリースが、驚愕しているのが見える。レイドはそのまま全力で走りリースに向かって距離を詰めていく。
室内は上の礼拝堂と似たような作りだった。壁に据えつけられた燭台の上に揺らめく蝋燭。綺麗に左右対称な列を作っている木造の長椅子に、中央だけ開け放たれた道の先にある教壇。その上にはステンドガラスの変わりに大きな十字架がかけられていた。逆十字の形ではないその十字こそ、神聖教会の聖なる印だ。紛れもなくこの場所は神聖教会の隠しアジトなのだろう。その十字架の下には奪われたと思わしきいくつもの魔王像がある。まるで神への供物のようなそれは、横一列に並んでいた。魔王像はそれら全ての形が違う。その中の一つとレイドは目が合った気がした。ずっと家にあった魔王像だ。他のどの魔王像よりも美しく優美に見えるそれこそ、レイドの家にあった魔王像に違いない。
「また会ったなシスター。俺の家から盗んでいった魔王像、返してもらいに来たぜ!!」
注意を引くようにして叫ぶ。その間にも距離はかなり詰まっていた。
「消えなさい!!」
シスターリースが手に携えた杖を構える。すると、虚空より白い光が集束し膨張していく。それを見たレイドはすぐに椅子の方に身を投げ出すようにしながら大きく左に跳躍。長椅子の間の石畳に身を投げ出しつつ魔法を詠唱。その後ろではリースが放った閃光がゆっくりと射線を移動しながらレイドの移動後を追っていく。レイドはそのまま石の壁まで転がるようにして移動し、突然に身体のバネを駆使して跳ね起きると思いっきりジャンプした。目の前に迫る石の壁。右足から壁を蹴るようにして三角飛びをしながら飛行魔法を開放。追跡してくる閃光の真上を飛行しながら円を描くようにして礼拝堂の空を舞う。
「やっぱり長時間その白い光は放てないみたいだな」
空中で右側の石壁まで移動したレイドが白い光が消えたと見るや否や、飛行魔法を解除して床に降り立つ。そのまま再び飛行魔法を詠唱しながら、右側から残りの距離を詰めていった。
「くっ――」
リースは閃光を避けきったレイドの俊敏性に驚きながらも、再び白の光を集束させていく。だがそんなリースの気を引くようにして礼拝堂の入り口からもう一つの人影が見えた。騎士カインだ。礼拝堂に進入するや否や、カインが剣を振りかぶって魔法を放つ。
「アイスエッジ!!」
振り下ろされた剣が石畳を叩いたその次の瞬間、剣の軌跡に沿って氷の刃が床を奔り高速で飛翔した。距離を詰めるレイドよりも先にリースに到達したその刃は、寸分違わずにリースの身体を襲う。だが、一瞬で発生した白い光の守りがリースを害そうと迫った氷の刃を苦も無く弾き飛ばしてしまう。
「あれが神聖術か。話には聞いていたが厄介そうだな」
無効化されたと見るや、カインもまた走り出して距離を詰めていく。その攻撃は決して無駄ではなかった。攻撃用に集束していた光が防御に回されたせいで、あの白い閃光を放つよりも先にレイドが持ち前の身軽さで距離を詰めることができていたのだ。
「せぁっ!!」
刀に篭った魔力は、もはやレイドの限界一杯まで増幅されている。それを杖て防ぐリース。レイドはそのままやはり回転するように次々と立ち居地を変えながら攻め立てていく。ありとあらゆる角度から迫る斬撃。何太刀かは確実にリースの身体を襲ってはいたが、白の輝きがリースを守るせいで一行に防御が突破できない。
「邪魔です!」
白の光の守りの領域を瞬間的に広げて、リースがレイドを弾き飛ばす。刀で防御しつつも思いっきり後方に吹き飛ばされた。リースは追撃をかけようとしたが、その頃には既に既にカインもまた距離を走破していた。
「おぉぉぉ!!」
盾は左手に持ったまま右腕の長剣を振り下ろす。赤い魔力を放つその魔法武器が、リースの身体に叩きつけられる。並の魔物であればそのまま一刀両断しそうな程の威力があったにも関わらず、その一撃もまたリースの守りを突破できない。今まで感じたことの無い不思議な感触が剣から伝わってきたが、カインはそのまま左側に移動しつつ剣を振るった。その頃には既に跳ね飛ばされたレイドも起き上がっており、二人掛りで同時に左右から攻め立てていた。
青と赤の剣閃が次々と空間を疾駆してたった一人のか弱そうなシスターを襲う。普通ならこれは咎められるべき卑怯な行為である。しかし天使の力がそこに介在しているだけで現実は百八十度逆の様相を呈していた。馬鹿馬鹿しいことに二人掛りでさえそのシスターの守りを突破することができないのだ。
「ふふ、素晴らしいです天使様!」
初めは二人掛りで攻められて戸惑っていたリースも、その頃になると余裕の表情を浮かべていた。レイドもカインも必死の形相で剣を振るっているのにも関わらず、一向に天使の守りを突破できない。その現実がリースの心を支えていた。
「なんという防御性能だ、剣が全く効かんとはな」
「カインさん、泣き事言ってる暇は無いぜ!」
呻くカインを叱咤するレイド。同じ前衛としてその気持ちは痛い程によく分かる。長剣と刀。例え振るうべき獲物が違ったとしても、一生懸命に振るって鍛え上げてきた剣術が全く意味を成さないなどとは信じたくないのだ。これでは存在を否定されたように感じても仕方が無い。
これが天使と人間の力の差なのだろうか? 選別戦争時代にはこのような力を持つ天使が空を埋め尽くすほどに存在したという。なんと恐ろしい時代だ。そんな地獄のような世界をもう一度再び到来させようとしている天使たちになど、絶対に負けてはならない。レイドも、そしてカインも肌でその危険性を実感していた。 更に輝きを高めていく青と赤。魔法武器に用いられる魔力とは即ち人間の精神力によって支えられている。猛る二人の精神力は既に限界近くまで高まっていた。斬りつける度に威力を増す剣戟。二人の意地が執念で喰らいつこうと際限なく高まっていく。
「吹き飛びなさい!!」
白い光が膨張し、一片にレイドとカインの二人を吹き飛ばす。そのたびに床に背中から叩きけられながらも、二人は何度となく立ち上がっては剣を振るった。
「くっ、貴方たちは諦めるということを知らないのですか!?」
シスターリースは恐ろしい化け物に出会ったかのように怯えながら剣士と騎士の二人を見た。肩で息をしながら、それでも疲れなど知らぬとばかりに剣を振るってくる。剣での攻撃では威力が足り無さすぎる。それが分かっていながら二人は諦めることなく剣を振るう。まるで悪霊にでも取り付かれたかのような一心不乱なその姿は、今まで戦ってきた神父にも騎士にも無いものだった。
「諦めなさい、貴方たちはこんなにも無力なのです。神に選ばれていない貴方たちでは所詮天使様の力を越えられないのですから」
礼拝堂に響くリースの声。だが、それを耳にしながらもレイドもカインもだからどうしたと言わんばかりに剣を振るった。馬鹿みたいに剣を振るった。
「諦めろだって? ふざけるなよシスター。絶対に諦めてなんてやるものかよ。世界を恐怖のどん底に叩き落すような神も、天使も、俺たち人間には必要ない!! 俺たち人間に必要なのは自分たちの足でしっかりと大地に立とうとする強き意志だ!! 神なんかに選ばれなきゃ生きていけないなんて幻はもう五百年も前に無くなってるんだよ!!」
「神を必要としないなどと……なんて恐ろしいことを言うの!!」
「では尋ねるがねシスター、君たちは一体何がしたいのだ? 魔王像を盗み、破壊し、再びこの世界に神を取り戻して一体どうしようというのだ」
「無論、決まっています。選ばれし者が安全に暮らせる世の中を手に入れるのです」
「つまり君は選ばれなかった連中はどうでも良いと、そういうのだな?」
「その通りです。神に見捨てられた人間など、生きていても目障りなだけでしょう」
「話にならないな。そんな神に都合の良い人形になど誰がなるものか。断言しよう。そんな弱い意志しか持てない連中などトゥリーズンにはいない。子供も大人も老人も、皆精一杯生きようとしている。団結して魔物と戦い、神の呪いと戦いながら今日まで精一杯生き抜いてきた。そんな人類に君たちは死ねと言ってるんだぞ? 神を侮辱するよりもそちらの方が何万倍も恐ろしいことだと何故分からない!!」
「そんな連中に私たちの家族は殺されたからよ!! 私たちが魔物に殺されないってだけで、石を投げたり神聖教会の人間扱いしてきたわ!! そんな連中、信じられるわけないでしょう。皆死んでしまえば良いのよ!!」
「なんだって!?」
零れ出たリースの悲痛な叫びに、レイドとカインは思わず動きを止めた。
「かつての選別戦争では神に選ばれたにも関わらず人間側についた誇り高い人がいた。けれど時の移ろいと同時に人々はそういう連中を妬み、迫害し始めたわ。神聖教会が五百年経ってもなくならないのは、下らない人間たちの穢れた精神のせいなのよ!! 精一杯生きているですって? じゃあその精一杯行きている連中に混ざって一緒に暮らしていただけのはずの私たちを勝手に異端扱いする貴方たちはなんなのですか!! 私たちが恐ろしいですって? 笑わせるわ。私たちにとってはそう言いながらも平然と私たちを弾圧してきたあなた達の方がよっぽど恐ろしいわ!!」
白い光がリースの悲しみに触発されたかのように伝わって再び膨張。感情の任せるままに肥大化した白い光がレイドとカインの二人を吹き飛ばす。立ち上がって武器を構えるが、それでも二人ともがやり難そうに顔を顰めていた。
「天使様はそんな私たちを見放さずに守ってくださったわ。古の昔からずっとです。魔王教会? 神から自立する? 笑わせないで。そんなので救われるのは貴方たち選ばれなかった人間だけで、私たち選ばれた人間は決して救われないのよ。だったら、私たちは私たちを救ってくださる神に祈るしかないじゃない。私たちは私たちの身を守るためにはもう天使様や神様に守ってもらうしか生きる術が無いのよ!!」
レイドとカインの両者に向けて、白い光が集束していく。今までにないほどの異常な速度でそれは必殺の神聖術を編み上げていく。レイドとカインがハッとして距離を詰めようと走るが既に集束した白い球体となって完成してしまっている。神聖術は神への祈りを媒介にして強力になっていく。より強く祈りを捧げたリースの意思に応えて、その力が急激に進化したのだ。避ける余裕など無かった。思わず目を瞑りそうになったレイド。だが次の瞬間には轟音と共に礼拝堂の入り口から飛来したエクスの魔法ミョルニルによって阻まれた。ミョルニルから自動的に身を守るために白い光に集められたエネルギーが防御に回される。けれど、レイドとカインがずっと剣を振るっていた間にずっと魔力を増幅していたミョルニルの一撃は生半可な威力ではない。急激に進化したはずのリースの神聖術の守りを一撃で吹き飛ばした。
「シスターリース、もし君の言うことが真実だったとしてもそれでも僕たちは貴方を止めないといけないんだ。それをすれば確実に君たちはもっと多くの人から迫害されることになるよ。それに、一度負けた神様を信じるのかい? 悪魔も人間もこの五百年でずっとずっと強くなってきているんだよ?」
「くっ、あなたに何が分かるというのですか。迫害されたことも無い人間のあなたたちなんかに!!」
泣きながら叫ぶリースに、しかしエクスは静かに首を振るう。
「確かに僕は迫害まではされた経験は無いけど、子供の頃に石を投げつけられた経験や、苛められたりしたことはあるよ。僕の母は天使で僕はその息子のエルフだからね」
「ならば分かるでしょう私たちの気持ちが!! 理不尽な周囲の目、身勝手な推測で他人を信じられない人間の愚かしさ、勝手に怖がって私たちの幸せを奪い去っていく人間の怖さが!!」
「そうだね。その気持ちは少し分かるよ。でもね、その度にそれから助けてくれたのも人間の父だったよ」
「……なんですって?」
「他にもいたよ? そこにいるレイドだって僕をそんな絶望から助けてくれたし、ドラゴンの友達もそんなの関係ないとばかりに僕の友達として付き合ってくれている。彼女もレイドも僕がそんな目にあっていたら、魔法銃やら刀を抜いて屑をコテンパンにしてくれるだろう。貴女の近くには屑のような人間しかいなかったみたいだけど、残念ながら僕はまだそこまで人間に絶望なんてしていない。僕は知っているよ。まだまだ人間も捨てたもんじゃないってね。大体貴女が苦しむ元凶を生んだのだってその神様のせいだろう? 貴女はまず先に人間を選別しようなんて考えついてしまった馬鹿げた神様に文句を言うべきだと僕は思うけどね」
淡々と語るエクスの言葉が、静まり返る礼拝堂に響き渡る。エクスは心底そう思っていた。元凶はなんだと考えれば、それは結局神に行き着く。その事実を無視してまで神に縋ることなどエクスには到底できなかった。
「僕の母は天使で、人間に怖がられているから滅多に外に出ずに屋敷の中にいるんだ。学校の授業参観の日とか子供の頃に迎えに来てくれたのはいつも父だったよ。そのたびに母さんは悲しんだっけな。母さんが来ないから苛められたこともあった。母さんが天使だからっていう理由で、僕はインテレクトに行くまでは友達一つできなかった。でも、ずっとそのままじゃあないはずだよ。屑のような人間の中にも、心優しい人間がいるはずなんだ。その人たちのためにも、全ての元凶たる神様なんて求めないでくれ」
「……」
「それに貴女はそこの彼らに対して非常に重大な発言をした。異端と呼ばれる神聖教会の人間の中には、かつて神に選ばれたにも関わらず神を捨てて選ばれざる人間の側に立って戦った気高い人間の末裔がいると。僕は貴女の話を聞いて始めて知ったよ。多分だけど、そこにいる騎士カインもレイドもそんなことは知らなかったと思う。だとしたら、貴女は一刻も早くその事実を世に知らしめなければならないんじゃないかな? 無知は罪だ。でも、知って納得さえすれば今の人間の中には理解をしてくれる人は大勢いるはずだよ。ドラゴンの友達に言ってコミュニティ経由で世界にその事実を発信しよう。僕の父もこの街の騎士団長だし、その事実を告白することの手助けはできるはずだ。そのためには貴女の助けがいる。実際に迫害されてきた君たちの力が、だ。神様や天使の力なんて必要ない。自分の足で立って、理不尽なこの世界で戦わないか?」
「あなたは、戦っているとでも言いたげですね」
「戦うために準備している段階さ。エルフの僕は人一倍魔法の力がある。だから騎士団に入って街の人たちを守る手助けをしていきたいと思ってるんだ。エルフは天使と人間のハーフだ。天使の血が入った恐ろしい化け物なんかじゃなくて、人間たちと共存していける種族であることをこの身をもって証明したい。そして天使もそうさ。別に全ての天使が選ばれなかった人間に敵対しているというわけでもない。人間と仲良くしたがっている天使も結構いたっていう話を僕は母さんから聞いている。そういう天使たちもゆくゆくは受け入れられる社会になるような手助けをしたいと僕は思うんだ」
「まるで夢のような話ね」
「夢で終わらせるかどうかは僕たち次第だと思うよ?」
リースは疲れたように笑った。エクスの言葉を信じていないというのではなくて、単にもうそんな気力が湧かないほどに絶望に染まってしまっているのかもしれなかった。
正も負も人間が併せ持つ属性だ。その中で負の側面にばかり見せ付けられてきた彼女にとっては、そう簡単に信じることなどできはしない。でも、ふとリースは思った。目の前のエルフの少年の言うような世界ならばまだ救いがあっただろう、と。選ばれない人間と選ばれた人間が共に共存できる夢のような世界。そんな優しい世界が現実にあったのだとしたら、もしかしたら自分や仲間のシスターは手を汚さなくて済んだかも知れない。いや、本当は気づいていたのだ。選別戦争で神という存在が現れる前には、人間はそんな区別なく生きていたはずであると。けれど今いる世界にはもうそんな場所などありはしない。ありはしないと思っていたのに、目の前の少年はそれが少なからず残っていると言って自分の前に立ち塞がっている。
「ならば、証明してみなさいエルフの少年。そんな世界があるというのなら、そんな楽園がこの世界にあるというのであれば、その力で私たちを止めてみせなさい。その時こそ私はあなたの言葉を信じましょう。絶望に希望の火を灯して立ち向いましょう。さぁ、証明して見なさい!!」
リースは祈る。自分の身の内にある天使に、救ってくださるだろう偉大なる神に。受け入れられる世界で平穏に生きたい。ならばどちらでも同じだ。より良い世界に自らを誘える可能性のある方に賭けるべきだった。普通の人間の言葉は信じられない。だが、今この目の前にいるエルフの少年ならば信じられる気がした。レイドやカインではきっと、一生かかっても彼女を説得するなんてことはできないだろう。しかし同じ恐怖と痛みを知っているエクスだけは今ここで信じても良い例外だった。だとしたら後は天使とエクスどちらを信じられるか確かめるだけだ。
「レイド、カインさん。そういうわけで少しばかり手を貸してくれないかな? これは非常に重要な戦いになると思う。彼女に証明できれば、僕たちは又一つトゥリーズンを平和にできるよ」
「任せろ。証明しろって言うんだから証明してやろうぜ。神に呪われた世界だろうと、俺たちは手を取り合って生きていけるってことをな。神なんてもう必要ないってことを嫌というほど教えてやる」
「騎士団員として、命を賭けても証明するべきだと認識している。何よりも、騎士団で共有しなければならない非常に重要な情報を入手したのだ。四人全員で生き残って、伝えねばなるまい」
頷き会う三人の男たちが、それぞれの獲物を構える。少しばかりリースの境遇を知ってやり辛さを感じていたレイドもカインも、あんな話をされたら余計に負けられなくなってしまった。
「先ほどのような不意打ちはもうできませんよ? エルフの少年」
「エクス・ローゼンバーグが僕の名前だよシスターリース」
「では、エクス・ローゼンバーグ。仕切りなおしと参りましょう。あなたの言う心優しい者たちが、まだこの穢れた世界にいるのかを見極めるために――」
祈りが届く。吹き飛ばされた白い守りが復元し、再びリースの周囲に顕現する。だが、それを前にしてもレイドたちには一切の不安はなかった。三人が三人とも勝つことしか頭の中は無かったからだ。
「はぁぁぁ!!」
一番初めに攻撃を仕掛けたのは、やはり身軽なために一番足が速いレイドだった。一足飛びで自らの最高の間合いに進入し、猛る心を刀身に伝えて切りかかる。袈裟に逆袈裟に払いに薙ぎにと、次々とリースの白の光に切り結んでいく。先ほどと同じ展開だ。その反対側では到達したカインが盾を投げ捨て、長剣を両手で握って剛撃を繰り出していった。
リースは青と赤の攻撃から身を守りながら杖を掲げる。前方に集束する白の光。防御しながらであったが少しずつ威力を蓄えていくその輝きが礼拝堂を白く染めていく。彼女の狙いはエクス。このメンバーの中で一番攻撃力を持っており、唯一自分の守りを破壊することが出来る少年である。真っ先に狙うべき相手だ。手は抜かない。抜けるはずがない。この戦いにはそんな無粋を働かせる意味がない。リースは全力でねじ伏せにかかり、相手はそれを越えて証明しなければならないのだ。天使や神に頼らずとも自分たちが人類社会の中で受け入れられるということを証明するそのために。
「迸れ雷光、焼き尽くせ雷神。其の裁きは止められる者などなくあらゆる敵を打ち砕く鉄鎚なれば――」
だが、エクスはそんなリースの眼前に立ちながらも不敵に詠唱を進める。体内にある魔力を循環増幅し、何度も循環させることで魔法は爆発的に破壊力を増していく。
「迸れ雷光、焼き尽くせ雷神。其の裁きは止められる者などなくあらゆる敵を打ち砕く鉄鎚なれば――」
それと同時に、一度詠唱した呪文を繰り返し詠唱することで更に破壊力を増幅させる多重詠唱を行う。ただしこれには恐ろしいほどの集中力と類稀なる資質が必要になる。エクス自身も滅多に使わないこれは、最速で破壊力を生み出す強引な詠唱技法である。全身から溢れる魔力がエクスの金髪や服をなびかせ、周囲に魔力風を発生させる。完全にトランス状態に入ったエクスはこうなればもう周りのことなど何ら気に留めることはできない。先にリースに撃たれたらそれで終りだ。よほど余裕がなければこんなのは戦闘中には使用できない。だが、それでもエクスはレイドたちを信じていた。
「迸れ雷光、焼き尽くせ雷神。其の裁きは止められる者などなくあらゆる敵を打ち砕く鉄鎚なれば――」
三重詠唱終了。剣戟の音はいよいよ増していく。レイドもカインもここが正念場だと理解している。限界の限界まで精神を奮い、己の持つ魔法武器に魔力を注ぐ。増幅された魔力は刀身を伝って更なる威力となり、剣に宿る。精神には肉体のような限界が無いから、高まれば高まるほどその威力は少しずつ上がっていく。
シスターリースは驚いていた。力を集束しているというのに、余分な力を集めることができないことに。それはレイドとカインの剣の威力が、ここに来てさらに上昇しているということでもあり、そして同時にリースの神聖術の威力が下がっていることの証明でもあった。先ほどまでのリースとは違う。神聖術に込められている祈りがエクスの言葉によって少しずつ意味を失っていた。
本当はリースだって受け入れられたかったのだ。リースだけではない。一緒に暗躍していたシスターたちは皆そうだった。天使に拾われて助けられ世界を巡った。だが、どこにも安らげる場所なんてなかった。でも、それでも彼女たちの祖先から受け継がれていた人間の世界に居たいという気持ちは、時代を超えてその中に在ったのだ。
人間は一人では生きられず、人間が求めるのは人間だ。神でも天使でも悪魔でもない。後にそうなることはあるかもしれないが、まず初めに生まれて来てすぐに求めるのは人間である。その中で生まれた人間の遺伝子が、業が、そのことを忘れさせない。
「迸れ雷光、焼き尽くせ雷神。其の裁きは止められる者などなくあらゆる敵を打ち砕く鉄鎚なれば――」
四重詠唱終了。完全な体調と精神力があればエクスは五重詠唱まではできただろう。だが、今の状態ではこれが限界だ。飛行には実はそれほど魔力は使わないが、ここまでの戦闘で消耗したのに加えて先ほど放ったミョルニルによる疲労がある。これ以上は無理だ。勝負をするしかない。
「――打ち砕けミョルニル!!」
エクスが叫ぶと同時に、腹から響くような轟音を発しながら打ち出された大口径のプラズマがある。眩いばかりの金色の光を放つその弾丸は音速を軽く超えてシスターリースに真っ直ぐに向かっていった。
レイドとカインは叫び声が聞こえるや否や後方に飛んでいた。その瞬間、二人は見た。白を食い破る金の威力を。着弾と同時に弾けた金色。シスターリースの無敵の守りは既に無い。そんな中、レイドはいち早くリースに近づきエレキショックの魔法を放つ。
「俺たちの勝ちだぜシスター」
「そのよう……ですね」
気絶させれながらも、そう呟いたリースの顔にはどこか憑き物の落ちたような顔があった。
「終わったようだな」
「はあぁぁ……無茶苦茶疲れた。体が重いぜ」
カインの呟きに答えつつ、レイドはエクスを見る。エクスは全身から玉のような汗を流している。さすがにエルフといえども無茶をしすぎだ。だが、もう一度その無茶をしなければならないのだとエクス自身も理解していた。先ほどの一撃は全力で挑まねばならなかったものだったのだ。後悔はなかった。
「エクス、いけるか?」
「ああ、なんとかやってみるよ」
深呼吸しながら一息ついているエクスの方へ、レイドはシスターリースを抱き上げて連れて行く。カインは投げ捨てた盾を拾いながらも訝しげにそれについていった。レイド自身も疲れに疲れていたが、仕度を急ぐ。
「ここに来るときに説明しておいたよな? 天使がポゼッションしてるって。出てきたところをエクスが封印魔法をかけるのさ。分割体ならなんとかなるかもしれないみたいだからさ」
「なるほど……しかし、大丈夫なのか? エクス君は随分と疲弊しているみたいだぞ」
「気休めだが魔力譲渡の魔法使う。俺の精神力も使えよ。少しは楽になるだろ」
「すまないレイド。助かるよ」
疲労困憊といった様子のエクスの肩を軽く叩き、レイドはエクスに魔力の半分を渡した。しばらくすれば時間経過で少しずつ回復するとはいえ、枯渇したら最悪死に至るのだから精神力の消耗というのは侮れない。
「ありがとう。大分楽になったよ」
詠唱を始めるエクス。後はリースの中から天使が出てくるのを待つだけだ。
「お? 早速おいでなすったな」
「これが天使の分割体か。本当に白いのだな」
リースの身体から溢れ出てくるようにして出現してくる白い霧。エクスは次々と魔法印を刻みながら結界魔法を完成させていく。その頃にはリースの身体から全て出尽くしたようで、一分もすれば出なくなった。虚空に刻んだ魔法印が六芒星魔法陣となって淡い光を放ちながら、現れた白い霧を集めていく。まるで見えないビンの中にでも入れられたかのようだ。六芒星の円の中に入った白い霧が抜け出そうとしても結界が弾いて外に出られないようにしている。
「封印結界魔法エンジェルシール。多分、これならなんとかなると思う」
「ふむ、凄いな」
純粋に感心しているカインが神妙に頷く。レイドもまた同じように感嘆の表情を浮かべて、よくやったとばかりにエクスの労を労った。
「さて、俺は俺で用事を済ませてくる」
「用事?」
「魔王様を復活させる。時間的には条件はクリアしてるから問題は無いはずだ」
「なんだと?」
呆然とするエクスとカインをほったらかしにして、レイドは自分の家にあったはずの魔王像の前まで走る。右から二番目にあったそれの前に立つと、一度膝をついて軽く祈りを捧げた。その後で、懐から取り出した逆十字のロザリオを左手で握り締めながら右手で魔王像に触れた。ひんやりとする魔王像。それに先ほどまでの運動していた熱を冷まされて心地良く感じながらも、慌てて手についている汗をズボンの裾で拭い再び手を添えた。
「我らが主たる魔王シリウスよ。かつての従者ミリア・キースの系譜に連なる我、レイド・ハーヴェイの名において今一度この現世に戻ることを今ここに願わん――」
その瞬間、レイドの足元に幾何学的な紋様を持つ魔法印が浮かび上がり、レイドのロザリオからは莫大な量の魔力が開放されていった。逆十字のロザリオにはある一定以上の持ち主の魔力を吸い込んで蓄える機能がある。この五百年従者の系譜の魔力を延々と蓄え続けたロザリオにはとんでもない量の魔力が貯蔵されていた。
「レイド君は一体何をしているんだ? どうもついさっき幻聴を聞いた気がするのだが」
「言ったとおりだと思うよ。レイドは自称従者の一族の末裔らしいから、魔王様の封印を解くつもりらしい」
「……その話は本当なのか?」
ギョッとしてレイドに視線をやるカイン。だがエクスは肩を竦めることしかできない。親友を信じたいとは思うが、実際本当にそうなのかなんて魔王様が復活してない限りは証明できないのだ。
「僕には分からないな。魔王様がこれで復活したら真実だということになるけど、そうでなければ昔に自称魔王の従者の名乗っていた不届きな連中の子孫だってことになるね」
「ならこの異常な量の魔力はどう説明するのだ? 私は本物だと思うが……」
「見てのお楽しみじゃないかな」
「魔王が復活したら私たちに危害を加えないと思うか?」
「それも分からないね。僕の命が一番危ういかな。なんてったって半分天使の血を引いてるからね。でもまぁ、復活したらレイドが止めてくれると思ってるから特に気にしていないよ」
「そうか、信頼しているのだな」
「友達だからね」
誇らしげにそういった頃には、異常な魔力の放出は消えていた。どうやら魔王復活の儀式とやらは終わったらしい。しばし静寂に礼拝堂が支配された。数秒そのままの状態が続いた。
「――あれ? 嘘だろ、失敗したのか!?」
どうにも、儀式は終わったらしいが魔王像には何も変化が無い。頭を抱えるレイドが青ざめたような表情でブツブツと言う。一族の悲願でもあり、使命である。失敗しましたで済むはずがない。死んでいったご先祖様たちに決して顔向けできない事態である。
「あー、レイド……失敗したのかい?」
「馬鹿な、ありえない。手応えは十分にあったんだ。この日のために毎日夜中に術式とか手順とかを反復練習していたんだぞ。間違っても失敗するだなんてことあるもんか」
「ふむ、だがこうして何も変化が無いということは、儀式が失敗しているか魔王像が偽者であったとしか考えられないのではないか?」
「嘘だろ? こいつ……偽者だったのか?」
がっくりと膝をつきながら、レイドは本気で泣いた。と、その瞬間ピシリと、魔王像に亀裂のようなものが入った。レイドは思わず顔を上げる。
「ま、まさかの時間差復活? そ、そうだよな。ずっと石化していたんだから多少復活に時間がかかっても仕方が無い……よ……なぁぁぁぁぁぁ!?」
「魔王像……砕け散ってしまったね」
「粉々だな」
レイドが復活の儀式をかけたと思われる魔王像は崩れ、まるでハンマーなどで全周囲から叩いて破壊したのではないかという有様に変わっていた。こうなると見るも無残なものである。
「魔王像はありとあらゆる攻撃が聞かないと聞く。壊れたということは、偽物だということではないか? 復活の儀式が本物かどうかは別として」
「レイド、そのがんばれ」
なんとも言えない空気の中、床を二度三度と殴って悔しさをぶつけるとレイドは頭を振って強引に自分を落ち着かせようとした。ずっと信じてきた物が偽者だった。ずっと大事にしてきた大切なものが真実に出会ったせいでガラガラと崩壊していく。無性に泣きたくなった。
「レイド、とりあえずここを出よう。詳しいことは今度君の両親が帰ってきてから聞いてみようよ」
「……そうだな」
気絶しているリースをカインが肩に担ぎ、レイドはフラフラしているエクスに肩を貸しながら元来た道を引き返していく。一応魔物がまた出て来やしないかと警戒していたが、上の礼拝堂に出るまで魔物は出現してこなかった。ただし、一行は魔物以外の者に出会ってしまった。
「……そんな馬鹿な」
呻くようなカインの声が静かに耳に響く。呆然と立ち尽くした彼の声が震えているのに気がついたレイドとエクスは、すぐさま階段を駆け上がって状態を確認した。
まず初めに二人の目に入ってきたのは、白く輝く何かだった。初めは魔法の照明の輝きだと思っていたが違っていたらしい。闇を切り裂く白い光。それを放つ存在をその眼で確認した二人もまた、カインがどうして動きを止めたのかを理解した。
礼拝堂の中央に静かに立つ長身の人型。腰まであるだろう美しい金髪を靡かせながら白い光を凝縮して作ったような純白の剣を右手に握り、四人から背を向けた状態で突っ立っていた。その頭上には金色に輝く光の輪があり、背中からは人間には存在しないはずの白い翼が生えている。着ている服は魔王教会でもポピュラーな神父服だ。だがそれを身に纏っていながらもその存在は神父の規格に納まる存在では決してない。
その周囲では綺麗に整列されていたはずの椅子の破片が散乱し、それに混じって何人もの騎士たちの躯が横たわっていた。おびただしいまでの鉄錆びたような独特の血臭が鼻を刺激する。凄まじい惨状だった。
ある者は剣で両断されたままの姿勢で崩れ落ち、またある者は下半身だけ残して消えている。散乱する人間のあらゆる部位。魔物に殺された人間と同じかそれ以上に惨たらしい亡骸を晒している。この地獄のような光景を作り出したのは、驚くべきことに目の前の存在なのだろう。それは、たった一人の天使だった。
「天使……」
「そんな……」
呆然と呟く二人の声に反応したのか、煩わしそうにその天使はゆっくりと教壇の方を振り返った。まるで作り物めいた見目麗しい顔立ち。完成された一つの芸術のような美しさを持つ顔の造詣だ。ただ微笑むだけで、どんな女性でも虜にしてしまいそうである。やや日焼けしたように見える褐色の肌と以外と鍛えられていそうに見える立派な体躯。ただの人間として存在していたとしたら、きっと有名になっていたに違いない。天使はその金色に輝く瞳でレイドたちを一瞥する。表情は微笑んでいるように見えるのに、目が合った瞬間には気絶するかと思うほどの恐怖と圧迫感に襲われた。
「ここまで早く踏み込んでくるとは、人間たちの嗅覚というのは満更捨てたものでは無いらしいな」
低く、けれど魂に直接響くような声が聞こえてきた。その天使の発した声だと気がつくのに、一同は数秒の時間を要した。そんなレイドたちの表情を確認するように眺めながら、天使はしかし特に気にも留めずに寧ろにこやかに語りかけてくる。
「今宵放った三人の中で二人が失敗して捕らえられ、一人はここに踏み込まれて汝らの手の中に落ちている。さて、どうするべきかな。折角身体を分割してまで力を貸してやったというのに、所詮人間はこの程度ということなのか……嘆かわしい限りだ」
嘆いているというわりには悲壮感など少しもその天使の表情からは伺えない。ただの侮蔑の感情しかそこには込められていなかった。
「あんたがこの騒動の黒幕か」
レイドが刀を鞘から抜き放ちながら尋ねる。構えはしたが、攻撃を仕掛けることはしない。レイド自身も肌で目の前の天使の力を実感していた。小刻みに震える全身、耳の後ろを伝う冷や汗の気色悪い感触、緊張のあまり乾いた喉からゴクリと唾を飲み込む音まで、今はしっかりと感じることができる。
「そうとも言えるし、そうとも言えない。この身は神よりもたらされた使命を果たすためにここにある。故に我よりも神の方をこそ黒幕だと考えることもできるだろう」
淡々と事実を述べる天使。最もな話だと内心で思う傍ら、レイドは試すように尋ねる。答えなど分かりきっていたが、それでも聞いた。
「それで、その神の使命を果たそうとしているあんたはここで出会った俺たちをどうするつもりだ?」
「無論天罰を下す。我の邪魔をするということは神に逆らうということ。汝らがリースのように選ばれし人間ならば天界に連れて行くために生かす必要もあるだろうが、汝らは見たところ選ばれなかった人間だ。他のシスターのように我に協力して天界へと行くことを望む敬虔なる信徒でもない。ならばここで排除するが道理というもの」
その言葉は簡単に予想できただけに、レイドは自分でも驚くほどすんなりとその事実を受け止めていた。ならばやることは決まっている。大きく深呼吸してから、小声でエクスたちに言う。
「俺が時間を稼ぐ。二人は逃げてくれ」
「なっ、そんなことできるわけがないだろう! 僕も最後まで戦うよ!」
「駄目だ、多分それだと誰も生き残れない。シスターのためにもお前は逃げろ。俺はシスターを担いで逃げるなんてできないし、そのためにはカインさんの力は必要だ。これは俺にしか出来ない。俺が引き付けてる間に壁をぶち破ってカインさんと一緒に行け」
「君一人では無理だ、私も残ろう。エクス君は行け。君ならシスターと一緒に飛んで行けるはずだ」
「カインさんまで!!」
リースを肩から下ろすと、エクスに託すカイン。既に長剣は抜き放ち赤い輝きを宿している。殺された仲間のためにも、カインは引けない。残るのならば自分でなければならないと彼もまた決めていた。
「レイド君、捨て鉢になって特攻するようなら君もエクス君と一緒に行け」
「冗談じゃない。今までの鬱憤を晴らせる奴が出てきたんだ、ここで引いてたまるかよ」
あくまでも生き残ってみせると不敵な笑みを貼り付けながらレイドは言った。カインはそれに苦笑しながら、エクスに目配せする。エクスはただそんな二人に対して唇を噛むことしか出来なかった。残りたいと思う。一緒に最後まで戦いたい。だが、死地に赴こうとしている二人に止められてしまっていた。何よりも、自分で説得しようとした女性を託されていた。奥歯をギリリと噛締めながら、エクスは言う。
「騎士団の応援を連れて戻ってくる、それまでは絶対に二人とも死なないでくれ」
泣きそうになりながら、エクスはその言葉だけなんとか搾り出して詠唱を開始した。
「まあ、なんとかなるだろ。魔王様の下僕は嘘をつかない。エクス、振り返らずに行け」
左手でエクスの肩をポンと叩くと、レイドはゆっくりと前に出た。カインもその左横に並んで立ちながら進み出る。
「レイド君、対天使戦術の三原則を知っているか?」
「攻撃はできるだけ避けろ、常に最大の攻撃を叩き込め、人間や魔物と違って馬鹿みたいな速度で復元するから消滅するまで気を抜くな」
「その通り。それだけ理解していれば十分だ」
カインが盾を投げ捨てるのを合図に、二人同時に駆け出していく。その後ろではエクスが礼拝堂の壁に向かって魔法を放つ。エクスの掌より放たれた火炎弾が凄まじい爆音を発しながら壁を粉砕。そうして強引に非常口を作り出したエクスはリースの身体を抱きしめるようにして暗黒の夜空へと飛翔していった。
(生き延びろよ、エクス)
刀の間合いに飛び込んだレイドは、恐怖に竦む己の鼓舞するように雄たけびを上げながら突っ込んだ。天使はそれを見てもニコリともせずに白く輝く光の剣を振り上げる。二人との間合いはまだ二メートルはあっただろうか。振り下ろすには早すぎる。二人はその瞬間、左右へと飛ぶ。瞬間振り切られた剣の切っ先から生じた光の斬撃が進行上にある全ての物体を切断した。カインの魔法アイスエッジに似ているが、威力も速度も段違いだ。教壇へと続く道が裂傷を刻み、教壇がバックリと真っ二つに両断される。
レイドとカインには余裕など無い。振り下ろしたままの状態でいる無防備な天使に向かってやはり身軽なレイドから先に斬りつけた。すれ違い様に薙ぎ払うようにして天使の身体を切り裂き通り過ぎる。しかし、切断した感触が変だった。まるで綿菓子でも切ったかのように手応えが軽い。わき腹の辺りから切られたはずの天使は、しかし何事も無かったかのように微動だにしない。レイドは舌打ちしながら体制を整える。
「はぁぁっ!!」
そこに、ワンテンポ遅れて間合いに入ったカインが長剣を振り下ろす。その頃には天使は剣を横に構え、受け止める構えを取っていた。紅く輝く剣が白の剣に叩きつけられる。次の瞬間、甲高い衝突音とともにカインの長剣の半分から先が真っ二つに折れ飛んだ。赤い剣の輝きが白の光に負けて消し飛んだために、ただの鈍器となった剣では強度的にも勝てなかったようだ。カインは呆然とする暇もなく事実を認識する。天使は既に剣を振るう体制に入っていた。
「くっ――」
礼をするようにしながら身体を前に折るようにしてしゃがみ込む。一瞬の判断が明暗を分けたようだ。カインの青髪を掠すめながら光の剣が虚空を薙ぐ。防御した程度でこちらの剣を折るような相手だ。残った刀身部分で受けていたら確実に今の一撃で上半身と下半身に二等分されていたに違いない。しゃがみ込んだ身体の勢いと全身のバネを利用して急激に後方へと跳躍。追撃を受けるより先に剣の間合いから逃れると、折れた剣を捨てて血溜りの中にあった同僚の騎士の長剣を引っ掴む。瞬間、魔法武器が赤く輝きながら魔力を刀身に伝っていく。それを構えながら、カインは天使の出鱈目な能力に歯噛みした。
「カインさん、大丈夫か」
「ああ。なんとかな」
天使を中心にジリジリと円を描くように間合いを移動しながら、お互いに言葉を掛け合う。状況は絶望的なのに、不思議とカインは笑っていた。いや、絶望的過ぎて笑うしかなかったのかもしれない。レイドも同じだ。すり足気味に隙を探るよう移動しながら口元を歪めている。
「何故人はかくも神の意思に逆らうのか。 同じ種族であるリースのような選ばれし者を憎み、神を憎み、天使を憎む。それでは救われることなど未来永劫ないというのにな」
「神の言うとおりにしても救われるとは思えんな。現に魔物やお前のような天使によって私の仲間は殺された。皆気の良い連中だった。住民を守るために魔物とも命の危険に晒してまで積極的に戦っていた。だというのにこれはなんだ。殺すことこそが慈悲だとでも言うつもりか!!」
「神が人類を選別したのは、救われるべきものを救うためだ。これが慈悲でなくてなんだというのだ?」
「じゃあ救うべきではないと選別された人間の未来はどうなるんだよ。魔物に殺され、天使に虐殺されてそれで幸せになれるとでも言うつもりかよ」
「善を蝕む悪など、存在したところで害悪にしかならない。ならば人類という種を正しく永続させるためには必要ではない悪を切り捨てるしかないだろう」
「なるほど、神の尖兵らしい言葉だな」
カインが吐き捨てるように言う。その度を越した潔癖主義には吐き気すら催す。
「ならお気に入りだけ連れて天界でもどこでも引っ込んでたら良かっただろう!! どうして殺す!! その時点でおかしいってなんで分からないんだ!!」
「必要ではないものを消す。どこがおかしいのだ? 汝らも益虫は見逃すが、害虫は殺すだろう? それとなんら変わらない」
「なるほど、じゃあ俺たちにとっての神様は害虫になったわけだな」
「貴様、人間の分際で神を害虫扱いするというのか」
「その偉い神様とやらを真似て選別してやっただけだ。選別するならされることも考えとけってんだ」
神が人類を選別したように、人類もまた神を選別した。その結果が選別戦争へと繋がったはずである。悪魔と呼ばれた元天使たちもそうだ。神を見限り、人間たちと手を組んで自立するように立ち上がったのはそのせいである。そうやって自分の足で立とうとした連中の子孫であるレイドには、その当時の魂がしっかりと息づいていた。
構える刀がレイドの意思に呼応して青く輝く。天使の剣と比べれば随分と儚い輝きのようにも思える。けれど、抗おうとする意思はその白さえも凌駕するほどに鮮烈だった。
「なるほど、ならば我も汝らを自分の意思で選別するとしよう」
天使の全身が更に輝き、白い光を集束していく。全身に鎧のように纏ったその白い光は、リースたちの神聖術の守りと同質の物のようだった。
「ったく、最初から気に喰わないから死ねって言えないのかよ」
「連中には人間よりも上だと言う面子があるのかもしれんな」
「神の元に全てが平等だとかって謳い文句を掲げている癖にか? 都合の良い教義だな」
皮肉を一つ口にして、レイドが再び突っ込む。それを合図に、天使もカインも再び動いた。天使は余裕の構えを見せながらレイドに向き合う。レイドが間合いに入った瞬間、長剣は振り上げ真横に薙ぐ。高速の斬撃をしゃがんで避けると、レイドはそのまま下から斬り上げるようにして刀を走らせ、すぐに後方へと跳躍。一撃離脱に徹する構えだ。後方からはカインが迫り長剣で切りかかってすぐに離れる。二人とも天使の攻撃を受けられるとは思っていないし、敵の剣と刃を合わせてはならないこともカインの一撃目の攻撃で理解している。互いに天使の注意を引きながらヒットアンドアウェイで攻撃する。
「ちぃ、小癪な」
この天使には剣術という概念が無いのか、その二人の巧みな動きに翻弄された。攻撃スピードも反応速度も大したものなのだが、ただ単調な攻撃を繰り返すだけでお世辞にも戦い方が上手いわけではないらしい。そのおかげで二人は何度も敵を斬りつけることに成功していた。けれどそこまでが限界だった。どれだけ斬りつけても破れない無敵の守り。それを突破する術が無い以上勝敗は目に見えている。また、攻撃を喰らってはならないというプレッシャーは凄まじい勢いで二人の体力と気力を奪っていく。このままでは長く持ちそうに無い。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
肺は喘ぐように酸素を求め続け、心臓は急いで足りない部位に酸素を運ぶべく血流をせっつかせる。少しずつ鉛のように重くなる二人の身体。それを支えているのはトゥリーズンで暮らすうちに培ってきた精神力だ。魔物が突如として発生するようなそんな世界に暮らす以上は、生半可なことでは生きることを放棄しようなんて考えは起きない。生き延びるために自然と身に付いたそれが二人の命を支え続ける。
だがそれも長くは続かなかった。体力の低下は集中力を阻害する。万全の体勢ならそんな露骨なフェイントになど引っかからなかったはずだったが、今のレイドは初めて敵が見せたそれに思いっきり引っかかってしまっていた。
(ちくしょう、こんなところで――)
上段から斬ると見せかけておいて突き出された剣の切っ先がレイドの心臓目掛けて突き出されようとしている。遅れながらも反応した体が後方へと飛んでいたが、間に合うはずがなかった。
「レイド君!」
カインの悲痛な叫びが木霊する中、レイドの身体が宙を舞う。すぐにそれも止んで、礼拝堂の床をレイドの身体が転がっていく。
「――なんだ?」
戸惑いの声が突きを繰り出した天使から発せられた。確実に防御できないタイミングで心臓目掛けて剣を繰り出したというのに、レイドの身体に突き刺さることなく吹き飛ばすだけに終わっていた。人間の身体など魔法武器とは比べ物にならないほどに脆弱なはずなのに、天使な何か硬質な物体を突き飛ばしたような感触を感じていた。
「げほ……げほ……」
胸部を強打されたせいで心臓の上の肋骨が折れた。痛みを堪えながらなんとか刀を杖代わりにしてレイドは身を起こす。
「何故、生きている」
「……」
それには答えず、レイドはいきなり胸元で何かが蠢くような気味の悪い感触を感じて、視線を胸部に移した。すると、先ほどの突きのせいで穴が空いたシャツの下からこっそりと何かが顔を出しているのが見えた。レイドの思考はそこで止まった。
「ふわぁぁぁ……随分と強烈な目覚ましね。おかげで目が覚めたわ」
聞こえてきたのは、身体の心からゾクリとするような透き通った女性の声だった。目を瞬かせながら見下ろしていると、シャツの中から握り拳一つ分ほどの身長の女性が顔を覗かせている。
「天使に騎士にそれから……人間の少年? ねぇ貴方、私に今一体どういう状況なのか説明してくれないかしら」
現れた女性はゆっくりと空を飛びとレイドの右肩に腰掛けるように着地した。レイドはしかし、目を瞬かせて己の右肩に乗った女性をポカンと見ることしかできなかった。
――漆黒のドレスを身に纏い、腰まで伸びる黒の髪に紅の瞳を併せ持つ黒の女神。
ふと思い出したそのフレーズ。伝えられている魔王様の容姿とその小さな女性の姿がピタリと一致する。見上げてくる紅眼は血のように紅く、艶やかな黒髪は腰よりも長い。身に纏った漆黒のドレスは絹のように白い肌をより引き立て、女性の魅力を最大限に引き出している。しかも、その顔は代々伝えられてきた魔王像とそっくりだった。いや、それ以上に美しい。
「ふ、封印魔王シリウス様……ですか?」
震える声でレイドは問う。
「封印魔王? へぇ……私のことはそういう風に人間たちには伝えられているのね。自己紹介しましょうか。私の名はシリウス。貴方の言う封印魔王かどうかは知らないけど、トゥリーズンを封印した悪魔よ」
「お、俺はレイド・ハーヴェイ。ミリア・キースの血に連なる者です魔王様!!」
「ミリアの? ああ……そういうこと。どうりであの娘に似た匂いがするわけね」
合点が言ったとばかりにシリウスは頷く。
「馬鹿な、復活したというのかシリウス!? しかし何故人間の服の中から出てくる」
初めて驚愕を露にした天使が、苦虫を噛み潰したような表情で言う。
「知らないわよ。気がついたらこの子の服の中にいて、しかも何だかよく分からない強烈な衝撃を与えられたのよ。私はもっと寝ていたかったのに、おかげさまですっかり目が覚めてしまったわ。ふわぁぁぁ」
再び欠伸をする魔王。欠伸のせいで涙目になっている魔王様は何故か妙に可愛らしい。
「それで、結局今どういう状況なの?」
「魔王様がトゥリーズンを封印して五百年経ってます。ちなみにそこの天使とは今現在敵対中です」
「なるほど。貴方が襲われているということは、この天使は私を殺して封印を解きたいのね?」
「は、はい。石化中の魔王様を狙おうとしていた卑劣漢です!!」
「見たところ中の下……かしら? 確かにこのレベルだとシフトダウンしていたとしても普通の人間にとって脅威ではあるか……いいわ目覚めたついでに手を貸してあげる」
「あ、ありがとうございます!!」
肩の上に立ち上がったシリウスは、天使を見据えながら面倒くさそうに黒髪をかきあげる。癖なのだろうか? レイドはその一挙手一投足全てを目に刻むべく観察する。
「そこの天使、諦めるなら見逃してあげてもいいけど……どうする?」
「知れた事。神の大敵が目の前にいるのだ。全力で戦うまで」
「相変わらず盲目なる神の奴隷は健在なわけね」
「なんとでも言うが良い。この好機こそ神が紡いだ運命に他ならぬ。弱体化して元の姿に戻れない汝など我だけで十分だ」
既に天使はカインもレイドも眼中に無かった。目の前にいるシリウスこそ倒せばそこで己の任務が終わるのだと認識している。そうなれば再び神がこの世界に蘇り、彼は今回の功績によって更なる位階へと立てることになるだろう。そのためにはなんとしてでも勝たねばならない。
「貴方程度が私を倒す? ふふ、笑えない冗談ね。貴方の相手なんてこの子で十分よ」
「え――?」
てっきり天使の相手をするのだと思ったレイドが、呆けた顔で魔王を見る。だが振り返った魔王はそれが事実だとでも言わんばかりに不敵な笑みを貼り付けていた。そのまま虚空に佇む魔王は、レイドの胸元までやってくるとそっと手を差し出して手を添える。
「レイド・ハーヴェイ。貴方はミリアの血族なんでしょう? だったらその血肉も魂も何もかも全て私のものなのだという認識でいいかしら? 違うのならそう言いなさい。向こうの騎士にやってもらうわ」
見上げてくる魔王の紅眼が真っ直ぐにレイドの黒瞳と視線を交える。それはまるでレイドの忠誠心を試しているような、そんな楽しげな雰囲気があった。きっと魔王シリウスはレイドが逆十字のロザリオを継承した頃からレイドの存在を識っていたのだろう。それぐらいに透徹した目でレイドを見ている。態々確認しているのは聞きたいからだ。レイド自身の声で発せられる誓いの言葉を――。
レイドには勿論迷いなど微塵もなかった。憧れの魔王様にそう言われて、どうして彼に断ることなどできるだろう。胸の奥で熱く滾る何かがある。幼い頃からずっと夢に見てきたその場所へ、ようやく今辿りついた。ならば迷う必要などどこにもありはしない。
「俺は魔王様の下僕です。だから俺を全部貴女のものにしてください」
「ならば今一度私の名を魂に刻んでおきなさいレイド・ハーヴェイ。私の名はシリウス。かつて神に挑んだ悪魔の一柱にして、魔王の名を冠する貴方の主――」
瞬間、目も眩むような黒い輝きが礼拝堂を満たした。漆黒の闇が天使の白い光を飲み込み、レイドの周辺を深淵よりも暗い闇で犯していくように見える。
「これは――!?」
様子を伺っていたカインが、思わず全身を震わせた。暗黒の闇の向こうで、今まで戦っていた天使など物ともしないほどの馬鹿げた力の胎動を感じていた。感じられる圧力が今までの比ではない。先ほどの妖精のような小さな姿からは想像も出来ぬほどに圧倒的な存在感がある。だが、それはどこか暖かな印象を与えてくる。それほどに優しい闇だった。
(封印魔王シリウス……これほどとは――)
吹き荒れる闇が魔力風を伴って礼拝堂を荒れ狂う。長剣を床に叩きつけるようにして突き刺し、剣にしがみつくようにしてその暴風に吹き飛ばされないように耐える。世界が一瞬闇に落ちたように錯覚するほどに、ありとあらゆる光と音が消えた。
けれど、それも一瞬のこと――。
すぐに世界は元の姿を取り戻す。まるで一瞬だけ時間が止まっていたのではないかと思わせるほどに急激に光と音が蘇ってきた。カインはそこでようやく気がついた。あれだけ無敵を誇っていた天使が、初めて恐怖の表情を浮かべているのを。その視線の先には、今しがた魔王の下僕となった黒髪の少年が居る。
全身を薄っすら光る闇で包まれたレイドは、いつの間にか閉じていた瞼を開けた。そこに在ったのは魔王と同じ紅眼だった。ゆっくりとレイドは刀を構える。今まで青一色だった魔法武器のその輝きに、いつの間にか黒い光が混ざっている。
「まさか、魔王とポゼッションしたのか!?」
天使の力を使う人間がいた。ならば、確かに魔王の力を使う人間がいたとしても不思議ではない。半ば呆然としながら、カインは今自分が伝説の魔王の力を目にしているのだということを初めて実感することとなった。
「なるほど。それならば確かに余計な力を使わなくて済むだろう。しかしぶっつけ本番で使いこなせるはずがあるまい。神聖術の適性が高いリースですらすぐには力を使いこなせなかった。最高位の悪魔である汝の力なら到底人間如きには使いこなせまい」
『そうかしら? ならば身をもって知りなさい。そんなつまらないことは敗北の理由にさえならないということを』
全方位に向けて発せられた思念を通じて、礼拝堂にいる全員の耳に自信に満ち溢れた魔王の声が響き渡る。
『レイド、貴方はただ主である私の力を信じて振るえばいいわ。ただそれだけで貴方はどこまでも強くなれる。さぁ、貴方の忠誠心を私に示しなさい』
「御意」
青と黒に輝く刀を構えながら、レイドは湧き上がってくる力の奔流をただ信じた。神聖術は神や天使を信じる力に比例して爆発的に威力を上げる。だとすれば、魔王様を誰よりも信じているレイドが魔王の力を振るえばどれほどの威力を発揮するのか。
信じろと魔王様に言われた。どこまでも強くなれると言われた。ならば、目の前の天使に敗北するはずがない。
いつの間にか折れたはずの肋骨からの痛みが無い。疲弊したはずの体力も回復している気がした。これもポゼッションした影響なのだろうか。漠然と考えながらも、勝利を信じてレイドは駆けた。
「行くぜ!!」
爆発的に増幅された身体能力。自前の魔法など比べ物にならないほどに増幅された力を持ってレイドが天使に踊りかかる。馬鹿正直な真正面からの特攻。普通の人間ならば魔法武器ごと破壊されるというのに、レイドはそんな常識などこの時には一切捨てていた。
高速で振り下ろされる光の剣。それに対するは右斜め上に振られた刀だ。――衝突。目も眩むような閃光が発生しそれと同時に空間が震撼した。遅れて耳を打つ甲高い衝突音。それを聞いた瞬間にはもう、衝撃で弾かれた互いの獲物の反動を利用して両者が次の攻撃のモーションを取っている。
弧を描きながら振るわれる二太刀目。剣術を鍛えているレイドの方が立ち直り圧倒的に早い。ただ力任せに振り回すだけの名も知れぬ天使よりも先に唐竹に振り下ろされた刀が薙ぎ払おうとして構えられた天使の身体を両断する。バッサリと呆気ないほどに左右に分断された天使。白の守りも、魔王の力を得たレイドにとっては造作も無く両断された。普通なら致命傷だ。だが、生憎と敵は天使。一瞬白い霧が切断面に現れたかと思うと、左右に分断された体を一瞬にして復元させる。
「なんつう出鱈目な」
人間と違って高次元エネルギーで体が構成されている天使の身体は凄まじいほどの復元力を備えている。天使を殺しきるには復元できぬほどにその内包しているエネルギーを消費させるか、復元できぬほどに一瞬で体全体を吹き飛ばさなければならない。シフトダウン状態では最高出力こそ低下しているが、エネルギー総量はそのままなために単純に切断する程度では天使は死なない。天使が普通の魔物たちとは違って酷く恐れられている点はここにある。魔物は肉を持って生まれているため物理的な力で倒せる分マシだが、天使はこのエネルギーをどうにかしないかぎり倒せない。
『一撃一撃に魔力をもっと大量に乗せて斬りなさい』
「分かりました」
魔王のアドバイスに返事をしながら、復元した天使に向かってレイドは刀を奔らせる。勿論天使も黙ってはいない。出鱈目に剣を振り回してレイドを近づけまいとしてくる。だが、レイドはその剣を何度となく掻い潜って容赦なく天使を斬った。全身を切り裂かれるたびに血飛沫の変わりに飛ぶ白の光。天使を構成するエネルギーがレイドの刀に伝わっている魔王の黒の魔力によって少しずつ消し飛ばされていく。
「馬鹿な、何故こんなにも一方的に我がやられる!? 例え魔王の力があろうとも、人間などただの土塊から創造された下位生物に過ぎぬというのに!!」
神によって火から生み出された天使の一部には、自分たちこそ神に選ばれたエリートだという意識を持つ者がいる。より神に近い力を持っているという自負と、神に近い場所で住まわされてきたという事実が人間に押されているという現実を前にして憎悪していた。
「人間を舐め過ぎてたな天使。俺たち人間は悪魔たちとも対等になれるように選別戦争以後ずっと精進してきたんだ。確かにまだまだ人間は弱いさ。今だって魔王様の手助けがなければお前に殺されていたかもしれない。でも、神から独立して自立することを選んだ俺たち人間は、いつかきっと悪魔たちと同じ領域にまでたどり着いてみせる。そうして、いつか言ってやるのさ。神なんていなくたって、俺たちは幸せに生きていけるってな!!」
神の呪いに犯された世界であってもなお、人々は生きることを諦めない。ひたすらに魔物と戦い、技術を伝え、日々を謳歌しながら進歩し続けていく。ずっとそうやって、この五百年を生きてきた人間という種族の一人として、レイドは思いのたけをぶつけた。二十年も生きていない若造の言葉だったが、それでも確かにそこにはかつて人類が決意したはずの意思が宿っていた。
『よく言ったわレイド。そう、その自立しようとする意思を持つ者こそ、我が僕に相応しい。我ら悪魔の同胞として並び立つのに必要な志。未来永劫忘れずに大事に仕舞っておきなさい』
レイドの中で聞いていた魔王は、そう言って楽しげに笑った。かつての仲間たちと戦って切り開いた未来には確かに意味があったのだと、今この瞬間に確信できた。ならばその同胞のために己の力を貸すのを渋るほど、彼女は狭量ではない。
興が乗ってきた彼女はレイドの精神に今よりもずっと深く同調していく。意識が感応する。その果てに、レイドは魔王の記憶を垣間見た。
選別戦争で悪魔シリウスが振るった剣技の、ありとあらゆる動きが見える。天界で、トゥリーズンで、空で、海で、大地で、ありとあらゆる場所で振るわれた彼女の至高の剣をまるで自分が振るったように体感しながらその奥義の一つを託された。
「おのれ、おのれ、おのれぇぇぇぇぇ!!」
怒り狂う天使が、自ら体を輝かせながら人型の体でいることを捨てた。レイドは一旦後方に跳躍して距離を取り、様子を伺う。天使の体は膨張し礼拝堂一杯に広がろうとしている。レイドは急いでカインの方の前に立ち塞がると、巻き添えを食らわないように前に出た。
「俺のことは構わん。存分にやってくれレイド君」
背中越しに聞こえるカインの言葉。自分のせいで負けられたくなど無いのだろう。
「大丈夫だよ、カインさん。魔王様の力はあんな奴がどうしたって適うもんじゃない」
振り返らずに答えたままレイドは内なる魔王に同調していく。そのまま魔法を使う要領で魔力を練り上げて循環増幅し、それに加えて魔法武器たる刀で更に威力増幅させる。すると刀から発せられる黒の光が漆黒となって広がり、光輝く天使の領域ごと包み込むようにして周囲の空間を闇で染めた。世界が再び闇に堕ち光と音が消えた頃には、ゆっくりと刀身を腰の鞘に収めたレイドが居合い抜きの構えを取った。
暗黒の闇の中、対峙する光と闇。唯一つの光源となった天使は、自らの使命を果たすために漆黒を染め上げんとばかりに輝きを増していく。再現なく輝きを強めていくその光は、まるで彼自身が太陽のように眩しい。
「我こそは『日の光』。『神の強き太陽』にして第四天の支配者。神に祈る者に冠を与え第五天へと誘う者『シャムシエル』。神の大敵とその僕よ、我が白き光の前に溶けて消えよ!!」
放たれるは白の閃光。光の化身となったシャムシエルの存在エネルギーの全てをつぎ込んだ渾身の一撃。だがその光に抗う闇は、どれだけ照らされようとも屈しなかった。
鞘を走る金属音。腰の捻転と右腕の振りを連動させ高速で振りぬかれようとする刀がある。レイドは魔王の絶大なる力を信じる。例え弱体化していようと、相手が何者であろうともずっと焦がれてきた主の力で、斬れぬものなど何もない。
「全部、切り裂けぇぇぇぇぇ!!」
振り抜かれる刀。その軌跡にそって、闇の空間ごと光となったシャムシエルは呆気ないほど簡単に両断されていた。
「ば、かな……」
シャムシエルが呟いたその刹那、まるで全てが泡沫の幻のように元に戻った。光と音が戻り、世界が闇の中から抜け出す。静まり返った礼拝堂の中で、光の化身となった天使の体が光の粒子となって少しずつ消えていく。その体は斜めに奔った剣閃によって切断されており、復元する気配はない。
放たれた奥義の名は『闇薙ぎ』。空間ごと光も闇も切り裂く、選別戦争時代には多くの天使を屠った魔王シリウスの魔技である。
「見事だ……魔王とその僕よ。しかしここで我が朽ちようとも、神の意思を顕現させる使徒が集い、必ずやお前たちに戦いを挑むだろう」
「その時はまた倒すだけだ。絶対に俺は魔王様を守ってみせるぞ」
「……永遠に運命と戦い続けるというのか? 愚か……な……」
レイドの言葉を嘲笑いながら、不吉な言葉を残してシャムシエルは消えていった。
「……終わったようだなレイド君」
「みたいですね」
刀を鞘に戻していると、カインが声をかけてくる。振り返ったレイドは苦笑しながら頷いた。その瞬間、二人の緊張の糸は切れてしまった。
「くく……」
「はは……」
絶体絶命であったはずだが、終わってみれば二人ともしっかりと生きている。ようやく実感できた勝利の余韻を感じた頃には、二人して腹を抱えて笑っていた。
「楽しそうね」
ポゼッションを解いた魔王が虚空に飛びながらレイドとカインの前に現れる。眼前にいきなり光臨された魔王様。レイドとカインはすぐに笑うのを辞めると片膝をついて礼をする。伝説の封印魔王を前にしているのだ。失礼があってはならない。
「別にそんな大仰に接してくれなくてもかまわないわ。楽にしなさい」
困ったように言う。さすがに困らせるつもりはないので二人はゆっくりと立ち上がる。
「それで、これからどうするの?」
「私が詳細を騎士団に報告します。しかし、今日のところは二人とも疲れているでしょうから、家に帰ってゆっくりと休んでください。また後で日を改めて代表者が話しを伺いに参ることになると思いますが……魔王様はその、これからどうするのですか?」
「しばらくはレイドの家に厄介になるわ。五百年も経っているのなら、まずこの世界の現状を知りたいもの。いいわよねレイド」
「勿論です。永久に滞在してくださってもかまいません」
できるだけ敬語を使いそう言ったレイドだったが、しかし内心では浮かれてばかりもいられないことに気づいていた。
(い、家の中を急いで掃除しないと……と、とりあえず母さんの部屋を使ってもらえば良いかな?)
普段そういう方面を適当にしかしていなかった自分をレイドは呪った。
とりあえず話は纏まったので、三人は教会を出ることにする。と、その頭上にいきなり巨大な竜が二匹現れた。街中に竜が出るなど一年に一度あるかないかのため、半ば恐慌にきたしかけた二人が咄嗟に武器を構える。とはいえ、それは無駄足に終わった。魔法照明に照らされて見えた竜の角には白い布が巻かれている。ドラゴンと魔物を識別するための印だ。三人に気がついたドラゴンは魔法で人間に変身する。一人は人間の少女の姿を取り、もう一人は白髪の老人となって眼前に降り立ってくる。だが少女の方は地面に降りるや否やレイドにドロップキックを繰り出した。レイドは紙一重でそれを避けた。
「い、いきなりなにしやがるフレスタ!」
「この馬鹿レイド! 私様が家か部室で待ってろって言ったのに何やってるのよ」
「あー、わりぃな」
随分と心配をかけたようだ。罰が悪そうにレイドは頬をかく。
「罰として私様にケーキを奢ること。良いわね?」
「……一個だけだぞ?」
「三個」
「ぬぅぅ……分かった。それで手を打とう」
さすがに悪かったとばかりに譲歩する。微笑ましい二人のやり取りをそのままにして、魔王は久しぶりに再開した旧知の老人に話し掛けた。
「久しぶりねナーリッジ」
「ああ、シリウスも無事で何よりだ。ミリアの血筋が魔王像を天使に奪われたと聞いて焦ったが、少し前にお主の気配を感じてからは安心していた。アレがミリアの子孫か?」
「ええ、私の新しい従者レイド・ハーヴェイよ」
「なるほど……懐かしい魔力の匂いを感じるな。どうじゃ? 再開を祝して一杯やりに行かんか」
「良いわね。付き合うわ」
「決まりだな。そこで乳繰り合ってる若いの、奢ってやるから飯でもどうじゃ?」
「ちょっと待ってよ。誰が誰と乳繰り合ってるっていうのよお爺ちゃん!」
「そうだそうだ。大体俺は魔王様一筋だ」
「だ、そうだぞシリウス。随分と懐かれておるな」
「私の従者だもの。当然でしょ」
不敵に微笑みながら言い切る魔王。ナーリッジは相変わらず昔と変わらない彼女のお茶目な性格を思い出して一人笑った。
その後、一行は一度騎士団の詰め所に向かい教会に引き返そうとしていたエクスを拾って夜の街へと繰り出した。勿論カインは今回の事件の報告のために詰め所に残った。魔王像を巡って引き起こされた今回の事件は、こうして終りを告げたのだった。