プロローグ
「爺ちゃん、魔王様ってずっとここに居て退屈したりしないのかな?」
五、六歳ぐらいの小さな子供が、真新しい布を手にしたまま魔法の照明で照らされた地下通路を一緒に歩く祖父に問いかけた。
照明の白い光に照らされた子供の無垢な瞳が、六十を超えた祖父を見上げている。視線を向けられた少年の祖父は、好々爺としての笑顔を振りまきながら少年の疑問に頷き、もっともらしく答えた。
「魔王様は随分長く眠っておられるからのう。それでも起きてこないのはきっと楽しい夢でも見ておられるからじゃよ。だからきっと退屈なんてしていないだろうなぁ。とはいえ、ずっとそのままというのもいかん。後十年程経ったらレイドが起こして差し上げるんじゃ」
「うーん、どんな風に起こせば良いのかな」
レイドと呼ばれた少年は、祖父の言葉に悩むようにして腕を組む。その父親の真似事をするかのような仕草に、祖父の表情が自然と緩む。息子もそうだった。腕を組んで考える癖があった自分を真似て、良くそうやって考える度に両腕を組んだりしながらウンウンと唸っていたのを思い出す。血の成せる業なのか、それとも蛙の子は蛙ということなのか。そう考えると、どうしても顔が緩んでしまうのはしかたなかった。
「ふぉっふぉっふぉ。できるだけ機嫌を損ねないように気をつけるのじゃ。何せ魔王様はハーヴェイの家のご先祖様が仕えていた主じゃという話じゃからのう。魔王教会のシスターだった婆さんがよく言っとったわい」
「はーい! できるだけ優しく起こすね。丁度僕が起こさなきゃいけないんでしょ?」
確認するように問うレイド。どこかウキウキしながら尋ねるその言葉は、もう何度も何度も尋ねたことだった。それでも聞きたくなってしまうのは、随分とレイドが魔王様を起こすことを楽しみにしているからに他ならない。
ハーヴェイの家には家名が変わるずっと昔から伝えられてきた秘密があり、それを使命としてきたと何度も何度もレイドは家族から聞かされている。しかもそれが自分の役目だと聞かされたときにはレイドはとても喜んだものだった。
「ん、そうじゃよ。 だからその時が来るまでの間に沢山魔法の勉強をしなくてはならんぞ。それと魔王様の管理の手伝いもじゃ」
「うん、ピッカピカにするよ。魔王様はあんなにも綺麗なんだもん。埃塗れにしちゃ可哀相だもんね」
「うむ。それじゃあいつも通り綺麗にして差し上げよう。きっと喜んで下さるじゃろうて」
「はーい」
そうして話しながら歩いていると、すぐに彼らが魔王様と呼ぶ存在の前に二人はやってきた。
「こんにちわ魔王様。今日もピッカピカにするね」
レイドは魔王様に向かって話しかける。しかし魔王と呼ばれたソレは返事しなかった。それは当然のことだ。何故なら魔王は普通に生きてはいないからである。少年と祖父の目の前に存在するそれは、魔王像とでも呼ぶべき石像である。少年よりも随分と身長が高い。まだ一桁の歳の子には随分と大きく感じられることだろう。しかし大人の男からすればそれほど高いというほど背があるわけでもない。二十代前後の女性の平均ぐらいはありそうではあったが、それだけだった。しかし幼いレイドにとっては魔王様はとても大きく見えた。子供心に憧れてしまうほどに。
漆黒のドレスを身に纏い、腰まで伸びる黒の髪に紅の瞳を併せ持つ黒の女神。絶大なるカリスマを持って人の側に立ちながら剣を振るったという魔王にして、かつて実在した人類の守護者であり、悪魔側の切り札であったその魔王の名と偉業を今の人類は忘れることなく語り続けてきた。当然、それを聞かされて育ったレイドにとっては魔王様とは英雄であり憧れであり信仰であった。
「ほれ、見惚れとらんで早く済ませよう」
「ん、でも後でアレやってね」
「わかっとるわかっとる」
苦笑しながら、祖父は言うと手に持っていた水の入ったバケツにレイドに持たせていた布を水で湿らせ、ギュッと力強く絞ってから二人係りで魔王像の掃除にかかる。物置部屋と貸した地下室に安置してあるせいで降り積もった埃を拭い、少しずつ綺麗にしていく。祖父は後ろ側から丁寧にその御髪から清め、レイドは前の方から手が届く辺りまでをゴシゴシと布で清めていく。
この時間がレイドは大好きだった。
大好きな魔王様の役に立っているという確かな実感と、いつかこの魔王様を目覚めさせたときのことを想像するとそれだけで楽しくなってくるからだ。
(話せたらどんなことを話そうかな、やっぱり天使のこととかかな。あ、でもそれだと魔王様は退屈かな。ん、やっぱりここはまずお礼からの方が失礼じゃないかなぁ……)
人類のために石化して眠りにつくまで戦ってくれた魔王様。当時の話を聞くたびにレイドは思う。そこまでしてくれた魔王様や悪魔はとっても偉い人なのだ、と。天使やら神様は自分たちを見捨てても、魔王様や悪魔と呼ばれた存在たちは人間に魔法を与え天使たちと共に戦ってくれたという。そうして、最終的にはこの世界を神様たちが手が出せないように封印したのがこの目の前にある魔王様である。そして同時に『神様の加護や愛なんて無くても生きていけることを世に知らしめた偉人』としても有名だった。だからまずはお礼を言うべきだとレイドは思った。守ってくれてありがとう。教えてくださってありがとう。そんな簡単な言葉しかレイドには思いつかなかったが、それでもそうすることが大切だと思うのだ。そうでなければ、石化までして助けてくれた魔王様にはあんまりだとレイドは考えていた。
「ピッカピカー、ピッカピカー♪ 魔王様はピッカピカー♪」
ヘンテコな歌を歌いながら、しかしそれでもレイドは手を休めない。手の届く範囲での作業を終えると、新しい布を濡らしてから祖父にアレを要求。祖父はいつものことなので好きにさせてやる。
「よっこいせ。ほら、これでいいかのう」
歳を実感させる掛け声とともに、レイドをお腹に後ろから手を回して抱き上げる祖父。しかし、歳の割には力強いその動きには無理している感がない。若い頃はそれなりに鍛えていたのだろう。
「うん、ちゃんと手が届くよ」
布を魔王様の顔に向け、今までよりも更に丁寧に擦る。やはり、何度見ても魔王様は綺麗だとレイドは思う。石化した状態でこれなのだから、元に戻ったらどれだけ美しいのだろうか? それもまた、当然レイドの楽しみの一つだった。
魔王様は非常に均整の取れた顔つきをしている。間違いなく美人だと言われるだろう。武勇伝と共にその絶世の美しさもまた語り継がれている。魔王教会が作り上げた魔王像の中でも、これだけ綺麗な魔王像はないだろう。だったら、きっとこの魔王様が本物なのだ。
「よしっと。綺麗になったよ」
「おお……確かにのう。これで十分魔王様も気持ちよく眠って下さるじゃろう」
「魔王様は喜んでくれるかなぁ」
「喜んでくれるさ。ほれ、こんなにも優しく笑って下さっている」
「うん」
微笑を浮かべたままの魔王像に変化があるわけでもない。しかし、レイドには祖父の言うように魔王様が笑ってくれているように見えた。だから、いつの日にか起きている魔王様の笑顔も見るんだと心に誓った。無垢な心が思う純粋な願い。それが叶う日が来るのかどうかは誰にも分からない。けれどきっと、いつの日にかそれが来ることを幼いレイドは信じて止まない。
封印の魔王シリウス。選別戦争というかつての大戦争で救われざる人類を救うという偉業を成した魔王の中の魔王。そして、唯一神に対抗する力を持つと言われる限界突破者。その伝説はきっとこれからも少年の心を虜にし続けることだろう。
「よし、今日の務めはこれで終りじゃレイド。上に戻ろう」
「はーい。じゃあね魔王様。また来るからね」
ブンブンと元気良く手を振るレイド。そんなレイドを地面に降ろしてから祖父は使った布をバケツに放り込み、レイドと連れ立って元来た道を歩き出す。
「次はまた来週までお預けかぁ。毎日でも僕が綺麗にしてあげるのになぁ……」
「なに、魔王様も毎日来られると困ってしまうじゃろうて。あんまりしつこいと嫌われてしまうぞ」
「それは嫌だなぁ」
「ふふ、良い子にして魔法の勉強をしっかりとしていたら大丈夫さ。それにもう少ししたら剣の練習も始めようかと思っとる」
「剣?」
「そうじゃ。魔王様をお守りするためには魔法だけじゃあ辛いじゃろう。魔王様は剣聖と呼ばれるほどの剣の腕前だったと聞くし、剣の練習もしておったらもしかしたらそのうち練習に付き合ってくれるかもしれんぞ」
「ほんと!? じゃあ僕剣もがんばるよ。強くなって天使たちから魔王様を守ってあげるんだ」
「うむ、がんばるのじゃぞレイド」
祖父は途端にやる気を出し始める現金な孫に頷くと同時に、その言葉の無邪気さに少しばかりの高揚を感じた。正直、普通の人間が魔王様を守るなどとはとても口に出して言えない。子供だからこそ言えることであり、だからこそできうる限りのことを教えてやりたいと思った。魔王を狙うのはきっと、天使であり神である。だがそれらはとてつもなく強い。唯の人間では到底それをすることはできないだろう。魔王のかつての仲間であった勇者や従者、賢者クラスの限界突破者でなければ不可能なのだ。それぐらい、レベルが隔絶している。
「なぁレイド。天使たちは強いぞ、人間なんか比べモノにならんぐらいにな」
「……そうなの?」
「ああそうじゃ。じゃから、常に考え続けるんじゃ。自分に出来ることを諦めずにずっと探しながらのう。それができたら、きっとお前は魔王様と一緒に戦えるようになるじゃろうて。婆さんは従者の子孫だと言っておった。なら、お前だってその領域に立てる可能性はあるかもしれん」
「そうなれるかな……」
「儂の言葉程度で揺らぐようなら無理じゃぞ。魔王様にも笑われてしまうのう?」
「うう……それも嫌だよ」
「まあ、焦らずじっくり考えてみることじゃて。随分と先は長い」
「はーい」
まだまだ幼い子供だ。その未来にはきっと無限の可能性が詰まっている。そんな風に考えるレイドの祖父は、だからこそ少しでも孫のために己の培ってきた経験と考えを伝授することを惜しむ気はない。かつて一度だけ彼は天使というのを見たことがあった。そのときに感じた恐ろしさと絶望は年老いた今でもなお記憶から消えることは無い。そして何より強く感じたことがある。
それは、『悔しい』という感情だった。
剣術を鍛えて、少しばかり周囲の人間よりも強かったというだけで浮かれていた自分の自信を木っ端微塵に破壊された。剣術は確実に勝っていると感じたが、それ以外で圧倒的に負けていることに気がついた。生物としての存在のレベルが理不尽なまでに違いすぎるのだと。それは通りがかった悪魔に助けられて初めて理解したことであり、それまでは心のどこかで大げさに誇張されたおとぎ話だと思っていた。しかし、彼らは伝説や口伝で伝えられる以上に強い。人間が抵抗することなどできないのではないかと思うぐらいに圧倒的に、だ。その強さが真実だと知っているからこそ、彼は孫に託したかったのかもしれない。自分が終ぞ出来なかったことを、まだ無限の可能性がある自分の孫に。その若さと可能性があの悔しさを吹き飛ばしてくれることを願って。
(なぁ、レイド。いつか限界を突破することができたなら教えておくれ。人間は自立して生きていけるのじゃと。連中の好きにされなくても良いのじゃと)
その思いを言葉にすることは彼にはとてもできなかった。それはあまりにも勝手すぎる期待だということを彼自身が理解していたからだ。だが、それでも思うのだ。魔王様を守ると言ったこの可愛い孫には、せめてそれだけの力が備わって欲しいと。自分のように理不尽な力の壁に絶望し、限界を自分で定め諦めてしまうような腑抜けではなくて、胸を張って生きれるような心身ともに強い人間に育って欲しい。
「そういえば、誰にもまだ聞いたことなかったんだけどさ爺ちゃん……」
「ん?」
「魔王様ってフリーなのかな?」
「フリー……じゃと?」
「魔王様の男になりたいんだけど……相手がいたら無理だろうしなぁ。ねぇ、爺ちゃんは知ってる?」
全く無垢な瞳で、自分を見上げてくるマセた孫。”本気”でそんな神をも恐れぬ感情を抱いているのだろうか? 軽く戦慄した彼は呆れると同時に奇妙な頼もしさをそのとき覚え、次の瞬間には腹を抱えて盛大に笑った。
「くくっ、あっはっはっは」
「笑うなんて酷いや爺ちゃん」
「すまんすまん。いや、しかしだとしたら尚更諦めずに頑張ってみることじゃ。それは恐らくはきっと神様や天使を倒すことなど比べ物にならんぐらい難しい無理難題になるじゃろう」
「さすが魔王様……天使なんかとはレベルが違うんだね」
腕組をしながら感心するレイド。そのどこかベクトルがズレた思考は幼さゆえのものだったのか。それともそれがこの孫の独特の個性だったのかは分からない。だがそれでも彼は諦めるつもりは無いことだけは本気のようだった。
(まあ、なんでもやってみるが良いさ。諦めることなくいられたならば、不可能が可能になるなんて奇跡も起ることがあるかもしれん)
チャレンジャー過ぎる孫の様子を見ながら彼はそう思う。そしてそんな孫の夢は彼が死ぬときまで決して変わらず、今わの際までそのままだった。