エピローグ 隣国での極上生活と、滅びゆく故国の末路
ルーカス王国に着いて三ヶ月が経った。
イリスは今日も書斎で書類に向かっている。ただし今度の書類は、自分が「やりたい」と判断した仕事だけだ。
ゼノスが紅茶を持って入ってきた。
「また徹夜か」
「あと一時間で終わります」
「そう言って三時間経つのが君のパターンだ」
「今夜は本当にあと一時間です」
「信じよう」
彼は傍らの椅子に腰を下ろして、イリスの仕事が終わるのを、静かに待った。
その間、心の声は聞こえない。
何も聞こえない。
ゼノスが黙って自分の書類を広げて、隣で同じように仕事をしている。その横顔が、窓の外の夜に溶けている。
(……この人の本音は、聞こえなくてももうわかる気がする)
それは怖いことではなかった。
むしろ、初めて怖くなかった。
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一方、故国では。
ソフィアの裁判が結審し、全財産の没収と国外追放の判決が下った。泣いてカイルに縋ったが、カイル自身が証人台に立たされる立場だった。
カイルは王位継承権を一時停止され、地方行政の立て直し役として送り込まれた。国王から「自分の足で民の暮らしを見てこい」と言われたらしい。
国家財政の再建は、イリスが残した計画書通りに、粛々と進んでいるという。
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数ヶ月後、カイルからゼノスに宛てた外交書簡が届いた。
公的な文書ではない。私信だ。
〈アルヴィン公爵閣下へ
アルデシア女史を――イリスを、どうかよろしく頼む。
俺には、一年間も傍にいてもらっていたのに、最後まで何も見えていなかった。
今ごろそれを恥じている。遅すぎるとわかっていても、伝えたかった〉
ゼノスはその手紙をイリスに差し出した。
「どう返す」
イリスは手紙を読んで、少しだけ考えた。
「一言だけ、返してあげてください」
「何と?」
「『承知しました』と。それだけで充分です」
ゼノスは少し目を細めて、ペンを取った。
〈承知しました。
彼女は今日も完璧に、そして幸福に働いています。
なお、彼女の仕事への口出しは、私もお断りしています〉
「……最後の一文は余計では?」
「同志としての連帯感を伝えた」
イリスは吹き出しそうになって、堪えた。
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それから少しして、夜。
書類を片付けたイリスが書斎の窓を閉めようとした時、ゼノスが後ろから声をかけた。
「イリス、一つ聞いていいか」
「何ですか」
「俺の心の声は、今も聞こえるか」
イリスは窓の前で立ったまま、少し考えた。
「……聞こえます」
「何と」
「『愛している』と」
ゼノスは立ち上がって、イリスの後ろに来た。
「それは、声に出して言う」
そう言って、もう一度、ちゃんと声に出した。
イリスは窓の外の夜を見たまま、珍しく耳の先が赤くなった。
「……腹黒い男が言うと、信憑性が落ちますね」
「本音だ。嘘なら君に聞こえている」
「……聞こえています」
「だろう。だから言う。毎日言う。君が飽きるまで」
「……飽きません」
「知っている」
窓の外、夜が深い。
故国の空とは違う星が、ルーカスの夜空に広がっている。
心の声は、もう必要なかった。
ただ——本音しか持っていない人の隣で、イリスは静かに窓を閉めた。
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完
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(エピローグ・了)
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最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!
エピローグ、いかがでしたでしょうか。
この話を書く上で決めていたことが一つあります。「ハッピーエンドを、静かに描く」ということです。
ゼノスとイリスが隣で仕事をしている。紅茶を持ってくる。「あと一時間」を信じない。それだけ。劇的な何かは何も起きない。でもそれが、一年間「本音が聞こえる世界」で生きてきたイリスにとっての、本当の安息だと思ったんです。
「心の声が聞こえなくてもわかる気がする」——この一行が、このエピローグで一番書きたかった文です。能力として「聞こえる」のではなく、積み重ねた時間で「わかる」。それが愛というものだと思うので。
カイルの私信に「承知しました」と一言だけ返す場面——これはイリスなりの「終わり」の形です。赦しでも、感謝でも、皮肉でもない。ただの、事務的な返事。でもその一言に「よくやった」が込められている、とイリス本人は言っています。
最後の「声に出して言う」——心の声が聞こえる彼女に、声に出して何度でも言うと決めている男。それがゼノスという人間の、唯一の不器用な誠実さだと思っています。
また別の作品でお会いできることを、楽しみにしています。




