第五話 真のヒーロー登場。逃がさない独占欲
王宮の正門を抜けたところで、イリスは足を止めた。
国境まで続く街道。遠くに、紺色の紋章を持つ馬車が見える。ゼノスが手配してくれた迎えだ。
春の朝の空気が、一年ぶりに肺に入ってきた気がした。
(……終わった)
後ろから、足音が来た。
複数の足音。急いでいる。
「イリス!」
振り返ると、カイルが息を切らして走ってきた。顔が赤い。冬の王宮の中では見せなかった、剥き出しの何かが顔に出ていた。
「頼む、待ってくれ。俺が……俺が悪かった。全部、俺が間違っていた。戻ってきてくれ。お前がいないと、この国は――お前じゃないと、俺は――」
声が震えていた。
イリスは、カイルの本音を聞いた。
《本当に悪かったと思っている。「馬車馬」なんて思っていた自分が恥ずかしい。この一年、こいつがいなければ俺は何もできなかった。戻ってきてほしい。本当に》
(……本気だ。初めて、本気の言葉だ)
胸に何かが触れた。一年間、ずっと「本音」を聞き続けてきたからこそ、わかる。
だから――だからこそ。
「殿下」
イリスが口を開くより先に、別の声がした。
静かで、深く、底に鉄のある声。
「彼女は、行きます」
カイルがぎくりと立ち止まった。
ゼノス・アルヴィン公爵が、馬車の傍らに立っていた。今日は外交礼装ではなく旅装束だ。長身の体躯に、晴れた空の光が落ちている。その目は、いつもと変わらず静かで、計算していて、何も表に出さない。
「お前は関係な――」
「関係があります」
ゼノスはカイルに近づいた。一歩、また一歩。カイルが思わず半歩引いた。
「殿下、一つだけ伺います」
「……何だ」
「あなたは一年間、彼女の何を見ていましたか」
カイルが黙った。
「事務処理の精度? 提出書類の完成度? それとも、毎朝定刻に執務室に現れて、定刻に退室する、便利な機械としての彼女を?」
「……それは――」
「私は見ていました」
ゼノスの声は静かなままだ。それがかえって、重かった。
「証拠を集める時の彼女の横顔を。暗号文の返信が一文字も無駄のない彼女の思考を。あなたを庇う書類を仕込む時の、彼女の律義さを。全部、半年間ずっと見ていました」
そしてゼノスは、イリスの方を向いた。
目が合った。
その瞬間、心の声が聞こえた。
《……やっと、迎えに来られた》
(……来てくれた。本当に来てくれた)
ゼノスはイリスに向かって歩いてきた。その目が、初めて会った晩餐会の時と同じように、静かに細くなる。
「イリス」
「はい」
「一つ、正直に言う」
「……どうぞ」
「俺があなたに最初に感じたのは、恋などではなかった」
イリスは少し目を細めた。
「わかっています」
「腹黒い女だと思った。有能で、計算高くて、誰も信用していなくて。そして――それを、最高だと思った。あのバカ王子に使いこなせるはずがない、と」
「……閣下も、私を「使う」つもりで?」
「ええ」
ゼノスは一切躊躇しなかった。
「使うつもりだった。あなたという最強の頭脳を、ルーカスの国益のために。あなたの証拠収集能力を、外交の切り札として。あなたの腹黒さを、俺の隣で思う存分発揮させて。そうやって、互いに使い合うつもりだった」
「……それが、今は?」
「変わった」
ゼノスはイリスの前で立ち止まった。手を差し出す前に、一度だけ息を吐いた。
「いつから変わったかは、自分でもわからない。証拠書類の第三束を受け取った時か。返信の文末に、一度だけ「少し、疲れました」と書いてあった夜か。あなたがあのバカ王子を庇う書類を仕込んだと知った時か」
「……全部、知っていたんですか」
「全部。俺はあなたの仕事を、あなた以上に把握していた」
イリスは少し、笑った。
「……趣味が悪い」
「隣国の重臣は趣味が悪くなければ生きていけない。それはお互い様でしょう」
ゼノスは手を差し出した。
「正直に言う。今も、あなたを使いたいと思っている。あなたの有能さを、腹黒さを、誰も信用しない目を、全部俺の隣に置きたい。でも同時に――」
声が、少し変わった。
「俺が先に死ぬまで、あなたを傍に置いておきたい。それは使うという言葉では足りない」
心の声が聞こえた。
《――手放さない。どれだけ腹黒くても、どれだけ有能でも、そのすべてが愛おしい。契約なんていらない。俺のすべてを渡す。隣にいてくれ》
(……聞こえています)
「聞こえていましたよ」
「知っています」
「それでも、言いますか」
「何度でも言う。あなたが飽きるまで」
イリスはその手を取った。
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後ろで、カイルが「――待て」と声を上げた。
ゼノスは振り返らなかった。歩きながら、淡々と言った。
「殿下、契約書付則の第三十七条をご確認ください。妃が契約満了後に隣国人と婚姻する場合、当該国は干渉権を持ちません。殿下が署名された条約の細則に明記してあります」
カイルが硬直した。
「……それも、最初から……?」
イリスが、後ろを向かずに答えた。
「契約通りに、完璧にお仕事をしただけです」
馬車の扉が開く。ゼノスがイリスを先に乗せ、自分が続いて乗り込む。
扉が閉まる直前、イリスは一度だけ振り返った。
カイルが立っていた。何か言おうとして、言葉にならなかった。
「ごきげんよう、カイル殿下。国をどうか、よろしくお願いします」
扉が、静かに閉じた。
馬車が動き始めた。窓の外を王宮の尖塔が流れていく。
ゼノスが隣に座ったまま、何も言わなかった。
少しして、イリスが口を開いた。
「……閣下」
「ゼノスでいい」
「……ゼノス。一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは本当に、私を「使うつもり」だったのですか」
ゼノスは少し考えて、答えた。
「最初の一ヶ月は。それ以降は違う」
「何が変わりましたか」
「あなたが暗号文に一度だけ「少し疲れました」と書いた。その返信を書こうとして、俺は一時間かかった」
「……一時間? 何をしていたんですか」
「何と返すのが正解か、初めて分からなくなった」
イリスは窓の外を見た。
「何と書いたんですか」
「覚えていますか。「道具は自分で管理しろ」と書いた」
「……覚えています。ひどい返信だと思いました」
「それが、俺の精一杯だった。あの時点での」
イリスは少しだけ笑った。
「……合格点はあげません」
「精進します」
馬車は街道を走り続ける。春の風が、窓の隙間から入ってきた。
イリスは目を閉じた。
(……行く。この人の隣に)
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(第五話・了)
次回「エピローグ」へ続く
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ここまでお付き合いいただきありがとうございます!
第五話——告白シーン、いかがでしたでしょうか。
ゼノスの告白を「君を救いに来た」にしたくなかった、というのは最初から決めていました。彼はイリスを「救う」ような立場の人間ではないし、イリスも「救われる」ような女ではない。
だから「使うつもりだった、と正直に言う男」にしました。
「あなたという最強の頭脳を、ルーカスの国益のために。互いに使い合うつもりだった」——これを躊躇なく言えるのがゼノスという男で、だからこそ「でも変わった」の一言が重くなる。腹黒い人間の「変わった」は、腹黒くない人間の「愛している」より、ずっと証明が難しいので。
カイルへのゼノスの言葉「あなたは一年間、彼女の何を見ていましたか」——ここはカイルへの責めではなく、静かな事実確認です。怒っていない。ただ、差を言語化している。それがかえって残酷だと思って書きました。
「一時間返信を考えた」というのが、この作品におけるゼノスの最大の照れです。気づいていただけたでしょうか(笑)。
次回、エピローグです。短いですが、一番好きな話かもしれません。




