第三話 崩壊する第一王子と、しっぽを出した聖女
契約から七ヶ月目。亀裂は、突然やってきた。
発端は、隣国との貿易交渉だった。
カイルが「全部イリスに任せる」と丸投げした大型案件を、イリスは三週間かけて完璧にまとめ上げた。分厚い条約書類一式、完全な法的整合性、隣国側にも文句のつけようがない均衡案。
表向きは。
裏では、ルーカス王国側の担当者――ゼノスの部下――と周到に話し合い、条約の細則の一箇所に、目立たない文言をひとつ忍ばせた。
〈本条約の履行に際し、締結国の一方が国家的不正行為を行った場合、
相手国は一方的な条約破棄と損害賠償請求を行使できるものとする〉
カイルはその条約書類に、例によって目も通さずサインをした。
《早く終われ、聖女様が待ってる。こんな難しい書類、イリスが全部確認してるんだから大丈夫だろ》
(……はい、大丈夫です。ご安心ください。あなたにとっては)
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事件は翌週に起きた。
ソフィアが、また「慈善活動費」の名目で大口の引き出しをしたのだ。
今度は金額が桁違いだった。王宮の年間慈善枠の、三分の一に相当する額。しかも隠しもしなかった。王子という後ろ盾があれば何をしても大丈夫だという確信が、その雑さに滲み出ていた。
財務官が青ざめた顔でイリスの執務室に飛び込んできた。
「奥方様! 聖女殿が国庫の慈善枠から……! 合計で……!」
「わかりました。落ち着いてください」
イリスは財務官を部屋に招き入れ、扉を閉めた。
「記録は完全に残っていますか」
「全部残っています」
「今すぐ、私の名前で封印してください。同時に、ルーカス王国大使館への外交照会文書を起票します」
財務官が目を見開いた。
「……条約の、細則を使うのですか」
「使います。そのために入れておきました」
「奥方様……まさか、最初から――」
「私は契約通りに、完璧にお仕事をしているだけです」
イリスは静かに微笑んだ。
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翌日、ルーカス王国大使館から正式な照会文書が届いた。
「貿易条約の履行に際する国家的不正疑義について、調査協力を要請する」
差出人はゼノス・アルヴィン公爵の署名。
イリスが三ヶ月かけて保全してきた証拠の束が、外交文書として正式に動き始めた瞬間だった。
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王宮が揺れ始めたのはそこからだ。
カイルが自分からイリスの執務室に飛び込んできたのは、その夜。
「イリス! ルーカスが調査だと? ソフィアが横領? 俺はそんなこと何も――」
「殿下」
イリスは立ち上がりもせず、静かに書類の束を差し出した。
「ご署名いただいた書類の第一号から第四十二号をご確認ください。ルーカス側への正式回答に、殿下の御覧になった書類の一覧を添付する必要がありますので」
カイルは書類の束を受け取り、ページを繰り――青ざめた。
「俺がサインして……全部……これ、俺が知っていたことに――」
「殿下が内容をご確認の上、承認されたという証跡が全ページに残っています。書類の管理は完璧に行っておりましたので」
《なんで……なんでこいつ、こんな……俺が読まないのを知ってて……ずっと……》
(……「ずっと」、そうです。三ヶ月間ずっとです。「賢い犬」は、鎖を繋いでいたのはどちらだったか、今ごろお気づきになりましたか)
「イリス、お前――」
「何か?」
イリスは微笑んだ。完璧な、涼やかな、何も語らない微笑みで。
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同じ頃、別の部屋ではソフィアがカイルに縋りついていた。
「カイル様! 私は何も悪いことなんて……あれは全部、慈善のために……!」
《やばい。証拠を全部固められてる。早くカイルを操縦しないと。泣けば何とかなる。この男、泣き顔に弱いから》
ソフィアは目に涙を浮かべた。
「実は……イリス様が私に、横領を強要していて……私はただ従うしか……」
「その証言も、記録してございます」
背後から、静かな声。
ソフィアが振り返ると、イリスが一台の宝石型魔道具を掲げていた。公式の証拠能力を持つ記録装置だ。
「ご安心ください、聖女様。今の発言も含めて、完璧に保全されました」
《な……いつから……》
「第一話からです」
ソフィアの顔が崩れた。
カイルは壁に手をついて、力なく立っていた。
《俺は……俺はずっと……道具のつもりで……逆に……》
(……今ごろ気づきましたか。でも遅いです。全部、証拠になっています)
「殿下、一つだけ申し上げます」
イリスは書類をファイルに収めながら、カイルを見た。
「あなたが「信頼してみせれば馬車馬になる」とお考えだったように、馬車馬にも、手綱を握る腕があります。七ヶ月間、私が引いていたのはこちらの手綱でした」
カイルは何も言えなかった。
イリスは礼をして、扉を開けた。
「残りの五ヶ月間、何卒よろしくお願いいたします」
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(第三話・了)
次回「第四話」へ続く
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ここまでお付き合いいただきありがとうございます!
第三話、楽しんでいただけましたか? これが「ざまぁ」の第一段階です。
条約の細則に「一文」を仕込んでおく——という手法、ポイントは「完全に合法」なところなんですよね。イリスは一切ズルをしていない。ただ「目を通さずにサインするカイル」という行動パターンを正確に把握した上で、それを利用した。使われる側だと思っていた人間が、実は全部設計していた、という構造の逆転がここで初めて明らかになります。
ソフィアの「泣けば何とかなる」作戦が、録音宝石の前に一瞬で瓦解するシーンは書いていてとても気持ちよかったです(笑)。
そしてイリスの最後の台詞「馬車馬にも、手綱を握る腕があります」——ここは第一話でカイルが「ちょろい」と思った言葉への、静かな回答になっています。七ヶ月後に、ようやく返ってきた言葉。気づいていただけたでしょうか。
次回、いよいよ契約終了です。




