第二話 完璧な事務妃、裏で着々と準備する
契約婚姻から三ヶ月。
イリスは王宮の執務室で、今日も書類の山と向き合っていた。
「本日のご報告です、殿下。隣国との麦の輸入交渉について、三案用意いたしました。第一案は――」
カイルは執務椅子に深く沈み込み、葡萄酒のグラスを傾けながらイリスを一瞥した。
「ああ、適当によろしく。君の判断に任せる」
表の言葉は、「信頼している」だ。
《だいたいわかった。この女に「任せる」と言えば全部やってくれる。督促も文句も言わない。完全に使い勝手のいい道具だな。賢い犬は言葉じゃなく餌で動く。俺の餌は「信頼」。ちょろすぎる》
(……「賢い犬」。なるほど、そういう認識でしたか。せいぜい鎖を信じていてください)
「かしこまりました。では最終承認の署名だけ、こちらに」
カイルは書類に目も通さずにサインをした。
イリスはそのサインを丁寧に受け取り、ファイルに滑り込ませた。
(今日で三十七枚目です。あなたが読まずに署名した書類、一枚一枚に「殿下が内容を承認した」という証跡が残ります。いつか、とても大切な証拠になりますよ)
「では本日の執務はこれで。よい午後をお過ごしください」
「ああ」
カイルが立ち上がりながら、ちらりとイリスを振り返った。
「……君はいつも、よくやってくれている。助かっているよ、イリス」
完璧な笑顔で言う。
《ちゃんと褒めておいてやった。これで次の三ヶ月も機嫌よく働くだろう。馬には定期的に水をやらないとな》
(……「馬に水」。承りました。では水の代わりに、証拠書類を頂戴いたします)
王子が颯爽と部屋を出ていくと、イリスは静かに執務室の戸棚を開けた。
そこには、整然と並ぶファイルの束。
カイルが聖女と過ごした日程表(王宮の警備記録と突き合わせ済み)。予算の配分と、そこから不自然に消えていく数字の記録(三ヶ月分、完全に可視化済み)。ソフィアの「慈善活動」名目で動かされた資金の流れと、彼女が実際に購入した宝飾品の領収書(購入日時と金額の照合済み)。
そして一番下に、暗号化された一通の文書。
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ゼノス・アルヴィン公爵と初めて会ったのは、半年前の外交晩餐会だった。
隣国ルーカス王国の重臣にして、この国に駐在する外交使節。三十をいくつか過ぎた、静かな目をした男だ。整った顔をしているが、それよりも目が印象的だった――何かを常に計算している目。そして、その計算を絶対に表に出さない目。
初めて隣に立った時、その心の声が聞こえた。
《……面白い女だ。あの第一王子の「信頼している」という言葉に、一ミリも喜んでいない。笑顔の下で何かを整理している。腹黒い。有能で、腹黒くて、美しい。あのバカ王子に使いこなせるはずがない》
イリスは思わず、その場で噴き出しそうになった。
必死に堪えて、ゼノスのほうをそっと見ると、向こうもちょうどこちらを見ていた。
「何か、おかしなことがありましたか、アルデシア夫人」
「……本音を言える方が近くにいると、少し安心するなと思いまして」
ゼノスは一瞬、目を細めた。
「聞こえるのですか、本音が」
「時々」
「……それは、なかなか厄介な能力だ。私の分も?」
「『腹黒い、有能で美しい』とおっしゃっていたような気が」
ゼノスは声を立てて笑った。この男が感情を表に出したのを、イリスはこの時初めて見た。
「では、お互い様ですね」
「……閣下も、腹黒いと?」
「隣国の重臣が三十年生きて腹黒くない方が不自然でしょう」
それ以来、二人の「極秘連絡」が始まった。
イリスが証拠を集め、ゼノスが隣国でそれを外交文書として保全する。もし何か起きた時、イリスが国を出る時、すべての証拠はルーカス王国の管轄になる。
「公爵閣下。証拠書類の第七束、整理が終わりました」
暗号文の返信は、翌朝には届いた。
《お疲れ様。第八束も楽しみにしている。君の仕事は芸術だ――それと、無理はするな。道具が壊れたら誰が困るか、わかっているね?》
(……「道具」という自覚は、閣下も同じですか)
イリスは少しだけ口の端を上げて、返信を書いた。
《道具は自分で自分を管理します。ご心配なく。それより第八束、少し時間がかかりそうです。聖女の横領が、私の予想より三倍ほど豪快でしたので》
返信はすぐ来た。
《……三倍。楽しみにしている》
(……この人は本当に、最初から一度もブレていない)
イリスは暗号文をファイルに仕舞いながら、ほんの少し、契約終了の日が楽しみになってきた。
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(第二話・了)
次回「第三話」へ続く
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ここまで読んでいただきありがとうございます!
第二話は、ある意味この作品の「仕込みの話」です。地味といえば地味なんですが、個人的には一番好きな話かもしれません。
カイルが「褒めておいてやった。これで三ヶ月は機嫌よく働く」と思いながら「助かっているよ、イリス」と言う場面——あそこ、書いていて一番「こいつ……!!!」となりました(笑)。褒め言葉を「馬への水やり」と表現しているあたり、悪意すらなく無自覚に人を道具だと思っているんですよね。悪意がない分、たちが悪い。
そしてゼノスとの初対面。彼の第一印象が「腹黒い。最高だ」というのは最初から決めていました。イリスの腹黒さを「欠点」ではなく「魅力」として真っ先に見抜いた人が、最終的に彼女を迎えに来る——そういう構造にしたかったんです。
暗号文のやりとり、特に「少し疲れました」への返信が「道具は自分で管理しろ」だったというのは、第五話への伏線です。あの一文を書くのに一時間かかったゼノスを、少し想像してみてください。




