第八話:全力の『行ってきます』と、四色の制服
金曜日、午前七時四十五分。
この一週間、幾多の課題と、親同士の監視網と、謎の激辛ビスケットの洗礼を乗り越えてきた四人の戦士たちにとって、この朝は特別な意味を持っていた。
四ツ葉駅に差し込む朝日は、月曜日のそれよりも一段と眩しく、週末という名の聖域を照らし出す後光のようにすら見える。
藍沢千晶は、いつもの円柱の陰に立ち、シアンブルーのネクタイをきりりと締め直した。
今朝は寝ぼけてお父さんのネクタイを掴むこともなく、正真正銘、蒼ノ森高校の優等生としての姿だ。
「……おはよ。ちあき。……金曜日、……魂が、……半分、……抜けてる……」
背後から、衣擦れの音と共に、今にも消え入りそうな声がした。
一ノ瀬菫だ。彼女はバイオレットのセーラー服の袖を千晶の肩に乗せ、完全に重心を預けている。
だが、その瞳の奥には、週末のアニメ特番を録画予約し終えた者特有の、静かな達成感が宿っていた。
「おはよう、菫。……抜けた半分は、明日になれば戻るわよ。ほら、最後の一日、シャキッとしなさい」
「……無理。……私のパルスは、……既に、……土曜日の、……午前十時に……飛んでる……」
「早すぎるわよ」
千晶が呆れ顔で菫の頭を支えていると、改札の向こうから、地響きのような足音が聞こえてきた。
「グッドモーニング! イエス! フライデー・ナイトならぬ、フライデー・モーニングだヨ!」
瀬戸陽葵が、レモンイエローのカーディガンをこれでもかと大きく翻し、全力のダッシュで突っ込んできた。
彼女は千晶の目の前で急ブレーキをかけると、腰を低く落とし、陸上のスタート前のような構えをとった。
「陽葵、何よそのポーズ。……あと、声がデカい」
「ちあき! 今日は金曜日だヨ! 一週間のパッションを、ここで全部出し切るべきだヨ!」
「出し切ったら学校で動けないでしょ」
そこへ、織倉織江が音もなく合流した。
深緑のセーラー服を完璧に着こなし、扇子を広げて優雅に風を送っているが、その目はいつになくギラついていた。
「ごきげんよう、皆様。……ふふ、今朝は一段と『生命の輝き』が強いですわね。……死を目前にした者のような、神々しさすら感じますわ」
「お嬢! いいこと言うネ! ……よし、決まりだヨ。今日一日の運気を爆上げするために、改札前で『全力の行ってきます選手権』を開催するヨ!」
陽葵の突拍子もない提案に、千晶が「はぁ?」と眉を寄せた。
「選手権って、あんた……。ここ、四ツ葉駅のど真ん中よ? 恥ずかしいにも程があるでしょ」
「何を言ってるのヨ、ちあき! 私たちがここで声を上げれば、駅全体の重苦しい空気が浄化されるんだヨ! マンマ・ミーア、これはボランティアだヨ!」
「……やる。……叫んで、……体内の、……澱みを、……吐き出す……」
菫までが、バイオレットの袖を捲り上げてやる気を見せ始めた。
織江も扇子をパチンと閉じ、不敵な笑みを浮かべる。
「面白いですわね。……誰が一番、この四ツ葉駅に『呪い』……いえ、『言霊』を刻み込めるか。……一番手に名乗りを上げさせていただきますわ」
織江が、優雅な足取りで円柱の陰から一歩踏み出した。
彼女は大きく息を吸い込み、清楚なお嬢様という皮をかなぐり捨てるように、腹の底から声を張り上げた。
「――ごきげんよおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉんっ!!」
四ツ葉駅の天井に、お嬢様の地声が反響した。
通りすがりのサラリーマンが驚いて新聞を落とし、鳩が一斉に飛び立つ。
織江は涼しい顔で戻ってくると、「……ふぅ。……少し、魂が軽くなりましたわ」と満足げに頷いた。
「マンマ・ミーア、お嬢のパッション、120点だヨ! 次は私だネ!」
陽葵が改札に向かって大きく両手を広げた。
「――いってきまーーーっす! 世界のみんな、私に注目してネーーーッ!!」
もはや挨拶ではなく、全人類への宣戦布告である。
千晶は顔を覆い、他人の振りをしようと柱に顔を押し付けた。
「……次は、……私。……ふんっ」
菫が、最小限の動きで、しかし驚くほど響く低音で呟いた。
「……逝ってきます。……二度と、……戻らぬ、……覚悟で……」
「菫、それは挨拶じゃなくて辞世の句よ!」
千晶がツッコミを入れるが、三人の視線は既に千晶へと集中していた。
「さあ、ちあき! トリはリーダーのあんただヨ!」
「……ちあき。……叫ばないと、……週末、……来ないよ?」
「ふふ、千晶。……あなたの凛とした声で、この駅に終焉を告げなさいな」
三人に追い詰められ、千晶は逃げ場を失った。
こうなればヤケクソである。一週間の鬱憤、数学の難問、チョコミント地獄、親同士の監視網。その全てを声に乗せる。
「――いってきますわよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!! 月曜日まで帰ってこないからねぇぇぇ!!」
千晶の絶叫が、駅の喧騒を完全に支配した。
四色の制服が、朝の光の中で、一つの巨大な熱量となって爆発した瞬間だった。
しんと、静まり返る駅構内。
やり切った四人が肩で息をしながら、互いの顔を見て「アハハ!」と笑い出した。
羞恥心なんて、金曜日のパッションの前では微塵ほどの価値もない。
しかし、その絶頂を冷水でぶち壊すように、千晶のポケットでスマホが激しく振動した。
「……げっ。……お母さんからLINE……」
千晶が震える指で画面を開く。
『千晶、あんたたち駅前で何叫んでるのよ。今、田中さんから電話があって「藍沢さんの娘さんが、駅の改札前で人類滅亡の予言でも始めたのかってくらい叫んでる」って心配してたわよ。恥ずかしいから今すぐ学校に行きなさい。ちなみに、今夜の夕食はハンバーグをやめて、あんたたちの熱を冷ますための冷やし中華にするからね』
「………………」
一瞬にして、四ツ葉駅に冬が訪れた気がした。
「田中さん……。あの人、朝の七時からずっと駅のベンチに張り付いてるんじゃないかしら」
「マンマ・ミーア! 田中さんは四ツ葉駅の守護神かナ!?」
「……冷やし中華。……千晶のママ、……采配が、……冷徹……」
「ふふ、……呪いですわね。田中さんという名の、逃れられぬ監視の呪いですわ」
四人は肩を落とし、トボトボとそれぞれのホームへ向かった。
だが、その足取りは、不思議と軽かった。
全力で叫んだことで、胸の内にあった澱みは確かに消え去っていたからだ。
ホームへと続くエスカレーター。
朝の陽光が、四人の背中を優しく押し出す。
学校はバラバラ。校則も違う。
けれど、こうして一つの「アホな遊び」を共有し、同じタイミングで親に怒られる。
この四色の制服が重なる一瞬一瞬が、彼女たちの日常を何物にも代えがたい宝物に変えていた。
「じゃあね、みんな! 放課後、隠れ家でアイスパーティーだヨ!」
「……アイス、……チョコミント以外、……希望……」
「ふふ、……皆様、田中さんの視線に気をつけて、一日をお過ごしなさいな」
それぞれの電車が滑り込んでくる。
ドアが閉まり、四つの色が四つの方向へと走り出す。
窓の外、流れていく景色を見つめながら、千晶は自分のネクタイが真っ直ぐであることを確認した。
金曜日の朝。
全力で「行ってきます」を叫んだ彼女たちの前には、最高に輝かしい週末への道が、真っ直ぐに伸びていた。




