第7話:木曜日の『消失(ロスト)』と、菫のリュック・ミステリー
木曜日、午前七時四十五分。
一週間という長いマラソンの、ちょうど心臓が一番苦しくなる地点。
月曜日の絶望は遠い過去になり、金曜日の希望はまだ地平線の向こう側。四ツ葉駅に漂う空気は、湿った綿菓子のように重く、駅を行き交う人々の目からは一様にハイライトが消失していた。
藍沢千晶は、いつもの円柱の陰に立ち、大きく一つ、肺の奥に溜まった淀んだ空気を吐き出した。
今朝の彼女は、自分でも驚くほど脳が動いていないのを自覚していた。昨夜、深夜まで数学の難問と格闘した代償だ。目の下に薄い隈をこしらえ、シアンブルーのネクタイを指で弄る。
「……おはよう。……ちあき、……助けて……」
背後から、衣擦れの音と共に、幽霊のような掠れ声がした。
振り返ると、そこには市立紫苑芸高のバイオレットのセーラー服を纏った一ノ瀬菫が、柱に吸い込まれるような姿勢で立っていた。
「菫。……あんた、顔色が真っ白よ。大丈夫?」
「……大丈夫じゃ、ない。……リュックが、……重い。……中に、……ブラックホールが、……飼われてる……」
菫はそう呟くやいなや、その場に崩れ落ちるようにリュックを下ろした。ドサッ、という女子高生のカバンからはおよそ聞こえてこない重量感のある音が、タイルの床に響く。
千晶は眉をひそめ、菫のリュックに手をかけた。
「ちょっと、何これ! 岩でも詰めてきたの!?」
「……分からない。……朝、……適当に、……詰めた……」
千晶がジッパーを開けると、そこには驚愕の光景が広がっていた。
一番上には、昨日読み終えたはずの『世界海洋生物大図鑑』。その下には、なぜか菫の兄の私物であろう「三キロのダンベル」が片方だけ鎮座している。
「菫! あんた、なんで学校にダンベル持ってきてるのよ!」
「……え。……それ、……お兄ちゃんの。……間違えた……」
「図鑑もよ! これ今日いらないでしょ!」
「……重い。……けど、……筋トレになるから、……いい……」
菫は無表情のまま、再びリュックを背負おうとして、その重さに負けて後ろにひっくり返りそうになった。千晶が慌ててその背中を支える。
「マンマ・ミーア! 菫、朝からダイナミックな動きだネ!」
そこへ、レモンイエローのカーディガンを羽織った瀬戸陽葵が、羽が生えたような軽やかさで合流した。
彼女は菫の惨状を見るやいなや、自分のカバンを指さして笑う。
「見てヨ、私は今日、最高に自由だヨ! カバンが羽毛みたいに軽いネ!」
「陽葵。……あんた、まさか……」
「イエス! 教科書、全部忘れたヨ!」
「威張るな! あんた今日、テスト返却の日でしょ!」
教科書を失って自由を手に入れた陽葵と、余計な重圧(物理)を背負って沈没しかけている菫。
木曜日の朝。四ツ葉駅の柱の陰は、正常な判断力を失った女子高生たちの掃き溜めと化していた。
「……あら。皆様、今朝は一段と『忘却の彼方』に身を置いておられますわね」
そこへ、聖オリーブ女学院の織倉織江が、音もなく合流した。
彼女は深緑のセーラー服を完璧に着こなし、扇子で優雅に風を送っているが、その瞳には慈悲の欠片もない。
「お嬢! 聞いてヨ、菫がダンベル登校してるんだヨ!」
「……ふふ。素晴らしいですわ、菫。……ですが、千晶。……あなたも、人のことを笑っている場合ではありませんわよ」
「え? 私は忘れ物なんてしてないわよ。課題も全部持ってきたし……」
「いいえ、千晶。……先ほど、私のお母様から緊急の連絡がありましたわ。……お母様方は今、LINEグループで『朝の爆笑報告会』を開催しておりますの」
織江は扇子を閉じ、千晶の首元をスッと指差した。
「千晶……。あなた、今朝は寝ぼけて、お父様のネクタイを締めて出てきたそうですわよ」
「――っ!?」
千晶が慌てて自分の胸元を見下ろす。
爽やかなシアンブルーのはずのネクタイは――そこには、おじさん臭い、茶色とグレーの地味なストライプ模様が鎮座していた。
「……う、うそ。……これ、お父さんの『勝負ネクタイ』だわ……」
「マンマ・ミーア! ちあき、渋すぎるヨ! 一気に係長クラスの貫禄だネ!」
「……ちあき、……お疲れ様。……部長……」
「部長じゃないわよ! うわああ、恥ずかしい! なんで誰も教えてくれなかったのよ!」
千晶は顔を真っ赤にして、お父さんのネクタイを外そうとした。だが、焦れば焦るほど結び目が固くなり、首を絞める結果になる。
「……呪いですわね。お父様の無念が、ネクタイに宿っておりますのよ」
「織江、変な解説しないで! ……もう嫌だ、木曜日なんて大嫌いよ!」
家系図のように繋がった幼馴染ネットワーク。親たちは今頃、娘たちの「ダンベル」「忘れ物」「お父さんのネクタイ」という三連コンボで、モーニングコーヒーを吹き出しているに違いない。
自分たちのプライバシーは、木曜日の霧よりも不透明だった。
ホームへと降りる階段。
ダンベルの重みで膝が笑っている菫。教科書がないことに今更焦りだした陽葵。そして、お父さんのネクタイを必死でブレザーの中に隠そうとする千晶。
そんな三人を見つめ、織江は優雅に歩みを進める。
「……ねえ。私たち、……本当に、……大丈夫かな」
菫が、階段の途中で力尽きそうになりながら呟いた。
水色のブレザー(に隠された親父タイ)、黄色のカーディガン、深緑のセーラー、紫のモダンセーラー。
四つの色が、木曜日の倦怠感の中でドロドロに溶け合い、一つの「カオス」を形成していた。
「大丈夫なわけないでしょ! ……でも、行くしかないのよ。学校は待ってくれないんだから」
「……イエス。……放課後。……隠れ家で、……全てを浄化するヨ……」
「……ええ。私も、皆様の恥ずかしいお姿を、じっくりと呪い(記録)に留めておきますわ」
それぞれの路線の電車が、無情にもホームに滑り込んでくる。
扉が開く直前、千晶は三人の肩を叩いた。
「いい? 陽葵は誰かに教科書を見せてもらうこと。菫は絶対にダンベルを学校に忘れてこないこと。……そして私は、……一刻も早く、このネクタイをどうにかするわ!」
「「「ラジャー!」」」
三者三様の(菫は虫の息で)返事をして、四色の制服がバラバラの車両へと吸い込まれていく。
千晶は電車に乗る直前、窓に映る自分の「係長のような姿」を見て、再び絶望の溜息をついた。
四ツ葉駅のホームに、日常の喧騒が戻る。
木曜日の朝。
何かを失い、何かを間違えた四人の少女たちは、それぞれの戦場へと運ばれていった。
放課後、隠れ家の扉を開けるその時まで、彼女たちの「消失」した理性が戻ることはない。




