第5話:菫の『歩き寝』と、四ツ葉駅の障害物競走
水曜日、午前七時四十五分。
一週間の折り返し地点。昨日までの勢いはどこへやら、四ツ葉駅に漂う空気は、まるで湿り気を帯びた古本のように重苦しい。
梅雨入りを間近に控えた初夏の朝は、肌にまとわりつくような熱気を含んでおり、人々の歩調を等しく数センチずつ狂わせていた。
いつもの円柱の陰。
藍沢千晶は、蒼ノ森高校のシアンブルーのネクタイを指で弾き、首筋にたまった熱を逃がそうと躍起になっていた。
「……暑い。月曜が絶望なら、水曜は虚無ね」
千晶が独り言を漏らしたその時、視界の端で「何か」がゆっくりと左右に揺れているのに気づいた。
市立紫苑芸高のバイオレットのセーラー服。一ノ瀬菫だ。
彼女は柱に背中を預けるでもなく、その場で振り子のように前後にゆらゆらと揺れている。目は完全に閉じられ、口元からは今にも「すー、すー」と寝息が聞こえてきそうだった。
「菫。……あんた、立ったまま夢の国に行かないで。シュールすぎるわよ」
千晶がその肩を揺さぶるが、菫は「……ふにゃ」と気の抜けた声を出すだけで、一向に目を開ける気配がない。それどころか、おもむろに足を一歩前へ踏み出した。
目を閉じたまま、改札の方へと歩き始めたのだ。
「ちょっ、菫!? どこ行くのよ!」
「マンマ・ミーア! ちあき、今日の菫は一味違うネ! 新種のゾンビかナ!?」
背後から、レモンイエローのカーディガンを脱ぎ捨てて(校則違反だが)半袖シャツ姿になった瀬戸陽葵が合流した。
彼女は菫の「歩き寝」を見るやいなや、目を輝かせてその横に並ぶ。
「見てヨ、この無駄のない足運び! 目をつぶってるのに、ちゃんと人を避けてるヨ!」
「……本能。……私の体は、……駅の構造を……記憶している……」
菫が目を閉じたまま、ボソリと呟いた。
彼女の「歩き寝」は、もはや芸術の域に達していた。他人の肩をかすめる直前で絶妙に身体を逸らし、床に落ちている空き缶すらも見えないはずの足先で回避していく。
「感心してる場合じゃないわよ! あ、危ない、右に柱! 陽葵、菫を右に誘導して!」
「オーケー! 菫、右三度! スタアァァト!」
「陽葵、声がデカい! 目立ってるから!」
水曜日の朝から、四ツ葉駅のコンコースで「障害物競走」が始まった。
千晶が前方を確認し、陽葵が菫の肩をラジコンのように操作する。傍から見れば、二人の女子高生が一人の眠り姫を丁重に護送しているという、極めて奇妙な集団登校である。
「あら。……今朝の四ツ葉駅は、一段と『死出の旅』に相応しい光景ですわね」
そこへ、聖オリーブ女学院の織倉織江が、音もなく合流した。
彼女は深緑のセーラー服を完璧に着こなし、手に持った扇子で優雅に風を送っているが、その視線は歩き寝をする菫へと固定されている。
「お嬢! 見てヨ、菫のオートモード! これなら遅刻知らずだヨ!」
「……ふふ。素晴らしいですわ。ですが陽葵、その先には『階段』という名の奈落が待っておりますわよ。……菫、そのまま真っ直ぐ進んで、冥土への第一歩を刻みなさいな」
「織江! 殺そうとするな! 菫、止まって! ストップ!」
千晶が慌てて菫の襟首を掴んで引き止める。
菫は「……む。……目的地……消失……」と呟き、その場で再び振り子運動を開始した。
「はぁ、朝から疲れるわ……。……あ、そういえば織江、あんたに聞きたいことがあったのよ。これ、何?」
千晶はカバンから、可愛らしいペンギンの形をした「保冷剤」を取り出した。
織江は扇子で口元を隠し、満足げに目を細める。
「ああ、それ。昨夜、私のお母様が千晶さんのお母様とLINEで長電話をしておりましたの。『千晶ちゃん、進学校の課題で目が真っ赤だったわよ』と。ですから、これを渡すようにと仰せつかりましたわ」
「……やっぱり! あんたたちの家の情報網、どうなってるのよ! 私が昨日、深夜二時に目をこすりながら数学を解いてたことまで筒抜けじゃない!」
千晶が真っ赤になって叫ぶ。
家系図のように繋がった幼馴染ネットワークは、本人のプライバシーを無視して「親心」という名の過保護を供給してくる。
「いいじゃない、ちあき! 愛されてるネ! 私のパパなんて、今朝『陽葵、水曜日はピザを食べてパッションを上げる日だヨ!』って、朝食に特大ピザが出てきたヨ。……見てヨ、この胃もたれ!」
「あんたの家はパッションが過剰なのよ……。ほら、階段。菫、目を開けなさい!」
千晶が菫のまぶたを強引にこじ開ける。
菫は「……っ。……光が……網膜を……刺す……」と悶絶しながらも、ようやく意識を現世へと戻した。
ホームへと降りるエスカレーター。
初夏の湿った風が四人の間を吹き抜ける。
水曜日。週末はまだ遠く、やるべきことは山積みだ。
けれど、こうして駅のホームでバカげた「障害物競走」を繰り広げ、親の過保護に愚痴をこぼしているうちに、彼女たちの心は少しずつ軽くなっていく。
「……あ。……ちあき、見て」
ふと、菫がホームのベンチ横にあるデジタルサイネージを指差した。
そこには、六月限定の新作アイス『チョコミント・フローズン・スカッシュ』の広告が大写しになっていた。
「……あれ。……放課後。……食べたい。……食べないと、……私の芸術魂が、……枯れる……」
「マンマ・ミーア! あのアイス、絶対美味しいネ! よし、決まりだヨ、放課後の目標確定だヨ!」
さっきまで死にかけていた陽葵が、アイスの画像を見た瞬間にフルパワーで復活する。
織江も扇子を畳み、「……ミント。……まさに、呪いを浄化する清涼感。悪くありませんわね」と同意した。
それぞれの路線の電車がホームに滑り込んでくる。
千晶はペンギンの保冷剤を大切にカバンにしまい、三人の背中を押し出した。
「わかったわよ。じゃあ放課後、アイスのために一日生き抜きなさいよ。……陽葵、階段で転ばない! 菫、電車の中で立ったまま寝ない! 織江、……あんたは、誰にも呪いをかけないこと!」
「「「はーい!」」」
三者三様の(菫は小さな声で)返事をして、四色の制服がバラバラの車両へと吸い込まれていく。
千晶もまた、水色のネクタイを整え直し、進学校という名の戦場へと向かう電車に乗り込んだ。
窓の外、四ツ葉駅のホームに溜まっていた湿った空気は、彼女たちの笑い声と共にどこかへ消えていた。
水曜日の朝。
チョコミントアイスという共通の「光」を目指して、四つの色が再び動き出す。
一週間の折り返し地点は、彼女たちにとって、もう絶望の場所ではなかった。




