第3話:エセ英語禁止令と、沈黙のバイオレット
火曜日、午前七時四十五分。
月曜日の絶望的な重力からは解放されたものの、今度は「週末までの遠さ」という絶望がじわじわと足を引っ張る時間帯。
四ツ葉駅、いつもの円柱の陰。
藍沢千晶が到着すると、そこには既に先客がいた。
市立紫苑芸高の深いバイオレットのセーラー服に身を包んだ、一ノ瀬菫。彼女は柱に背中を預け、虚空を見つめたまま固まっている。
「……おはよう、菫。あんた、火曜からそんなんで大丈夫?」
「……おはよう、ちあき。……火曜日って、一週間の中で一番キャラが薄いと思わない? ……存在意義が、分からない……」
「曜日に存在意義を求めないでよ。……ていうか、目を開けたまま寝るのやめなさい。怖いから」
千晶が菫の眠気を冷まそうと、冷たい指先で彼女の頬をつついた時――。
「グッドモーニング、マイフレンズ! イエス! チアキ、スミレ、今日も最高にビューティフルだヨ!」
改札の方から、朝の静寂を切り裂くようなハイテンションな声が響いた。
レモンイエローのカーディガンを羽織った瀬戸陽葵が、両手を広げてステップを踏むように近づいてくる。
「……うるさ。……陽葵、朝からそのテンション、……公害……」
「ひどいヨ菫! 火曜日こそ、パッションで乗り切るべきなんだヨ!」
陽葵の「エセ外国人モード」は、テンションが上がると加速する。
千晶はこめかみを押さえ、一つ名案を思いついた。
「ねえ、陽葵。あんた、そんなに英語が得意なら……今日、学校に着くまでの間、『カタカナ・英語禁止令』をやってみない?」
「……? 何ネ、その面白そうなゲームは!」
「ルールは簡単。カタカナや英語を一言でも使ったら、放課後の『お菓子基金』に百円没収。いい?」
「オーケー、望むところだヨ! 私はハーフのプライドに賭けて、完璧な日本語をマスターしてみせるネ!」
その瞬間、千晶の目が鋭く光った。
「はい、今『オーケー』って言ったわね。百円」
「……えっ!? あーっ! 今のは練習だヨ、プラクティスだヨ!」
「はい、プラクティス。合計二百円。……出世払いじゃないわよ、今すぐ基金に入れなさい」
千晶が「集金箱」と書かれた小銭入れ(本来は放課後の共有財布)を陽葵の鼻先に突き出す。
陽葵は「マンマ・ミーア!」と叫びそうになる口を必死に押さえ、涙目で小銭を取り出した。
「……ふふ。……面白い。……陽葵、一分で破産する……」
「黙ってろ菫! ……あ、いや、『静寂を守れ、一ノ瀬!』だヨ!」
不自然な日本語を捻り出す陽葵。そこへ、聖オリーブ女学院の深緑の制服を着た織倉織江が、音もなく合流した。
「ごきげんよう、皆様。今朝は一段と賑やかですわね」
織江は優雅に微笑んでいるが、その目はいつものように据わっている。
千晶が素早く「禁止令」の説明をすると、織江は満足げに頷いた。
「素晴らしい企画ですわ。……それでは、今朝の不吉な報告も、純粋な日本語のみでお伝えいたしましょうか」
織江の「日本語縛りホラー」という、新たな地獄の幕が上がろうとしていた。
「……それでは、お聞きなさいな。今朝、我が家の炊飯器が開いた瞬間、白米の粒が……見事な『九芒星』を描いて並んでおりましたの」
織江が、一切のカタカナを排した美しい日本語で語り出す。
普段なら「ライスクッカー」や「ラッキー」などと言いそうな場面だが、彼女の本気はそこにあった。
「九つの角を持つ星……。それは古来より、家主に降りかかる『九つの災い』を意味しますわ。……一、喉を詰まらせる。二、足を挫く。三、……」
「や、やめてヨ! 織江、日本語だともっと怖いヨ!」
陽葵が耳を塞いで叫ぶ。織江の語り口は、純和風になったことで怪談としての純度が跳ね上がっていた。
「……四、信じていた友に裏切られる。……五、背後に、見知らぬ者が立つ……」
「ひぃぃぃ! オー・マイ・ガッ! 助けて、ちあきー!」
恐怖に耐えきれなくなった陽葵が、千晶の腕に縋り付いて絶叫した。
その瞬間、千晶が慈悲のない笑みを浮かべ、小銭入れをパカッと開く。
「はい、今『オー・マイ・ガッ』って言ったわね。百円」
「……あ。……あ、あああーっ! 卑怯だヨ、織江! 今のわざとだネ!?」
「何のことですの? 私はただ、朝の出来事を丁寧にお伝えしただけですわ。……あら、今『わざと』と言いかけませんでした?」
「言、言ってないヨ! 『作為的』だヨ!」
必死に語彙力を絞り出す陽葵。
水色のネクタイを直しながら、千晶はホクホク顔で「お菓子基金」の重みを確認した。
「火曜の朝から六百円も貯まっちゃった。放課後のケーキ、一個増やせるわね」
「……ひどい。……ちあき、悪代官みたい。……陽葵、年貢の納め時」
菫が眠たげな目で、力なく陽葵の肩を叩く。
陽葵は「マンマ・ミーア!」と叫びたい衝動を、唇を噛んで必死に堪えていた。
それぞれのホームへ向かう階段。
陽葵は「私は……沈黙の……武士になるヨ……」と呟き、一言も発さずに電車を待つ戦法に出た。
千晶と織江がどれだけ「新作のスイーツ(甘味)」や「テスト(試験)」の話で釣ろうとしても、陽葵は般若のような顔で黙秘を貫く。
やがて、菫が乗る地下鉄の到着アナウンスが流れた。
「……じゃあ、放課後。……私は、……行く」
菫がよろよろと電車に乗り込む。
ドアが閉まりかけるその瞬間。
それまで一度も「禁止令」に触れず、沈黙を守り続けていた菫が、窓の隙間からひょいと顔を出した。
「……ちあき。……今日の罰金で、……チョコ、買って」
「あ。……ちょっと、菫! あんた今――」
千晶がツッコむよりも早く、菫は指を一本立て、涼しい顔でこう言い放った。
「……ノー・プロブレム。……じゃあね」
プシューッ、と無情にも閉まるドア。
菫を乗せた電車は、悠々とトンネルの向こうへと消えていった。
「――っ! 菫! あんた、最後に全部持ってったわね!」
「あーっ! ずるいヨ! 菫も百円だヨ! 止まってヨ、電車ー!」
駅のホームで地団駄を踏む陽葵と、それを見て腹を抱えて笑い出す千晶。
織江は優雅にハンカチで口元を抑え、「……やはり、沈黙こそが最大の呪いですわね」と満足げに頷いた。
火曜日の朝。
バラバラの方向へ走り出す四人の心は、菫が言い残した「チョコ」という共通の目的に向かって、既に一つに混ざり合っていた。




