第2話:隠れ家の主(お母さん)と、お嬢様のネクタイ解禁
午後四時三十分。
四ツ葉市の中心部にひっそりと佇む『市立・旧ばし図書館』。
明治時代の面影を残す赤レンガ造りの外観は、放課後の女子高生が好む「映え」とは無縁の、重厚で静謐な空気を纏っている。
その最深部。カビた紙の匂いが漂う郷土資料コーナーの突き当たりに、一枚の重厚な木製ドアがあった。
かつて司書たちの仮眠室だったというその場所は、今では「整理中の備品庫」という名目で、一般の利用客からは忘れ去られた場所だ。
「……ふぅ。今日も模試の結果が『呪い』のような数字だったわ」
カチャリ、と鍵を開けて入ってきたのは藍沢千晶だ。
蒼ノ森高校のスマートなブレザーを脱ぐ気力もなく、彼女は室内にある年季の入ったソファへと身を投げ出した。
ここが、四人の聖域――『隠れ家』だ。
直後、バタン! と乱暴にドアが開いた。
「あああああ! もう限界ですわ! 肩が、肩が凝って死にそうですわ!」
飛び込んできたのは、聖オリーブ女学院の織倉織江だった。
登校時の優雅な面影はどこへやら。彼女は入室するやいなや、清楚なお嬢様の象徴である深緑のセーラータイを、まるで邪魔な呪具でも捨てるかのように引きちぎって放り投げた。
「お嬢、落ち着きなさいよ。……というか、タイを投げないの」
「千晶、聞いてくださいまし! 今日の礼法の時間、一時間ずっと正座で『心の安寧』について説法を受けましたのよ。安寧どころか、私の膝が怨念を上げていますわ!」
織江はスカートの裾も気にせず、千晶の隣にドサリと座り込む。
そこへ、さらに騒がしい足音が近づいてきた。
「マンマ・ミーア! 地獄の底から生還したヨ!」
レモンイエローのカーディガンをはためかせ、陽葵が飛び込んでくる。
その後ろには、彼女の影に隠れるようにして、市立紫苑芸高の菫がフラフラとついてきていた。
「陽葵、声がデカいわよ。ここ図書館なんだから」
「いいんだヨ、ここは防音室並みに壁が厚いって千晶が言ってたもんネ! それより見てヨ、今日の陽光学園のパリピたちのテンション! 昼休みに教室でサンバを踊り出した奴がいて、私、巻き込まれてステップ踏まされたヨ!」
「……お疲れ様。……私は、デッサン中に……モデルの石膏像が、自分に見えてきて……精神がゲシュタルト崩壊した……」
菫はそう呟くやいなや、床に敷かれた巨大なクッションへとダイブした。
四色の制服が、狭い備品庫の中でバラバラに散らばる。
「……さて。全員揃ったところで、まずは『毒抜き』といきましょうか」
千晶が立ち上がり、部屋の隅にある小さな電気ケトルにスイッチを入れた。
隠れ家の主(自称:管理人、実態:お母さん)による、放課後ティータイムの準備開始だ。
「陽葵、あんたが持ってきたその怪しい袋は何?」
「これ? パパがイタリアから取り寄せた『マンマの特製激辛ビスケット』だヨ! 食べると頭のてっぺんから火が出るって評判だヨ!」
「……それ、間食じゃなくて兵器じゃないかしら」
「あら……。激辛。……それは、味覚の呪いですわね。面白いですわ、陽葵、早く出しなさいな」
織江が目を輝かせ、緩めた襟元を扇ぎながら菓子盆を差し出した。
水色、黄色、深緑、紫色。
それぞれの学校で「理想の生徒」を演じてきた彼女たちの、本当の顔が、甘くて辛い匂いと共に溶け出し始めていた。
「……さあ、覚悟を決めなさい。陽葵、その『兵器』を開封して」
「オーケー、織江! マンマ・ミーア、鼻が曲がるヨ!」
陽葵が勢いよく袋を引きちぎると、隠れ家の中に「攻撃的な辛味」を帯びた異様な匂いが充満した。
一ノ瀬菫がクッションから鼻をひくつかせ、死んだ魚のような目で這い出してくる。
「……何、この匂い。……地獄の窯の、底の匂い……」
「失礼ですわね。これはパパの故郷、カラブリアの情熱だヨ!」
陽葵が真っ赤なビスケットを全員に配る。
千晶が恐る恐る口に運び、前歯でわずかに削り取った瞬間――。
「――っ!? っ、……あ、あつい! 喉が、喉が焼けるわよ!」
「あはは! ちあき、顔が真っ赤だヨ! 熟したトマトみたいネ!」
「笑ってる場合か! あんた、これ、本当に食べ物なの!?」
千晶が悶絶し、喉を押さえてのたうち回る。
それを見た織江は、優雅に、しかしどこか冷徹な微笑を浮かべてビスケットを一口。
「……ふむ。……。……あら、おほっ、……これは、……」
「織江? お嬢? 顔が引きつってるヨ?」
「……まさに、……。地獄の火に焼かれる、罪人の気分ですわ。……お水、お水をくださいまし……呪われますわ、この辛さ……」
お嬢様としての矜持を保とうとした織江だったが、三秒後には涙目で千晶のコップを奪い合っていた。
唯一、菫だけが無表情でビスケットを咀嚼し、「……辛い。……けど、目が覚める……」と、芸術家らしい感性で毒を飲み込んでいた。
阿鼻叫喚のティータイムが続く中、千晶のポケットでスマホが「ブブッ」と不吉な振動を上げた。
「……ちょっと、静かに。……お母さんからLINEだわ」
その言葉に、悶絶していた陽葵と織江がピタリと動きを止める。
千晶が画面を覗き込み、顔を青くした。
『今、織江ちゃんのお母様とスーパーで会ったわよ。陽葵ちゃんのパパからも、激辛の贈り物を図書館に届けたって自慢の電話があったみたいね。あんたたち、掃除もしないで騒いでるんじゃないでしょうね? ポテチのカス一つでも残ってたら、今夜のカレーは抜きよ』
室内が、ビスケットの辛さとは別の意味で凍りついた。
「……筒抜け。……私たちのプライバシー、……ザルよりひどい」
「陽葵! あんたのパパ、なんで余計なこと報告するのよ!」
「パパは自慢したがりなんだヨ! マンマ・ミーア、カレー抜きは困るヨ!」
「織江も! お母様と私の母を接触させないでって言ったでしょ!」
「無理を言わないでくださいまし! あの二人、幼稚園の頃から週に三日はお茶している仲ですのよ!?」
四人は慌てて、床に散らばったビスケットの粉を必死で掃除し始めた。
水色のブレザー、黄色のカーディガン、深緑のセーラー、紫のモダンセーラー。
バラバラの高校に通い、それぞれの「外の顔」を持っているはずなのに、結局は「あの頃」と同じ、親同士の監視下にある幼馴染でしかなかった。
十分後。
嘘のように片付いた隠れ家で、ようやく本当の「お茶」が淹れられた。
窓の外、四ツ葉市の空はオレンジ色から深い藍色へとグラデーションを描き始めている。
「……ねえ。結局、おすすめの本、一冊も紹介してないわね」
千晶が、本来の「図書部(仮)」の名目だったはずの読書記録ノートを見つめて呟く。
横では陽葵が「辛いヨ……」と舌を出して扇ぎ、織江は外したタイを膝の上に乗せてぼんやりと空を見ていた。
「いいじゃないですの。本よりも、この『毒抜き』の方が、私には必要不可欠ですわ」
「……私も。……アニメ観るより、……ここでお菓子の文句言ってる方が、……眠れる」
「マンマ・ミーア、明日は普通のクッキーがいいネ」
千晶は呆れたように笑い、ノートを閉じた。
明日もまた、朝の駅で会い、別の学校へ行き、そしてここに集まる。
四つの色が混ざり合って、一つの放課後が完成する。
この『開かずの扉』の内側だけが、彼女たちが唯一、ただの「アホな幼馴染」に戻れる聖域だった。




