第二十二話:金曜日のパッションと、四色の全力疾走
金曜日、午前7時45分。
一週間という長い物語の、ついに最終章の幕が上がろうとしていた。
四ツ葉駅を包み込んでいるのは、月曜日の絶望でも、水曜日の倦怠感でもない。それは、数時間後に訪れる「週末」という名の聖域を予感した、爆発寸前の熱気だった。
駅のコンコースを行き交う人々の足取りは、心なしか普段より3センチほど歩幅が広く、改札を抜ける自動改札機の音さえも、軽快なリズムを刻んでいるように聞こえる。
藍沢千晶は、いつもの大きな円柱の陰に立ち、シアンブルーのネクタイを今日一番の気合を込めて締め直した。
今朝の彼女は、自分でも驚くほど身体が軽い。昨夜、深夜まで数学の難問と格闘したはずなのに、金曜日の魔力は彼女の細胞を一つ残らず活性化させていた。
「……おはよう。……ちあき。……私の、……リミッター、……外れた……」
背後から、風を切るような鋭い声がした。
一ノ瀬菫だ。彼女は市立紫苑芸高のバイオレットのセーラー服を纏い、柱に寄りかかるどころか、その場で軽く足踏み(ステップ)を刻んでいた。その瞳は完全に覚醒しており、バイオレットの袖からは、週末のアニメイベントへ向かうための闘志が静かに漏れ出している。
「菫。おはよう。……あんた、金曜日になると本当に分かりやすいわね。……そのステップ、何?」
「……ウォーミングアップ。……金曜日の、……私は、……光よりも、……速い……」
「光は言い過ぎだけど、確かに今日は早起きできたみたいね」
千晶が笑いながら菫の肩を叩いた、その時だった。
改札の向こうから、地響きのような猛烈な足音が近づいてきた。
「マンマ・ミーア! みんな、待たせたヨ! 私のパッションが、四ツ葉駅を火の海にするヨ!」
レモンイエローのカーディガンをこれでもかと大きく翻し、瀬戸陽葵が、陸上の短距離選手のようなフォームで突っ込んできた。
彼女は千晶の目の前で華麗なスライディングを決め、そのまま膝をついてポーズをとった。
「陽葵、……危ないわよ! ……あと、制服の膝が汚れるでしょ!」
「いいんだヨ、ちあき! 今日は一週間の溜まったエネルギーを、今ここで使い切る日なんだヨ! よし、決まりだヨ。改札からホームの端まで、誰が一番早く着けるか『全力疾走競争』だヨ!」
陽葵の突拍子もない提案に、千晶が「はぁ?」と眉を寄せた。
「競争って、あんた……。ここ、四ツ葉駅よ? 朝の通勤ラッシュは終わったとはいえ、制服で爆走するなんて、不審者そのものでしょ」
「不審者じゃないヨ、……情熱の、……ランナーだヨ! ……菫も、やる気満々だヨ!」
「……やる。……金曜日の、……風に、……なりたい……」
菫が、バイオレットの袖を捲り上げ、床に手をついてクラウチングスタートの構えをとった。
そこへ、聖オリーブ女学院の深緑の制服を着た織倉織江が、音もなく合流した。
「ごきげんよう、皆様。……ふふ。……今朝の皆様は、……一段と、……『生命の躍動』に満ちておりますわね」
「お嬢! 助けてヨ! 私たち、今から駅のホームをパッションで駆け抜けるんだヨ!」
「あら。……面白そうですわね。……風を斬る死神の如く、……優雅に、……でも最速で、……皆様の魂を、……追い抜いて差し上げましょうか」
織江までもが、セーラー服の裾を翻して不敵に微笑んだ。
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
朝の光が差し込む駅のコンコースで、**四色の制服**が、1列になってスタートライン(改札の黄色い点字ブロック)に並んだ。
客観的に見れば、それは非常に美しいグラデーションを描いているのだが、その中身は「金曜日のテンションで脳が沸騰した」アホの集団でしかなかった。
「……位置について。……よーい、……」
「菫、あんたが合図するのね。……あーもう、わかったわよ! 私だって金曜日は負けないわよ!」
千晶が、シアンブルーのブレザーをバシッと叩き、前傾姿勢をとった。
「……ドンッ!!」
菫の鋭い掛け声と共に、四人が一斉に飛び出した。
陽葵がレモンイエローの残像を引いて先頭を走り、千晶がシアンブルーの疾風となって追う。
織江は深緑のスカートを優雅に(物理的には必死に)なびかせ、菫はバイオレットの小柄な身体を弾丸のように飛ばして、その隙間を縫っていく。
「ハッ! トウッ! イタリアの風だヨ!」
「逃がさないわよ、陽葵! 数学の公式より速く駆け抜けてやるわ!」
「……ふふ、……私の背後には、……死の香りが、……漂っておりますわよ!」
「……加速。……私の、……残像、……見て……」
四ツ葉駅のホームに、女子高生四人組の絶叫と靴音が反響した。
通りすがりの駅員さんが驚いて笛を吹きそうになり、ベンチで新聞を読んでいたおじいさんが「……最近の運動部は元気じゃのう」と目を細める。
羞恥心なんて、金曜日のパッションの前では1グラムの価値もない。
ホームの端、自販機の横に、四人が次々と飛び込んできた。
「ハァ、……ハァ、……勝った! 私が一番だヨ!」
「くっ、……悔しい! 僅差だったわね……」
「……お嬢、……意外と、……速い。……深緑の、……韋駄天……」
「ふふ、……ハァ、……皆様、……良い……、……競争でしたわ……」
肩で息をしながら、互いの健闘を称え合う四人。
その顔は、朝の光に照らされて最高に輝いていた。
だが、その至福の瞬間を、千晶のポケットの中でスマホが「ジリリリッ!」と、魂を揺さぶるような激しい着信音を響かせたことで、無残にも打ち砕いた。
「……っ!? ……お、お母さんからだわ!」
千晶が震える指で通話ボタンを押した瞬間、スピーカーから、リビングで掃除機をかけているであろう母親の、いつになく鋭い声が漏れ出してきた。
『千晶! あんたたち、朝から駅で運動会して何やってるのよ! 今、駅員さんの制服を着た知り合いの息子さん……の友達から電話があって「藍沢さんの娘さんたちが、駅のホームを人類最速のスピードで爆走してる」って報告が来たわよ!』
「知り合いの息子さんの友達って誰よ! 通報経路が遠すぎでしょ!」
『恥ずかしいから、変な暴走族だと思われないうちに、早く学校に行きなさい! ちなみに、ビデオ通話の背景に映ってた掲示板の反射で確認したけど、陽葵ちゃんが一番速かったみたいね。お礼に、今夜の夕食は陽葵ちゃんのパパが届けてくれた「パッション・カルボナーラ」を全員分作っておくから、早く行きなさい!』
「………………」
一瞬にして、四ツ葉駅に「現実」という名の熱風が吹き抜けた。
親同士のネットワーク、そして駅員さん経由の監視。
自分たちが「光」になろうとしても、この街のネットワークは、彼女たちが「誰の娘で、何色の制服を着て、誰が一番速かったか」を1ミリの誤差もなく計測し、さらには「夕食のメニュー」にまで反映させていた。
「パパ……! ……また余計な自慢を、……ちあきのママに、……したヨ……」
「マンマ・ミーア……。私のパッション、……夕飯に、……予約されちゃったヨ……」
「……カルボナーラ。……濃厚。……金曜日に、……相応しい……」
「ふふ、……呪いですわね。……走れば走るほど、……逃れられぬ……、……家族の輪の中に、……吸い込まれていきますわ……」
織江が、乱れた深緑のセーラーを整えながら、扇子で顔を隠す。
千晶は、自分のシアンブルーのスカートに付いた微かな埃を払い、3人の背中を押し出した。
「……もう、いいわよ。……行くわよ、あんたたち! ほら、陽葵! パパのカルボナーラのために、……残りの力を、……学校へ、……注ぎ込みなさい!」
「イエス、ママン! 私、……お腹を空かせて、……帰ってくるヨ!」
陽葵が、再び元気(?)を取り戻して走り出した。
菫も「……おやすみ。……放課後まで、……省エネモード……」と、よろよろと後に続く。
ホームに滑り込んでくるそれぞれの電車。
朝の陽光が、四人の背中を無慈悲に、そして暖かく照らし出している。
学校はバラバラ。目指す未来も、きっと違う。
けれど、こうして一つの「アホな全力疾走」を共有し、同じタイミングでお母さんに叱られ、そして一緒に「カルボナーラ楽しみね」と笑い合う。
四色の制服が重なるこの一瞬こそが、彼女たちを一週間のゴールへと導く、最強の輝きだった。
「じゃあね、みんな! 放課後、隠れ家で『パッション放出パーティー』だヨ!」
「……カルボナーラ、……待ってて……」
「ふふ、……皆様。……駅員さんの視線に気をつけて、……一日を生き延びなさいな」
四色の光が、それぞれの車両へと吸い込まれていく。
ドアが閉まり、走り出した電車の窓には、少しだけ髪を乱しながらも、最高に晴れやかな顔をした四人の姿が映っていた。
金曜日の朝。
全力で駆け抜け、親のネットワークに祝福(?)される。
そんなバカバカしいやり取りが、彼女たちの「日常」というパレットを、より一層鮮やかに、そして逞しく塗り替えていた。
一週間のフィナーレ。
放課後の「カルボナーラ会議」という、新たなるアホな目的を目指して、彼女たちはそれぞれの戦場へと運ばれていく。




