第二十一話:木曜日の『自己同一性』と、四色のティータイム
木曜日、午後4時50分。
『市立・旧ばし図書館』の窓の外では、西日が古いレンガの壁をオレンジ色に焼き、長く伸びた影が静かな廊下を侵食し始めていた。
一週間という物語が終盤に差し掛かるこの時間、館内は静まり返っているが、最深部にある『隠れ家』の扉の向こう側だけは、妙に落ち着いた、それでいて奇妙な熱気に包まれていた。
「……ふぅ。やっぱり、このネクタイの感触じゃないと落ち着かないわ」
藍沢千晶は、パイプ椅子に深く腰を下ろし、自分の首元にあるシアンブルーのネクタイを愛おしそうに指でなぞった。
今朝の駅での「制服パーツ交換」というアホな迷走。織江のシルクスカーフの滑らかな肌触りも悪くはなかったが、やはり三年間(そしてその前の九年間も)連れ添ってきたこの色が、彼女の「自己同一性」を最も強く支えているようだった。
「マンマ・ミーア……。私もだヨ、ちあき! 菫のバイオレットの袖は、私のパッション溢れる二の腕には少しタイトすぎたヨ。……やっぱりレモンイエローが、私の魂を自由にするネ!」
瀬戸陽葵が、ようやく血行が戻った腕を振り回しながら、レモンイエローのカーディガンを誇らしげに叩いた。彼女の笑顔は、朝の混乱を乗り越えて、一段と輝きを増しているように見える。
「……バイオレット。……私の、……宇宙。……誰にも、……譲らない……」
一ノ瀬菫は、自分の指定席である巨大クッションに深く沈み込み、バイオレットのセーラー服の袖に顔を埋めた。陽葵に貸し出されていたカーディガンが戻ってきたことで、彼女の周囲には再び、独特の微睡みと静謐が戻っていた。
「ふふ。……皆様、ようやく『自分』を取り戻されたようですわね。……シアン、レモン、バイオレット。……そして、私の気高きオリーブ。……これぞ、四色の制服が本来の輝きを取り戻した、木曜日の再会ですわ」
織倉織江が、深緑のセーラー服の襟元を優雅に整え、扇子を広げた。
朝、千晶のネクタイを締めて「イケメン」と称賛されていた彼女だが、やはりこの深緑の重厚感こそが、彼女の毒……いえ、気品を最大限に引き出しているようだった。
「……さて。……自分を、……取り戻したところで、……儀式を、……始めよう……」
菫が、バイオレットの袖の中から、今日のために用意していた「秘密の戦利品」を取り出し、机の上に並べた。
それは、四人の制服の色に驚くほど酷似した、4種類のお菓子だった。
「何これ、菫。……まさか、自分たちの色のものを食べるってこと?」
「……正解。……同色摂取。……色を、……食べて、……細胞レベルで、……自分を、……固定する……」
「菫、……時々、……思想が、……怖すぎるヨ……」
陽葵が引き気味にツッコミを入れるが、机に並べられたお菓子の誘惑には抗えなかった。
菫が持ってきたのは、紫色の怪しい光沢を放つ「ブルーベリー大福」。
陽葵の前には、目が醒めるような黄色い「レモンクリームケーキ」。
織江の前には、深い森の色をした「濃厚抹茶羊羹」。
そして千晶の前には――。
「……ちょっと、菫。私の色、……これしかないじゃない」
千晶の前に置かれたのは、鮮やかな水色の「チョコミント味の蒸しパン」だった。
「……ちあき、……妥協。……青い食べ物、……自然界には、……少ないから……」
「妥協ってあんた……。まあ、いいわよ。……よし、じゃあ……自分の色を、……頂きましょうか!」
4人はそれぞれの「色」を手に取った。
ブルーベリーの紫、レモンの黄、抹茶の緑、ミントの水色。
それぞれの制服の色と重なり合い、隠れ家の中に奇妙な統一感が生まれる。
「いただきますだヨ! ……ぱくり。……マンマ・ミーア! この酸味、……私の人生そのものだヨ!」
「……もぐ。……ブルーベリー。……視界が、……バイオレットに、……染まる……」
「ふふ。……抹茶。……この苦味こそ、……私が背負うべき、……宿命の味ですわね」
「……ミント。……うん、……スースーするわね。……私の思考が、……シアンの空のように、……透き通っていく……気がするわ」
自分と同じ色のお菓子を食べるという、アホすぎる「自己確認」の儀式。
だが、食べ進めるうちに、4人のテンションはなぜか極端な方向へと加速していった。
陽葵はレモンケーキの糖分でパッションが暴走し、部屋の中で謎のサンバを踊り出す。
菫はブルーベリーの成分で(自称)魔力が充填され、クッションの上で浮遊しようと試みる。
織江は抹茶のカフェインで覚醒し、いつもより3割増しで不吉な予言を高速で吐き出し始めた。
「……皆様! ……来週の火曜日、……駅の売店から、……全てのグミが、……消え去りますわ! ……これぞ、……抹茶が見せた、……真実の黙示録ですわ!」
「お嬢、……うるさいヨ! ……今は、……私のステップを、……見る時間だヨ!」
「……浮いた。……今、……3ミリ、……浮いた……」
「……誰も浮いてないし、グミは消えないし、陽葵はうるさいわよ! ……あーもう、……自分の色を食べると、……みんな個性が煮詰まりすぎるわね!」
千晶が頭を押さえて絶叫する。
シアンの冷静さをもってしても、このカオスを制御しきれない。
結局、彼女たちは「自分らしさ」に酔いしれるあまり、隠れ家の中をこれまでにないほどのアホな喧騒で満たしてしまった。
30分後。
お菓子を完食し、エネルギーを使い果たした4人は、それぞれの色を纏ったまま、床やソファに転がっていた。
「……ねえ。……やっぱり、……自分の色だけ食べてると、……疲れるわね」
千晶が、空になった蒸しパンの袋を眺めながら呟いた。
「そうだヨ、ちあき。……パッションも、……黄色ばっかりだと、……目がチカチカするヨ……」
「……私も。……紫の、……深淵に、……飲み込まれそう……」
「ふふ。……抹茶の苦味で、……胃が、……呪いのように、……重いですわ……」
4人は互いに顔を見合わせた。
そして、まだ一口分ずつ残しておいた、お互いのお菓子の「トレード」を開始した。
千晶がレモンケーキを一口。陽葵が大福を半分。菫が羊羹を一欠片。織江がミントパンを少々。
「「「「…………おいしい」」」」
4人の声が重なった。
別の色が混ざり合うことで、単色では強すぎた個性が和らぎ、新しい「美味しさ」が生まれる。
それは、まさに彼女たちの関係そのものだった。
「……結局、……こうして全部混ぜて食べるのが、……一番いいわね」
「イエス! 私の黄色に、ちあきの水色が混ざれば、……えーっと、……何色だっけ?」
「緑ですわよ、陽葵。……私の色になりますわね。……光栄に思いなさいな」
「……紫に、……全部混ぜると、……闇の色。……最強……」
笑い声が、隠れ家の厚い壁を優しく揺らす。
学校はバラバラ。制服の色も、将来の夢も、今の悩みも違う。
けれど、こうして別の色を受け入れ、混ざり合い、一つのグラデーションを作ることで、彼女たちは自分一人の時よりもずっと、鮮やかに輝けるのだ。
窓の外、四ツ葉市の空は深い藍色へと染まり、街灯がポツポツと灯り始めていた。
今夜は、親の監視網や近所の通報も届かない。
4人だけの、静かで、お腹がいっぱいの木曜日が更けていく。
「さて。木曜日も、……もう終わりね。……明日は金曜日よ、あんたたち」
「イエス! 一週間のフィナーレだヨ! ……明日は、……何色を食べようかナ!」
「……明日は、……虹色。……全種類の、……お菓子を、……買う……」
「ふふ。……金曜日の魔力。……楽しみにしておりますわ」
千晶が、空になったお菓子の袋を丁寧にまとめ、ゴミ袋の口を縛った。
朝の駅で「消失」しかけた彼女たちは、今、確かな「自分」と、それ以上に確かな「絆」を胸に、帰路につこうとしていた。
「……また明日ね」
「グッドバイ! 明日は寝癖を七色にして現れるヨ!」
「……それは、……さすがに、……引く……」
隠れ家の鍵を閉め、四つの色が夜の帳へと溶け出していく。
背後に残された秘密の部屋には、まだ微かに、4種類のお菓子が混ざり合った、甘くて少しだけ不思議な香りが漂っていた。
木曜日の放課後。
四色のパレットが、明日という金曜日をどんな色に塗り替えるのか。
彼女たちのハミングは、夜風に乗ってどこまでも広がっていった。




