第二十話:木曜日の『消失』と、四色の入れ替わり
木曜日、午前7時45分。
一週間という長い物語の、ちょうど膝が笑い始める地点。
月曜日の絶望は遠い過去になり、金曜日の希望はまだ地平線の向こう側。四ツ葉駅を包み込んでいるのは、湿った綿菓子のように重く、それでいて掴みどころのない、不思議な倦怠感だった。
駅のコンコースを行き交う人々の足取りはどこか頼りなく、灰色の曇り空の下で、誰もが自分の存在意義を自問自答しているような、そんな「消失」の予感に満ちた朝だ。
藍沢千晶は、いつもの大きな円柱の陰に立ち、シアンブルーのネクタイを指で弄りながら、虚空を見つめていた。
今朝の彼女は、自分でも驚くほど「自分」という存在が希薄になっているのを感じていた。昨夜、深夜まで数学の難問と格闘し、さらに陽葵のパッション溢れる長電話に付き合った代償だ。
「……おはよ。……ちあき。……今、……私は、……ここに、……いるのかな……」
背後から、衣擦れの音と共に、幽霊のような掠れ声がした。
一ノ瀬菫だ。彼女は市立紫苑芸高のバイオレットのセーラー服を纏い、柱に溶け込むような姿勢で立っていた。その瞳は完全に虚無を見つめており、焦点は四ツ葉駅の壁を通り越して、はるか異次元の彼方にまで届いていそうだった。
「菫。……おはよう。……安心しなさい、あんたはここにいるわよ。……ただ、……ちょっとだけ、……背景と同化し始めてるけど」
「……木曜日。……影が、……薄い。……私の、……バイオレット、……彩度が、……落ちてきた……」
菫はそう呟くやいなや、柱に「ぺたっ」と頬を寄せ、そのまま消えてしまいそうな吐息を漏らした。
そこへ、レモンイエローのカーディガンを羽織った瀬戸陽葵が、重力に逆らうような千鳥足で合流した。彼女はいつもなら「グッドモーニング!」と叫ぶはずだが、今朝は口を半開きにしたまま、呆然と千晶を見つめた。
「……ちあき。……私、……パッションの、……行方不明届を出したいヨ……。……自分が、……黄色い何かに、……見えてきたヨ……」
陽葵は「マンマ・ミーア!」と叫ぶ気力すらなく、震える手で自分のウエスト辺りを押さえた。
「陽葵、しっかりしなさい! ……学校に行くのよ! 私たちは女子高生よ!」
「ガッコウ……? ……あ、……あの、……毎日、……教科書という名の、……重りを背負わされる、……地獄の……」
「だからアトラクションじゃないって言ったでしょ! ……もう、みんなボロボロじゃない」
千晶が鋭くツッコミを入れるが、そう言う自分も一瞬、「……あれ、私って何の制服を着てるんだっけ?」と不安になり、足元を確認してしまった。
そこへ、聖オリーブ女学院の深緑の制服を着た織倉織江が、音もなく合流した。
「ごきげんよう、皆様。……ふふ。……今朝の皆様は、……一段と、……『無』に近しい、……素晴らしい、……佇まいですわね」
織江は扇子を広げて優雅に風を送っているが、その瞳はいつになく据わっており、虚空に向かって何か不吉な数式を呟いているようにも見えた。
「お嬢! 助けてヨ! 私、自分が誰だか分からなくなっちゃったヨ!」
「……ふふ。……ならば、……入れ替わって、……しまいましょうか。……存在の、……シャッフルですわ」
織江の突拍子もない提案に、陽葵がパッと瞳を輝かせた。
「イエス! それだヨ! お互いの制服の一部を交換すれば、……友情の、……パッションで、……目が覚めるヨ!」
「え、……ちょっと、……校則違反よ! 怒られるわよ!」
「ちあき、……固いこと言わない。……これは、……サバイバル……」
菫が、バイオレットの袖を捲り上げてやる気を見せ始めた。
気がつけば、4人はいつの間にか、お互いの制服のパーツを外し始めていた。
千晶が織江のシルクのスカーフを首に巻き、織江が千晶のシアンブルーのネクタイをきっちりと締める。
菫が陽葵の黄色いカーディガンを羽織ると、サイズがぶかぶかで、まるで黄色い毛布に包まれた雛鳥のようになった。
逆に陽葵は、菫の小ぶりなバイオレットのセーラーの替え袖を無理やり腕に通し、「……マンマ・ミーア! 腕が、……血行不良だヨ!」とのたうち回る。
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
朝の光が差し込む駅のホームで、**四色の制服**が、ぐちゃぐちゃに混ざり合い、一つの奇妙なグラデーションを描き出した。
「……ぷっ、……アハハ! 陽葵、あんた、……紫のタイツを腕に履いてるみたいよ!」
「ちあきだって! ……シアンのブレザーに、……お嬢のスカーフ、……なんか、……『高級な新入り司書』みたいだヨ!」
「……お嬢、……ネクタイ、……似合いすぎ。……イケメン。……抱いて……」
「ふふ、……悪くありませんわね。……千晶のネクタイ、……少し、……お父様の香りがいたしますけれど」
笑い声が、駅の柱の影に弾ける。
さっきまでの倦怠感が嘘のように、4人は互いの「入れ替わった姿」を見て、腹を抱えて笑い出した。
自分が誰であるか。そんなことはもうどうでもよかった。今、この瞬間に笑い合える仲間が、別の色のパーツを身に纏って目の前にいる。その事実が、彼女たちを「現実」へと強引に繋ぎ止めていた。
しかし、そんな「入れ替わり」の絶頂を、千晶のポケットの中でスマホが「ジリリリッ!」と、魂を揺さぶるような激しい着信音を響かせたことで、無残にも打ち砕いた。
「……っ!? ……お、お母さんからだわ!」
千晶が震える指で通話ボタンを押した瞬間、スピーカーから、リビングで家事をしているであろう母親の、いつになく楽しそうな声が漏れ出してきた。
『千晶! あんたたち、駅で何やってるのよ。今、お向かいの佐藤さん……の奥様から電話があって「藍沢さんの娘さんたちが、駅で服を脱ぎ捨てて、別の色の何かに変身しようとしてる」って心配して電話してきたわよ!』
「さ、佐藤さん……! また、……あの人は、……何を見てるのよ!」
『恥ずかしいから、変なコスプレ大会だと思われないうちに、早く自分の服に戻しなさい! ちなみに、陽葵ちゃんのパパが「陽葵がバイオレットの魔力に目覚めて、腕を紫に変えた!」って感激の電話をしてきたわよ。お礼に、今夜の夕食は紫キャベツのマリネにしてあげるから、早く学校に行きなさい!』
「………………」
一瞬にして、四ツ葉駅に「現実」という名の熱風が吹き抜けた。
親同士のネットワーク、そして近所の目。
自分たちが「自分」を消し去ろうとしても、この街のネットワークは、彼女たちが「誰の娘で、何色の制服を着て、今どのパーツを誰と交換したか」を1ミリの狂いもなく把握し、さらには「似合っている」と品評までしていた。
「パパ……! ……感激するポイントが、……ズレてるヨ……」
「……佐藤さん。……変身。……私の、……バイオレット、……魔法少女に、……見えたかな……」
「ふふ、……呪いですわ。……お母様方の、……『娘を素材にして遊ぶ』という、……恐怖の、……着せ替え計画ですわね……」
織江が、シアンのネクタイを愛おしそうに撫でながら、扇子で顔を隠す。
千晶は、慌ててスカーフを織江に返し、ネクタイを取り戻した。
「……もう、いいわよ。……行くわよ、あんたたち! ほら、陽葵! 腕の紫を外しなさい! 菫、カーディガン返して! 田中……じゃなくて、佐藤さんに見られてるんだから!」
4人は慌てて、それぞれの「本来の色」へと戻った。
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
元の色に戻ったはずなのに、なぜか先ほどまでの倦怠感はどこにもなかった。
ホームへと降りるエスカレーター。
朝の陽光が、四人の背中を無慈避に、そして暖かく照らし出している。
学校はバラバラ。目指す未来も、きっと違う。
けれど、こうして一つの「アホな入れ替わり」を共有し、同じタイミングでお母さんに叱られ、そして一緒に「仕方ないわね」と笑い合う。
この一瞬一瞬が、彼女たちの日常を、より一層鮮やかに、そして逞しく繋ぎ止めていた。
「じゃあね、みんな! 放課後、隠れ家で『本当の自分探しパーティー』だヨ!」
「……お菓子、……食べれば、……自分が、……誰か、……思い出す……」
「ふふ、……皆様。……佐藤さんの千里眼に気をつけて、……一日を生き延びなさいな」
それぞれの電車がホームに滑り込んでくる。
木曜日の朝。
存在の消失と、制服の入れ替わりを乗り越えて、四つの色は、それぞれの戦場へと運ばれていく。
放課後の「おやつ会議」という、たった1つの確かな約束を胸に。




