第十九話:水曜日の『山場』と、秘密の暗号
水曜日、午後4時45分。
一週間という長い物語の、ちょうど折り返し地点。
四ツ葉市の街並みは、梅雨入りを目前に控えた湿り気のある夕闇に包まれ始め、駅ビルのデジタル時計が無慈悲に時を刻んでいる。
放課後の『市立・旧ばし図書館』の廊下には、静寂だけが重たく沈殿し、郷土資料コーナーの突き当たりにある『隠れ家』の重い木製ドアも、心なしかいつもより固く閉ざされているように見えた。
ガチャリ、と鍵が開く音がして、藍沢千晶が力なく入室した。
「……だめ。もう、1文字も喋る気力が残ってないわ……」
千晶は、蒼ノ森高校のシアンブルーのネクタイを乱暴に緩め、パイプ椅子に崩れ落ちるように座り込んだ。進学校の数Bの小テストと、体育のシャトルラン。その波状攻撃によって、彼女の精神的リソースは完全に枯渇していた。
そこへ、瀬戸陽葵がゾンビのような足取りで合流した。
「マンマ・ミーア……。ちあき、……私の、……パッションの、……バッテリーが、……1パーセントだヨ……」
レモンイエローのカーディガンを肩からずり落ちさせたまま、陽葵は机の上に突っ伏した。
続いて、一ノ瀬菫がバイオレットのセーラー服の袖を口元に当て、無言で自分の指定席である巨大クッションへと沈み込んだ。彼女はもはや、瞬きをするエネルギーすら惜しんでいるようだった。
「ごきげんよう。……あら、……皆様、……一段と、……『無』に近しい、……素晴らしい、……佇まいですわね」
最後に入ってきた織倉織江も、深緑のセーラー服の背筋こそ伸びているものの、扇子を持つ指先は微かに震えていた。彼女もまた、聖オリーブ女学院の厳格な礼法の授業に、魂を削り取られてきたらしい。
隠れ家を支配する、重苦しい沈黙。
誰もが、何かを言いたい。お菓子が食べたい。けれど、そのための「言葉」を発する筋肉さえも、水曜日の倦怠感に呪い殺されていた。
「……ねえ。……もう、……喋るの、……やめない?」
千晶が、絞り出すような声で提案した。
その言葉に、陽葵が大きく頷き、菫が親指を立て、織江が扇子を閉じて同意した。
「……これからは、……ジェスチャーと、……お菓子の音だけで、……会話をするヨ……。……沈黙の、……パッションだヨ……」
陽葵の、掠れた声での宣言を最後に、隠れ家は完全なる無音の世界へと突入した。
一週間の山場、水曜日。四人の少女たちは、言葉という文明の利器を捨て、原始的な「暗号」によるコミュニケーションという、アホすぎる領域へと踏み出したのだ。
千晶が、机の上にあるポテトチップスの袋に手を伸ばした。
バリッ。
静かな部屋に、乾いた音が響く。
「(……これを、……食べてもいい、……っていう、……合図ね?)」
千晶が眉根を寄せ、真剣な眼差しで三人に問いかける。
陽葵が、両手で大きな丸(OK)を作り、菫は目を閉じたまま、ポテトチップスを一枚、口に運んだ。
サクッ。サクサクッ。
「(……おいしい。……塩分が、……脳に、……染みる……)」
菫が、咀嚼の回数で「感動」を表現している(ように見えた)。
続いて、織江が優雅な手つきで、空のコップを指差した。
そして、手首をひねり、何かを注ぐような複雑な動きを空中で描く。
「(……あら。……どなたか、……温かい、……お茶を、……淹れて、……くださいませんこと?)」
その優雅すぎる「手旗信号」のような動きに、陽葵が首を傾げた。
陽葵は、自分の両手でティーカップの形を作り、それを全力で左右に振った。
「(……パパが、……持たせてくれた、……高級コーヒーなら、……あるヨ!)」
言葉がない分、彼女たちの身振りはどんどん大きくなり、表情はオーバーになっていく。
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
**四色の制服**が、夕暮れの密室で、必死に無言のパントマイムを繰り広げている。
客観的に見れば、それは極めて高度な心理戦のようであり、同時に、救いようのないほどバカげた光景でもあった。
「(……ねえ、……さっきから、……菫が、……ずっと、……お菓子の袋を、……抱えて、……離さないんだけど……)」
千晶が、菫の肩を揺さぶり、手話のような動きで抗議する。
菫は、バイオレットの袖で袋を隠し、首を横に振った。
「(……これは、……私の。……一週間の、……食料……)」
無言のまま、火花を散らす4人。
ポテトチップスを噛む音が、モールス信号のように隠れ家を満たしていく。
しかし、そんな「無音の戦い」を、不意に、千晶のポケットでスマホが激しく震えたことで、無残にも打ち砕いた。
「……っ!? ……お、お母さんからだわ!」
千晶は条件反射で声を出し、自分の「敗北(沈黙破り)」に気付いて顔を青くした。
スピーカーから流れてきたのは、リビングで家事をしているであろう母親の、いつになく楽しそうな声だった。
『千晶! あんたたち、隠れ家で何を黙りこくってるのよ。今、お向かいの佐藤さんが「今日、藍沢さんの娘さんたちの部屋から、1文字も話し声が聞こえない。代わりに、巨大なネズミが何かを齧ってるような音がずっと響いてくる」って心配して電話してきたわよ!』
「さ、佐藤さん……! また、……あの人は、……何を聞いてるのよ!」
『恥ずかしいから、変な宗教の儀式でもしてると思われないうちに、普通に喋りなさい! ちなみに、陽葵ちゃんのパパが「陽葵が朝から一言も喋らずに、ジェスチャーだけで弁当を受け取っていった。パッションに障害が出たのかもしれない」って泣いてたから、後で電話してあげなさいね』
「………………」
隠れ家に、再び「現実」という名の熱風が吹き抜けた。
自分たちは「沈黙の境地」に達していたつもりが、親同士のネットワーク、そして佐藤さんの「超聴覚」からは、1ミリも逃げられていなかった。
陽葵のパパに至っては、朝から娘の奇行に涙していたらしい。
「マンマ・ミーア……! パパ、……心配かけちゃったヨ……。パッションの、……すれ違いだヨ……」
「……佐藤さん。……ネズミ。……私の、……咀嚼音、……そんなに、……大きかった……?」
「ふふ。……呪いですわね。……沈黙という名の儀式さえ、……お母様方の、……監視網の前では、……ただの、……余興ですわ……」
織江が、ようやく声を出して笑い出した。
千晶も、自分のシアンブルーのスカートをパタパタと払い、リーダーらしく立ち上がった。
「もういいわよ、……喋りましょう。……一週間の山場、……水曜日。……こんなところで、……無言で、……ポテチを、……齧ってる場合じゃないわ!」
千晶の宣言で、隠れ家には再び「騒がしい日常」が戻ってきた。
言葉が溢れ出し、陽葵が今日学校で起きた出来事をパッション全開で語り始め、菫がそれに毒を吐き、織江が優雅に不吉な注釈を加える。
さっきまでの倦怠感が嘘のように、部屋の中は賑やかな四色のグラデーションに染め上げられていった。
「……ねえ。結局、……あのジェスチャーゲーム、……何が、……伝わってた?」
菫が、ポテトチップスの最後の一片を口に運びながら尋ねた。
「何も伝わってなかったヨ! 織江の動き、……呪いのダンスかと思ったヨ!」
「あら、……陽葵。……あれは、……最高級の、……ダージリンを、……所望する、……お嬢様の、……サインですわよ?」
「分かるわけないでしょ! 私には、……『今夜、あんたの家に魔王を送り込むわよ』って、……宣告してるように見えたわよ」
笑い声が、図書室の厚い壁に跳ね返る。
水曜日の放課後。一週間の山を越え、彼女たちは自分たちの「バカバカしさ」を再確認することで、明日を生きる活力を取り戻していた。
窓の外、四ツ葉市の空はオレンジ色から深い藍色へと、美しいグラデーションを描き始めていた。
外の世界では、それぞれが「優等生」や「お嬢様」を演じているけれど。
この扉の内側で、声を枯らして笑い合い、親の監視に怯え、そしてまたお菓子を分かち合う。
そのループがある限り、彼女たちの心は、どんなに重い水曜日だって軽やかに飛び越えていけるのだ。
「よし、解散! 明日は木曜日ね」
「イエス! 木曜日はパッションをさらに加速させるヨ!」
「……木曜日。……一週間で、……一番、……影が薄い日。……寝るには、……最適……」
「ふふ。……皆様、……佐藤さんの耳に気をつけて、……一日をお過ごしなさいな」
千晶が隠れ家の鍵を閉め、四つの色は夜の帳へと溶け出していった。
背後に残された秘密の部屋には、まだ微かに、ポテトチップスの香りと、四人の絆が混ざり合った、温かな余韻が漂っていた。
水曜日の放課後。
山を越えた彼女たちの前には、週末という名の希望の光が、もうすぐそこまで差し込み始めていた。




