第1話:四色の起点と、マンマ・ミーアな寝癖
月曜日、午前七時四十五分。
この世の全ての高校生にとって、一週間で最も「重力」が強く設定されている時間帯だ。
千葉県、四ツ葉駅。
四つの路線が交差するこの巨大なハブ駅の改札横、大きな円柱の陰に、一人の少女が立っていた。
「……重い。月曜日の空気、密度がおかしいわよ」
藍沢千晶は、県立蒼ノ森高校の爽やかなシアンブルーのネクタイを緩め、深いため息をついた。
進学校の宿題という名の物理攻撃を週末に浴び続け、彼女のHPは週の始まりにして既に黄色信号だ。
ショートヘアを軽く整え、腕時計を見る。あと五分。
「おはよ……ちあき……」
背後から、衣擦れの音と共に、幽霊のような声がした。
振り返ると、そこには身長一四五センチの小さな塊があった。市立紫苑芸術高校の、深いバイオレットのセーラー服。一ノ瀬菫だ。
彼女は千晶のブレザーの肩に、当然のような顔をしておでこを預けた。
「菫。おはよう。……あんた、立ったまま寝てるわね?」
「……朝の太陽が、私のアニメ脳を焼き殺そうとしてくるの。……あと三十分、このまま……」
「電車行っちゃうでしょ」
呆れながらも、千晶はその小さな頭を支えてやる。
シアン(水色)とバイオレット(紫)。
全く違う制服を着た二人が、こうして駅の柱の陰で密着している光景は、知らない人が見れば不思議かもしれない。
だが、彼女たちにとっては幼稚園の「ひまわり組」からの当たり前の景色だった。
「ごきげんよう、お二人とも。今朝の空気は、実に死の香りがいたしますわね」
次に現れたのは、聖オリーブ女学院の深緑色のセーラー服に身を包んだ、織倉織江だ。
黒髪ロングの清楚な佇まい。誰が見ても「育ちの良いお嬢様」だが、口を開けばこの通りである。
「織江、おはよう。……朝から不吉なこと言わないでよ」
「本当のことですわ、千晶。今朝、我が家のトーストが五芒星の形に焦げましたの。これは……今日の放課後、誰かがお菓子を喉に詰まらせる呪いですわ」
「ただの焼きムラでしょ」
「……織江、そのパン……呪われててもいいから食べたかった……」
菫がバイオレットの袖(萌え袖)から指先だけを出して、織江の鞄を探ろうとする。
水色、紫、緑。
三色の制服が揃ったところで、改札の方から爆発音が聞こえた。
いや、正確には「爆発音のような声」だ。
「マンマ・ミーア! 待ってヨ、みんなー!」
猛然と人混みをかき分け、黄色のカーディガンをたなびかせて走ってくる少女。
私立陽光学園の瀬戸陽葵だ。
イタリア人とのハーフである彼女は、その長い手足をバタつかせ、ブレーキの壊れたダンプカーのように突っ込んできた。
「止まれ! 陽葵、止ま――」
千晶の警告も虚しく、陽葵は何もない平らな床で豪快に足をもつれさせた。
「あだっ!?」
五メートルほど滑り込み、陽葵は千晶の足元でピタリと止まる。
駅の利用客が数人、驚いて足を止めた。
「……陽葵。あんた、今朝で何回目? そのドジ」
「お、おはようちあき……。今のはドジじゃないヨ、駅の床が私を抱きしめたがったんだヨ!」
陽葵は「マンマ・ミーア!」と叫びながら立ち上がる。
だが、その瞬間、三人の視線が一点に集中した。
「……陽葵」
「何ネ? 私の美しさに、ついに見惚れたかナ?」
「……いえ、あなたの頭に、『呪いの角』が生えていますわ」
織江が静かに指を差す。
陽葵の頭の左側。そこには、重力に真っ向から逆らった、巨大で芸術的な「寝癖」がそびえ立っていた。
「……それ、すごいわね。アンテナ?」
「違うヨ! これもイタリアの風だヨ!」
「ただの寝癖でしょ! あんた、ハーフの美貌が台無しよ!」
千晶が我慢できずに手を伸ばし、陽葵の寝癖を力ずくで押さえつける。
しかし、その寝癖は千晶の手を弾き返すほどの弾力を持っていた。
「……強い。この寝癖、怨念を感じますわ」
「織江、変な煽り方しないで! 菫、あんたも手伝って!」
「……むにゃ。……この寝癖……グミみたいで、おいしそう……」
菫が寝ぼけ眼で寝癖を掴もうとする。
四ツ葉駅の柱の陰。
バラバラの制服を着た四人が、一人の寝癖を巡って朝からプロレスを繰り広げる。
月曜日の憂鬱な空気は、彼女たちの騒がしさによって、いつの間にか霧散していた。
「ちょっ、痛いヨ! ちあき、私の頭はピザ生地じゃないヨ!」
「ピザ生地ならもっと素直に伸びるわよ! この頑固な寝癖、あんたの性格そっくりね!」
千晶が両手で陽葵の頭をプレスし、菫がその上から「重し」として寄りかかる。
駅のホーム、電車を待つ人々の視線が突き刺さるが、幼稚園からの付き合いである彼女たちに「羞恥心」という概念はとっくに欠落していた。
「……ふふ。陽葵、諦めなさいな。その寝癖は今朝の占いで予言されていた『災いの角』ですわ。抜かない限り、呪いは解けませんわよ」
「抜かないで! ハゲちゃうヨ、織江ー!」
織江が上品な手つきで陽葵の髪に指をかけ、引き抜くジェスチャーを見せる。
陽葵が「マンマ・ミーア!」と絶叫したその時、ホームに電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。
「あ、電車来た。……ちあき、諦めて。……寝癖も、個性」
「菫、あんたが眠いだけでしょうが……。もういいわ、学校着くまでに帽子でも被りなさいよ」
「校則で禁止だヨ……。先生に『これはファッションだネ!』って言ったら怒られるかナ?」
「一発で反省文ね。……ほら、乗るわよ」
四人はそれぞれの行き先が違うため、乗る車両もバラバラだ。
だが、扉が開くまでの数十秒、彼女たちは「生存確認」という名のプライバシー侵害を開始する。
「そういえば陽葵。あんたの家、昨日の夜はラザニアだったでしょ」
「えっ!? なんで知ってるのヨ。……まさか、隠しカメラ!?」
「そんなもん仕掛けないわよ。うちのお母さんのLINEに、あんたのパパから『今夜は最高のラザニアが焼けたから、千晶ちゃんにも届けてあげたいけど、陽葵が全部食べちゃいそうで心配だ』って写真付きで送られてきたのよ」
千晶がスマホの画面を見せる。そこには、陽葵の父親と千晶の母親が仲良く絵文字を飛ばし合う、地獄のような「親同士の密談」の履歴があった。
四人の家は、家系図を繋げれば一つの大きな家族になるほど、親同士も筒抜けなのだ。
「……織江のところも、今朝『お嬢が朝から呪いの呪文を唱えてて怖い』ってお母様から連絡来てたわよ」
「……あら。あれは呪文ではなく、古語の暗唱ですわ。……まあ、半分は呪いでしたけれど」
「お嬢様学校の看板が泣いてるわよ……。菫、あんたのところは?」
「……お兄ちゃんが、私のアイス食べた。……末代まで、呪う……」
「家の中が呪いだらけじゃないのよ、もう!」
千晶のツッコミが響くと同時に、電車のドアが開いた。
それぞれの制服。それぞれの学校。
ここからは、一人の「女子高生」として、外の世界で猫を被る時間の始まりだ。
「じゃあ、放課後ネ! 『隠れ家』で会おうヨ!」
「お菓子、忘れないでくださいましね。……呪われたくないのであれば」
「……グミ、楽しみ……」
三人がそれぞれの車両へと吸い込まれていく。
千晶は最後の一人として、閉まりかけるドアの隙間から、陽葵がまだ寝癖を気にしながら窓に顔を押し付けているのを見た。
「……まったく。あのアホたちといると、月曜日だってこと忘れちゃうわね」
千晶はフッと口角を上げ、自分の学校へ向かう電車に飛び乗った。
水色、黄色、深緑、紫色。
四色の制服が四つの方向へと散っていく。
けれど、放課後になれば、あの図書室の奥にある「開かずの扉」の向こうで、また一つの「クローバー」に戻るのだ。
四ツ葉駅のホームに、日常の喧騒が戻る。
彼女たちの、騒がしくて愛おしい一週間が、今、幕を開けた。




