第十八話:水曜日の『記憶喪失』と、四色の制服
水曜日、午前7時45分。
一週間という長い坂道の、ちょうど中腹。月曜日の絶望は遠い過去になり、金曜日の希望はまだ霞の向こう側。四ツ葉駅を包み込んでいるのは、湿った綿菓子のように重く、それでいて掴みどころのない、不思議な倦怠感だった。
駅のコンコースを行き交う人々の目からは一様に生気が失われ、まるで自動人形のように、無機質な靴音だけがタイルに響いている。
藍沢千晶は、いつもの大きな円柱の陰に立ち、大きく一つ、肺の奥に溜まった淀んだ空気を吐き出した。
今朝の彼女は、自分でも驚くほど脳が動いていないのを自覚していた。昨夜、深夜まで数学の難問と格闘し、さらに陽葵の柔軟剤の香りを消臭するために奮闘した代償だ。シアンブルーのネクタイを指で弄りながら、彼女はぼんやりと電光掲示板を見つめた。
「……おはよう。……ちあき。……今、……何世紀……?」
背後から、衣擦れの音と共に、時間軸を失ったような掠れ声がした。
一ノ瀬菫だ。彼女は市立紫苑芸高のバイオレットのセーラー服を纏い、柱に吸い込まれるような姿勢で立っていた。その瞳は完全に虚無を見つめており、焦点は四ツ葉駅の壁を通り越して、宇宙の深淵にまで届いていそうだった。
「菫。おはよう。……残念ながら、今は21世紀の、最悪に眠い水曜日の朝よ。……ほら、意識を現世に戻しなさい」
「……無理。……私の、……魂、……昨日の、……隠れ家に、……置いてきた……。……今の私は、……ただの、……紫の、……抜け殻……」
菫はそう呟くやいなや、柱に頭を「こん」と預け、そのまま瞳を閉じた。
そこへ、レモンイエローのカーディガンを羽織った瀬戸陽葵が、重力に逆らうような千鳥足で合流した。彼女はいつもなら「グッドモーニング!」と叫ぶはずだが、今朝は口を半開きにしたまま、呆然と千晶を見つめた。
「……ちあき。……私、……大変なことに気づいたヨ……」
「何よ、陽葵。また忘れ物? それともスカートのボタンが弾けた?」
「……違うヨ。……私、……今ここに立ってるけど、……何をしに来たか、……思い出せないんだヨ!」
陽葵は「マンマ・ミーア!」と叫ぶ気力すらなく、震える手で自分の頭を押さえた。
「え、……ちょっと、本気で言ってるの? 学校に行くに決まってるでしょ!」
「ガッコウ……? ……あ、……あのアトラクションのことかナ? ……毎日、……教科書という名の、……重りを背負わされる、……地獄の……」
「アトラクションじゃないわよ! 義務教育……じゃないわ、私たちは高校生よ!」
千晶が鋭くツッコミを入れるが、そう言う自分も一瞬、「……あれ、今日って本当に学校あったかしら?」と不安になり、鞄の中から慌てて手帳を取り出した。
「水曜日。数Bの小テストあり」という無慈悲な記述を見て、千晶は深い絶望と共に現実を思い出した。
「ごきげんよう、皆様。……あら。……皆様、今朝は一段と『存在の境界』が曖昧になっておりますわね」
そこへ、聖オリーブ女学院の深緑の制服を着た織倉織江が、音もなく合流した。
彼女は扇子を広げて優雅に風を送っているが、その瞳はいつになく据わっており、虚空に向かって何か不吉な数式を呟いているようにも見えた。
「お嬢! 助けてヨ! 私、自分が誰だか分からなくなっちゃったヨ!」
「ふふ。……陽葵、それは幸運なことですわ。……このまま存在を消失させれば、……学校という名の檻から、……永遠に解放されますのよ。……さあ、私と共に、……この駅の裏側にある、……黄泉の国への切符を買いに行きましょうか」
「誘惑しないでよ! 迷子が加速するでしょ!」
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
朝の光が差し込む駅のホームで、**四色の制服**が寄り添い、互いの存在を確かめ合うようにして固まっている。
客観的に見れば、それは非常に美しいグラデーションを描いているのだが、その中身は「自分たちが何者であるか」を忘却しかけた、アホの塊でしかなかった。
「……ねえ。……いっそ、……このまま、……電車に乗らずに、……終点まで行ったら、……どうなるかな」
「……いいネ、菫! パッションの赴くままに、……海まで行くヨ!」
「海……。……冷たくて、……静かな、……死の場所ですわね。……悪くありませんわ」
三人が、手を取り合って「現実逃避」という名の奈落へ踏み出そうとした、その時だった。
千晶のポケットの中で、スマホが「ジリリリッ!」と、魂を揺さぶるような激しい着信音を響かせた。
「……ひっ!? ……お、お母さんからだわ!」
千晶が震える指で通話ボタンを押した瞬間、スピーカーから、リビングで繰り広げられているであろう「日常の喧騒」が漏れ出してきた。
『千晶! あんたたち、何駅の柱の影で幽霊みたいな顔して固まってるのよ! 今、ご近所の田中さん……じゃなくて、お向かいの佐藤さんが「藍沢さんの娘さんたちが、駅で魂を抜かれたみたいに空を見上げてる」って心配して電話してきたわよ!』
「さ、佐藤さんまで通報してきたの……!?」
『当たり前でしょ! ほら、陽葵ちゃんのパパが、陽葵が玄関に忘れていった「全力パッション弁当」を持って、今スクーターで駅まで爆走してるから! それ受け取って、さっさと学校に行きなさい! 二度寝禁止よ!』
「………………」
一瞬にして、四ツ葉駅に「現実」という名の熱波が押し寄せた。
親同士のネットワーク、そして近所の目。
自分たちが「自分」を忘れたとしても、この街のネットワークは、彼女たちが「誰の娘で、何色の制服を着て、今どこでサボろうとしているか」を1ミリの狂いもなく把握していた。
「……パパ……。……弁当を忘れたことも、……魂が抜けてたことも、……全部バレてたヨ……」
「マンマ・ミーア……。私たちのプライバシー、……駅の忘れ物センターよりも、……管理されてるヨ……」
「……ふふ。……佐藤さん。……新たな、……監視の目が、……増えましたわね。……呪わしいほどに、……完璧な、……包囲網ですわ……」
織江が扇子で顔を隠し、深い溜息をつく。
千晶も、自分のシアンブルーのスカートをギュッと握り締めた。
「……わかったわよ。……行くわよ、あんたたち! ほら、陽葵! パパが来る前に改札まで走るわよ! お弁当を受け取って、……そのまま、……一気に、……学校という名の、……現実へダイブよ!」
「イエス、ママン! 記憶が戻ったヨ! 私は、……お弁当を、……食べるために、……学校へ行くんだヨ!」
陽葵が、ようやく正気(?)を取り戻して走り出した。
菫も「……グミ、……売店で、……買う……」と、生存本能に火が点いたようで、よろよろと後に続く。
ホームへと続くエスカレーター。
朝の陽光が、四人の背中を無慈悲に、そして暖かく照らし出している。
学校はバラバラ。目指す未来も、きっと違う。
けれど、こうして一つの「アホな迷子」を共有し、同じタイミングでお母さんに叱られ、そして一緒に「仕方ないわね」と笑い合う。
四色の制服が重なるこの一瞬こそが、彼女たちを「現実」に繋ぎ止める、最強の錨だった。
「じゃあね、みんな! 放課後、隠れ家で『記憶の復元パーティー』だヨ!」
「……お菓子、……食べれば、……全部、……思い出す……」
「ふふ、……皆様。……佐藤さんの視線に気をつけて、……一日を生き延びなさいな」
それぞれの電車がホームに滑り込んでくる。
水曜日の朝。
記憶喪失と現実逃避を乗り越えて、四つの色は、それぞれの戦場へと運ばれていく。
放課後の「おやつ会議」という、たった1つの確かな約束を胸に。




