第十七話:換気扇の旋律と、放課後の消臭大作戦
火曜日、午後4時45分。
放課後の『市立・旧ばし図書館』は、夕暮れの柔らかな光に包まれ、古書の芳しさと静寂が支配する、知識の聖域であるはずだった。
だが、その最深部にある『隠れ家』へと続く廊下には、今、その静謐を根底から覆すような、暴力的なまでの「お花畑の香り」が漂っていた。
「……うう。……鼻が、……麻痺してきた。……ここ、……天国なの?……それとも、……芳香剤の地獄?」
一ノ瀬菫は、隠れ家の重厚な木製ドアを少しだけ開け、バイオレットのセーラー服の袖を鼻に押し当てながら呻いた。
部屋の中に一歩足を踏み入れれば、そこはもはや空気が「目に見える」のではないかと思えるほどのフローラルな圧力に満ちている。
「マンマ・ミーア! 菫、失礼だヨ! これは私のパッション、そしてパパが間違えて入れた一万円の香水の輝きだヨ!」
部屋の中央で、瀬戸陽葵が申し訳なさそうに、けれどどこか開き直った様子でレモンイエローのカーディガンをパタパタと仰いでいた。
彼女が動くたびに、部屋の隅々にまで「熱帯雨林の百花繚乱」といった風情の、強烈すぎる香りが送り込まれていく。
「陽葵、動かないで! あんたがパタパタするたびに、香りが粒子になって私を攻撃してくるのよ!」
藍沢千晶は、窓を全開にし、蒼ノ森高校のシアンブルーのブレザーを脱ぎ捨てて、必死に換気扇のスイッチを連打していた。
だが、数十年前に設置されたであろう古い換気扇は、「カラカラ……」と乾いた音を立てるだけで、この圧倒的なフローラル連合軍を排除するにはあまりにも非力だった。
「……ふふ。……素晴らしいですわ。……これぞ、嗅覚を麻痺させる呪いの霧。……この中に閉じ込められれば、三分で前世の記憶が蘇りそうですわね」
織倉織江が、深緑のセーラー服の襟元を優雅に緩めながら、自前の扇子で自分だけは白檀の香りでバリアを張っていた。
だが、陽葵の放つ「三倍柔軟剤」の威力は、お嬢様の高貴な香りさえも容易に飲み込んでいく。
「お嬢、感心してる場合じゃないわよ! ……もうすぐ、司書さんが見回りに来る時間なのよ。もしこの『香水の事故現場』が見つかったら、……『お菓子禁止』どころか、『立ち入り禁止』になっちゃうわよ!」
千晶の悲鳴に近い忠告に、ようやく事の重大さを理解した三人が顔を見合わせた。
この隠れ家は、彼女たちにとって唯一、学校の顔を脱ぎ捨てて「ただの幼馴染」に戻れる場所だ。ここを失うわけにはいかない。
「……サバイバル、……開始。……消臭大作戦、……決行……」
菫が、バイオレットの袖を捲り上げて立ち上がった。
彼女は隠れ家の備品棚から、本来は書物のカビ臭さを取るための、これまた古い消臭スプレー(無香料)を取り出した。
「よし! 菫、それを噴射して! 陽葵は窓際で服を全力で振って! 織江は……何か、匂いを打ち消すような、もっと強い匂いの呪いとかないの!?」
「……呪い、ですか。……ふむ。……ならば、この『魔除けの乾燥ハーブ』を焼きましょうか。……かなり……、癖のある匂いがいたしますけれど」
「焼かないで! 火気厳禁よ! ……あーもう、とりあえず仰いで!」
千晶の号令で、隠れ家は一瞬にして戦場と化した。
陽葵が窓に身を乗り出し、「出て行けー! 花の精霊たち!」とカーディガンを旗のように振り回す。
菫は「……しゅーっ。……しゅーっ……」と、無表情でスプレーを陽葵の周囲に乱射する。
千晶は座布団を二枚持ち、部屋の中央で円を描くように全力で空気を撹拌した。
「ハッ! トウッ! パッションで匂いを焼き尽くすヨ!」
「陽葵! あんたが汗をかいたら、余計に匂いが濃くなるでしょ!」
「……ちあき、……左。……フローラルの、……伏兵が、……潜んでる……」
「伏兵って何よ! あ、目が、目が痛い……!」
消臭スプレーと、柔軟剤と、白檀と、そして少女たちの焦りが混じり合い、隠れ家の中はカオスな蒸気に包まれていった。
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
**四色の制服**が、夕暮れの密室で、存在しない敵(匂い)を相手に必死の格闘を繰り広げる。
客観的に見れば、彼女たちが一番「不審」であり、何らかの秘密結社の怪しい儀式に見えてもおかしくなかった。
格闘すること15分。
ようやく、鼻が痛くなるような鋭い香りは、窓から逃げていく夕風に乗って、薄まり始めたように見えた。
「……はぁ。……はぁ。……少し、マシになったかな……」
千晶が息を切らし、座布団を床に放り投げた。
陽葵は「勝ったヨ……」と窓枠に力なく項垂れ、菫はスプレー缶を空にした達成感でクッションに沈み込んだ。
だが、その静寂を破るように、廊下から「カツ、カツ」という、聞き覚えのある靴音が近づいてきた。
図書室の司書さんだ。
「「「「――っ!!」」」」
4人に、電撃のような緊張が走った。
織江が素早く扇子を畳んで深緑のセーラーの姿勢を正し、陽葵が慌ててカーディガンを羽織り、菫がクッションの下にスプレー缶を隠す。
千晶は、蒼ノ森高校の優等生としての「鉄の仮面」を装着し、平然とした顔で入り口を向いた。
コンコン。
「藍沢さん、入ってもいいかしら? もうすぐ閉館の準備だけど……」
ドアが開き、年配の女性司書が顔を覗かせた。
4人は呼吸を止め、心臓の鼓動がフローラルな香りに乗って漏れ出さないよう、必死に耐えた。
司書さんは、部屋に入った瞬間、小さく鼻を動かした。
「……あら?」
「(……マンマ・ミーア、終わったヨ……!)」
「(……呪われますわ、私たちの放課後……)」
陽葵が絶望し、織江が諦めの境地に達したその時、司書さんの表情が、ふんわりと和らいだ。
「……なんだか、今日はお花のいい香りがするわね。……芳香剤を変えたのかしら?」
「えっ? ……あ、はい。……その、少し、……気分転換を……」
「そう。素敵じゃない。古い本ばかりのこの場所には、たまにはこういう華やかな香りも必要ね。……田中さんもさっき、『今日の図書室は、天国のような良い匂いがする』って仰ってたわよ」
司書さんは満足そうに頷き、「じゃあ、あと10分で片付けなさいね」と言い残して、優雅に去っていった。
「………………」
ドアが閉まった瞬間、4人はそれぞれの姿勢で崩れ落ちた。
「……助かった。……助かったヨ……。パパ、あんたの香水は、……神様の恵みだったヨ……」
「……結果オーライね。……でも、田中さん。……あの人、……やっぱりどこにでもいるのね……」
「……天国の、……匂い。……私の、……勝利。……おやすみ……」
「ふふ。……呪いかと思いましたけれど、……祝福だったようですわね」
織江が再び扇子を広げ、残った香りを優雅に楽しむ。
消臭に必死になっていたのが嘘のように、4人は再び、少しだけフローラルな隠れ家の中で笑い出した。
窓の外、四ツ葉市の空はオレンジから群青色へと、美しいグラデーションを描き始めている。
一時は「立ち入り禁止」の危機にまで陥ったが、結局は彼女たちの「アホさ」が、幸運を引き寄せた形となった。
「さて、火曜日ももう終わり。……明日からは、普通の量の柔軟剤で来なさいよ、陽葵」
「わかってるヨ! パパに、『明日は無臭で行くヨ!』って言っておくヨ!」
「それはそれで、……極端……」
千晶が空になった換気扇のスイッチを切り、窓を静かに閉めた。
朝の駅で会い、別の学校で戦い、ここでアホに戻る。
そんな当たり前のループが、火曜日の夕暮れを、ほんのりとお花畑の香りに染めて終わらせた。
「……また明日ね」
「グッドバイ! 明日はパッション溢れる『別の匂い』を探してくるヨ!」
「やめなさいってば!」
四つの色が、夜の街へと溶けていく。
背後に残された隠れ家には、まだ微かに、一万円の香水と四人の絆が混ざり合った、不思議な香りが漂っていた。




