第十六話:火曜日の『利き柔軟剤』と、四色の制服
火曜日、午前七時四十五分。
月曜日の「お菓子禁止令」と、その反動として食卓に君臨した「チャーシュー二倍の冷やし中華」という、飴と鞭の波に揉まれた四人の少女たちは、再び四ツ葉駅の改札横、いつもの円柱の陰に集結していた。
昨夜の脂質と糖分は、彼女たちの細胞の隅々にまでパッションを行き渡らせたのか、今朝の空気は昨日ほどの重苦しさを感じさせない。
「……ふぅ。火曜日。……胃袋が、……まだ昨日の、……チャーシューを、……記憶している……」
一ノ瀬菫は、市立紫苑芸高のバイオレットのセーラー服を纏い、柱に背中を預けて恍惚とした表情で呟いた。
彼女の頬は昨日よりもさらにマシュマロのような弾力を増しており、バイオレットの袖から覗く指先は、心なしか艶やかだ。
「菫、あんた、寝言でも『豚の脂は芸術だ……』って言ってたわよ。お母さんから聞いたわ」
藍沢千晶は、蒼ノ森高校のシアンブルーのネクタイをきりりと締め直し、呆れ顔で菫を突っついた。
だが、千晶自身の胃袋もまた、昨夜のキンキンに冷えた麺と濃厚なタレの余韻を噛み締めており、今朝の目覚めは驚くほど良かった。
「マンマ・ミーア! ちあき、菫、おはようだヨ! 見てヨ、今日の私からは、新しい一週間のパッションが香り立ってると思わないかナ!?」
そこへ、レモンイエローのカーディガンを羽織った瀬戸陽葵が、花の周りを舞う蝶のような軽やかさで合流した。
彼女が到着するなり、円柱の周囲には、目が醒めるような強烈な「お花畑の匂い」が充満した。
「陽葵、……あんた、……臭いわよ」
「ひどいヨ菫! これは臭いじゃなくて、フローラル・パッションの香りだヨ! パパが今朝、『陽葵、火曜日は花の香りで街を浄化する日だヨ!』って、柔軟剤をいつもの三倍入れてくれたんだヨ!」
「三倍って、あんた……。歩く芳香剤じゃないの。鼻が曲がるわよ」
千晶が手で鼻を仰ぐ。シアンブルーのブレザーにまで、陽葵の放つフローラルな圧力が侵食してくる。
そこへ、織倉織江が音もなく合流した。
深緑のセーラー服を完璧に着こなし、扇子を広げて優雅に風を送っているが、その扇子から漂う香りは、陽葵のそれとは対照的な、落ち着いた「お香」のような芳香だった。
「ごきげんよう、皆様。……あら、……陽葵。……あなたの周囲だけ、……熱帯雨林の花々が狂い咲いておりますわね。……視覚的に、……いえ、嗅覚的に呪われそうですわ」
「お嬢! あんただって、……なんかお寺みたいな匂いがするヨ!」
「ふふ、……これは我が家で焚き染めております、最高級の白檀の香りですわ。……邪気を払い、……他者を寄せ付けない……、まさに火曜日の『防壁』ですわね」
お花畑と、古都の寺院。
二つの強烈な香りがぶつかり合い、四ツ葉駅の柱の影は、もはや香りの戦場と化していた。
「……ねえ。……くんくん。……ちあきは、……石鹸。……一番、……普通……」
菫が、バイオレットの袖を鼻に当てながら、千晶の首元に顔を近づけてクンクンと鼻を鳴らした。
突然の至近距離に、千晶は「ちょっと、菫! 恥ずかしいでしょ!」と顔を赤くして飛び退いた。
「……面白いですわね。……利き柔軟剤、……ですわ。……誰が一番、……家庭の事情を、……香りに乗せているか……。菫、……私の香りも、……鑑定しなさいな」
「……お嬢は、……薔薇。……だけど、……奥の方に、……昨日の、……冷やし中華の、……タレの匂いが、……一ミリだけ、……混ざってる……」
「――っ!? ……ば、馬鹿なことを。……私は今朝、……三回はうがいをいたしましたわよ!」
お嬢様としての矜持を傷つけられた織江が、顔を真っ赤にして扇子をバタつかせる。
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
**四色の制服**が、朝のホームで互いの「匂い」を嗅ぎ合うという、客観的に見れば変態の集団にしか見えないアホな儀式に興じている。
だが、彼女たちにとっては、この微かな香りの違いこそが、それぞれの家という名の「日常」を確認するための大切な暗号だった。
「陽葵、……あんたのは……、くんくん。……あ、……やっぱりこれ、……柔軟剤じゃなくて、……パパが間違えて、……お母さんの、……お高い香水を、……洗濯機に入れたんじゃない?」
「ええっ!? ……マンマ・ミーア! ……道理で、……パパが今朝、……『陽葵、今日の洗濯物は、……一枚一万円の価値があるヨ……』って、……震えてたわけだヨ!」
「あんたのパパ、……相変わらず、……極端すぎるわよ!」
千晶のツッコみが響いた、その時だった。
彼女のポケットの中で、スマホが「ブブッ」と、容赦のない振動を上げた。
「……げっ。……お母さんからLINEだわ」
千晶が震える指で画面を開く。そこには、案の定、四人のグループLINEに届けられた、親同士の「監視報告」が表示されていた。
『千晶、陽葵ちゃん、織江ちゃん、菫ちゃん。今朝、陽葵ちゃんのパパから電話があったわよ。「柔軟剤と香水を間違えて、陽葵が歩く一億円の香水瓶になっちゃった! 友達のみんなに、鼻を近づけすぎないように伝えてくれ!」ってパニックになってたわよ。……あんたたち、駅のホームでクンクンして、変な人に間違われないようにね。田中さんが「今日の藍沢さんの娘さんたちは、警察犬の訓練でもしてるのかしら」って心配してたわよ』
「………………」
一瞬にして、四ツ葉駅に「香りの終焉」が訪れた。
親同士のネットワーク、そして安定の田中さん通報。
自分たちの「匂い」すら、四ツ葉市の空気を介して即座に共有されているという事実に、四人は「……逃げ場、……なし……」と絶望した。
「パパ……! なんでそんなことまで、……ちあきのママに、……報告するのヨ! 私のプライバシー、……洗濯機の排水溝よりも、……汚れてるヨ!」
「……田中さん。……あの人は、……嗅覚まで、……研ぎ澄まされているの……?」
「ふふ、……呪いですわ。……お母様方の、……『娘を芳香剤にする』という、……恐怖の、……環境改善計画ですわね……」
織江が、白檀の香りを撒き散らしながら、扇子で顔を隠す。
千晶は、自分の石鹸の香りがするシアンブルーの襟元をギュッと握り締めた。
「……もう、いいわよ。……行くわよ、あんたたち! ……これ以上ここにいたら、……田中さんに『今日の藍沢さんの娘さんの香りは、……少しフローラルが強すぎる』って、……詳細なレビューを書かれちゃうわよ!」
「マンマ・ミーア、……それは、……恥ずかしすぎるヨ!」
四人は慌てて、それぞれのホームへ向かって駆け出した。
シアンのブレザーが揺れ、レモンのカーディガンが花の香りを撒き散らし、深緑のセーラーがお香の煙を纏い、バイオレットのセーラーが微睡みを引きずりながら。
ホームへと降りるエスカレーター。
朝の陽光が、四人の背中を優しく照らしている。
学校はバラバラ。制服の色も違う。
けれど、こうして同じ「匂い」を嗅ぎ合い、同じように親に管理され、そして一緒に「恥ずかしい!」と叫びながら逃げ出す。
この四色の制服が重なる一瞬一瞬が、彼女たちの日常を、より一層鮮やかに、そして逞しく繋ぎ止めていた。
「じゃあね、みんな! 放課後、隠れ家で『換気』するヨ!」
「……換気、……賛成。……陽葵の、……匂い、……一週間くらい、……残りそう……」
「ふふ、……皆様。……田中さんの鼻から逃げ切って、……一日をお過ごしなさいな」
それぞれの電車がホームに滑り込んでくる。
火曜日の朝。
香水と柔軟剤と、昨夜の冷やし中華の残り香を抱えて、彼女たちはそれぞれの戦場へと運ばれていく。
放課後の「消臭会議」という、新たなるアホな目的を目指して。




