第十五話:空腹の隠れ家と、四色の腹筋運動
月曜日、午後4時50分。
『市立・旧ばし図書館』の窓の外では、西日が古いレンガの壁をオレンジ色に焼き、長く伸びた影が静かな廊下を侵食し始めていた。
いつもなら、この時間帯の『隠れ家』からは、ポテトチップスの袋が開く軽快な破裂音や、新作スイーツを巡る喧騒が漏れ聞こえてくるはずだった。
だが、今夕のその場所を支配していたのは、耳が痛くなるほどの「静寂」と、時折聞こえる「ぐぅ……」という情けない音だった。
「……耐えるのよ。……これは、一週間の平和を勝ち取るための……聖戦なんだから」
藍沢千晶は、パイプ椅子に浅く腰を下ろし、シアンブルーのスカートのウエスト部分を指で探りながら、自分に言い聞かせるように呟いた。
日曜日の「小麦粉祭り」で摂取した糖分と脂質は、今なお彼女たちの腹囲に居座り続けている。今朝の「親同士のダイエット監視ネットワーク」による宣告は、あまりにも的確で、あまりにも残酷だった。
「マンマ・ミーア……。ちあき、私の胃袋が、……空っぽの洞窟になっちゃったヨ。……エコーが聞こえるヨ……」
瀬戸陽葵が、レモンイエローのカーディガンを脱ぎ捨ててクッションに突っ伏した。
彼女の脳内は今、パスタでもピザでもなく、ただ一枚のクッキーという名の「パッション」に支配されている。
「陽葵、弱音を吐かないの。……見てよ、あの机の上を。……何もない、清々しいほどに『無』でしょ」
「……無。……虚無。……お菓子のない世界は、……モノクロ……」
一ノ瀬菫が、バイオレットのセーラー服の袖に顔を半分埋めて、恨めしそうに空の菓子盆を見つめていた。
彼女の指先は、無意識のうちに机の上の木目を「グミ」の形になぞっている。芸術家らしい繊細な指使いが、今はただの「飢えた獣の模索」にしか見えなかった。
「ふふ。……皆様、情けないですわね。……これぞ飢餓という名の呪い。……ですが、この空腹こそが、次なる美食への最高の調味料となるのですわ」
織倉織江が、深緑のセーラー服を完璧に着こなしたまま、優雅に扇子を広げた。
しかし、その表情は心なしか青白く、扇ぐ手元もわずかに震えている。
「お嬢、あんたこそさっきからお腹鳴りっぱなしじゃない。……何よ、そのエアお茶会は」
「あら。……見えませんの? ここには、最高級のダージリンと、宝石のようなマカロンが並んでおりますのよ。……さあ、皆様もご一緒に。……想像力という名の魔術で、……空腹を、……殺しましょう……」
織江が、何もない空間に優雅にお茶を注ぐフリをする。
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
**四色の制服**が、夕暮れの密室で、存在しないお菓子を巡って「エア食卓」を囲む。
その光景は、端から見ればシュールを通り越して、何らかの秘儀を執り行っている宗教団体のようだった。
「……無理だヨ! 想像すればするほど、……お腹が、……『もっと寄越せ』って怒り狂ってるヨ!」
陽葵が立ち上がり、空気を食べるかのように口をパクパクさせた。
「よし、決めたヨ! この空腹を、……筋力に変えるヨ! ちあき、……腹筋運動の開始だヨ!」
「腹筋? ……今のこの状態でやったら、……途中で意識が飛ぶわよ」
「……やる。……腹筋して、……お腹を、……凹ませれば、……夕食の、……冷やし中華が、……たくさん入る……」
菫が、バイオレットの袖を捲り上げてクッションの上に仰向けになった。
「効率的に食べるために運動する」という、ダイエットの目的を根底から覆すアホな理論だが、今の彼女たちにはそれが唯一の希望に見えた。
「1、2! 1、2! マンマ・ミーア、お腹が焼けるヨ!」
「陽葵、足を押さえなさいよ! ……くっ、……私も、……負けないわよ!」
千晶も陽葵の足首を掴み、交互に腹筋を開始した。
女子高生四人が、図書室の奥の物置部屋で、制服姿のまま「フンッ!」「ハッ!」と荒い息を吐きながら筋肉を苛める。
進学校の優等生も、イタリアのハーフも、お嬢様も、芸術科の生徒も。
ここではただの「明日までにウエストを戻したい執念の塊」だった。
「……九十八、……九十九、……百! ……ふぅ、……これで、……ポテチ、……五枚分くらい……?」
「……絶望だヨ、菫……。……パッションが、……空回りしてるヨ……」
床に大の字になって倒れ込む四人。
そこへ、千晶のスマホが、この一連の「無駄な努力」を嘲笑うかのようなタイミングで振動した。
「……ちょっと、……スマホ。……お母さんからだわ」
千晶が震える指で画面を開く。そこには、4人のグループLINEに、千晶の母から送られた「飯テロ」画像が表示されていた。
『あんたたち、本当にお菓子我慢してるみたいね。近所の田中さんが「今日は隠れ家からお菓子の袋の音が聞こえない。代わりに、誰かが悶絶しながら筋トレしてるような不審な声がする」って感心してたわよ。……ご褒美に、今日の夕食の冷やし中華、特製チャーシューを2倍にして盛り付けておいたわよ。画像、送るわね』
画面いっぱいに広がる、ツヤツヤと輝く茶色のチャーシュー。山盛りの錦糸卵。そして、キンキンに冷えた麺の瑞々しさ。
「「「「…………殺生だわ!!」」」」
四人の絶叫が、図書室の厚い壁を突き破らんばかりに響き渡った。
空腹の極限状態に置かれた彼女たちにとって、この画像はもはや拷問に等しい。
「……ひどいわ。……田中さんも、……お母さんも……。私たちの『アホな努力』を、……全部お見通しなのね」
「チャーシュー二倍……。……それは、……抗えない。……今すぐ、……帰りたい……」
「ダメヨ菫! 今帰ったら、……誘惑に負けて、……道中のコンビニで、……買い食いしちゃうヨ!」
「……ふふ。……呪いですわね。……目の前にニンジンをぶら下げられた馬の気分ですわ。……千晶、……今すぐ、……このスマホを、……床に叩きつけなさいな!」
織江が、扇子で目を覆いながら絶叫する。
家系図のように繋がった幼馴染ネットワーク。親たちは、彼女たちが「お菓子禁止」を守っていることを褒めつつ、同時に「胃袋のキャパシティを広げさせる」という、逃れられぬループを用意していた。
「……わかったわ。……もういいわよ。……帰りましょう。……田中さんの視線を感じながら、……背筋を伸ばして、……優雅に、……でも最速で帰宅するわよ!」
千晶が、空の菓子盆を片付け、リーダーらしく立ち上がった。
ウエストのきつさ、空腹の痛み、そして親への反骨心。
それら全てを「夕食への期待」に変換した彼女たちの足取りは、いつの間にか力強くなっていた。
隠れ家の鍵を閉め、四つの色が夜の帳へと溶け出していく。
窓の外、四ツ葉市の空は深い藍色へと染まり、街灯がポツポツと灯り始めていた。
「……じゃあ、また明日。朝の駅でね」
「イエス! 明日はお腹いっぱいになったパッションで合流だヨ!」
「……おやすみ。……夢の中で、……チャーシューの……海……」
「ふふ。……皆様、冷やし中華の呪いに……いえ、美味しさに負けないようお気をつけて」
四色の光が、それぞれの家へと続く帰り道に散っていく。
月曜日の放課後。
お菓子を失い、腹筋で自らを苛め、親の飯テロに悶絶する。
そんなバカバカしいやり取りが、彼女たちの日常を、より一層鮮やかに、そして逞しく繋ぎ止めていた。
一週間の始まりは、まだ始まったばかり。
明日の朝、またあの駅の柱の陰で会い、昨日より少しだけウエストが戻った(と信じたい)制服を誇らしく着こなすために、彼女たちはそれぞれの食卓(戦場)へと向かっていく。




