第十二話:休日の隠れ家と、ウサギの命名儀式
土曜日、午後4時15分。
『市立・旧ばし図書館』の赤レンガの壁は、沈み始めた太陽によって深い茜色に焼き上げられていた。
休日は平日に比べて閉館時間が早いため、館内には既に「蛍の光」がうっすらと流れ始めており、残された時間は残りわずか。
だが、そんな静寂を切り裂くように、最深部にある『隠れ家』の扉が、バタン! と勢いよく開け放たれた。
「マンマ・ミーア! 隠れ家に、新しい家族の降臨だヨ!」
レモンイエローのカーディガンを脱ぎ捨て、瀬戸陽葵が中央の机に「それ」を叩きつけた。
さっきまで駅前のゲームセンターで、四人がかりで三千円の犠牲を払って救出した、あの「ゆるふわ毒殺ウサギ」のぬいぐるみだ。
「陽葵、雑に扱わないの。三千円もしたんだから、もはやこれは高級家具の域よ」
藍沢千晶は、シアンブルーのネクタイを整え直し、進学校の模試の結果よりも慎重な手つきで、ウサギの毛並みを整えた。
水色のブレザー。黄色のカーディガン。深緑のセーラー。バイオレットのモダンセーラー。
四色の制服が、休日の西日が差し込む狭い物置部屋で、一つのぬいぐるみを囲んで身を寄せ合っている。
「……ウサギ。……私の、……クッションの、……一番いい場所に、……鎮座して。……ふふ、……圧巻……」
一ノ瀬菫が、バイオレットの袖を震わせ、自分の指定席である巨大クッションの中央にウサギを据えた。
絶妙に焦点の合っていないウサギの瞳と、いつも微睡んでいる菫の瞳が、鏡合わせのように見つめ合っている。
「あら。……ふふ。……こうして見ると、実に『呪わしい』佇まいですわね。……この部屋の守護神としては、申し分ありませんわ」
織倉織江が、扇子を広げて優雅にウサギを仰ぐ。
深緑のセーラー服の襟元を少しだけ緩め、彼女は満足げに目を細めた。
「さあ、始めましょうか。……菫、あんたの希望通り、『命名会議』よ」
千晶の宣言と共に、隠れ家は一瞬にして厳かな(アホな)空気に包まれた。
菫は真剣な顔でウサギを見つめ、指先でその耳を弄りながら口を開く。
「……名前。……この子の、……アイデンティティ。……適当なものは、……許されない……」
「イエス! 私の案を聞いてヨ! 『パッション・マカロニ』はどうカナ!? 強そうで美味しそうだヨ!」
「即却下。食べ物じゃないんだから。……お嬢は?」
「そうですわね。……『ベルゼブブ3世』はいかがかしら。……呼ぶたびに周囲の気温が2度下がるような、高貴で不吉な響きですわ」
「可愛さマイナス100点よ! ……菫、あんたの第一希望は何なのよ」
千晶が尋ねると、菫はバイオレットの瞳をさらに細め、ボソリと呟いた。
「……田中さん」
…………。
隠れ家に、一瞬にして「死の静寂」が訪れた。
陽葵がガタガタと震え出し、織江が扇子を落としそうになり、千晶は顔を青くして菫の肩を掴んだ。
「菫! それはダメ、絶対! あんた、あの『田中さんネットワーク』の恐怖を忘れたの!?」
「マンマ・ミーア、それだけは勘弁してヨ! 家の中でまで田中さんの名前を呼んだら、本当に出現しちゃうヨ!」
「……あら。……最強の魔除けにはなりますわね。……ですが、……ふふ、あまりにも現実味のある呪いですわ」
四人の脳裏に、駅前のベンチから鋭い視線を送る、あの神出鬼没の田中さんの姿が浮かび上がる。
菫は「……ちぇ。……最強の、……名前だと、……思ったのに……」と不満げに頬を膨らませた。
結局、ウサギの名前は、陽葵のパッションと織江の不吉さを折衷して『マカロニ・ベルゼ』という、なんだかお洒落なイタリア料理の怪人のような名前に落ち着いた。
「よし、命名完了。……さて。……陽葵。あんた、忘れてないわよね? パフェ代の借金」
千晶が、家計簿……ではなく、共有の「お菓子基金ノート」を取り出した。
一千二百円の負債。陽葵は「うっ」と呻き、レモン色のカバンをゴソゴソと漁り始めた。
「わ、わかってるヨ! パパからちゃんと『パッションの引換券』を預かってきたヨ!」
「引換券? ……まさか、またお父さんの手書きじゃないでしょうね」
「違うヨ! ほら、これだヨ!」
陽葵が差し出したのは、地元の製粉会社が発行している『最高級小麦粉・特等品5キログラム引換券』だった。
千晶はその紙切れを受け取り、まじまじと見つめる。
「……本当に小麦粉なのね。しかも5キロって。……うちのお母さん、これをどうしろって言うのよ」
「ちあきのママにさっき電話したら、『あら、ちょうどパンを焼きたかったのよ。陽葵ちゃんのパパによろしくね』って、パッションで快諾してくれたヨ!」
「家系図の連携が早すぎるのよ! ……はぁ。わかったわよ、これで一千二百円分、相殺ね」
借金(パフェ代)が小麦粉に変換された瞬間だった。
四ツ葉駅周辺の家庭における、この物物交換に近い経済圏の強固さに、千晶は改めて戦慄した。
窓の外、閉館を告げるメロディが一段と大きく響き始める。
西日に照らされた隠れ家。
四色の制服が、新しく仲間入りしたウサギ『マカロニ・ベルゼ』と共に、一つの影を作っている。
「……ねえ。明日、日曜日はどうする?」
菫が、ウサギを抱きしめたまま呟いた。
平日は学校。土曜日は制服でお出かけ。
そして日曜日は。
「日曜日は、……ゆっくり休む……わけないでしょ。明日は私の家で『小麦粉消費パーティー』よ。お母さんが全員呼びなさいって言ってたわ」
「マンマ・ミーア、パン祭りだヨ! 私のパパも、オリーブオイルを持って参戦するって言ってたヨ!」
「……ふふ。……私の家からは、最高級のクロテッドクリームをお持ちいたしますわ。……太る呪いを共有しましょう」
「……お泊まり、……セット。……カバンに、……詰める……」
結局、休日の終わりは、さらなる「幼馴染の集まり」へと繋がっていく。
学校がバラバラになっても、親同士が繋がっており、そして何より自分たちが「集まりたい」と願っている限り、彼女たちの絆に休日はない。
図書室の鍵を閉め、四つの色が夕闇の中へと溶け出していく。
菫の脇に抱えられた『マカロニ・ベルゼ』の無機質な瞳が、夕焼けの街を静かに見守っていた。
土曜日の午後。
四色の制服を身に纏い、明日への食欲と友情を語り合いながら、彼女たちはいつもの駅へと向かって歩き出す。
田中さんの視線をどこかに感じながらも、その足取りは、最高に軽やかで、最高にアホだった。




