第九話:金曜日の解放(リベリオン)と、秘密の菓子盆(パーティー)
金曜日、午後4時45分。
一週間の終わりを告げる夕刻の光は、四ツ葉市の街並みを濃密なオレンジ色に染め上げていた。
校門を飛び出した学生たちの喧騒が、週末への期待を乗せて風に乗り、古い赤レンガの『市立・旧ばし図書館』の窓を優しく叩いている。
その最深部にある『隠れ家』の扉が、勢いよく開け放たれた。
「マンマ・ミーア! サバイバル成功だヨ! 一週間の戦い、完遂したヨ!」
レモンイエローのカーディガンを脱ぎ捨て、瀬戸陽葵が中央のソファへダイブした。
続いて、蒼ノ森高校のシアンブルーのネクタイを大胆に緩めた藍沢千晶が、大きな紙袋を抱えて入室する。
「ちょっと陽葵、はしゃぎすぎ。……でも、確かに今日は格別ね。模試の結果も、古典の予習も、全部月曜日の私に丸投げしてきたわ!」
「……賢明な判断。……月曜日の、……自分は、……赤の他人……」
菫がバイオレットのセーラー服の袖を引きずりながら、ふらふらと自分の指定席である巨大クッションへと沈み込んだ。彼女の瞳には、週末の深夜アニメ一挙放送を待ち望む、獲物を狙う獣のような鋭い光が微かに宿っている。
「ごきげんよう。……ふふ、皆様。一週間という名の『苦行』を終えた、実に素晴らしい脱殻加減ですわね」
最後に入ってきた織江は、深緑のセーラー服を完璧に着こなしたまま、優雅に扇子を広げた。
しかし、その足元はわずかにふらついており、お嬢様としての矜持も金曜日の魔力の前には限界に近いようだった。
「さあ、始めましょうか。今夜は家で『お仕置きの冷やし中華』が待ってるんだから、その前にここで最高の解放をキメるわよ!」
千晶が宣言し、机の上に戦利品をぶちまけた。
駅地下の特売で買い込んだポテトチップス、チョコ棒、そして今朝の罰金(?)で調達した期間限定のグミ。
四人は、一週間の澱みを全て糖分と塩分で洗い流すべく、一斉に菓子盆へと手を伸ばした。
「見てヨ! ポテチの袋を開けるこの音! これこそ週末へのファンファーレだヨ!」
陽葵が豪快に袋を引き裂くと、ポテトの香ばしい匂いが隠れ家中に充満した。
菫が無言でポテトチップスを一枚手に取り、そこに昨日の残りのイチゴジャムをべったりと塗る。
「……禁断の、……マリアージュ。……甘じょっぱさが、……脳の、……リミッターを、……外す……」
「菫、それ絶対にカロリーの暴力よ……。でも、……一口ちょうだい」
千晶も誘惑に負け、菫が差し出した「魔のポテチ」を口にする。
一瞬の静寂の後、千晶の瞳が見開かれた。
「……っ、おいしいわね。悔しいけど、一週間の疲れが脳みそから溶け出していく感覚だわ」
「あら。……ならば私は、このチョコ棒をストーブで少し溶かして、『フォンデュ風』にいたしましょうかしら。……ふふ、これぞ木曜日の影を焼き払う、金曜日の業火ですわ」
織江がストーブの熱を利用して、チョコを絶妙な加減でトロリとさせ始めた。
シアン、レモン、オリーブ、バイオレット。
四色の制服が、狭い隠れ家の中で身を寄せ合い、親に見られたら1時間は説教を食らいそうな「不健康な美食」に没頭している。
外の世界では、それぞれが「理想の生徒」という仮面を被って戦っているけれど、この扉の内側だけは、4人はただの、食い意地の張った幼馴染に戻れる。
「マンマ・ミーア、幸せだヨ! ……でも、今夜の夕飯が冷やし中華なのは、やっぱり解せないヨ……」
「朝、あんなに駅前で絶叫したんだから自業自得でしょ。……田中さんの通報能力を甘く見すぎなのよ、私たちは」
千晶が溜息をつき、お茶を啜ったその時だった。
四人のスマホが、まるでオーケストラの指揮棒に合わせたかのように、一斉に「ピコーン!」と小気味よい通知音を響かせた。
「…………え」
4人が同時に画面を覗き込む。
そこには、それぞれの母親からの、全く同じ内容のメッセージが届いていた。
『あんたたち、隠れ家でお菓子でお腹いっぱいにして、夕食の冷やし中華を残したら承知しないわよ。ちなみに、今さっき田中さんから「隠れ家から楽しそうな笑い声とお菓子の匂いが漏れてくる。若いっていいわね」って報告があったから。……19時までには帰ってきなさい。全員分、麺は大盛りにしておくわね』
「………………」
隠れ家に、金曜日の熱気を一瞬で凍りつかせる「恐怖」が舞い降りた。
「……監視。……田中さんは、……物理の壁を、……越えてくる……」
「マンマ・ミーア! 田中さんは、四ツ葉駅だけじゃなくてこの図書館の精霊かナ!?」
「……呪いですわ。……田中さんという名の、逃れられぬ血のネットワーク……。お母様方は、私たちがいつ、どのタイミングでお菓子を口にするかまで、完全に予知しておりますのよ」
織江がガタガタと震え、溶けかけたチョコ棒を落としそうになる。
千晶も、スマホを握り締めたまま戦慄していた。
「……筒抜け。私たちの放課後の自由は、親たちの手のひらの上で転がされているだけだったのね……。しかも大盛りって……。今からこれ全部食べたら、お腹が爆発するわよ!」
「……でも、……食べる。……残したら、……もっと、……怖いから……」
菫が、覚悟を決めたような顔でチョコ棒を口に放り込む。
親の監視は怖いが、目の前のお菓子の誘惑と、後で待っている「麺大盛り」の義務。
四人は、恐怖と空腹の間で揺れ動きながら、それでも笑い合うことをやめなかった。
「アハハ! いいヨ、受けて立つヨ! 冷やし中華大盛り、パッションで完食してみせるヨ!」
「陽葵、あんたのパッションは胃袋にあるのね……」
窓の外、四ツ葉市の空はオレンジ色から深い藍色へと、美しいグラデーションを描き始めていた。
夕闇が街を包み込む中、図書室の窓から漏れる四人の笑い声は、週末を祝福する小さな灯火のように輝いている。
シアンのブレザー、レモンのカーディガン、深緑のセーラー、バイオレットのモダンセーラー。
バラバラの高校に通い、バラバラの未来を歩んでいるけれど。
こうしてお菓子を分け合い、同じタイミングで親に叱られ、同じ「麺大盛り」の運命を共有する。
そのバカバカしくて、でも何物にも代えがたい「繋がり」がある限り、彼女たちの一週間は、どんなことがあってもハッピーエンドで終わるのだ。
「よし、菓子盆、完食! ……さあ、戦場(食卓)へ帰るわよ!」
千晶が空になった袋をまとめ、リーダーらしく立ち上がった。
陽葵が「マンマ・ミーア、お腹が重いヨ!」と叫び、菫が「……週末、……楽しみ……」と微睡み、織江が「……ふふ、冷やし中華への呪詛を練りながら帰りますわ」と微笑む。
隠れ家の鍵を閉め、四つの色は夜の帳へと溶け出していった。
背後に残された秘密の部屋には、まだ微かに、チョコとポテトの、甘くてしょっぱい解放の香りが漂っていた。
金曜日の放課後。
一週間の終わりは、新しい週末への輝かしいプロローグ。
四色の光が重なる場所には、明日も、来週も、変わらないアホな日常が待っているはずだ。




